【幕末から学ぶ現在(いま)】 井伊直弼 [人物・伝記]
「世界のソニーを作った男」第1回 [人物・伝記]
「世界のソニーを作った男」井深 大が考えたこと第1回
テープレコーダーやトランジスタラジオ、トリニトロンカラーテレビ。
世界を席巻した商品はもちろん、創業期に大失敗した電気釜などに至るまで、
ソニーの創業者が自ら、開発秘話を語る。
「まず、この東京通信工業をつくりますときにの創立趣意書というのが、今でも残っております。大変長いものでございますけども、私は苦心惨憺して、長い間かかってこれを書き上げたのでございます。
その中に謳っておりますことは、『東京通信工業は、技術を一番尊重して、その技術を高度に利用して、立派な商品を使って、世の中のお役に立ちたい』ということ、それから『技術者をはじめ、そこで働いている人が、思い切り働ける場を提供したい』と、そのほかさっきもちょっと申しましたけど、役所の仕事や放送局の仕事だけでなしに、『一人でも多くの人が喜んでもらえる、そういう商品をつくって、商売をしていきたい』と。
それから一番大切なことは、『人のやらないこと、どこにも存在しないもので、そういうものをこしらえていく』と、『そのためには、どんな困難が伴っても、どんな技術的な難しさがあっても、それに打ち勝っていこうじゃないか』と、そういうことを謳って、同志はみんなこれに賛成して、この東京通信工業が始まったわけでございます」
■盛田昭夫と共に東京通信工業を「世界のソニー」へと育て上げた井深大。彼は、人のやらないこと、どこにも存在しないものを目指して、常に新しい技術を求め続けてきた。
「人を喜ばせ、世の中の役に立つものを創造する」という一貫した姿勢の中、どんな困難が伴おうとも井深は挑戦し続けてきたのである。昭和二十年、終戦と同時に井深大は、それまで共に働いていた仲間七人と東京通信研究所を設立する。
「いろいろ考えました。第一番にやりましたことは、千葉県へ行って、木製のおひつを沢山仕入れてまいりました。
そのおひつの底に、アルミの渦巻き型の電極を二枚釘付けしまして、それに電線をつないで、そのおひつの中にといだお米を入れて電気を流すと、水の中を電流が流れて、熱を発散して、それでお米が炊けるという、今日の電気釜のような非常に簡単なものを考え付いたわけでございます。
実際にお米を炊いてみますと、たまにはたいへんおいしいふっくらとしたご飯が炊けるんでありますけども、大部分は芯のある、到底食べられないご飯ができたり、グチャグチャのご飯ができるということで、おひつの山を眺めながら、この仕事は残念ながら断念せざるを得なかったわけでございます」
■昭和二十一年、戦前からの知人盛田昭夫が加わり、東京通信工業を設立。このとき盛田は二十五歳。井深は三十八歳。資本金十九万円、従業員三十五名のスタートでだった。
「その頃、そろそろあの進駐軍の、放送関係のね、仕事を、今のNHKを通して貰ってたわけです。ある日行きましたら、『ちょっと来い、いいものを聞かせるから』と言って、それでテープレコーダーをそこで初めて聞いたんですよね。静々とテープが動きましてね、ものすごくきれいな音なんですよね。
それで、これはもうどうしてもこれをやらなきゃ嘘だ、という気持ちになりましてね。私だけ感心してても仕様がないんでね、うちの人たちに納得してもらわなきゃならないと思いましてね。拝み倒して、あの進駐軍の将校の人がね、私どもの御殿山の汚いバラックの所までね、持ってきてくれましてね、それでうちの全社員にそれを聞かせたわけです。『これをやらないといかんのだぞ』という、そういうオリエンテーションをまずやったわけですよね」
■こうして、東京通信工業は、日本で始めてのテープレコーダーづくりに取り組んだ。しかし、ここで大きな問題にぶつかる。それはテープレコーダーのテープであった。
困ったのは、この(テープの)ベースなんですね。で、その頃昭和二十三、四年というと、プラスチックっていうものはね、ベークライトとエボナイトとセルロイドとね、それしかないわけなんですね。
今のそのプラスチックっていうのは、殆どないわけなんです。上に塗る鉄の粉はね、これは大体検討ついておりましたね。粉では困らなかったんですけども、ベースはどうにも困りましてね。
で、初めまあツルツルしたもんでということで、セロファンに飛びつきましてね。セロファンを・・・伸びないセロファンで、湿気を吸わないセロファンの処理ってのは何とかできないかというんで、まああらゆる知識を集めましてやったんです。
初めいいんですよ、一回、二回はいい、そしてもう三回目ぐらいから、こう・・・『ワカメ、ワカメ』っていいましたけどね、こんなに(ワカメのように)なってね、ぜんぜん音にならないんで、それから困り抜きましてね、そして紙をやろうということになって・・・」
■試行錯誤を繰り返し、改良を重ねた末、昭和二十五年、ようやくこの紙テープが完成。このテープは、もの言う紙として当時の雑誌に紹介され、反響を呼んだ。紙テープの完成と共に、日本で初めてのテープレコーダーG型も発売。何か新しいものを作りたいという井深の夢がここに実を結んだのである。そして、この時、井深に新しい出会いが訪れる。
「そのG型を買いに来たのがね、音楽学校の学生なんですよね。音楽学校のために買って、それで来た学生がね、ものすごく面倒臭いことを言うんですよね。この人、音楽学校の学生なのに、えらい技術的なことガチャガチャ言うからね、『何じゃい』と思っていたのが大賀(典雄)なんですよ。
音楽学校の学生のくせにね、えらくメカでも何でも電気でも詳しいんですよね。こっちがとっちめられるぐらいすごい。そのときから出入りしてるんですよね。ひととき大賀君は監察官っていうあだ名がありましてね。商品の悪いのを全部ほじくり出してね、指摘されるのが、これまたちゃんと図星なんですよね。
いい音にしたいという一心でね。お互いにその、こここうしたらどうだ、あそこどうしたらどうだ、というようなことを。ええ、まあ私の周囲には、そういう海外からの諸雑誌がありましてね。
そういうものに、ここにこう書いてあるからというようなことで、いろいろまあ、お互いにノウハウを持ち寄ったんですよ。で、一緒に何とかものになる努力をしてるうちに、まあ私がミイラ取りがミイラになったようなもので・・・」
■G型テープレコーダーの発売から二年後の昭和二十七年。国内の関心を集める一つの事件が起きた。当時、アメリカから数多くの新しい製品が次々と輸入されていた。
その中に井深の開発したG型と同じ技術を使ったテープレコーダーも含まれていたのである。井深は特許権を侵害するとして裁判に訴え、その主張が認められた。
全ての技術をアメリカに頼らなければならなかった日本にとって、この出来事は、驚きと拍手で迎えられた。この出来事を境に井深は、次々と魅力ある画期的な製品を開発。テープのクオリティー、品質も向上していった。
「新しい技術開発なんかでも、大きな会社よりは、むしろ中堅以下の、自分で一生懸命開発して切り開いてきた企業の中のほうが、うまく成長していくんじゃないでしょうかね。
企業なんてものは規模が大きい方がいいとか、資本金が大きい方がいいとかっていうものは、だんだんこれから、それだけでは通用しなくなると思いますね」
【次回は、「商品開発でこそ先行するが、市場自体は後発の大企業に席巻されてしまう"モルモット"だ」と揶揄され始める。そうした世評に対する井深の答えは・・・】
2006年8月31日 nikkeibp
「世界のソニーを作った男」第2回 [人物・伝記]
「世界のソニーを作った男」井深 大が考えたこと第2回
後年、ソニーは「商品開発でこそ先行するが、市場自体は後発の大企業に席巻されてしまう"モルモット"だ」と揶揄される。そうした世評に対する井深の答えは―。
■井深は、それまで真空管を使っていたラジオを全てトランジスタに変えてしまうことを考えた。世界中の誰もが手を出さないトランジスタラジオの開発のはじまりである。
トランジスタの特許を取り、製造の許可は得たが、製造方法や、技術的なノウハウは全て自分達で考え出さなければならなかった。試行錯誤を重ねるが、非常に歩留まりが悪く、困難を極め、ラジオに使えるものは、一向に完成しない。しかし、井深は決してあきらめなかった。
「(使えるものが)ゼロだったらね、これは問題になりませんけども、一つでも使えるものができるとしたらね、できるはずなんですよね。どっかにその理由があるわけですから、歩留まりを悪くしてる(理由が)。
その歩留まりを征伐するってことはね、これは非常にチャレンジャブルなんですね。そういうことで必ず歩留まりってのは、今悪くても、よくなる可能性はあるだろうと。それに挑戦しようじゃないかってのが、私の気持ちだったわけですよね。だから歩留まりの悪いものは賛成であるという、むしろそういう気持ち持っていましたね」
■特許の取得から三年後の昭和三十年、日本初のトランジスタを使ったラジオTR-55が完成。
井深の自信は次の行動を生む。井深は、大手電機メーカーを招き、トランジスタラジオを披露した。これがトランジスタ時代の幕開けとなった。真空管時代は、これを境に全て過去のものとなったのである。
「それまでの日本の産業を申しますと、大体新しいものはオリジナルをヨーロッパに求める、あるいは戦後はアメリカから原型を持ってきて、それに似たものを日本でこしらえる。そうしてその中の部品もだんだん国産化していくというのが、日本の産業の典型的な形でございました。
このトランジスタラジオから始まりました私どもの方では、サンプルのないものばっかりをつくっていったわけでございます。したがって、部品屋さんも、サンプルのないものをつくれということで、たいへん戸惑ったと思うのでございます。
四~五年たって、アメリカやドイツでトランジスタをつくろうとしたときに、どうしても日本から部品を買わざるを得なかったという状態になりまして、どんどん日本の電子工業の部品産業ってものが確立した、そのきっかけを私どもがつくったような気がしているわけでございます」
■昭和三十一年には、ラジオ用のトランジスタ生産は、三十万個/月に達し、完全にこの分野の主導権を握る勢いを見せていた。昭和三十年代の始めには従業員の数は創業時から五十倍以上にも膨らんでいた。
大企業への道を歩き始めたのである。昭和三十五年、井深はこれまで培ってきたトランジスタ製造技術を応用し、世界で初めてオールトランジスタテレビを発売する。
井深は、このテレビの使い方に新しいアイディアを入れている。そのアイディアとは、野外でも自由に使えるように小型発電機を同時に開発し販売することであった。井深は、この発電機の開発を友人の本田宗一郎に持ちかけた。
「本田さんも私もね、まず目的をね、決めちゃって、その目的をやるためにはね、その目的を達成することだけをね、目標にするわけなんですよね。こういう技術があるから、それをこう使いましょうじゃなしに、これをやるためにはこういう技術を使わなきゃなんないから、その技術を完成させましょうという、そこが私と本田さんと、非常にそこ共通してるんですよね」
■昭和四十年、ソニー初のカラーテレビ、クロマトロンが完成。しかし、製造コストは高く、一台売るごとに赤字を生む結果となった。
クロマトロンの開発を始めてから実に七年後の昭和四十三年、社運を賭けた新しい受像方式トリニトロンが完成する。トリニトロン方式の関連特許は五百件を超え、現在もその応用技術は、コンピューター画面などで使われている。井深は、この開発を最後に社長を退いた。
「ある程度、直感力に頼ってね、思い切ってやらなければね、プロジェクトなんてものは進まないと思うんですよね。そこがまあ決断ていうのか、直感力に信ずるというのか。決断ってことは、言い換えれば非常にしっかりしたそのターゲットをそこへ打ち立てちゃうわけですね、人為的に。無理であろうが、無理でなかろうが」
「私はね、そのものをつくることがね、本当の実業であってね、それ以外は虚業だということを、ずっと前からそう言い続けてきたんですよね。それで、とにかくその形の変わらないものでね、値段が変わるというのはね、これはどこか間違っているんだということを、盛んにそう言ってきたんですよね」
■井深は、常に新しい技術を求め続けた。これは、同時に現在の技術を過去に追いやることを意味する。新しい技術の誕生は、現在の設備やこれまでの投資を無駄にすることがある。守りに入って、モデルチェンジだけで済ませてしまう方法もある。しかし、井深は、その道を選ばず、常に新しいものづくりに挑戦していったのである。
2006/10/14 nikkeibp
『宇宙のひみつ』から始まったサービスの探求(前編) [人物・伝記]
笠原健治ミクシィ社長
『宇宙のひみつ』から始まったサービスの探求(前編)
笠原健治ミクシィ社長(かさはら・けんじ)
1975年大阪府生まれ。東京大学経済学部卒。97年、大学在学中に求人情報サイト「Find Job !」の運営を開始。99年に法人化、代表取締役に就任。2004年2月、ソーシャル・ネットワーキングサイト(SNS)「mixi(ミクシィ)」の運営を開始。現在、430万人を超えるユーザーを抱える、日本最大のSNSに成長。
渋谷の町を見晴らす、社長・取締役が使用するミクシィの会議室。そこで「社長の本棚」を見せてもらった。
本棚には、IT企業の社長らしくネットやビジネス関連の実用書が並んでいる。ところどころ、話題のビジネス書に混じって教科書のような分厚い本がある。小説の類いは一切なし。遊びや無駄を省いた、「仕事直結型」の本棚だ。
ミクシィの社長・笠原健治氏は現在30才、ネット業界で言うところの「76(ナナロク)世代」である。「76世代」とは1976年前後に生まれ、大学時代にパソコンを経験したネット系の起業家を指す言葉だ。
ネット業界の寵児とくれば、イケイケで押しの強い“いかにも”な人柄が浮かぶ。だが、実際に現れた笠原氏は、言葉をゆっくり選びながら質問に答える“おっとりとした真面目”タイプだった。
時折「うーーん」と唸りながら、なるべく正確な言葉を探そうと言いよどむ。そんな会話を繰り返していくうちに、少しずつ「歴史好き少年」という過去が明らかになっていった。
小、中学生の頃は歴史書を異常なくらい読んでましたね。幼稚園の時に、たぶん全6巻ぐらいだったと思うのですが、学研のシリーズ『日本の歴史』を買ってもらったのが始まりでした。
小学校に入ってからは、いろんな人の伝記や歴史マンガをかなり読んでいたと思います。織田信長なら織田信長のありとあらゆる伝記を見つけ次第読む、というように、気に入った人物の本を探しては読んでいました。
父親が歴史も好きで、全45巻くらいの『日本の歴史』という分厚い全集が家に置いてあったんです。それも自分が好きな時代の巻はいつのまにか読破してしまい、その後2度3度と読み返していました
読書量は人並みか、人並みよりちょっと多いくらいでしょうか。小学校5年頃に近くに図書館ができて、週末にはよく通っていました。行くとだいたい4、5冊借りて2、3週間で返していたと思います。中学生の頃は、司馬遼太郎や山岡荘八の歴史ものを、よく読んでいました。あとは、西村京太郎の推理小説やSF小説なんか、当時流行っていた本を普通に手に取っている感じでした。
堅苦しい「読書」という感じではなく、マンガを読むみたいに本を読んでいたんです。日本史については、けっこうマニアックな子供でしたね。
昔に読んだ歴史の本は、今でも実家に置いてある。実家は大阪府箕面市のニュータウン、新千里。幼少時代、開発途上の新興住宅街は、すぐそばに山があり、空き地が点在するのどかな場所だった。
「放課後は、空き地に仲間と集まって野球をしていました」と、当時の思い出を楽しげに語る姿は、屈託のない少年の面影をかすかに感じさせた。
外でよく遊び、家に帰れば本を読む。そんなごくありふれた日常を送っていた少年が、歴史に強く惹かれた理由とは一体何だったのだろうか。
うーーん、なんで好きだったんでしょうか。小説と違って、フィクションではなく現実に即した話で、かつ自分と同じ人間の足跡(そくせき)であるというところに惹かれたのだと思います。
戦国時代、南北朝時代や源平時代、あるいは明治維新とか、どうしても華やかな時代に惹かれていました。時代の変革期を扱った話が、非常に好きでしたね。 「この人のここがすごい」とか「ここが好き」という見方をするので、「この人はこれだから嫌い」っていう人物は特にいないですね。
子供の頃もいまもかっこいいと思っている人物ですか? 意外と思われるかもしれませんが、やっぱり織田信長です。明智光秀も好きなんですが。
織田信長の好きなところは、…今までの常識にとらわれず、自分の価値観で、ゼロベースでルールを作り、それを実行していったところでしょうか。革新性のあるところに、子供心に惹かれていました。
「歴史好き」に変化が訪れるのは、18才の時だ。上京し、東京大学の経済学部に入学したのをきっかけに、「過去の出来事」よりも「今起こっている事」が面白くなっていったのだ。
なぜ経済学部を選んだのか理由を聞いてみると、しばらく考えたのちに「文系で、かつ幅広く世の中を見ることができる学問だと思ったから」と語った。そして、大学3年生のゼミで、笠原氏はインターネットという新たな世界に出合う。
歴史はずっと好きでしたが、さすがに「アカデミックに極めたい」という気持ちまではなかったですね。
理由は…そうですねぇ、歴史よりも、今の自分に関係する物事のほうが、リアリティがあって面白いと思うようになったからじゃないでしょうか。自分が生きている「いま」という時代に何が起きているのか、そしてその時代に今後、自分がどう関わっていくのか。大学に入ってからは、そうした方向に興味が移っていきました。
大学3年の時、新宅純二郎先生の経営戦略のゼミに入ったら、いきなりIT絡みの話ばかりで。当時の自分は、まだパソコンを持っていなかったんです。そんな状態でOSとかブラウザとか言われてもよく分からない。これじゃまずいと思って、自分でパソコンを買い、IT系の本を読んだりするようになりました。
ゼミでは、IT業界のケーススタディが非常に多かったように思います。 『COMPETING ON INTERNET TIME』はゼミで使った本ですが、サブタイトルに「LESSONS FROM NETSCAPE」とあるようにネットスケープのケーススタディが書いてあります。マイクロソフト対アップル、ネットスケープ対インターネットエクスプローラの規格間競争といった事例を検証していくうちに、IT系業界全般と経営そのものに興味が強くなっていったという感じです。
愛読書は『サンクチュアリ』
水泳部の部活に明け暮れ、読書量がやや減った高校時代。「いちばん印象に残っている本」の質問には、「実は…、マンガですね」とためらいがちに答えてくれた。そして、本棚から抜き出してきたのは『サンクチュアリ』(史村翔・池上遼一/小学館)。政界と裏社会から日本の世の中を変えようとする2人の男の熱い闘いを描いた作品で、連載終了から10年経った現在も根強いファンが多い。
連載が始まった時、笠原氏はちょうど高校生。「自分の夢や目標に向かって打ち込んでいる姿が、17、8才くらいの自分に熱く響いた」という。ミクシィの「サンクチュアリコミュニティ」に自ら参加するほど、思い入れが強いマンガなのだ。
一見すると穏やかそうな笠原氏。だが、その裏側に実は「熱血」な一面を秘めているに違いない。そんなことを思わせる1冊だった。
澁川 祐子
2006年6月30日 金曜日 NBonline
『宇宙のひみつ』から始まったサービスの探求(後編) [人物・伝記]
笠原健治ミクシィ社長
『宇宙のひみつ』から始まったサービスの探求(後編)
ネットの世界を知った笠原氏は、以後、IT業界やパソコン業界を把握しようと本を手に取るようになった。
その頃読んだ本には、至る所に線が引いてある。中でもひときわ赤い線が目立つ本を発見した。ビル・ゲイツを描いた『新・電子立国1 ソフトウェア帝国の誕生』(相田洋/日本放送出版協会)だ。
定規で几帳面に引かれた幾本もの赤線。「何も知らないからこそ、もっと吸収したかった」という、当時のまっすぐな思いが、そのまままっすぐな線となって残っていた。
『新・電子立国』は1996年に発売された本で、大学3年生の頃に読みました。『インターネット激動の1000日上・下』(ロバート・H・リード/日経BP社)、『覇者の未来』(デビッド・C・モシェラ/IDGコミュニケーションズ)も、だいたい96、7年に発売された本だと思いますが、そういう本を自分で買ってきては読んでいました。
ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズの詳しい生い立ちは、本を読んで初めて知ったという感じです。もちろん名前は知ってはいましたけど、はっきりとその人がどういうふうに生まれ育ち、いくつくらいのときに起業し、どういう苦労があって、そのなかでどうやって企業が大きくなってきたのかという話は、本を読むまで知らなかったんです。
ビル・ゲイツの本になぜ感銘を受けたかというと…うーーん、これは20歳で起業して、20代の若者が自分の製品でもって企業を拡大していった話じゃないですか。同時代における、ある意味いちばんのサクセスストーリーですよね。20年くらい前の話ではあるけれども、自分と同じ年頃の人が裸一貫で起業して、自らの頭と腕だけでここまで企業を大きくしてきた。話としては非常に身近で、読んでいてすごくワクワクしました。
IT業界の成功譚は、どことなく戦国時代の武勇伝に似ている。“インターネット”という時代の変革期をうまくとらえた者たちの「現代版の立志伝」だからだ。インターネットという最先端ビジネスに身を置きながらも、その心は「戦国武将好き」の昔ながらの経営者とさほど変わらないのかもしれない。
かつて戦国時代の武将に憧れた少年は、大きくなって、現代のヒーローに夢中になった。そして97年、起業を考えるきっかけとなる、ある人物のインタビュー記事を目にする。
大学の3年生のとき、勉強のために日本経済新聞と日経産業新聞をとっていたんです。日経産業新聞は毎月3500円くらいで、学生にしてはちょっと高かったんですけど。
気になった記事があったら、一度読んだあとに切り抜いて、後日見返したりしていました。あんまり続かなかったんですが、そのときのスクラップはいまでも残っています。
なかでも鮮明に覚えているのは、97年の7月くらいにアマゾンの社長が来日したときのインタビュー記事です。
その年にアマゾンはアメリカで株式を公開したのですが、記事には「まだまだ赤字だが巨額の資金調達をして、在庫の回転率が4日か3日に1回になった」とか、「バーンズ&ノーブルに比べてもより高い回転率で急成長している」という話が出てきて。あと少し起業物語というか、「もともとは投資銀行にいて、ある日思いついて会社を起ち上げた」という話も載ってましたね。
これを読んだときに「これからはネットビジネスが来るんだろうな」と確信して、「自分も何かしてみたい」と強く思い始めました。
それからすぐに求人情報サイトを立ち上げ、大学卒業後に法人化した。2003年、SNSと出会い、検討を重ねた後2004年「mixi(ミクシィ)」の運営をスタートさせた。
現在、社長としての笠原氏の毎日は多忙を極めている。朝10時には出社し、退社はいつも深夜0時過ぎ。忙しい合間をぬって、会社や家で本を読む。
家の本棚は学生時代から使っているもの。写真の「(会社の)社長の本棚」の4倍くらいの本があり、縦置きでは入りきらず横に積み重ねて置いてあるという。
忙しくて、最近では月に4、5冊、少ないときは1、2冊しか読んでないですね…。ネット上で読む機会が増えたことも、本を読む時間が減った理由です。
本を買うのは、本屋とネットが半々くらいです。本屋に行って、自分の問題意識を思い浮かべながら、バーッと本棚を見る時間が好きですね。そこで気に入った本を買ってきたほうが、ちゃんと読むケースが多い気がします。アマゾンで衝動買いしたものは、読まずに積んでしまうことがあって。
フラットな状態で本を探そうというときには、渋谷のブックファーストに行くことが多いですね。とりあえずは3階のコンピュータのフロアに降りて、プログラミングの本とかをチェックして、それから4階に上がってビジネス書を見ます。そこで帰ってしまうことが多いですが、たまに1階の雑誌コーナーにも立ち寄ったりします。
今はマンガや文庫本、新刊のコーナーはあまり見ないですね。もっと幅広く読むほうがいいんだろうなと思いつつも、どうしてもビジネス書が中心になってしまいます。
仕事を想起させる本ばかりが並ぶ中、異色な本が目に留まった。『ホーキング、宇宙のすべてを語る』(スティーヴン・ホーキング、 レナード・ムロディナウ/ランダムハウス講談社)と『宇宙のひみつ』(山梨賢一、津原義明/学習研究社)という、宇宙に関する2冊だ。
「去年、今年あたりに読んだ本です」と前置きしながら、宇宙に関心を持ったいきさつを次のように語ってくれた。
『宇宙のひみつ』は小学生の頃に読んでいて、最近また買い直した本です。ちょうど中学校の頃、秋山豊寛さんが日本人で初めて宇宙飛行に成功したことが話題になったので、昔から宇宙に興味は持っていました。
物事を因数分解していって最小単位までみていくと、行き着くところは宇宙であり、その始まりと終わりであると思うんです。
サービスを考えるにあたって、「そもそも人間として何を欲求しているのか」を考えることが重要だと思っているんですね。で、人間の欲求を根気よくさかのぼっていくと、結局は宇宙の始まりまでたどり着くのではないかと。だからそこについて、もう少し詳しく知りたいと思うようになったんです。
最初に宇宙の起源があって、生命の誕生があって、種の発展があって、人間として本能が出てくる。だから、宇宙の始まりや終わりについて知ることは、もっといいサービスをつくっていくことにつながっていくんじゃないかと。
そういう意味でも、今後、個人的な興味として時間をかけて、宇宙に関する本を読んでいきたいと思っています。
『ウェブ進化論』の読後メモ
線を引いたり、切り抜きをしたりというアナログ時代を経て、笠原社長は読書メモをパソコンで入力している。本や新聞などで気になったところは、普段使っているメールソフト「Becky!」の下書き機能を使って打ち込んでおく。文言として残しておくべき言葉を思いつくままに羅列するのだ。こうすれば読んだ本の内容が頭に入りやすい。しかも「デジタル化しているほうが、あとから検索できたり、コピペもできる」から便利なのだという。
最近では『ウェブ進化論』(梅田望夫/筑摩書房)の読書メモを作った。読後の感想は「ウェブの可能性を肯定した本なので、すごく勇気づけられました」とのこと。
「いちいち打ち込むのは面倒くさくないですか」と聞くと、「できればしたくないですけど……。しなければしないでまったく忘れてしまうので」とポツリ。「飾らない人だなあ」というのがインタビュー全体を通して受けた印象だった。
澁川 祐子
2006年7月3日 月曜日 NBonline
「冷静な頭脳、温かいハート」 [人物・伝記]
ヤマト運輸元会長・小倉昌男氏の経営者像
約束の取材時間に事務所に行くと、先客だった芸者のお姐さんや、宝塚の女優や女性キャスターの方々とすれ違う。ヤマト運輸の元会長、小倉昌男氏は私が知る限り、一番「モテる」経営者だ。
もっとも芸者のお姐さんは踊りの会の後援依頼だったり、女性キャスターの方も、対談の打ち合わせだったりしたようだが、どなたも、小倉氏の茶目っ気がありながら筋は通す、江戸っ子気質というか、人柄に魅力を感じておられるのではないかと思う。
その小倉氏が、健康上の理由などから、ヤマト福祉財団の理事長職を退任することになった模様だ。今後は海外で静養するとのことだが、あの歯切れのいい発言が聞けなくなると思うと、非常に残念だ。
小倉氏といえば、父親の後を継いでヤマト運輸の社長に就任し、郵便小包に対抗して宅急便を世に送り出した経営者として、高く評価される。
企業の荷物が中心だったトラック物流の世界の中で、いち早く個人市場に着目し、個人客から個人客に荷物を届ける新サービスを作り上げた先見性、そして現場のドライバーたちに情報開示し、権限を委譲しやる気を高めるなど、有能ぶりを語るエピソードには事欠かない。
また監督官庁であれどこであれ、行政に対して言うべきことは言う、毅然とした姿勢は、多くの人に支持され、影響を与えた。小倉氏は「江戸っ子だからね、お侍が嫌い。二本差しが怖くて、おでんが食えるかってね」と、冗談めかしながらも、根拠のない権限をかさに着る官僚には、正面から対決した。
▼障害者の自立を支援。保有株もすべて寄付
そんな現役時代と同様に、あるいはそれ以上に、引退後、障害者の自立支援に力を注いだ生き方が、小倉氏の、経営者としての評価を高めたと思う。とりわけ、保有していたヤマト運輸の株、300万株をすべてヤマト福祉財団に寄付してしまったことには、驚いた人も多かっただろう。
当初200万株を寄付した時は、残りの100万株は手元に残そうとも考えたというが、数年後にはそれも寄付。「これですっきりしました」という発言は、改めて小倉氏のスケールの大きさを感じさせるものだった。
人間であれば誰しも、お金には執着を持っていると思う。ましてやそれが企業経営者となれば、手にする財産が成功の証、という思いも強いのではないだろうか。
企業を大きくして株を公開する、そのことを1つのゴールに定めて働くベンチャー経営者は少なくないだろう。しかし小倉氏の場合は、働くことの証しは、金持ちになることでも、まして勲章をもらうことでもなかった。消費者に喜ばれ、従業員を幸せにする、経営者としての責任を全うすることにあった。
また、福祉事業に取り組む際も、単に資金を提供するだけでなく、障害者が働く場所に対して、自らの経営の経験と知識を伝えることで、障害者の給料を増やし、自立を促そうと試みた。このことは「お金を出す経営者はいても、経営を教えてくれる経営者は初めてだ」と福祉関係者を喜ばせた。
小倉氏は、障害者の支援に関わることになった理由について「障害があるというだけで職に就けないのはかわいそうだ。納得いかない」と話していた。また、小さい頃、帰る家のない親子とすれ違い、その親子のことが頭を離れなかった思い出があるという。
▼弱者への視点
資本主義、そして市場の論理を貫けば、社会には強者と弱者が生まれ、貧富の差は拡大していく。だが社会が永続的に発展するためには、当然ながら、豊かな強者が弱者を支えていく責任も生まれる。
裕福な環境に育ったから金銭に執着がないのだろう、という見方もできるかもしれないが、それ以上に、優しさと、筋の通らないことには納得しない、まっすぐな気性が小倉氏を支えてきたと思う。エコノミストに必要なものは「冷静な頭脳と温かいハート」と言われるが、小倉氏はその両方を備えている。
角度を変えて見ると、弱者への視点は、一般消費者への視点に通じていたのかもしれない。宅急便の開発に当たって、小倉氏は常に「家庭の主婦にとって使いやすいサービス」という基準を貫いた。地理に不案内で、荷物の梱包も苦手。そんな消費者でも、利用できる分かりやすいサービスは、やはり頭脳とハートが生み出したものだと言える。
経営に、そして社会に、大きな貢献を果たした小倉氏には、ぜひ静かな環境で、ゆっくり体を休めてほしいと思う。
ただ、気がかりなのは、ヤマト運輸の今後だ。このほど、同社は来年4月からの持株会社体制への移行を前提に、組織変更を実施。小倉昌男氏の長男、康嗣氏が40代の若さでヤマト運輸分割準備会社(持株会社体制への移行後は、ヤマト運輸として存続)のトップに就任した。
この人事については、期待する見方もある半面、社内外で冷めた声も聞かれる。
主力の宅急便市場で、日本郵政公社、佐川急便など、ライバルとの競争が激化する中、新体制の下、どこまで戦えるか。偉大な父を持つことで、逆に康嗣氏に対する評価基準が厳しくなる側面があることは否めない。だが、実績を築く以外に、周囲を納得させる道はない。
(村上 富美)
--- 2005.04.08 NIKKEI BP から ---
近衛・ルーズベルト、幻の会談を知る生き証人逝く [人物・伝記]
近衛・ルーズベルト、幻の会談を知る生き証人逝く
また1人、日米関係の「古層」を知る証人が鬼籍に入った。ロバート・フィアリー(Robert Fearey)氏。米ワシントンの自宅アパートで2月28日息を引き取った。享年85。
思えば世界がまだしも平和だった2001年9月8日、日本と米国は講和条約締結50周年を祝し、サンフランシスコで記念式典を開いた。ここで日本から招かれた宮澤喜一元首相と並ぶ主賓だったのがフィアリー氏である。講和条約締結過程に実際関与した当局者は、この2人くらいしかもはや生き残っていなかったからだ。
米国では3月6日付ワシントン・ポスト紙が、メトロ(首都圏)面で訃報を伝えた。
フィアリー氏は復帰直前の沖縄で、琉球列島米国民政府(USCAR)の文民トップに当たる民政官を務めた。当時の屋良朝苗琉球政府主席とともに、本土復帰の実務を担った。それを記憶する琉球新報だけは、7日付で短い死亡記事を載せた。ほかの大手紙が、これから追随するかどうか。
▼日米戦争は避けられた
2000年の秋、フィアリー氏の古いアパートには、今の天皇皇后両陛下が皇太子並びに妃殿下だった頃一緒にテニスをした写真が、控えめに飾られていた。突然来訪した筆者にガサゴソと昔の資料を引っ張り出して、2つのことを教えた。
第1に、ジョゼフ・グルー米国駐日大使は1965年に死ぬ間際まで、日米戦争を避けられる戦争だったと信じていたこと。
第2に、戦後農地改革の青写真は、自分が書いてマッカーサー司令部に提出した文書に依拠していること。とりわけ前者を、日本から来た記者に分かってもらいたいというふうだった。
古い国務省の慣習によると、アイビーリーグ校あたりを出た若者は大使個人秘書というものになって、一種の徒弟奉公をしたらしい。41年ハーバード大学政治学科を出たフィアリー氏は、同窓の先輩だったグルー大使に仕えるため初めて東京へやってきた。昭和16年。開戦まであと数カ月という時期だ。
グルー大使の名は今も財団法人グルー基金として日本に残っている。毎年若干名、日本の高校卒業生を米国の大学へ送り出す奨学金を出している。余談ながら大使夫人、アリスは、黒船でやってきたペリー提督の孫娘だった。
この時期の首相、近衛文麿は、昭和天皇との長い会談ののち、日米間にわだかまる問題すべての決着を頂上会談で決する意を固め、米大統領ルーズベルトとの直接会談を切望していた。その橋渡しにグルーは全霊を傾けていた。
フィアリー氏は、人生で初めて仕えた上司が当時どれほど会談実現に真剣だったか、我がことのように感じたのであろう。
▼史上最大のifは解けないまま
この会談プランについてはグルー著、石川欣一訳『滞日十年』下巻(毎日新聞社、1948年)によって、戦後日本人の一定層が知るところとなった。実際、このメモワールを読むと41年9月が決定的に重要だった様子を手に取るように知ることができる。
それによればトップ会談実現へ向けた日本側の意向には切実なものがあったというのに、どうして米国は積極的に応じず、ついには近衛内閣の瓦解となって元も子もなくなるまでしてしまったのか。
ここが分からない点である。フィアリー氏はその一端をForeign Service Journal 誌91年12月号で記事にしているけれど、核心を問いただす機会は永遠に失われてしまった。
「もし日米戦を避けることができていたら」というのは、あの戦争から何十年経っても消えない最大のifである。ルーズベルト大統領、ハル国務長官の側に責任の少なくとも一端があったとは、真珠湾を経た米国で、あえて口にするのがはばかられるタブーになったのだろう。
フィアリー氏がごく押さえ気味の記事を上掲誌に書いたのさえ、真珠湾からちょうど50年目のことだった(氏が文芸春秋2002年1月号に寄せた「近衛文麿対米和平工作の全容」も参照)。
ワシントン・ポスト紙が載せた訃報などを基に、フィアリー氏の略歴を下に記しておく。
ニューヨーク州ガーデンシティー生まれ。41年ハーバード大学政治学科卒、ジョゼフ・グルー米国駐日大使個人秘書となる。真珠湾後は大使らと半年拘束され、ワシントンへ退去処分となった。国務省へ奉職、アナリストとして日本占領計画の立案に携わる。この時著した農地改革の論文が、後占領当局に採用された。
日本敗戦後、マッカーサーの政治顧問だったジョージ・アチソンの特別アシスタントとして来日、46年帰国すると国務省日本部員として50年まで務める。
同年、トルーマン大統領特別代理として対日交渉に当たったジョン・フォスター・ダレス氏のアシスタントとなり、国務省北東アジア局局長特別アシスタントを兼ねながら、サンフランシスコ講和条約の準備作業に加わった。
52~56年駐パリNATO(北大西洋条約機構)米国代表部を経て59~61年は再び東京で駐日米国大使館政治軍事部長。この時の最重要課題は、日米安保条約の改定だった。
63~66年、国務省で東アジア担当次長、部長を歴任し、69年8月、沖縄へ赴任、72年5月離任するまで米国最後の民政官を務めた。米艦船のいわゆる核持ち込み問題に絡む密約の有無を巡って、今でも時々名が出る。79年国務省退官。
編集委員室主任編集委員 谷口 智彦
2004.03.12 日経BP
田宗一郎の6因子 [人物・伝記]
日本が技術再興するために今すべきこと
●6つの因子
「失敗力」、「現場力」、「集注力」、「独創力」、「世界力」、
「勝利欲(力)」
米国の科学史家、トーマス・クーンは主著「科学革命の構造」(中山茂訳、みすず書房)で、科学の発展は、個々の発見や発明の「累積」によってもたらされるのではなく、旧来の伝統的な思考の枠組みを打ち破る全く異なった考え方が生まれ、それが受け入れられて実現することを、ニュートンやアインシュタインなどの例を引いて証明した。
ホンダも「他社の製品の改良によって期待以上の性能を実現するよりも、たとえ失敗しても革新的な技術にチャレンジした方が賞賛される」(元F1総監督桜井淑敏)との哲学を今に至るまで持ち得たからこそ、技術力で世界の先頭を走り続けることができた。
●ホンダの「 3現主義 」
▼「現場」、「現物」、「現実」
現場で現物を実際に見て触り、現実を見極めるという本田宗一郎の思想---ホンダ社内で語り継がれている行動指針「情報技術(IT)発達しても現実に近い世界が再現できても、現実とは違う。現実には予想もしないことが起こる。実際に体験しなければ何も発見できず、何も身に つかない」現場で身に付けた力、現場力こそ本当の成果を生み出す源なのだ。
▼「新3現主義」
ホンダの新たな指針。
従来の3現主義とどこが違うか。いくら現場を重視するとはいえ、ITがこれだけ発達しているのだからそれを利用しない手はない。最先端のITは積極的に取り入れる。
しかし、一方では、それを必ず机上の理論ではなく現場で確認するという意識を持つ-----ということを徹底した。
ホンダでは、技術者に自由に開発に取り組ませる文化がある。上司はテーマを与え、後は現場の担当者たちが「ヤイガヤ」で知恵を絞り、突き詰めていく。
上司は定期的に開発担当者達の目標達成度をきめ細かくチェックする。「管理という印象は悪いが、自由な開発風土は残しつつ、メンバーの意思の方向性がずれていないか、特定の部分の開発が遅れていないかを上司がつかみ、必要なら軌道修正する。」最新技術と現場重視の融合、そして適切な管理、この実現が「新3現主義」である。
「人を鍛えれば(人が作り出す)技術は後からついてくる」とすれば、3現主義で鍛えられていることが、ホンダの技術力を支えている。そして、墨守するだけでなく、3現主義自体も現実に合わせて進化させようとするところにホンダの強みがある。
●独創力
他社がやっていないからこそホンダがやる。
前例がないから取り組む。
本田宗一郎がエンジニア魂に火をつけた。FTA(故障の本解析)と呼ばれる方法で、簡単に言えば、まず目的を明確にして、その現実に対する阻害要因を洗い出す方法。
出典:NIKKEI BUSINESS 2001/02/12 号。
吉田政治の『遺産』~終焉から50年---1 [人物・伝記]
ツケ残した改憲の回避
東京の目黒駅近く、国立自然教育園の森に囲まれて東京都庭園美術館がある。古くは朝香宮邸、戦後は外務大臣公邸となり昭和35年の日米安保条約改定のとき、批准書の交換場所にもなった由緒ある建物だ。
首相就任直後外相を兼ねていた吉田茂はこのアール・デコ式の洋風建築と庭を好み、しだいにここで政務を執るようになった。貴族趣味といわれた吉田らしいところだ。政治家や官僚たちを呼びつけることも増え「目黒の公邸」は、ワンマン政治の代名詞のようになった。
昭和29年12月7日、この「目黒の公邸」は、朝から閣僚をはじめ与党自由党の若手議員たちが詰めかけ、異様な雰囲気に包まれていた。
この年に起きた造船疑獄と、これに対する犬養健法相の指揮権発動などで、民心はすでに吉田政権から離れていた。
民主、左派社会、右派社会の野党三党は前日の6日、内閣不信任案を提出、もともと吉田内閣は少数与党であり成立は不可避の情勢だった。自由党の大勢も「退陣しかない」となっていた。
それでも政権に固執する吉田は衆院解散により、中央突破をはかろうとした。与党幹部や閣僚を集めたのはそのためだった。
だが、最も頼りとする自由党ナンバー2で副総理の緒方竹虎は、説得をはかる吉田を、こう突き放した。「どうしても解散するというのなら、議員を辞めて福岡の田舎に引っ込む」。
それを聞いた吉田はプイと2階の居室に上がった。都合7年2ヶ月に及んだ長期政権が終焉をつげた瞬間だった。
それから50年たった今年4月16日、「目黒の公邸」からさはど遠くない目黒区駒場の東大先端科学技術研究センターで、その吉田政治が俎上に載せられた。元タイ大使の岡崎久彦氏が主宰するNPO法人岡崎研究所などが開いた「日本政治外交史シンポジウム」である。
特にその第3部「占領・独立そして現在」で、吉田の外交・安全保障政策をめぐり、岡崎氏と五百旗頭真(いおきべまこと)神戸大教授らの間で激論が交わされたのだ。
詳細は5月4日付の本紙(東京発行)で報じてあるが、焦点となったのは、日本の再軍備と憲法九条の改正問題だった。
吉田は、昭和21年5月、首相に就任する。日本国憲法ができた年である。そのときから、九条の戦争放棄について「自衛のための戦争も許されない」との立場を表明、国務省顧問ジョン・ダレスら米側の再三にわたる再軍備要求を拒否しつづけた。
昭和25年、朝鮮戦争の勃発にともない連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーの指示で警察予備隊を設置、これが自衛隊となった後も「自衛隊は戦力なき軍隊」などと強弁し、九条の改正にもガンとして応じなかった。五百旗頭氏はこの吉田の対応に理解を示す立場で論じた。
「当時日本はまだ貧乏で、対ソ、国防に限られた資源を投入するより日米安保という方向を選んだ。それに米ソ二超大国がず抜けていく中で、それ以外の国は軍備にしゃかりきにならないのも賢明だ、と思うようになったのではないか」。
その上で「独立、愛国」親英米の筋を戦後日本の機軸とし、安全と繁栄の基礎作業を行った」と、その経済優先主義を高く評価した。
これに対し岡崎氏は「吉田の発言にはこだわりの匂い、あん畜生という匂いがある」という表現で吉田批判を展開した。
「憲法九条を論じていたときすでに(自衛戦争は認めるという解釈が可能な)芦田修正が入り、占領当局もこれを了承している。
しかし吉田がそのことを認識していたかどうかもわからない。後は売り言葉に買い言葉的に(再軍備を拒否する)発言を繰り返し、一度言うと強情に変えなかった」
そして「一番の問題は、再軍備せず、憲法改正せずと言うばかりで、再軍備の可否、憲法改正の可否について一切論じようとしなかった。それが国民の混迷を招いている」と述べた。
両者の違いは、吉田の再軍備・憲法改正拒否に合理的な理由を見いだせるかどうかにあるようだ。だが、7年余りの政権運営の間に何度もチャンスがありながら、あえてやらなかった。
そのことが、例えばイラク復興支援に自衛隊を派遣するだけで、憲法解釈をめぐる「神学論争」を繰り返さなければならない、安保論議の不毛さというツケを後世に残したことは事実だ。
吉田は戦後のさまぎまな改革から独立、日米安保体制など実に幅広い実績をあげている。そのことは認めつつ、終焉から半世紀の機に、再軍備・憲法改正の問題を中心とした検証を試みたい。(皿木喜久)
造船疑獄
海運業界再建のための計画造船をめぐり、海運業界や造船業界から政官界へ贈収賄がなされた事件。政治家を含む71人が逮捕されたが、佐藤栄作自由党幹事長の逮捕請求を犬養法相が拒否し、事件の核心はウヤムヤのまま終わつた。
--- 産経新聞 2004(H16)/12/04(土曜日)---
吉田政治の『遺産』~終焉から50年---2 [人物・伝記]
『自衛』否定した勇み足
敗戦から12日後の昭和20年8月27日、元駐英大使、吉田茂は外務省時代の同僚でドイツ大使などをつとめた来栖三郎に長文の手紙を書いた。後に『吉田茂書翰』に収録され、吉田の政治信条や人となりを示すものとして有名になった。
「敬覆 遂に来るものが来候。もし悪魔に子供がいたらそれは東条(英機)に違いない(この一節だけ英文)。
今までの処、我が負け振りも古今東西未曾有の出来栄と申すべし。皇国再建の気運も自ずからここに蔵すべし。軍なる政治の癌切開除去。政界明朗、国民道義昂揚」不穏当な言葉づかいもものかは、敗戦による軍の解体に快哉を叫んでいるのである。さらに軍攻撃は続く。
「かって小生共を苦しめたるケンペイ(憲兵)君、ポツダム宣言に所謂戦争責任の糾弾に恐れを為し…その頭目東条は青梅の古寺に潜伏中のよし。ザマを見ろと些か溜飲を下げおり候」。
吉田は終戦直前の昭和20年4月、九段の憲兵隊に連行された。近衛文磨が戦争の早期終結を天皇に内奏したいわゆる「近衛上奏」に関与した疑いだった。
戦火に追われあちこちの収容先を転々とし40日後にようやく釈放される。ここにはそうした憲兵や軍トップの東条英機元首相らに対する憎悪ともいえる感情がにじんでいる。
吉田が本当に「軍嫌い」であったかは意見の分かれるところだが、少なくとも軍部が主導権を握った昭和前半の歴史を憎悪していることは間違いない。だが、それが現実の政治に反映されるとどうなるのか。
吉田は来栖への手紙から間もない20年9月、東久邇宮内閣の外相に起用される。翌21年5月には首相に就任、政治家としての本格的スタートを切るが、前回取り上げた政治外交史シンポジウムに参加した坂元一哉阪大教授は手紙の「軍なる政治の癌」の問題点を指摘した。
「切開除去といっても、ほんとうは病気の部分だけを取らなければならなかったのだが…」。必要も不必要も関係なくすべての軍事力を否定してしまったというわけだ。
そのことがあからさまに出たのが首相就任直後の6月28日、衆院本会議での新憲をめぐる論戦だった。質問したのは、共産党の野坂参三である。「戦争には二つの種類がある。
一つは正しくない戦争。日本の帝国主義者が起こしたあの戦争、他国征服、侵略の戦争である。侵略された国が自国を護るための戦争は正し戦争である。この憲法草案に戦争一般の放棄という形でなく侵略戦争の放棄とするのが的確ではないか」。
これに対し吉田はまず「近年の戦争の多くは国家防衛権の名において行われたことは顕著なる事実」とし、「正当防衛による戦争があるとすれば、侵略を目的とする戦争をする国があることを前提としなければならない」と述べた。
さらに「正当防衛権を認めるということ自身が有害であると思う」と、自衛のための戦争そのものを否定してしまったのである。
共産党嫌いの吉田とあって、まさに売り言葉に買い言葉といえなくもない。しかし2日前26日にも進歩党議員の質問に「第九条は自衛権の発動としての戦争も、交戦権も放棄したもの」と言いきっている。「信念」だったのだろうか。
猪木正道・京大名誉教授は著書『評伝吉田茂』の中で、この答弁を「勇み足」と表現している。日本の国防論議にとって実に大きな「勇み足」だった。吉田自身がその後、自らの発言に縛られることになったからだ。
昭和25年1月、国会での施政方針演鋭では「(憲法の)戦争放棄の主旨に徹することは自衛権の放棄を意味するのではない」と述べた。
この年の元日、マッカーサー連合国軍総司令官は年頭の声明で「この憲法の規定は、相手側から仕掛けてきた攻撃に対する自己防衛の権利を否定したものとは絶対に解釈できない」と表明した。
吉田としてはその「虎の威」を借りて、初めて前言を修正しようとしたのだ。しかし、たちまち左翼陣営などから「食言だ」との批判を受けると再び沈黙してしまう。
サンフランシスコ講和条約締結後の昭和27年3月6日の参院予算委でも「憲法は自衛のための戦力を禁止していない」と発言する。
だがこのときも批判を受け、4日後には「自衛のための戦力でも持つ事は再軍備であり、その場合は憲法改正を要する」と後退するしかなかった。
ほかにも、マッカーサーの指示で警察予備隊を設置したとき「これは断じて再軍備ではない」と強弁し、自衛隊を「戦力なき軍隊」と述べるなど迷走を繰り返し、安保政策の混迷を招いた。それもこれも最初の「勇み足」が根底にあった。(皿木喜久)
--- 産経新聞 2004(H16)/12/05(日曜日)---