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追悼 中山 素平 氏 (元 日本興業銀行頭取) [人物・伝記]

「問題は解決するために」


  「いいですよ。いつコロッと逝ったっていい年だからね」

  2002年10月31日。当時96歳だった中山素平氏の話の広がりに、失礼は承知のうえで「遺訓と受け止めてもいいですか」と申し出た。その時の冗談めかした返事が、これである。

  当時、銀行の不良債権問題には展望が見いだしにくく、日本経済の先行きについても悲観論が主流を占めていた。そこへ、銀行の不良債権比率を2年で半減させるという竹中平蔵金融大臣(当時)の政策が浮上した。戦後の産業再編を手がけた日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)の元頭取にして「財界の鞍馬天狗」とも呼ばれたバンカーが時代をどう見ているのか、話を聞いてみたかった。

▼伸びた背筋と鋭い眼光

  同年代の友人にでも話すような軽やかな語り口はともかく、しゃんと伸ばした背筋、こちらの目をずっと凝視したままの鋭い眼光は、戦後の日本経済が人の形を取れば、こうなるのかと思わせる雰囲気があった。

  「素浪人の言うことだから」「現役で活躍している人たちに迷惑をかけてはならないから」…。話の途中でそんなためらいの言葉がしばしば飛び出す。中山氏は、実行を伴わない言葉を信用しない実務の人だった。だから、その時のやり取りのような発言は不本意なものだったに違いない。

  「問題は解決されるために提示される」――。中山氏がしばしば口にしていた言葉だ。重要なのは解決で、論評に意味はない。それが中山流だった。

  問題解決を使命と考えた中山氏の行動を、時代を隔てた今の企業社会の感覚で割り切るのは難しい面もある。

  1965年、興銀頭取だった中山氏が発起人総代となって、低迷する株式市場の安定を目的に株式買い上げ機関「日本共同証券」が設立された。現在の感覚からすれば、市場原理がないがしろにされるという批判もあるだろう。しかし、中山氏は当時を振り返ってこう語っていた。

  「理屈はその通りだ。ただ、放っておくと証券恐慌になる。その時に、市場原理、市場原理と言って恐慌にもっていくバカはいない。その辺は市場原理を無視したってやる」

  1973年の第1次石油ショックの時にはインフレ抑制に舞台裏で走り回ったエピソードを披露してくれた。社債の発行を予定していた電力会社に「配当が値上げにつながるから」と融資を提案。材料価格を上げない申し合わせをした産業界を取り締まらないよう公正取引委員会に申し入れる。

  そうした行動も、現在の感覚では賛否が分かれるところだろう。しかし、中山氏は「けしからんもくそもないんですよ。日本の国はつぶれるよということ」と全く問題にしなかった。そして、こう続けた。

  「問題を解決しようというのは、そのぐらいの態度でやらなきゃダメということね」

▼「国志」見た明治人の気概

  3年前のやり取りを書き留めるのは、決して日本経済の古き良き時代を遠くから眺めるためではない。中山氏が現役時代に手がけたことが万事うまくいったわけもないし、今の時代に本当に通用するのかも分からない。それでも、今の世ではややもすれば冷笑の対象にさえなりかねない「公平無私」という言葉を愚直なまでに貫こうとした姿勢の清々しさは色あせない。

  中山氏は、社会の2極化現象に繰り返し警鐘を鳴らしていた。中間層が大きな社会構造こそが日本の強みだ、と。それから3年、日本の社会は確実に2極化の方向へと動いてきた。経済原則に照らせば当然のことと受け入れるのか、「国」「信念」「使命」という中山氏の発言に頻繁に登場する言葉を手がかりに問題を解決するのか。

  利益が資本主義の原動力であることは論をまたない。この1年、株式市場を主な舞台に資本主義の純化が進んできたという見方も成り立つだろう。では、「国志」を見据えた明治生まれの日本人が抱いた気概は、資本主義の進化にとってもはや無用の長物なのか。戦後日本経済の立役者の死が我々に問いかける。


(本誌副編集長 廣松 隆志)
2005.11.28 NIKKEI BP

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