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第一部 豊田章一郎のニッポン考 《3》 [人物・伝記]

第一部 豊田章一郎のニッポン考 《3》

意地が作る己の道

 創業者の跡継ぎが、同じ道を歩くとは限らない。時代の脚光を浴びるとも限らない。それでも、意地が、新しい道を求めさせることもあるのだ。

 「おやじなんかの話を聞くとね、自動車を造りだしたのが昭和10年ぐらいでしょ。まあ、夢は乗用車。本当は乗用車をやろうと思ったけれども、戦争が激しくなったから、トラックに切り替えちゃった。2つの工場のこっち側がトラック、こっち側が乗用車というつもりだったのが、戦争でしょ」

 トヨタ自動車の創業者で豊田章一郎さん(76)の父、喜一郎は「日本人の頭と腕で」国産の大衆車を造ることが夢だった。戦争がその夢を遮り、戦後は、倒産の危機が夢を奪った。ついに自分の手で乗用車の大量生産を始めることはなかった。

 喜一郎はこうも語って聞かせたという。

 「おれは自動車のことは何もやらなかったと、僕に言いましたよ。全部、部下がやってくれたと。ただし、おれは紡織機には全知全能をかけたが、世間は、全部、(父の)佐吉がやったと言ってるよと。そこに意地がわくという言葉を使ってましたから。だけど、いろんな行動を見ていると、自動車のことでも必死になってやっていた。しかし、僕にはそう言っていた」

――なぜ、章一郎さんにそう言ったのでしょうか。

 「わからん。僕の受け止め方としてはね、お前がいくら自動車やったって、自動車はおれがやったということになる。だから、もし、お前が何か仕事をやりたいと思ったら、自動車以外のことでやらなきゃだめだよというサゼスチョンかもしれんですよ」

みんなが努力している

 父に「自動車以外の道へ行け」と暗示された豊田章一郎さん(76)は、1952年、父の急死で、トヨタ自動車工業に入社。わずか27歳の取締役だった。現実と危機感が、夢にとって代わった。

――最初から自動車を受け継ぐということしか念頭になかったんですか。

 「いや、そんなことはない。住宅がある。プレコンというのをやってましたよ。これもおやじの夢ですけどね。いや夢じゃない。戦後の焼け野原の中で、焼けないような住宅を作ろうと考えた。だからコンクリートにした。おやじは庭でコンクリートこねて、試作していた。日本人だって、ちゃんとしたうちに住む権利があるぞと」

 「最初の発想、夢はね、平らな屋根にして、そこにヘリコプターが下りるというような家ができるといいなと。これは僕の夢だったかもしれんな」

 「ところがね、平らな屋根になると、雨が漏る。それから日射のせいで暑いんだよ。大失敗。まあヘリコプターはね、今でも規制が多くて何ともならん。それと、ものが悪いよね。やかましい」

――取締役でのトヨタ入社。これも創業家ゆえ。プレッシャーはありませんでしたか。

 「ない、ない、ない。必死になって明日の飯を食おうというばかり。総理大臣だったらもっとプレッシャーかかりますから。会社はみんなが努力してる。みんなが同じですよ。一人でやっているわけではない」

 目前に待ち構えていたのは、夢よりも現実だった。

 「昭和32年(1957)に独フォルクスワーゲンのフォルクスブルク工場を見に行った時でも、1日に2000台造っていましたよ。当時、我々は6、70台かな。10対1より小さい。その程度の規模のところで、値段で競争するにはいったいどうしたらいいだろうと」

 今、トヨタは世界有数の企業へと育った。

 「もし豊田自動織機製作所から自動車を始めていなかったら、今ごろは(トヨタグループは)つぶれちゃっているでしょうね」

 祖父の佐吉、父の喜一郎の功績によって、その後も、創業家がグループに対する求心力になってきたとされる。父の死後から半世紀、章一郎さんの長男の章男さんが44歳という異例の若さでトヨタ自動車の取締役に就任した。しかし、「求心力なんてマスコミが言うだけ」とそっけない。

 「やっぱりみんなでやっているから。豊田家だけでやっているわけではない。株を見ればわかるでしょう。フォード社の多くの株を押さえるフォード家とは違うから」

 「(父のあとを継いだ)石田退三さんは、求心力を使ってやっていこうという気があったと思いますよ。おれは(先代の)佐吉から薫陶を受けたと、しょっちゅう話し、それをグループのみんなに植え付けた。僕はそういう芸当をようやらん」

(つづく)

--- 読売新聞2001年5月17日掲載 ---


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