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第一部 豊田章一郎のニッポン考 《2》 [人物・伝記]

第一部 豊田章一郎のニッポン考 《2》

新しいものに挑む

 企業には栄枯盛衰がある。昨年、英国に渡った豊田章一郎さん(76)は、かつて世界を制した織機メーカーの夢の跡を訪ねて、その思いを新たにした。だからこそ、立ち止まることはできない。

 昨年七月、英国・マンチェスター近郊のオールダムにあった織機メーカー「プラット社」跡に立っていた。約七十年前、同社に通った父・喜一郎の足跡をたどるためだった。当時、世界最大の織機メーカーだった。

 「産業革命をリードした会社だけれど、今は廃虚になっていた。工場はレンガだったから、建物は建っているけど、中は空。ああなっちゃいかんなと、日ごろ言ってるんですよ。豊田市があなっちゃいかん。時代は変わりますからね、どんどん新しいものに変わっていかないと、だめです」

 同社は1929年12月、豊田佐吉、喜一郎父子が開発した自動織機の特許を百万円で買った。これを資金に、豊田自動織機製作所内に作られた「自動車部」が、トヨタ自動車のルーツとされている。

 「プラットは、織機だけやってたでしょう。だから、だめになったんじゃないですかね。自動織機(豊田自動織機製作所)でも、紡織機の売り上げは全体の一割にも満たない。もし、自動織機が自動車関連の仕事をしていなかったら、つぶれちゃってるでしょうね。自動車をやったことは、トヨタグループにとって非常によかった」

――トヨタの今後は。

 「自動車がなくなったら、おしまいですよ、トヨタグループなんて。変わらなくても、自動車がうまくいけばいいけれど」

 「だから、常に危機感を持ち、常に新しいものに挑戦していかなくてはならない」

現場へ何度も足運べ

 トヨタの国内の販売シェアは40%を超え、2位以下を大きく引き離す。今年1月には、フランスの現地工場を稼働させるなど、世界戦略も着々と進んでいる。しかし、豊田章一郎さん(76)は慢心を戒め、「現場へ足を運べ」という。

――トヨタの「一人勝ち」ですが。

 「冗談じゃない。そういうことを書いてもらっちゃ困る。慢心しちゃう。生きるか死ぬか、必死なんですよ。こういう言葉は現代的ではないけれど。そりゃそうですよ。我々はGM、フォード、フォルクスワーゲン、ダイムラーベンツ、日産と、みんな強い相手と競っているんだから」

 このトップの危機感に加え、現場に出掛け、自分の目と足で確かめ、頭で考える伝統の「現地現物主義」が、トヨタの強さを培ったのかもしれない。新車の試乗会で、「最初から最後まで車に乗っていたのは、豊田英二氏(最高顧問)と章一郎氏だった」と元開発担当者。章一郎さんも現場人間だった。

 「このごろ、なかなか行けないね。(工場へ)行くといい。いろんなことがわかる。コミュニケーションをよくするとか、何をやっているかを知るにしても、現場に行くっていうことが、一番わかりやすい」

 「(自民党総裁選に出た)四人にしてもね、もっと現場へ出て、事実を知らないとだめですよ。日本の国がどうなっているかをね。批評家じゃいかんのよ」

 「だけど、僕がちょっと行くぞとなったら、ダーッとみんな付いてくる。そういうのはよろしくない。だから、黙って行った方がいいんだよ」

――見方を知らない人が現場に行っても、わからない。どんなところに視線を向けるのですか。

 「僕は例えば、絵の展覧会に行っても、何もわからない。わかんないけれども、何回も行くうちに何となく分かってくる。何回も行かなくちゃ、だめなんだ」

 トヨタはいまや自動車にとどまらない。住宅産業や、インターネットでの電子商取引事業「ガズー」を展開するなど、総合産業を目指しているとも言われる。トヨタの社名から、自動車という文字が消える日は近いのか。

 「いや近くない。自動車というのは割合、すそ野が広いんですよ。自動車だけでも総合企業と言える。材料があるし、通信もある。だからグループの中でトヨタは、自動車の一部をやってるだけ。そんな産業は、そんなにたくさんないですよ。これがおかしくなったら、日本だって、社会だっておかしくなっちゃう」

 ただ、内燃機関が動力源だった自動車の歴史に、大きな転機が迫っている。

 「自動車に代わるものが出てくるかと言えば、今のところない。ただし、エンジンとかボディーとか、形は変わりますよ。50年たてば、燃料電池に変わっているだろうけど、自動車自体はありますよ。日本の国の基幹産業は、守っていかなきゃだめです」    (つづく)

--- 読売新聞2001年5月15日掲載 ---

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