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第一部 豊田章一郎のニッポン考 《1》 [人物・伝記]

トヨタ 伝

 トヨタ自動車名誉会長の豊田章一郎さん(76)は、戦後間もない数年間を、親せきが経営する北海道・稚内の水産加工会社ですごしている。かまぼこやちくわを焼きながら、その機械の設計や製造をしていた。だれもが「あすの飯を食べるのに必死だった」時代から、ほぼ半世紀。豊かさだけを追い求め、何かを忘れてしまった現代日本人に警鐘を鳴らす。

 豊田章一郎氏 1925年2月生まれ。織機王・佐吉の孫、トヨタ自工創業者・喜一郎の長男。名大工学部卒。52年に入社。82年、工販合併で誕生したトヨタ自動車の社長に就任。92年会長、99年から名誉会長。94年から4年間、経団連会長。現在、2005年日本国際博覧会協会会長。

第一部 豊田章一郎のニッポン考 《1》

偉ぶらず普通の国に

 「日本は普通の国になれって、よく言われるじゃない。あまりにも豊かさだけを求めて、普通であることを忘れているんじゃないかって」

 「豊かさは求めなくちゃいかんと思う。だけど、日本の国を忘れちゃいかん。世界も忘れちゃいかん。自分だけよけりゃいい、ということはよろしくない。共存共栄ですよ」

 「何も大きくなるだけが能じゃない。強くするだけが能じゃない。普通の国になりゃいいんですよ。えらくならんでもいいんです」

 厳しい視線は、国の規制や保護に頼るような企業、産業にも向けられる。

 「最近、中国からの輸入品は安くて、日本の産業はどうなるとかね。要するに、保護されている業界はもう少し自覚を持って、国際競争に勝てるよう努力しなくちゃいけない。今は、さぼっている方が得するみたいな制度があるでしょ。例えば農業だって、休耕ですよ。米作らなければ金をくれるような。そういう制度はよろしくないですよ。教育上よろしくない。そう思いませんか」

----- 日本人は働かないようになってしまった?

 「いや、働きますよ。ただ、働くことが悪いことだなんて言わんようにしてほしいんだ。よく働く人や、一生懸命やる企業、勉強する人は、伸びていくような社会にしないと」

----- やはり普通ではないと。

 「ある程度の規制で保護されているところは、撤廃すると痛みを感じる。そういうところが普通の国にならんと、ちょっとおかしいんじゃないですか。何となく現状を直していきたいという世論があるのではないか。それを端的に言ったのが小泉首相であって、わっと支持率が上がっている。国民は期待しているんじゃないですか。だけど実行は難しい。ものすごく難しい」

----- おかしくなったのは、いつごろからでしょう。


 「変だぞと思い始めたのは、十年近く前からじゃないですか。日本がね、いばりだしちゃったんですよ。バブルがはじける前かな。新聞が書きましたよ。日本の銀行は世界のベスト10を占めている。世界の金融を日本が制覇したって。その時には、これでいいのかなと思いました。日本はそれほど偉くないよと。そしたら、馬脚を現してダーッと落ちた」

----- 改めて普通の国とは。

 「私はフランス人です、私は日本人ですと。みんなそれぞれあるんですよ、どんな国で育ってきたのか。そういうことのはっきりした人であり、国ですよ。おれは日本人だ、ということを忘れてもらっちゃ困る」

----- 佐吉の気概「今こそ」 章一郎さん現代社会に警鐘

 「今みたいに満ち足りて豊かで、働かないでいいように思われたら、たまらんですよ。日本には大借金があって、反面、外国には旅行者がバンバン行っている。外国人から見たら、日本て何にも貧乏じゃない。むしろ、もうかっているじゃないか、という印象がありますよ」

----- この国のかたちへの指摘は厳しい。

 「飛行場に降りると着地料がかかる。成田から高速道路料金が高い。ホテルを出ようとして勘定書きを見てびっくりする。そういうのは、けたはずれに悪いですな。このごろ感じるのは、なんで日本は高速道路が有料なのか、外国では少ないですよ。もっと研究して、ただにしたらいい」

 「ものを作る人はものを作り、金融の人は金融をやる。普通のことを普通にやればいい。自分を過大評価せず、かといって見くびってもいけない。世界の中での日本の位置からすれば、社会貢献はしないと。アフリカへ行ってご覧よ。何も食えないような人がいるんだから。そういうところに、日本は何か感じるところがないといけない」

----- 未来を託す若者へも不満は募る。

 「我々は、お国のためを思って一生懸命やっている。だから極端に言えば、若者も我々と同じような気持ちでやってもらえればいいと思うけど。そのかわり、苦しいですよ」

 トヨタグループ各社の新入社員は毎年四月、静岡県湖西市の「豊田佐吉記念館」や愛知県豊田市の「鞍ヶ池記念館」を研修で訪れる。そこで学ぶことは?

 「まあ、日本人になれってことじゃないですか。明治以後、国際化、開国してからさ、日本人がどういうふうにやってきたかという歴史は、知ってなきゃいかんのじゃないか」

----- 祖父の佐吉は代表的な明治の日本人だった。

 「佐吉はね、やはり何とかして日本を一人前の国にしたいという気持ちがあった。それは佐吉だけじゃない。その当時の若者は皆、そういう気持ちでいた」


 「手前みそになるが、佐吉はまず、親が苦労しているのを何とか楽させようという純粋な気持ちから、楽に機織りができるように、それから当時の産業の中心だった繊維業を興した。それは非常によかった」

 佐吉の残した言葉はまとめられ、トヨタグループの経営精神を束ねる「豊田綱領」となった。〈上下一致、至誠業務に服し産業報国の実を挙ぐべし〉で始まる。

 「古いかもしれんけど、今こそ、そういう気持ちを取り戻してほしい。自分からそういう気持ちでやっていくためにも、先人のことをよく知っておく必要がある」

----- そして、こう注文する。

 「日本は外国から期待されている。日本の景気が悪くなったらおしまいだって言ってくれている。もっと考える日本人になってもらわないと、だめなんじゃないですか」

「障子を開けてみよ。外は広いぞ」

--- 変革の心 今も脈々「 変えないこと最も悪い 」 ---

 今年のトヨタ自動車入社式。社長の張富士夫(64)は、「障子を開けてみよ。外は広いぞ」という言葉を、新入社員へのはなむけとした。同社をはじめトヨタグループのルーツとなった豊田佐吉(1867―1930)が80年前、中国・上海に紡織会社を進出させた時の言葉である。小さく収まることを嫌った佐吉の精神は、今も受け継がれている。

 佐吉は、静岡県山口村(現・湖西市)の貧しい大工の家に生まれた。18歳の時、「教育も金もない自分は、発明で社会に役立とう」と決心し、機織り機の改良に取り組んで、100件近い特許を取得した。佐吉の興した織機会社から、現在のグループ各社が枝分かれした。

 佐吉とともに自動織機の改良・開発に取り組んできた長男、喜一郎(1894―1952)の心は、欧米に負けない自動車づくりへと向かう。織機会社の中に設けた「自動車部」で、若い技術者とともに自動車づくりに熱中。1935年、試作第1号の国産乗用車A1型を完成させた。東京までの試乗で難所の箱根を越えた時、喜一郎は感慨を込めて「イマ ハコネヲ コエタ」と電報を打った。

 喜一郎は現場に出ない技術者を認めなかった。出れば、油にまみれる。「1日に3回以上、手を洗わないような技術者はものにならない」。この考えが、トヨタの「現地現物主義」につながった。
 世界的にも評価の高い「トヨタ生産方式」のベースとなった「ジャスト・イン・タイム(ちょうど間に合うように)」は喜一郎の造語。必要な時に、必要な材料を、必要なだけ受け取る生産方式を目指した。後に、副社長まで務めた大野耐一(1912―1990)が中心となって、「かんばん方式」へとまとめ上げた。

 倒産の危機もあった。1950年、経営難から大規模な労働争議が起きた。「この荒波を何とか乗り切りたいが、それには、ここを解散するか、または一部の方にトヨタ丸から降りていただくか、道は二つに一つしかない」。そう語った喜一郎は、会社を救うため、自ら社長の座を去った。

 販売部門を分離したトヨタ自工の再建を託されたのが、豊田自動織機製作所の社長だった石田退三(1888―1979)だった。

 昭和40年代に入り、アメリカが日本のメーカーに資本自由化を厳しく迫った折、次々に海外企業と資本提携を進める他社を横目に、石田は「自分の城は自分で守れ」と語り、堅実経営と技術力の強化を自らに課しながら、孤高を貫いた。

 創業者一族から再びトヨタ自工社長となったのが、喜一郎のいとこで現在、最高顧問の豊田英二(87)。喜一郎からも厚い信頼を得ていた。

 マイカーブームの中で、相次いでヒットを出し、GMとの提携も進めるなど、今日のトヨタを築いた。英二は「乾いたタオルでも、知恵を出せば水が出る」と、1銭のコストダウンにも懸命に取り組んだ。

 トヨタ自工、自販合併(1982年)以後、喜一郎の長男の章一郎(76)、二男の達郎(71)と豊田家からの社長が続いたが、その後が現会長の奥田碩(68)。「これからの時代は、何も変えないことが最も悪いことだと考えてほしい」。変革を迫られながら、たじろいでいるような日本で、この言葉が響いている。

(つづく)

--- 読売新聞2001年5月14日掲載 ---


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