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吉田政治の『遺産』~終焉から50年---4 [人物・伝記]

4 マッカーサーのくびき

2人3脚の元帥とワンマン

 1948(昭和23)年2月26日、米国務省の政策企画室長をつとめていたジョージ・ケナンは空路、日本に向けて旅立った。

 飛行機で太平洋を横断してくるのはまだ、大変な時代だった。『ジョージ・F・ケナン回顧録』によれば、シアトルからアンカレジ、それにアリューシャン列島の小さな島で給油しながら三十数時間かけ東京に着いた。途中でヒーターが故障し、体は凍りつくようだった。

 ケナンが命がけで日本にきた理由はただひとつ、連合国軍総司令官のダグラス・マッカーサーと会い、「説得」することだった。

 ウィンストン・チャーチルがソ連など共産主義の脅威を「鉄のカーテン」と呼んだのが2年前のことだった。ケナンの来日当時、米国務省はその「封じ込め」に躍起であった。

 ところが、西の防波堤となるべき日本はといえば、占領軍のマッカーサー元帥らが「昔の君主に等しい役柄を楽しんでいた」(同回顧録)状態で、国務省の世界政策になど聞く耳をもっていない。

 ケナンは回顧録で「マッカーサーの日本」を次のように酷評している。「日本は全く武装解除され、非軍事化されてしまっていた。ソビエトの軍事拠点によって半ば包囲されてしまっていた。

 にもかかわらず、日本の防衛についていかなる種類の対策も占領軍当局によって講じられていなかった」。

 それなのに「マッカーサーの占領政策の本質は、日本の社会を共産主義の政治的圧迫に抵抗できないはどにも弱いものとし、共産主義者の政権奪取への道を開くことを目的に立てられた政策の見本のようなものだった」。

 ケナンは他の”使者 ”同様、国務省を代表してマッカーサ-に、日本の再軍備に道を開くとともに、公職追放を緩和して改革を推進させるよう進言するつもりだった。

 しかし、マッカーサーはケナンの話に耳は傾けたものの、再軍備を認めようとはしなかった。

 マッカーサーが憲法上自衛権が認められるという芦田修正を承認していながら、かたくなに再軍備を拒否する姿勢について、岡崎久彦氏は政治外交史シンポジウムでこう述べていた。

 「彼は日本の占領政策を成功させるためには天皇制を維持するしかないということを信念としていた。そのためには他のものは犠牲にしていいと考えていた」。

 天皇制と軍の双方を残しては日本は戦前と何も変わらないという、他の戦勝国の批判をかわせないという意味だろう。ソ連をはじめ共産主義の脅威を国務省ほどに感じていなかったこともあった。

 一方、昭和23年10月に再び政権に就く吉田茂は、早期に講和を結び独立することだけを外交官である自分の使命としていたようだ。このため、同じ早期講和論者であるマッカーサーに頼るしかない。

 それだけにマッカーサー施政下に吉田が再軍備をすることはできなかったのだ。文字通りの二人三脚だった。

 もっとも、戦後を代表するジャーナリストのひとり、阿部真之助は『現代政治家論』の中で「国内的には手のつけられないワンマンも、対外的には理想型のイエスマンであった」と、吉田のマッカーサー傾斜を批判している。

 だがそのマッカーサーも、昭和25年6月25目朝鮮戦争が起きると、吉田に対し警察予備隊という名の「再軍備」を命じざるを得なかった。

 さらに翌26年4月にはマッカーサー自身がトルーマン米大統領に解任された。吉田にとっての「くびき」はとれたのである。

 しかも、米側は28年10月になると、訪米した自由党政調会長、池田勇人と国務省極東担当のロバートソンとの会談で、32万人の陸上兵を求めるなど、矢のように兵力増強を求めてきている。朝鮮戦争特需で経済も良くなっていた。

 そうした追い風にも吉田は相変わらず自衛隊を「戦力」と認めない。ならばといって、「戦力」を持つための憲法改正も拒否しつづけた。

 マッカーサーのくびきがはずれ、独立も回復、吉田は名実ともに絶対的ともいえる権力を得てしまった。

 その権力を離したくないため、国内左翼を中心とする「逆コース」といった批判を押し切ってまで、自衛隊を軍として認知したり、憲法改正に踏み込んだりすることをさけた。

 今から見れば、そうとしか思えない。(皿木喜久)


--- 産経新 2004(H16)/12/07(火曜日)--- 

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