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吉田政治の『遺産』~終焉から50年---3 [人物・伝記]

3 不思議の国

 黙殺した九条の芦田修正

 議会での新憲法審議で、当時の首相、吉田茂は「第九条は自衛のための戦争も認めていない」と述べ後世に禍根を残した。だが、猪木正道・京大名誉教授は『評伝吉田茂』の中でこう書いている。

 「吉田首相の勇み足はさいわいなことに憲法改正案特別委員会とその小委員会において、芦田均小委員長の努力により是正された」。そのはずであった。

 昭和21年6月28日、帝国議会に連合国軍総司令部(GHQ)からの新憲法草案を審議するための憲法改正案特別委員会が設置された。さらにその中に、修正案を練る小委員会が設けられた。ともに委員長は、与党自由党の芦田均だった。

 小委員会は、8月20日九条について二カ所の修正を行う。ひとつは「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という第一項の前に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という一節を加えた。

 もう一つは、第二項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」の前に「前項の目的を達するため」と挿入した。

 いずれも芦田自身の手になるといわれるが、特に後者の修正の意味は大きかった。これによって国際紛争解決のための戦力は持てないが、自衛のためには保持できるという解釈が成り立つからだ。

 芦田は外交官出身の政治家で、この後日本民主党を結成23年3月首相となるが、この「芦田修正」に対する史家の評価は高く、猪木氏も「歴史的功績を残した」と書いている。

 重要なことは、芦田修正をGHQ側が即座に了承していることだ。高柳寧二元憲法調査会長らによる『日本国憲法制定の過程』2には、次のようなGHQ内のエピソードが記録されている。

 修正案を見て、起草のメンバーだった民政局のピーク博士がホイットニー局長にこのことを伝え「この修正は日本がディフェンス・フォース(自衛のための軍)を保持し得ることを意味すると思うが」と述べたところ、ホイットニーに「あなたはそれがよい考えであるとは思わないか」といわれ、彼もそう思ったので引き下がった。

 ホイットニーは言うまでもなくGHQの幹部であり、このことをマッカーサーも了解していたことは間違いない。この時点で現憲法でも再軍備が可能なことにお墨付きを得たといってもよさそうだ。

 ところが肝心の吉田は芦田修正を無視しつづける。退陣後に書かれた吉田の『回想十年』には、その意味について全くといっていいほど触れていない。外務省の後輩である芦田への対抗心だったかもしれないが、その後も「再軍備はしない」との姿勢を貫くのである。

 岡崎久彦元駐タイ大使も政治外交史シンポジウムで、芦田修正についてはGHQの実力者であったケーディス民政局次長が「これでいいんじゃないか」とOKを出していたという事実をあげ「ものごとのいちばん大事なことが動いているときに、吉田がそれをわかっていたか。あれがきちっとかっていたらその後の答弁も変わってきたはずだ」と述べている。

 吉田がこのチャンスに方向転換しなかったことは、後々の政府の憲法論議にも影響を及ぼす。つまり政府が自衛隊は憲法違反していないというのは、国家には本来的に自衛権があるとの理論にもとづくもので、芦田修正による解釈にはよっていないのである。

 吉田はこの後、いったん政権を片山哲と芦田に明け渡すが、昭和23年10月、再び首相となる。

 そして昭和25年6月には米国務省顧問、ジョン・フオスター・ダレスが初めて来日、吉田との講和をめぐる交渉にのぞむ。ダレスは、極東における共産主義の浸透を恐れる米国の意を体し、講和に当たって日本が再軍備するよう強く求めた。

 しかし吉田は「日本は再軍備にともなう経済費用や国民一般の激しい抗議に耐える余裕がない」と述べ、はねつける。

 米国における戦後日本研究の第一人者、ジョン・ダワー氏の『吉田茂とその時代』によれば「ダレスはこの一戦で出鼻をくじかれた思いであった」。

 そして、後に「まるで(童話の)不思議の国のアリスになったような気持ちになった」と述べているという。

 ダレスには、国の基本である国防を、経済や国民感情に任せるということが、どうしても理解できなかったのだろう。占領側が再軍備を勧めているのにもかかわらず。(皿木喜久)


--- 産経新聞 2004(H16)/12/06(月曜日)--- 

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