SSブログ

神風連の乱 [歴史]

神風連の乱

 神風連の乱(しんぷうれんのらん)は、1876年(明治9)に熊本市で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。

 1876年10月24日に旧熊本藩の士族太田黒伴雄(おおたぐろともお)、加屋霽堅(かやはるかた)、斎藤求三郎ら約170名によって結成された「敬神党」により起こされた反乱。この敬神党は「神風連」の通称で呼ばれていたので神風連の乱と呼ばれている。

▼概要

 1876年10月24日深夜、敬神党が各隊に分かれて鎮西鎮台司令官種田政明宅、熊本県令安岡良亮宅を襲撃し、種田・安岡ほか県庁役人4名を殺害した。その後、全員で政府軍の鎮西鎮台(熊本城内)を襲撃し、城内にいた兵士らを次々と殺害し、砲兵営を制圧した。

 しかし翌朝になると政府軍側では兒玉源太郎ら将校が駆けつけ、その指揮下で態勢を立て直し本格的な反撃を開始。

 加屋・斎藤らは銃撃を受け死亡し、首謀者の太田黒も銃撃を受けて重傷を負い、付近の民家に避難したのち自刃した。指導者を失ったことで他の者も退却し、多くが自刃した。

 敬神党側の死者・自刃者は計124名。残りの約50名は捕縛され、一部は斬首された。政府軍側の死者は約60名、負傷者約200名。

 この反乱は秩禄処分や廃刀令により明治政府への不満を暴発させた一部士族による反乱の嚆矢となる事件で、この事件に呼応して秋月の乱、萩の乱が発生し、翌年の西南戦争へとつながる。

▼敬神党

 敬神党は、旧熊本藩士族の三大派閥の一つであった勤皇党の一派である。

 熊本藩では教育方針をめぐり3派閥に分かれており、藩校での朱子学教育を中心とする学校党、横井小楠らが提唱した教育と政治の結びつきを重視する実学党、国学・神道を基本とした教育を重視する勤皇党が存在した。勤皇党のうち、明治政府への強い不満を抱く構成員により、敬神党が結成された。

 この敬神党は神道の信仰心が非常に強かったため周囲からは「神風連」と呼ばれていた。敬神党の構成員は多くが神職に就いており、新開大神宮で「宇気比」(うけい)と呼ばれる祈祷を行い、神託が下ったとして乱を起こしたのである。

 なお、三島由紀夫は晩年、神風連の乱に強い関心を持ち、敬神党の思想に共感していたといわれる。

▼その他

 種田が殺害された際、その場にいた種田の愛人は負傷しながらも熊本電信局へ走り、「ダンナハイケナイ ワタシハテキズ」(旦那はいけない、私は手傷)と打った電報を東京の親元に送信した。

 このエピソードは、カタカナのみを使い短く簡潔かつ的確にまとめることが重要な電報文体の好例として新聞紙上に紹介され、当時の一般市民が電報の利用方法や有用性を理解するきっかけの一つになった。


★太田黒伴雄(おおたぐろ ともお)

(熊本藩歩卒)天保5年(1834)~明治9年(1876)10月25日

 幼少にして父を失い、11歳の時大野家に引取られて大野姓を名乗る。
 文久3年大野家の義弟が成長したので自ら出て、のち飽托郡内田村の新開大神宮祠官太田黒伊勢の養子となった。彼ははじめ朱子学を学び、次に陽明学の書を愛読したが、林桜園に師事してから神道に熱中した。

 明治2年7月藩主細川韶邦から召されて桜園が東上した際、随伴して有栖川宮や岩倉具視と桜園との会見にも陪席した。

 しかし桜園の神道万能の政策は当時の時勢を反映することは不可能であり、失意のまま熊本に帰って来た桜園を彼は懸命に看護したが、高齢の桜園は死亡した。

 師亡き後、彼は推され、同志(神風連)の頭首となった。9年3月廃刀令が出、さらに県令安岡良亮により熊本県下の諸学校生徒の断髪令が下された。

 同年10月24日神風連は決起し、熊本鎮台司令長官種田政明を倒し、安岡県令を傷つけ、砲兵営を破ったが歩兵営で苦戦におちいり、彼はそこで重傷を負い、退いて法華坂の民家で死んだ。

★加屋霽堅(かや はるかた)

(熊本藩士・加藤神社祠官)天保7年(1836)~明治9年(1876)10月24日

 16歳の時、父熊助は事に座して自刃したので弟妹二人と共に母の里、中村直方にたより窮乏の中に育った。

 のち国家老溝口蔵人の食客になった。彼は文武に苦学し、武は四天流の奥義に達し、文は林桜園の原道館に入り国学・神道を学び、上野在方・太田黒伴雄らと共に桜園門下三豪の一人となった。万延元年家名再興を許され昇組となり三人扶持を給された。

 文久2年公子長岡護美の上京に際し、これの衛士の一人として宮部鼎蔵らと共に上洛して天下の志士と交わる。翌3年学習院録事にあげられたが、8月18日の政変で同志と共に逆境に立ち、元冶元年から慶応3年まで四年の間、熊本の牢獄に繋がれた。

 明治元年釈放され長崎にあり、熊本藩のため諸藩との折衝の任に当った。4年大楽源太郎の乱に連なって河上彦斎らと共に捕えられた。

 7年県政から実学党に退けられ、彼は加藤社の神官に任ぜられた。9年神風連の乱に当って太田黒と共に総裁となり、熊本鎮台に突入、歩兵営にて戦死した。年41没。

(参考) 

▼士族

 士族(しぞく)とは、明治維新後、旧武士階級に与えられた族称である。

 1869年の版籍奉還の後、かつての武士階級は華族(徳川宗家、大名。公卿も含まれた)、士族(旗本、各藩の藩士)、卒族(足軽)に編成された。

 その後、一部の郷士や卒族、在官の平民も士族に編入された(平民になった者も多い)。壬申戸籍作成(1872年)の際に「士族」と記載された。

 なお、1884年の華族令で華族に爵位が導入された際、岩倉具視らを中心に士族の爵位を創設することも検討されたが、華族の五等爵をさらに増やすことによる制度の煩雑化と、公家や大名と同様、華族としての待遇を望む元勲の勢力によって、士族の爵位創設は頓挫し、明治維新の功労者らは勲功華族(新華族)として士族から昇格していった。(華族は互選で貴族院議員になるなど、特権身分である)

 また、士族に生まれた者であっても、分籍した場合は平民とされた。これは華族も同様である(士族の家の次男三男が分籍した場合は平民の戸籍となる)。

▼士族反乱

 士族反乱(しぞくはんらん)は、日本の明治初期に旧武士階級であった士族が明治政府に対して起こした一連の反政府活動である。

 江戸時代後期に開国し、王政復古により成立した明治政府は四民平等政策のもと、大名、武士階級を廃止して華族、士族を創設する。

 秩禄処分により俸禄(家禄)制度は撤廃され、廃刀令の施行など身分的特権も廃された。また、明治政府が行う文明開化、殖産興業政策による西洋技術・文化の輸入、朝鮮出兵を巡る征韓論で政府が紛糾し、明治六年の政変で西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが下野すると士族層に影響を与え、明治政府に反対する士族は不平士族と呼ばれる。

 1874年には江藤が故郷の佐賀県で擁立されて反乱(佐賀の乱)し、1876年(明治9)には熊本県で神風連の乱、呼応して福岡県で秋月藩士による秋月の乱、10月には山口県で前原一誠らによる萩の乱など反乱が続き、それぞれ鎮圧される。

 1877年には鹿児島県で私学校生徒ら薩摩士族が西郷を擁立して、最大規模となる西南戦争が起こるが、これも士族側の敗戦に終わった。

 西南戦争以後に、不平士族の反対運動は国会開設や憲法制定を要求する自由民権運動に移行する。

▼士族の解体

江戸時代までの武士階級は戦闘に参加する義務を負う一方、主君より世襲の俸禄(家禄)を受け、名字帯刀などの身分的特権を持っていた。こうした旧来の特権は、明治政府が行う四民平等政策や、近代化政策を行うにあたって障害となっていた。

1869年の版籍奉還で士族は政府に属することとなり、士族への秩禄支給は大きな財政負担となっており、国民軍の創設などにおいても封建的特権意識が弊害となっていたため、士族身分の解体は政治課題であった。

1873年には徴兵制の施行により国民皆兵を定め、1876年には廃刀令が実施された。家禄制度の撤廃である秩禄処分も段階的に行われた。身分を問わず苗字を付けることが認められ(国民皆姓)、異なる身分・職業間の結婚も認められたため、士族階級の実質的な身分は平民と同じになった。

士族身分の解体により大量の失業者が発生した。政府や諸官庁に勤めたり、軍人、教員などになる者もいたが、職がなく困窮する例も多く、慣れない商売に手を出して失敗すると「士族の商法」と揶揄されることもあった。

士族を職につかせ、生活の救済を図る士族授産、屯田兵制度による北海道開発など政府による救済措置も行われた。西郷隆盛が唱えた征韓論には失業士族の救済、という側面もあったが、西郷は政争に破れ下野する。

廃刀令以降、1877年の薩摩士族の反乱である西南戦争まで、各地で新政府の政策に不平を唱える士族反乱が起こった。また、初期の自由民権運動は不平士族が中心になっていた(士族民権ともいわれる)。

履歴書や紳士録の類には士族という記載が残り(「○○県士族」)、幾分か名誉的な意味は持ち、家柄を誇る風潮も残った。戸籍の族籍記載は1914年(大正3)に撤廃され、第二次世界大戦後の戸籍法改正で公文書から完全に消滅した。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


nice!(0) 

nice! 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。