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西南戦争(1) [歴史]

 

西南戦争(1)

西南戦争(せいなんせんそう)とは、1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。

丁丑の乱・十年戦争・私学校戦争・西南の役(せいなんのえき)とも呼ばれ、明治初期の一連の士族反乱のうち最大規模のもので、日本最後の内戦となった。

目次

1 経過

1.1 遠因(明治六年政変)
1.2 近因(私学校と士族反乱)
1.3 薩軍の結成と出発
1.4 征討軍派遣
1.5 熊本城強襲と小倉電撃作戦
1.6 薩軍主力北部進出と長囲策
1.6.1 高瀬付近の戦い
1.6.2 田原坂・吉次峠の戦い
1.6.3 植木・木留の戦い
1.6.4 鳥巣方面
1.7 薩軍の長囲策の破綻と官軍衝背軍の上陸
1.7.1 熊本城長囲
1.7.2 鎮台兵の出撃
1.7.3 衝背軍上陸
1.7.4 小川方面の戦い
1.7.5 松橋付近の戦い
1.7.6 宇土・堅志田・緑川の戦い
1.7.7 御船の戦い
1.7.8 衝背軍の熊本入城
1.7.9 薩軍の八代急襲
1.8 城東会戦
1.9 薩軍の三州盤踞策と人吉攻防戦
1.9.1 神瀬方面
1.9.2 万江方面
1.9.3 大野方面
1.9.4 人吉攻防戦
1.10 大口方面の戦い
1.11 鹿児島方面の戦い
1.11.1 城山・重富・紫原の戦い
1.11.2 官軍主力の鹿児島連絡
1.12 都城方面の戦い
1.12.1 恒吉方面
1.12.2 踊方面
1.12.3 福山方面
1.12.4 高原方面
1.12.5 財部・庄内・通山・末吉方面
1.13 豊後・美々津・延岡方面の戦い
1.13.1 三田井・豊後・日向方面
1.13.2 豊後方面
1.13.3 野尻方面
1.13.4 宮崎方面
1.13.5 米良方面
1.13.6 美々津方面
1.13.7 延岡方面
1.14 可愛岳突囲
1.15 山岳部踏破と帰薩
1.16 城山籠城戦

2 エピソード

2.1 西郷南洲と十年役
2.2 西郷先生の徳
2.3 熊本籠城中の惨状
2.4 薩軍の敵丸収集
2.5 古番峠
2.6 起死回生
2.7 猪俣勝三
2.8 薩軍困苦を極む
2.9 牙営に三味線と婦人の駒下駄

3 官軍の編成

4 参考文献

1 経過

1-1遠因(明治六年政変)

明治6年(1873年)6月以来の閣議で議論された朝鮮問題は、8月17日に西郷隆盛を大使として派遣する(遣韓大使論。征韓論を参照)ことに決定し、明治天皇に上奏したが、明治天皇から、「岩倉具視の帰朝を待って、岩倉と熟議して奏上せよ」との勅旨があったので、発表は岩倉帰国まで待つことになった。

しかし、岩倉が帰朝した後は、西郷を遣韓大使として派遣することに反対する木戸孝允・大久保利通らの内治優先論が出てきた。

9月15日の再閣議で西郷を派遣することに決定したが、これに反対する木戸孝允・大久保利通・大隈重信・大木喬任らの参議が辞表を提出し、右大臣岩倉も辞意を表明する事態に至った。

これを憂慮した太政大臣三条実美は18日夜、急病になり、岩倉が太政大臣代行になった。そこで、西郷隆盛・板垣退助・副島種臣・江藤新平は岩倉邸を訪ねて、閣議決定の上奏裁可を求めたが、岩倉は了承しなかった。

9月23日、西郷が大将兼参議・近衛都督を辞し、位階も返上すると上表したのに対し、すでに宮中工作を終えていた岩倉は、閣議の決定とは別に西郷派遣延期の意見書を天皇に提出した。

翌24日に天皇が岩倉の意見を入れ、西郷派遣を無期延期するとの裁可を出したので、西郷は辞職した。このとき、西郷の参議・近衛都督辞職は許可されたが、大将辞職と位階の返上は許されなかった。

翌25日になると、板垣退助・副島種臣・後藤象二郎・江藤新平らの参議も辞職した。この一連の辞職に同調して、征韓派・遣韓大使派の林有造・桐野利秋・篠原国幹・淵辺群平・別府晋介・河野主一郎・辺見十郎太をはじめとする政治家・軍人・官僚600名余が次々に大量に辞任した。

この後も辞職が続き、遅れて帰国した村田新八・池上四郎らもまた辞任した(明治六年政変)。

もともと西郷は明治天皇より「韓国問題は西郷に一任する」という内旨を承っていた。これに感動した西郷は終始外征問題に専念し、下野した後も外征への情熱は衰えることはなかった。したがって、この当時西郷に内乱を企てようとする気配は全くなく、よって遣韓大使問題(征韓論)の決裂は西南戦争の遠因とは言い得ても、最大の要因とすることには疑問を抱かざるを得ない。

1-2 近因(私学校と士族反乱)

下野した西郷は明治7年(1874年)、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設した。

その目的は、西郷と共に下野した不平士族たちを統率するためと、県下の若者を教育するためであったが、外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州へ遊学させる等、積極的に西欧文化を取り入れてるという点から、外征を行うための強固な軍隊を創造することが目的であった。

やがてこの私学校はその与党も含め、県令大山綱良の協力のもとで県政の大部分を握る大勢力へと成長していった。

一方、近代化を進める中央政府は明治9年(1876年)3月8日に廃刀令、同年8月5日に金禄公債証書発行条例を発布した。この2つは帯刀・禄の支給という旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせた。

これが契機となり、明治9年(1876年)10月24日に熊本県で「神風連の乱」、27日に福岡県で「秋月の乱」、28日に山口県で前原一誠による「萩の乱」が起こった。

鰻温泉にいた西郷はこれらの乱の報告を聞き、11月、桂久武に対し書簡を出した。この書簡には士族の反乱を愉快に思う西郷の心情の外に「起つと決した時には天下を驚かす」との意も書かれていた。

ただ、書簡中では若殿輩(わかとのばら)が逸(はや)らないようにこの鰻温泉を動かないとも記しているので、この「立つと決する」は内乱よりは当時西郷が最も心配していた対ロシアのための防御・外征を意味していた可能性が高い。とはいえ、西郷の真意は今以て憶測の域内にある。

一方、私学校設立以来、政府は彼らの威を恐れ、早期の対策を行ってこなかったが、私学校党による県政の掌握が進むにつれて、私学校に対する曲解も本格化してきた。

この曲解とは、私学校を政府への反乱を企てる志士を養成する機関だとする見解である。そしてついに、明治9年(1876年)内務卿大久保利通は、内閣顧問木戸孝充を中心とする長州派の猛烈な提案に押し切られ、鹿児島県政改革案を受諾した。

この時、大久保は外に私学校、内に長州派という非常に苦しい立場に立たされていた。この改革案は県令大山の反対と地方の乱の発生により、その大部分が実行不可能となった。

しかし、実際に実行された対鹿児島策もあった。その1つが明治9年(1876年)1月、私学校の内部偵察と離間工作のため中原尚雄以下24名の警吏を帰郷するという名目の下、鹿児島へと派遣したことである。

これに対し、私学校徒達は中原尚雄等の大量帰郷を不審に思い、その目的を聞き出すべく警戒していた。

1月29日、政府は鹿児島県にある武器・弾薬を大阪へ移すために、赤龍丸への搬出を秘密裏に行った。

鹿児島の火薬庫にあった火薬・弾丸・武器・製造機械類は旧薩摩藩時代に藩士が醵出した金で造ったり購入したりしたもので、一朝事があって必要な場合、藩士やその子孫が使用するものであると考えていた私学校徒は、この秘密裏の搬出に怒り、夜、草牟田火薬庫を襲って、弾丸・武器類を奪取した。この夜以後、連日、各地の火薬庫が襲撃され、俗にいう「弾薬掠奪事件」が起きた。

一方、1月30日、私学校幹部篠原国幹・河野主一郎・高木七之丞ら七名は会合し、谷口登太に中原尚雄ら警視庁帰藩組の内偵を依頼し、同日暮、谷口報告により中原の西郷暗殺計画を聞いた。

篠原国幹・淵辺群平・池上四郎・河野主一郎ら私学校幹部は善後策を話し合い、小根占で猟をしていた西郷隆盛のもとに西郷小兵衛を派遣した。

また、弾薬掠奪事件を聞き、吉田村から鹿児島へ帰ってきた桐野利秋は篠原国幹らと談合し、2月2日に辺見十郎太ら3名を小根占へ派遣した。

かくして四弟小兵衛と辺見から西郷暗殺計画と弾薬掠奪事件を聞いた西郷は、これに対処するために鹿児島へ帰った。帰る途中、西郷を守るために各地から私学校徒が馳せ参じ、鹿児島へ着いたときには相当の人数にのぼった。

1-3 薩軍の結成と出発

私学校党は2月3日、中原尚雄ら60余名を一斉に捕縛し、以後、苛烈な取調べがおこなわれた。その最中の2月4日夜、小根占から帰った西郷は幹部たちを従え、旧厩跡にあった私学校本校に入った。

翌5日、私学校幹部及び137分校長ら200余名が集合して大評議がおこなわれ、今後の方針が話し合われた。別府晋介と辺見十郎太は問罪の師を起こすべしと主張したが、永山弥一郎は西郷・桐野・篠原・村田ら数名が上京して政府を詰問すべしと主張した。永山策には山野田一輔・河野主一郎が同調した。

しかし、池上四郎が上京途中の危険を説いて反対した。そこで村田三介は寡兵随従策を、野村忍介は自分が寡兵を率いて海路で小浜に出で、天皇に上奏する策を主張した。

こうして諸策百出して紛糾した。最後に桐野が「断の一字あるのみ、…旗鼓堂々総出兵の外に採るべき途なし」と断案し、全軍出兵論が満座の賛成を得た。永山はこの後も出兵に賛成しなかったが、桐野の説得で後日従軍を承知した。

2月6日、私学校本校に「薩摩本営」の門標が出され、従軍者名簿の登録が始まった。この日、西郷を中心に作戦会議が開かれ、西郷小兵衛の海路から長崎を奪い、そこから二軍に分かれて神戸・大阪と横浜・東京の本拠を急襲する策、野村忍介の海路で長崎に出、そこから東上、豊前・豊後から四国・大坂に出、そこから東上、熊本・佐賀・福岡を経ての陸路東上の三道分進論が出されたが、小兵衛・野村の策は3隻の汽船のみで軍艦を持たない薩軍にとっては成功を期し難く、池上四郎の熊本城に抑えをおき、主力北上論に決せられた(『新編西南戦史』等では池上策が採られたとされているのでそれに従ったが、川尻軍議で池上の主力北上・一部抑え策と篠原の全軍強襲策が対立し、後者に決していることから推せば、この時の結論はむしろ漫然とした陸路東上策であった可能性が高い。川尻で先着した別府晋介に熊本隊の池辺吉十郎が策を尋ねた時に、別府が策は無しと答えたことがこれを証する)。

2月8日に部隊の編成が開始された。2月9日、西郷の縁戚川村純義中将が軍艦に乗って西郷に面会に来たが、会うことができず、県令大山綱良と鹿児島湾内の艦船上で会見した。

このときに大山がすでに私学校党が東上したと伝えたため、川村は西郷と談合することをあきらめて帰途につき、長崎に電報を打って警戒させた。

一方、鹿児島では、2月9日に県庁に自首してきた野村綱から、「大久保から鹿児島県内の偵察を依頼されてきた」という内容の自供を得て、西郷暗殺計画には大久保も関与していたと考えるに至った。

薩軍では篠原国幹が編成の責任者となり、桐野利秋が軍需品の収集調達、村田新八が兵器の調達整理、永山弥一郎が新兵教練、池上四郎が募兵をそれぞれ担当し、12日頃に一応の準備が整えられた。

募兵、新兵教練を終えた薩軍では2月13日、次のように大隊編成がなされた(隊長の正式名称は指揮長。一般に大隊長とも呼ばれた。副長役は各大隊の一番小隊隊長がつとめた)。

一番大隊 ─ 指揮長篠原国幹、一番小隊隊長西郷小兵衛
二番大隊 ─ 指揮長村田新八、一番小隊隊長松永清之丞
三番大隊 ─ 指揮長永山弥一郎、一番小隊隊長辺見十郎太
四番大隊 ─ 指揮長桐野利秋、一番小隊隊長堀新次郎
五番大隊 ─ 指揮長池上四郎、一番小隊隊長河野主一郎
六番・七番連合大隊 ─ 指揮長別府晋介 
六番大隊 ─  指揮長越山休蔵、大隊監軍柚木彦四郎
七番大隊 ─  指揮長児玉強之助

いずれの大隊も10箇小隊、各小隊約200名で、計約2,000名からなっていたが、加治木外4郷から募兵し、後に六番・七番大隊と呼ばれた連合大隊は2大隊合計の総員約1600名で、他の大隊に比べ人員も少なく装備も劣っていた。この外、本営附護衛隊長には淵辺群平がなり、狙撃隊を率いて西郷を護衛することになった。

2月14日、私学校本校横の練兵場(旧厩跡にあった私学校横の旧牧場。『新編西南戦史』『翔ぶが如く』など、閲兵がおこなわれた練兵場を伊敷練兵場としているものが多いが、いずれも誤りである。

「西南戦争における薩軍出陣の「練兵場」について」)で騎乗した西郷による大隊の閲兵式が行われた。翌15日、50年ぶりといわれる大雪の中、薩軍の一番大隊が鹿児島から熊本方面へ先発した(西南戦争開始)。17日には西郷も鹿児島を出発し、加治木・人吉を経て熊本へ向かった。

一方、鹿児島から帰京した川村純義中将から薩軍の問罪出兵の報を得た政府は2月19日、鹿児島県逆徒征討の詔を発し、正式に薩軍への出兵を決定した。

(つづく)


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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西南戦争(2) [歴史]

 

西南戦争(2)

1-4 征討軍派遣

薩軍が熊本城下に着かないうちにすでに政府側は征討の詔を出し、薩軍の邀撃(ようげき)に動き出していた。薩軍が鹿児島を発したのが2月15日で、熊本城を包囲したのが2月21日。

対して政府が征討の勅を出したのが2月19日であった。つまり薩軍が動き出してわずか4日で、熊本城を包囲する2日前だった。

このことから明治政府の対応の速さの背景には電信などの近代的な通信網がすでに張り巡らされていたことがわかる。明治政府は有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督(総司令官)に任じ、実質的総司令官になる参軍(副司令官)には山県有朋陸軍中将と川村純義海軍中将を任命した。

これは、カリスマ的指導者である西郷に対抗して権威のある貴種を旗印として用いるためと、どちらか一方を総司令官にせずに、同じ中将の2人を副官に据えることで、陸軍と海軍の勢力争いを回避するためであった。

また薩摩・長州の均衡をとる、西郷の縁戚である川村を加えることで薩摩出身者の動揺を防ぐ等の意も含まれていた。当初、第一旅団(野津鎮雄少将)・第二旅団(三好重臣少将)・別働第一旅団(高島鞆之助大佐)・別働第二旅団(山田顕義少将)の外に川路利良少将兼警視庁大警視が率いる警視隊(後に別働第三旅団の主力)などが出動し、順次、他の旅団も出動した。

中でも臨時徴募巡査で編成された新撰旅団は士族が中心の旅団で、その名称から新撰組が再編成されたと驚いた薩兵がいたそうだ。

1-5 熊本城強襲と小倉電撃作戦

2月19日、熊本鎮台が守る熊本城内で火災が起こり、烈風の中、火は楼櫓に延焼し、天守閣までも消失した。この火災の原因は今もって不明である。

2月20日、別府晋介率いる第一大隊が川尻に到着し、熊本鎮台偵察隊と衝突した。相次いで大隊が川尻に到着した21日の夜に川尻で薩軍の軍議が開かれた。

軍議では池上四郎が主張する「熊本に抑えを置き、主力北上」策と篠原国幹らが主張する「全軍による熊本城強襲」策が対立したが、強襲策が採用され、2月22日早朝から順次大隊は熊本に向けて発し、熊本城を包囲強襲した。

桐野利秋の第四大隊・池上四郎の第五大隊は正面攻撃、篠原国幹の第一大隊・村田新八の第二大隊・別府晋介の加治木の大隊、及び永山弥一郎の第三大隊の一部は背面攻撃を担当した。

一方、官軍は谷干城少将を熊本鎮台司令長官、樺山資紀中佐を参謀長として、熊本城を中心に守備兵を配置した。この時の戦力比は薩軍約14000人に対して、鎮台軍約4000人であった。

古来、攻城側は守城側の10倍は必要とされていることからすれば、いかに剽悍な薩摩兵とはいえ、1対3での包囲強襲は無謀な作戦ということができよう。この強襲中の昼過ぎ、遅れて西郷が川尻から代継宮に到着した。

同日午後、薩軍は官軍一部の植木進出を聞き、午後3時に村田三介・伊東直二の小隊が植木に派遣され、夕刻、伊東隊の岩切正九郎が第十四連隊(乃木希典少佐)の軍旗を分捕った。

一方、総攻撃した熊本城は堅城で、この日の状況から簡単には攻め落とせないとみなされた。夜、本荘に本営を移し、ここでの軍議でもめているうちに、官軍の第一・二旅団は本格的に南下し始めた。

この軍議では、一旦は篠原らの強襲策に決したが、遅れて到着した西郷小兵衛や野村忍介の強い反対があり、深夜に開かれた再軍議で熊本城を長囲し、一部は小倉を電撃すべしと決した。

翌23日に池上四郎が村田・深見らの小隊を率いて小倉へ向けて出発したが、途中で激戦の銃声を聞いて池上は田原に転進し、村田三介の小隊だけが小倉方面へ進んだ。しかし、この小隊も植木で官軍と遭遇し、小倉電撃作戦は失敗した。

1-6薩軍主力北部進出と長囲策

薩軍は少ない大砲と装備の劣った小銃で、堅城に籠もり、優勢な大砲・小銃と豊富な弾薬を有する鎮台を攻めるなど無謀この上もない作戦を採用した。

したがって2月21日から24日に至る薩軍の攻撃は悉く失敗しただけでなく、剽悍な士の多くがこの攻城戦で消耗して、24日以後は両軍の対峙状態に陥った。

そこで、薩軍は南下してくる官軍、また上陸してくると予想される官軍、熊本鎮台に対処するために、熊本城強襲策を変更して長囲策に転じ、諸将を次のように配置した。

邀撃軍(官軍の南下阻止)
桐野利秋 ─ 山鹿方面
篠原国幹 ─ 田原方面
村田新八・別府晋介 ─ 木留方面
長囲軍
池上四郎(16箇小隊・2箇砲隊)
海岸守備隊(官軍の上陸展開阻止)
永山弥一郎(三番大隊の主力)
熊本隊(案内・偵察)

植木方面、木留・吉次方面、鳥巣方面、熊本方面では引き続き官軍と薩軍の攻防戦が繰り広げられ、2月20日~27日には熊本方面、3月1日~31日には田原・吉次方面、3月10日~4月15日には鳥巣方面、3月4日~4月15日には植木・木留方面で激しい戦闘が行われた。

なお、この間および後に薩軍に荷担した九州諸県の各隊は、貴島隊(隊長貴島清、薩摩新募の1箇大隊約2,000名)を除けば、大約以下の通りである。

党薩諸隊 ( )内は主な隊長・指揮者
熊本隊(池辺吉十郎) ─ 約1,500名
協同隊(平川惟一・宮崎八郎) ─ 約300名
滝口隊(中津大四郎) ─ 約200名
飫肥隊(伊東直記・川崎新五郎) ─ 約800名
佐土原隊(島津啓次郎・鮫島元) ─ 約400名
人吉隊(黒田等久麿・村田量平) ─ 約150名
都城隊(龍岡資時・東胤正) ─ 約250名
報国隊(堀田政一) ─ 約120名
高鍋隊(石井習吉・坂田諸潔) ─ 約1,120名
中津隊(増田宋太郎) ─ 約150名
延岡隊(大島景保) ─ 約1,000名

1-6-1 高瀬付近の戦い

2月24日、第一旅団(野津鎭雄少将)と第二旅団(三好重臣少将)は相次いで南下中であった。久留米で木葉の敗戦報告を聞いた両旅団長は南下を急ぐ一方、三池街道に一部部隊を分遣した。

第十四連隊(乃木希典少佐)は石貫に進む一方で高瀬方面へ捜索を出した。25日、第十四連隊は山鹿街道と高瀬道に分かれて進撃した。山鹿方面では第三旅団の先鋒1箇中隊の増援を得て24日に転進して来た野村忍介の5箇小隊と対戦することになったが、高瀬道を進んだ部隊は薩軍と戦闘をすることもなく高瀬を占領した。

この時の薩軍の配置はほぼ以下のようになっていた。

山鹿 ─ 野村忍介(5箇小隊)
植木 ─ 越山休蔵(3箇小隊)、池辺吉十郎(熊本隊主力)
伊倉 ─ 岩切喜次郎・児玉強之助ら(3箇小隊)、佐々友房ら(熊本隊3箇小隊)

これに対し、官軍の征討旅団は順次南関に入って本営を設け、ただちに石貫に派兵し、岩崎原に増援を送った。

官軍が高瀬川の線に陣を構築するのを見た岩切らは高瀬川の橋梁から攻撃を仕掛け、熊本隊は渡河して迫間・岩崎原を攻撃した。しかし、岩切らは石貫東側台地からの瞰射に苦しみ、熊本隊は増援を得た第十四連隊右翼に妨げられて、激戦対峙すること2時間、夜になって退却した。

2月26日、越山の3箇小隊は官軍の高瀬進出に対し、山部田と城の下の間に邀線を敷き、佐々らの熊本隊3箇小隊及び岩切・児玉らの3箇小隊は寺田と立山の間に邀線を敷いて高瀬前進を阻止しようとした。

池辺の熊本隊主力は佐々らの部隊が苦戦中という誤報を得て寺田に進んだ。山鹿の野村の部隊は進撃を準備していた。この時、桐野・篠原・村田・別府らが率いる薩軍主力は大窪(熊本市北)に集結中だった。

薩軍主力は大窪で左・中・右3翼に分かれ、次の方向から高瀬及び高瀬に進撃しつつある官軍を挟撃する計画でいた。

右翼隊(山鹿方面) ─ 桐野利秋(3箇小隊約600名)
中央隊(植木・木葉方面) ─ 篠原国幹・別府晋介(6箇小隊約1,200名)
左翼隊(吉次・伊倉方面) ─ 村田新八(5箇小隊約1,000名)

これに対し官軍は、薩軍主力の北進を知らず、前面の薩軍が未だ優勢でないとの判断にもとづき、次のように部署を定めた。

第一陣

前駆 ─ 乃木希典少佐(4箇中隊)
中軍 ─ 迫田大尉(2箇中隊)
後軍 ─ 大迫大尉・知識大尉(2箇中隊)

第二陣

予備隊 ─ 長谷川中佐(4箇中隊)
山鹿方面守備隊 ─ 津下少佐(3箇中隊)
応援(総予備隊) ─ (2箇中隊、1箇大隊右半隊)

薩軍の右翼隊は未明、山鹿から菊池川に沿って南下し、玉名付近の官軍左翼を攻撃し、中央隊は田原坂を越え、木葉で官軍捜索隊と遭遇戦になり、左翼隊は吉次峠・原倉と進み、ここから右縦隊は高瀬橋に、左縦隊は伊倉・大浜を経て岩崎原に進出した。

官軍は捜索隊の報告と各地からの急報で初めて薩軍の大挙来襲を知り、各地に増援隊を派遣するとともに三好重臣旅団長自ら迫間に進出した。官薩両軍の戦いは激しく、三好重臣少将が銃創を負ったほどの銃砲撃戦・接戦がおこなわれた。

午前10時頃、桐野利秋率いる右翼隊は迂回して石貫にある官軍の背後連絡線を攻撃した。この時に第二旅団本営にたまたま居合わせた野津道貫大佐(弟)は旅団幹部と謀って増援を送るとともに、稲荷山の確保を命じた。

この山を占領した官軍は何度も奪取を試みる薩軍右翼隊を瞰射して退けた。次いで、南下してきた野津鎭雄少将(兄)の兵が右翼隊の右側面を衝いたので、猛将桐野の率いる右翼隊も堪らず、江田方面に退いた。稲荷山は低丘陵であるが、この地域の要衝であったので、ここをめぐる争奪戦は西南戦争の天目山ともいわれている(余談、NHKの「その時歴史は動いた」でも取り上げられた)。

右翼隊の左縦隊は官軍を岩崎原から葛原山に退けたが、中央隊は弾薬不足で退却した。この機に援軍を得た官軍中央諸隊は反撃に出た。薩軍も敵前渡河を強行したりして高瀬奪回を試みたが官軍の増援に押され、日没もせまったので、大浜方面へ退却した。官軍も疲労で追撃する余裕が無かった。この方面の戦闘は激戦で西郷小兵衛以下、薩軍諸将が戦死した。

1-6-2 田原坂・吉次峠の戦い

3月1日から3月31日まで、現在の熊本県鹿本郡植木町大字豊岡で田原坂・吉次峠の激戦が繰り広げられた。春先で冷え込みが酷く、雨も降る厳しい状況の中で戦いは始まった。

官軍は田原坂防衛線突破のため、3月11日、軍を主力と別働隊に分けた。主力は田原坂・吉次峠の突破のために、別働隊は山鹿の桐野利秋部隊の動きを封じ込むためにおかれた。

しかし、主力軍は地形を存分に利用した薩軍の激しい銃撃と、抜刀白兵戦に手も足も出ず、田原坂の正面突破を諦めて、西側から攻めて横平山(那智山)を奪うことにした。

白兵抜刀攻撃に対抗するため、官軍は士族出身の兵卒を選び抜刀隊を組織したが、討ち破られたため、3月13日、新たに警視抜刀隊を組織した。

3月14日、官軍は田原坂攻撃を開始したが、結局横平山を占領することはできなかった。しかし、警視抜刀隊が薩軍と対等に戦えることが分かり、有名な抜刀隊の歌が作られた。

官軍は3月15日、薩軍の守備を破り、ついに横平山(那智山)を占領した。この日に初めて官軍は、薩軍の防衛線に割って入ることに成功したのである。3月16日は、戦線整理のために休戦した。

3月17日、官軍は西側からと正面からの攻撃を開始した。しかし、地形を生かした薩軍にあと一歩及ばず、田原坂の防衛線を破ることは出来なかった。この間、3月4日からの官軍の戦死者は約2,000名、負傷者も2,000名にのぼった。

官軍主力隊本営では3月18日、野津鎮雄少将(第一旅団長)・三好重臣少将(第二旅団長)、参謀長野津道貫大佐、高瀬征討本営の大山巌少将などによって幕僚会議が開かれた。この会議は作戦立案と意思統一をするためにおこなわれた。

これまでの戦いの中で、官軍は多大な兵力を注ぎながらも、一向に戦果が挙がらず、兵力のみが費やされてきた。この原因として挙げられるのは、薩軍が優れた兵を保持していることと、地の利を生かして田原坂の防衛線を築いているためである。

現状を打開するには、いち早く田原坂の堅い防衛線突破する必要がある。しかし、兵の疲労を考慮し、19日は休養日として、20日早朝に二方面から総攻撃を決行する、と決めた。

20日早朝、官軍は開戦以来、最大の兵力を投入した。攻撃主力隊は豪雨と霧に紛れながら、二股から谷を越え、田原坂付近に接近した。そして雨の中、二股の横平山の砲兵陣地から田原坂一帯に未だかつてない大砲撃を開始した。

砲撃が止むと同時に薩軍の出張本営七本のみに攻撃目標を絞り、一斉に突撃した。薩軍は官軍の猛砲撃と、断続的に降り注ぐ雨のため応戦が遅れ、七本では状況が把握できないまま攻撃を受けざるを得なかった。

薩軍は防衛線を築いていながらも、突然の攻撃のため徐々に応戦できなくなり、植木方面に敗走した。官軍の攻撃を成功に導いたのは別働の吉次峠部隊の活躍が大きい。吉次峠部隊は、薩軍に対して牽制攻撃を仕掛けた。

これによって官軍主力は「田原坂突破」一本に的を絞ることが出来た。しかし、吉次峠部隊の被害は甚大で、駒井大尉をはじめ、この攻撃で多くの命が失われた。

官軍・薩軍の田原坂での攻防は17日間続いた。しかし、薩軍の健闘もむなしく、植木方面への敗走によって、田原坂の重厚な防衛線は破られた。

その後、官軍は田原坂を下って植木方面までの侵攻を試みたが、途中で薩軍の攻撃にあって中止となった。田原坂の戦いでは薩軍は敗北に終わったが、21日には早くも有明海・吉次峠・植木・隈府を結ぶ線に防衛陣地を築きあげた。そうすることによって官軍の熊本への道を遮断し、攻撃を遅らせようとした。

3月1日に始まった田原をめぐる戦い(田原坂・吉次峠)は、この戦争の分水嶺になった激戦で、薩軍では副司令格であった一番大隊指揮長篠原国幹をはじめ、勇猛の士が次々と戦死した。官軍も3月20日の戦死者だけで495名にのぼった。田原坂の激戦は官軍の小隊長30名のうち11名が命を落としたことからも窺うことができる。こうして多大な戦死者を出しながらも、官軍は田原坂の戦いで薩軍を圧倒し、着実に熊本鎮台救援の第一歩を踏み出した。

(つづく)


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西南戦争(3) [歴史]

 

西南戦争(3)

1-6-3 植木・木留の戦い

3月23日に官軍は植木・木留を攻撃し、一進一退の陣地戦に突入した。3月24日にも官軍は再び木留を攻撃し、3月25日には植木に柵塁を設け、攻撃の主力を木留に移した。3月30日、官軍主力は三ノ岳の熊本隊を攻撃し、4月1日には半高山、吉次峠を占領した。

4月2日、官軍は木留をも占領し、薩軍は辺田野に後退し、辺田野・木留の集落は炎上した。4月5日には官軍本営にて軍議が開かれた。4月8日、辺田野方面は激戦となり、官軍は萩迫の柿木台場を占領した。4月12日に薩軍は最後の反撃をしたが、4月15日、植木・木留・熊本方面より撤退し、城南方面へ退いた。これを追って官軍は大進撃を開始した。

1-6-4 鳥巣方面

鳥巣では、3月10日に薩軍がこの地の守備を始めてから4月15日に撤退するまでの間、官軍との間に熾烈な争いが繰り広げられた。まず3月30日の明け方に近衛鎮台の2隊が二手に分かれて隈府に攻め入ってきた。始めは人数不足で不利な状況だった薩軍であったが、そのうち伊東隊による応援もあり、どうにか官軍を敗退させることができた。

4月5日、第三旅団(三浦悟楼少将)は鳥巣に攻撃をしかけ、薩軍の平野隊と神宮司隊が守備している真ん中に攻め入った。虚をつかれた両隊はたちまち敗走した。

これを聞いた薩軍の野村忍介は植木にいた隊を引き連れて鳥巣に向かい、挽回しようと奮戦するが、結局、この日一日では決着はつかず、4月7日に官軍がこの地に一旦見切りをつけ、古閑を先に攻略しようとしたことにより、一時的に休戦状態になった。一方古閑では、平野隊・重久隊の必死の抗戦により官軍はやむなく撤退してしまった。

薩軍は勇戦し、4月9日、再び隈府に攻め入った官軍を撃退したが、弾丸・武器の不足によりこれ以上の戦闘を不可能と考え、赤星坂へ撤退した。4月10日から4月13日にかけて官軍による鳥巣の再攻略が始まり、薩軍もこれに対して勇ましく応戦したが、いよいよ武器がつきてしまったうえに、鳥巣撤退命令が下されため、この地をあとに大津に向かった。

1-7 薩軍の長囲策の破綻と官軍衝背軍の上陸

薩軍の主力が北部戦線に移った後も熊本城の長囲は続けられていたが、官軍衝背軍の上陸と熊本鎮台との連絡がついたことから長囲策は破綻し、戦線は熊本城の南部東部に移った。此の地でおこなわれた、いわゆる城東会戦の帰趨は、田原の敗戦にも劣らない打撃を薩軍に与えることになった。

1-7-1 熊本城長囲

城中の糧食が尽きるのを待って陥落させるという長囲策を採る薩軍が対砲戦を主としたので、守城側はそれに苦しんだ。3月12日、段山をめぐる両軍の争奪戦が起こった。

この争奪戦は13日まで続いた。霧の中、砲撃・銃撃を混じえた激戦は、霧がはれたときには双方の距離10数歩という接近戦であった。結局、段山の背後に出た鎮台側が薩軍を敗走させた。この戦いは官軍死傷者221名、薩軍死者73名捕虜4名という長囲戦最大の激戦であった。

薩軍主力が北方に転戦したため鎮台の守城負担は幾分減ったとはいえ、開戦前の出火で失った糧食の補充が充分でないため糧食不足に苦しみ、極力消費を抑えることで凌いでいた。

池上四郎率いる長囲軍は当初、21箇小隊・1個砲隊、計4,700名近くもいたが、長囲策が採られると16箇小隊・2箇砲隊に減少し、3月になって高瀬・山鹿・田原・植木等の北部戦線が激戦化するにつれ、増援部隊を激戦地に派遣してさらに減少した。そのために長囲軍は寡少の兵で巨大な熊本城を全面包囲することに苦しんだ。一方、鎮台側はこの機に乗じ、時々少量の糧食を城中に運び入れた。

長囲軍が減少した薩軍は、桐野が熊本隊の建策を入れて、3月26日、石塘堰止を実行し、坪井川・井芹川の水を城の周囲に引き込んだ。これによって熊本城の東北および西部の田畑は一大湖水に変じた。この策によって薩軍は城の東北及び西部を守る兵を数百名節約できたのであるが、鎮台にとっては城の西部を守る兵が節約できたので、さらに好都合であった。

1-7-2 鎮台兵の出撃

熊本鎮台の城外出撃は薩軍主力が北部戦線に移動した2月27日から始まった。この日、大迫尚敏大尉率いる偵察隊は坪井方面の威力偵察に出撃した。

3月26日、植木方面で銃声を聞くが征討軍が現れないので、後方攪乱部隊を3隊に分け、京町口・井芹村・本妙寺に出撃させた。これらの部隊は一時薩軍を走らせたものの、逆襲にあい、撤退した。

籠城が40日にもなり、糧食・弾薬が欠乏してきた鎮台は余力があるうちに征討軍との連絡を開こうとして、南方の川尻方面に出撃することにした。

隊を奥少佐率いる突囲隊、小川大尉率いる侵襲隊、及び予備隊の3つに分け、4月8日に出撃した。侵襲隊が安巳橋を急襲し、戦っている間に突囲隊は前進し、水前寺・中牟田・健軍・隈庄を経て宇土の衝背軍と連絡した。一方、侵襲隊は薩軍の混乱に乗じて九品寺にある米720表・小銃100挺などを奪って引き揚げた。

1-7-3 衝背軍上陸

官軍南下軍は2月の高瀬の戦い以来目立った成果を収めることができずにいた。そこで高島鞆之助大佐の建議により、熊本鎮台との連絡をとること、薩軍の鹿児島と熊本間の補給・連絡を遮断すること、薩軍を腹背から挟撃すること等の企図を持った軍が派遣されることになった。黒田清隆中将が参軍となり、この上陸衝背軍を指揮することにした。

最初の衝背軍は3月18日、長崎を出発して八代に向かった高島鞆之助大佐(後に少将)率いる別働第二旅団であった。この旅団は3月19日、艦砲射撃に援護されて日奈久南方の州口及び八代の背後に上陸し、薩軍を二面から攻撃して八代の占領に成功した。

20日には黒田参軍率いる1箇大隊半と警視隊500名余が日奈久に上陸した。薩軍では二番大隊一番小隊が日奈久、二番大隊五番小隊が松崎西南の亀崎、二番大隊六番小隊が熊本西北の白浜で海岸警備をしていたが、なんら効果的な防御ができなかった。

官軍の八代上陸の報を得た薩軍は、熊本長囲軍の一部を割き、三番大隊指揮長永山弥一郎率いる5箇中隊・都城隊・二番砲隊を八代に派遣した。3月20日、薩軍先遣隊と高島大佐率いる官軍は氷川を挟んで激戦し、薩軍は対岸に進出した。

しかし、翌21日には増援を得た官軍が押し返し、薩軍を砂川に退却させた。22日、黒田参軍は八代から宮の原に出、ここで薩軍と激戦した。増援を得た薩軍と官軍の戦闘は24、25日と続き、戦況は一進一退した。

3月24日、長崎を出発した別働第二旅団(山田顕義少将)・別働第三旅団(川路利良少将)は25日午後、八代に上陸した。このとき一旦各旅団の名称が改められたが、後29日に再び改称されて次のようになった。

高島鞆之助大佐の旅団 ─ 別働第一旅団
山田顕義少将の旅団 ─ 別働第二旅団
川路利良少将の旅団 ─ 別働第三旅団(警視隊を主体として編成)

1-7-4 小川方面の戦い

3月26日、黒田清隆参軍は別働第一旅団を左翼、別働第二旅団を中央、警視隊を右翼に配し、艦砲射撃の援護のもと三方から小川方面の薩軍を攻撃し、激戦の末、薩軍を撃退して小川を占領した。

この時、薩軍の猛将永山弥一郎は「諸君何ぞ斯(かく)の如く怯なる、若し敵をして此地を奪はしめんか、熊本城外の我守兵を如何にせん、大事之に因て去らんのみ、生きて善士と称し、死して忠臣と称せらるゝは唯此時にあり、各死力を尽し刀折れ矢竭(つ)き而して後已(やまん)」(『薩南血涙史』)と激励したが、戦況を逆転することはできなかった。

1-7-5 松橋付近の戦い

3月30日、黒田清隆参軍は別働第三旅団に娑婆神嶺、別働第一旅団・別働第二旅団に松橋を攻撃させた。別働第三旅団は娑婆神嶺を占領、別働第一旅団と別働第二旅団は大野川の線まで前進した。

翌日、別働第二、第三旅団は山背と本道の両面から松橋を攻撃し、別働第一旅団は北豊崎から御船に進み、薩軍の右側を攻撃した。これに耐えきれず、薩軍が川尻に後退したので、松橋を占領した。

1-7-6 宇土・堅志田・緑川の戦い

4月1日、別働第一旅団が薩軍夜襲隊を追撃して宇土を占領した。また別働第三旅団は甲佐に退却した薩軍を追撃して堅志田を占領した。3日、早朝の霧に乗じた薩軍の急襲を別働第三旅団は激闘5時間の末、これを退け、追撃して緑川を越えて薩軍の側背を衝き、進んで甲佐を占領した。

薩軍は悉く御船に退却した。6日、黒川通軌大佐率いる別働第四旅団が宇土戸口浦に上陸した。7日には緑川左岸に進出している薩軍を別働第二旅団が別働第一、第四旅団の援護を得て右岸に押し返した。また第二、第四旅団は木原山急襲の薩軍を挟撃して川尻に敗走させた。

1-7-7 御船の戦い

黒田清隆参軍は衝背軍を部署し、次の方面への一斉進撃を企図した。

別働第三旅団 ─ 甲佐・御船・吉野
別働第一旅団 ─ 隈庄・鯰村・上島
別働第一、二旅団の一部 ─ 上記旅団の予備隊 
別働第二旅団 ─ 緑川下流・川尻
別働第四旅団 ─ 同上

4月12日、別働第三、第一旅団は一斉に攻撃を開始した。別働第一旅団は宮地を発して緑川を渡り、薩軍を攻撃した。薩軍は敗戦続きに気勢揚がらず、民家に放火して退却した。

この時、負傷を推して二本木本営から人力車で駆けつけた永山弥一郎は酒樽に腰掛け、敗走する薩軍兵士を叱咤激励していたが、挽回不能と見て、民家を買い取り、火を放ち、従容として切腹した。かくして御船は官軍に占領された。

同12日、別働第二旅団は新川堤で薩軍の猛射に阻まれ、第四旅団も進撃を阻止された。翌13日、別働第二旅団と別働第四旅団は連繋しながら川尻目指して進撃した。

別働第四旅団の一部が学科新田を攻撃して薩軍を牽制している間に、主力が緑川を渡り、薩軍と激戦しながら川尻へと進んだ。川尻に向かった別働第四旅団と第二旅団は両面から薩軍を攻撃して退け、遂に川尻を占領した。

1-7-8 衝背軍の熊本入城

4月13日、別働第二旅団の山川浩中佐は緑川の中洲にいたが、友軍の川尻突入を見て、機逸すべからずと考え、兵を分けて、自ら撰抜隊を率いて熊本城目指して突入し、遂に城下に達した。城中皆蘇生した思いで喜んだが、後に山川大佐は作戦を無視した独断専行を譴責されたといわれる。

1-7-9 薩軍の八代急襲

このころ、薩軍は田原方面での戦闘の激化に伴って兵力が不足してきたため、桐野利秋の命で淵辺群平・別府晋介・辺見十郎太らが鹿児島に戻って新たな兵力の徴収にあたった。

3月25、26日の両日で1500名ほどを徴兵したものの、官軍が八代に上陸し、宇土から川尻へと迫っていたため、この兵力は熊本にいる薩軍との合流ができなかった。よって、この部隊は人吉から下って、八代から熊本へ進軍中の官軍を背後から攻撃し、退路を断って孤立させるという作戦の元に動くことになった。

4月4日、人吉から球磨川に沿い、或いは舟で下って八代南郊に出た薩軍は、まず坂本村の官軍を攻撃して敗走させたのを皮切りとして、5、6日と勝利を収め、八代に迫ったが、7、8日の官軍の反撃によって八代に至ることができず、再び坂本付近まで押し戻された。

4月11日、再び薩軍は八代を攻撃。疲労もあって官軍が一時敗退したが、13日に官軍に援軍が投入され、薩軍・官軍ともに引かず、4月17日までこの状態が続いた。17日、一箇大隊に薩軍の右翼をつかせる作戦が成功して官軍が有利となり、薩軍は敗走した。この間の萩原堤での戦いのとき協同隊の宮崎八郎が戦死し、別府晋介が足に重傷を負った。

1-8 城東会戦

桐野利秋は4月14日、熊本隊大隊長池辺吉十郎の建議により、二本木の本営を木山に移した。同時に鹿子木の中島健彦、鳥巣の野村忍介に急使を送って川尻の敗戦を報せ、適宜兵を木山に引き揚げるように伝えた。

薩軍諸隊が熊本城・植木から逐次撤退してきた4月17日、桐野らは本営木山を中心に、右翼は大津・長嶺・保田窪・健軍、左翼は御船に亘る20㎞余りの新たな防衛線を築き、ここで南下する官軍を迎え撃ち、官軍を全滅させる作戦をとることにした。

この時に薩軍が本営の木山(益城町)を囲む形で肥後平野の北から南に部署した諸隊は以下のような配置をしていた(計約8,000名)。

大津 ─ 野村忍介指揮諸隊
長嶺 ─ 貴島清指揮貴島隊及び薩軍6箇中隊
保田窪─ 中島健彦指揮5箇中隊及び福島隊
健軍 ─ 河野圭一郎指揮5箇中隊及び延岡隊(約750名)
木山 ─ 薩軍本営
御船 ─ 坂元仲平指揮20箇中隊(計約1,300名)

対する官軍も、山県参軍らが熊本城でおこなった軍議で各旅団を次のように部署した
(計約30,000名)。

片川瀬 ─ 第三旅団
竹迫  ─ 第一旅団
立田山 ─ 別働第五旅団
熊本城東部 ─ 熊本鎮台
熊本城 ─ 第四旅団(予備軍として)
川尻  ─ 別動第一旅団
隈庄  ─ 別動第二旅団
堅志田 ─ 別動第三旅団
八代  ─ 別動第四旅団

坂元仲平指揮の諸隊は熊本に入った官軍と入れ替わる形で御船を占領していた。4月17日、引き返してきた別働第三旅団は御船を攻めた。坂元の諸隊はこの攻撃は退けたが、それに続く別働第一・第二・第三旅団の西・南・東からの包囲攻撃には堪えきれず、御船から敗れ去った。

4月19日、熊本鎮台・別働第五旅団・別働第二旅団は連繋して健宮地区の延岡隊を攻めた。延岡隊は京塚を守って健闘したが、弾薬が尽きたので後線に退き、替わって河野主一郎の中隊が逆襲して官軍を撃破した。

官軍は別働第一旅団からの援軍を得たが、苦戦をいかんともすることはできなかった。官軍はさらに援軍を仰いでやっとのことで薩軍の2塁を奪ったが、薩軍優位のまま日没になった。

別働第五旅団の主力は4月20日、保田窪地区の薩軍を攻めた。午後3時には猛烈な火力を集中して薩軍の先陣を突破して後陣に迫ったが、中島健彦が指揮する薩軍の逆襲で左翼部隊が総崩れとなった。

腹背に攻撃を受けた官軍は漸く包囲を脱して後退した。のの結果、別働第五旅団と熊本鎮台の連絡は夜になっても絶たれたままであった。

長嶺地区の貴島清は抜刀隊を率いて勇進し、別働第五旅団の左翼を突破して熊本城へ突入する勢いを見せた。熊本城にいた山県有朋参軍は品川大書記官からの官軍苦戦の報告と大山巌少将からの薩軍熊本突出の虞れがあるとの報告を聞き、急遽熊本城にあった予備隊第四旅団を戦線に投入した。

第一・第二・第三旅団は連繋して4月20日黎明、大津街道に進撃したが、野村忍介指揮諸隊は奮戦して防ぎ、そのまま日没に及んだ。

夜半、薩軍が退却したので、翌21日早朝、第一・第二旅団は大津に進入し、次いで薩軍を追撃して戸嶋・道明・小谷から木山に向かい、小戦を重ねて木山に進出した。この後、第三旅団は大津に本営を移した。

このように両軍の衝突は4月19、20日に官軍が薩軍に攻撃を仕掛けたことから始まり、戦いは一挙に熊本平野全域に及んだ。この「城東会戦」では、薩軍は左翼では敗れたものの、右翼の大津・長嶺・保田窪・健軍では終始優勢な状況にあった。

しかし、左翼の御船を占領した官軍は薩軍本営の木山へ攻め入ろうとしていた。これに対し桐野利秋は木山を死所に決戦をする気でいた。しかし、野村忍介・池辺吉十郎の必死の説得で翻意し、本営の移転と矢部浜町への撤退を決め、自ら薩軍退却の殿りをつとめた。

こうして本営が浜町に後退したために、優勢だった薩軍右翼各隊も後退せざるを得なくなり、関ヶ原の戦い以来最大の野外戦であった「城東会戦」はわずか一日の戦闘で決着がついた。

(つづく)

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西南戦争(4) [歴史]

 

西南戦争(4)

1-9 薩軍の三州盤踞策と人吉攻防戦

4月21日、薩軍は矢部浜町の軍議で、村田新八・池上四郎が大隊指揮長を辞め、本営附きとなって軍議に参画すること、全軍を中隊編制にすること、三州(薩摩国・大隅国・日向国)盤踞策をとること、人吉をその根拠地とすることなどを決めた。この時に決められた諸隊編成及び指揮長は以下の通りである。

奇兵隊 ─ 指揮長野村忍介
振武隊 ─ 指揮長中島健彦
行進隊 ─ 指揮長相良長良
雷撃隊 ─ 指揮長辺見十郎太
干城隊 ─ 指揮長阿多壮五郎
常山隊 ─ 指揮長平野正助
正義隊 ─ 指揮長河野主一郎
鵬翼隊 ─ 指揮長淵辺群平
勇義隊 ─ 指揮長中山盛高

この後即日、薩軍は全軍を二手に分けて椎原越えで人吉盆地へ退却した。

4月27日、人吉盆地に入った薩軍は本営を人吉に置いた。4月28日に江代に着いた桐野利秋はここに出張本営を置き軍議を開いた。江代軍議で決められたのは、人吉に病院や弾薬製作所を設けること、各方面に諸隊を配置することなどで、逐次実行に移された。この時、桐野が人吉を中心に南北に両翼を張る形で薩軍を以下の通りに配置した。

薩軍諸隊配置(『薩南血涙史』に依る)
豊後口方面 ─ 指揮長野村忍介
鹿児島方面 ─ 指揮長中島健彦
同上 ─ 指揮長相良長良
大口方面 ─ 指揮長辺見十郎太
江代口方面 ─ 指揮長阿多壮五郎
中村・加久藤・綾方面 ─ 指揮長平野正助
神瀬・小林方面 ─ 指揮長河野主一郎
佐敷方面 ─ 指揮長淵辺群平
川内方面 ─ 指揮長中山盛高
高原口方面 ─ 指揮長堀与八郎

対する官軍の配置は以下の通りである。

官軍旅団配置
第一旅団(野津鎮雄少将) ─ 健軍・木山方面
第二旅団(三好重臣少将) ─ 砂取・川尻方面
第三旅団(三浦悟楼少将) ─ 高森方面
第四旅団(曾我祐準少将) ─ 鹿児島方面
別働第一旅団(高島鞆之助少将)─ 同上
別働第二旅団(山田顕義少将) ─ 南種山・五箇庄方面
別働第三旅団(川路利良少将) ─ 佐敷・水俣・大口方面
別働第四旅団(大山巌少将) ─ 比奈久・球磨川口方面
熊本鎮台(谷干城少将) ─ 矢部浜町方面

1-9-1 神瀬方面

5月8日、辺見十郎太・河野主一郎・平野正介・淵辺群平はそれぞれ雷撃隊・破竹隊・常山隊・鵬翼隊の4隊を率いて神瀬箙瀬方面に向かった。

官軍との戦闘は5月9日に始まったが、5月15日には、破竹隊の赤塚源太郎以下1箇中隊が官軍に下るという事件が起きた。これより神瀬周辺での両軍の攻防は一進一退しながら6月頃まで続いた。

1-9-2 万江方面

別働第二旅団(山田顕義少将)は5月19日、人吉に通じる諸道の1つ万江越道の要衝水無・大河内の薩軍を攻撃した。これを迎え撃った薩軍の常山隊七番中隊は一旦鹿沢村に退き、5月21日に水無・大河内の官軍に反撃したが、勝敗を決することができず、再び鹿沢村に引き揚げた。

5月28日、今度は官軍が鹿沢村の常山隊七番中隊を攻撃した。常山隊は必死に防戦したが、弾薬がつきたために内山田に退き、翌日29日に大村に築塁し、守備を固めた。

1-9-3 大野方面

5月5日、田ノ浦に官軍が上陸。材木村は田ノ浦から人吉に通じる要路であったため鵬翼隊四・六番中隊は材木村に見張りを置き、大野口を守備した。5月6日、官軍が材木村の鵬翼隊四番中隊を攻めたので、薩軍はこれを迎え撃ち、一旦は佐敷に退却させることに成功した。

しかし5月9日、官軍は再び材木村の鵬翼隊六番中隊を攻めた。激戦がおこなわれたが、薩軍は敗れてしまい、長園村に退いた。このとき淵辺群平が本営より干城隊八番中隊左半隊を応援に寄越したので、官軍を挟み撃ち攻撃で翻弄し、塁を取り戻した。

また、5月9日、一ノ瀬の鵬翼隊三番中隊は官軍の襲来に苦戦しつつも材木村まで到達し、材木村の薩軍と共に塁の奪還に成功した。さらに5月9日、鵬翼隊二・五番中隊、干城隊四番中隊、その他諸隊は佐敷方面湯ノ浦の官軍を攻めたが失敗し大野に退却した。

5月16日、官軍が一ノ瀬の鵬翼隊五番中隊を攻撃した。薩軍は苦戦したが、大野からきた干城隊三番中隊の参戦により官軍を退けることができた。

5月20日、別働第三旅団が久木野に進入した。大野本営にいた淵辺群平は干城隊番三・四・八番中隊に命令して久木野の官軍を襲撃させ、退却させることに成功した。

この戦いは薩軍の圧勝となり、銃器や弾薬、その他の物品を多く得た。5月22日、淵辺群平は佐敷口の湯ノ浦に進撃することを決め、干城隊三・四番中隊、鵬翼隊六番中隊、その他2隊に進軍を命じた。

また、この日、大野の本営にいた辺見十郎太は久木野に進撃することを決意し、淵辺群平に応援を要求した。淵辺群平は干城隊八番中隊を久木野に寄越した。そこで、たまたま大野口から湯ノ浦に進撃していた干城隊三・四番中隊と合流し、官軍を退けた。

5月23日、別働第三旅団が倉谷・高平・大野方面の薩軍を次々と破り、大野に進入してきた。鵬翼隊五番中隊左小隊、干城隊二番中隊は防戦したが、敗れて石河内に退却した。久木野にいた干城隊八番中隊も参戦しようとしたが、大野の塁は官軍に奪われてしまった。

淵辺群平は、塁を奪還するため夜襲を命じたが、官軍の反撃で退却した。この日、一ノ瀬の鵬翼隊三番中隊の塁にも官軍が襲来した。

三番中隊は大野口の敗報を聞き、左小隊を鎌瀬、右小隊を植柘に分けて退いた。その後神ノ瀬方面も敗れたという報告を聞き、舞床に退いた。鵬翼隊二番中隊は岩棚より程角道三方堺に退却した。

5月28日明け方、官軍が舞床の鵬翼隊三番中隊を襲った。この日は防戦に成功したが、官軍は5月29日に再び鵬翼隊三番中隊右半隊を攻撃。薩軍は塁を捨てて後退したが、鵬翼隊三番中隊左小隊の活躍により塁を取り返し、銃器・弾薬を得た。

この夜、三方堺の鵬翼隊二番中隊も襲われ、弾薬不足のため背進した。このため舞床の薩軍は鵯越に退いた。札松方面の鵬翼隊二番中隊が人吉に退却したため、振武隊二番中隊・干城隊八番中隊は程角越の応援のために進撃し、振武隊二番中隊は程角本道の守備を開始した。

鵬翼隊二番中隊も同じく程角越に進撃した。5月30日の夜明け頃、官軍が程角左翼の塁を攻撃し、薩軍は敗北した。官軍は勢いに乗じて干城隊八番中隊・振武隊十六番小隊を攻めた。薩軍各隊は大いに苦戦し、次々と兵を原田村に引き揚げた。激しい攻防が続き、勝敗は決まらず夜になった。翌日薩軍各隊は原田村に兵を配置した。

6月1日早朝、諸道の官軍が人吉に向かって進撃した。諸方面の薩軍はすべて敗れ、人吉や大畑に退却した。これを知った中神村の鵬翼隊六番中隊・雷撃隊五番中隊・破竹隊一番中隊、その他2隊、鵯越の鵬翼三番中隊、戸ノ原の鵬翼隊五番中隊等の諸隊は大畑に退却した。

原田村の干城隊八番中隊・振武隊二番中隊・鵬翼隊二番中隊・振武隊十六番小隊、郷之原の破竹隊四番中隊、深上の雷撃隊一番中隊、馬場村の雷撃隊二番中隊等は人吉の危機を聞き、戦いながら人吉に向かった。

1-9-4 人吉攻防戦

4月30日、常山隊三番中隊は中村、遊撃隊六番小隊春田吉次は頭治などそれぞれ要地を守備したが、5月3日から7日までの宮藤の戦い、5月10日から14日までの平瀬の戦いで、官軍は中村中佐の活躍によりこれらを敗走させることに成功した。

中村中佐は5月21日、横野方面の薩軍を襲撃し、岩野村に敗走させた。一方、尾八重を守っていた干城隊二番中隊は岩野村を守備し、5月22日、前面の官軍を襲撃し敗走させた。さらに追撃しようとしたが弾薬が不足していたこともあり、米良の西八重に退却した。

別働第二旅団は7つの街道から球磨盆地に攻め入る作戦をたて、5月1日から9日までこの作戦を遂行した。まず前衛隊は球磨川北岸沿いを通る球磨川道、南岸沿いを通る佐敷道から攻めたが、街道は大部隊が通るには困難な地形であったために官軍は各地で薩軍に敗退した。

しかし、人員・物資の不足により、薩軍は当初の勢いがなくなった。そこを突いて5月12日、別働第二旅団は球磨盆地の北部にある五家荘道等の5つの街道から南下し始めた。薩軍の球磨川北部の守りが薄かったので、別働第二旅団は12日から25日までの13日間に五木荘道の頭治・竹の原、球磨川道の神瀬、種山道、仰烏帽子岳など多くの要地を陥落させた。

この頃桐野利秋は宮崎から鹿児島方面および豊後等の軍を統監していたが、ここを根拠地とするために宮崎支庁を占領し、5月28日に軍務所と改称した。

別働第二旅団の侵攻で危険が目前に迫った人吉では、村田新八らが相談して安全をはかるために、5月29日、池上四郎に随行させて狙撃隊等2,000名の護衛で西郷隆盛を宮崎の軍務所へ移動させた。

5月31日に西郷が軍務所に着くと、ここが新たな薩軍の本営となり、軍票(西郷札)などが作られ、財政の建て直しがはかられた。

山田顕義少将が指揮する別働第二旅団の主力部隊は5月30日、五家荘道・照岳道などから人吉に向かって進撃した。これと戦った薩軍は各地で敗退し、五家荘道の要地である江代も陥落した。

また、神瀬口の河野主一郎、大野口の淵辺群平はともに人吉にいたが、薩軍が敗績し、人吉が危機に陥ったことを聞き、球摩川に架かる鳳凰橋に向かった。しかし、官軍の勢いは止められず、橋を燃やしてこれを防ごうとした淵辺群平は銃撃を受けて重傷を負い、吉田に後送されたが亡くなった。

6月1日早朝、照岳道の山地中佐隊に続いて官軍が次々と人吉に突入した。そして村山台地に砲台を設置し、薩軍本営のあった球磨川南部を砲撃した。これに対し村田新八率いる薩軍も人吉城二ノ丸に砲台陣地を設け対抗した。

しかし薩軍の大砲は射程距離が短いためにかなわず、逆に永国寺や人吉城の城下街を焼いてしまう結果となった。この戦いは三日間続いた。次いで薩軍本隊は大畑などで大口方面の雷撃隊と組んで戦線を構築し、官軍の南下を防ごうとしたが失敗し、堀切峠を越えて、飯野へと退却した。

6月4日になると、薩軍人吉隊隊長犬童治成らが部下とともに別働第二旅団本部に降伏し、その後も本隊に残された部隊が官軍の勧告を受け入れ次々と降伏した。人吉隊の中にはのちに官軍に採用され軍務に服したものもあった。

1-10 大口方面の戦い

4月22日に雷撃隊 (13中隊、約1300名)の指揮長に抜擢された辺見十郎太は日ならずして大口防衛に派遣された。これに対し官軍は5月4日、別働第三旅団の3箇大隊を水俣から大口攻略のため派遣した。この部隊は途中、小河内・山野などで少数の薩軍を撃退しながら大口の北西・山野まで進攻した。

辺見十郎太は官軍を撃退すべく大口の雷撃隊を展開した。5月5日、雷撃隊と官軍は牛尾川付近で交戦したが、雷撃隊は敗れ、官軍は大口に迫った。

辺見十郎太は雷撃隊を中心に正義隊・干城隊・熊本隊・協同隊などの諸隊を加えて大塚付近に進み、8日の朝から久木野本道に大挙して攻撃を加え、官軍を撃退した。押されて官軍は深渡瀬までさがった。

久木野・山野を手に入れた辺見十郎太は5月9日、自ら隊を率いて官軍に激しい攻撃を加えて撃退し、肥薩境を越えて追撃した。11日、雷撃隊は水俣の間近まで兵を進め、大関山から久木野に布陣した。

人吉防衛のため球磨川付近に布陣していた淵辺群平率いる鵬翼隊6箇中隊(約600名)も佐敷を攻撃した。また池辺吉十郎率いる熊本隊(約1500名)も矢筈岳・鬼岳に展開し、出水・水俣へ進軍する動きを見せた。

12日、鵬翼隊は佐敷で敗れたが、雷撃隊は圧倒的に優る官軍と対等に渡り合い、「第二の田原坂」といわれるほどの奮戦をした。これを見た官軍は増援を決定し、第三旅団を佐敷へ、第二旅団を水俣へ派遣した。

官軍は5月23日、矢筈岳へ進攻し、圧倒的物量と兵力で薩軍を攻撃した。熊本隊は奮戦したが、支えきれずに撤退した。

対して26日未明、佐々友房・深野一三らが指揮する約60名の攻撃隊が矢筈岳の官軍を急襲したが、官軍の銃撃の前に後退し、熊本隊はやむなく大口へと後退した。

6月1日、三洲盤踞の根拠地となっていた人吉が陥落し、薩軍本隊は大畑へ退いた。6月3日に官軍の二方面からの大関山への総攻撃が始まった。

官軍の正面隊は原生林に放火しながら進撃した。球磨川方面からは別働隊が攻撃した。雷撃隊はこれらを激しく邀撃したが、二面攻撃に耐え切れず、大口方面へ後退した。これを追って官軍は久木野前線の数火点および大関山・国見山を占領した。

6月7日に久木野が陥落し、薩軍は小河内方面に退却した。翌日、官軍はこれを追撃して小河内を占領した。6月13日、山野が陥落した。

官軍は大口へ迫り、人吉を占領した別働第二旅団は飯野・加久藤・吉田越地区進出のため、大畑の薩軍本隊に攻撃を加えた。結果、雷撃隊と薩軍本隊との連絡が絶たれた。

官軍は6月17日、八代で大口方面に対する作戦会議を開き、別働第二旅団は小林攻略と大口方面での官軍支援、別働第三旅団は大口攻略後、南の川内・宮之城・栗野・横川方面を攻略するという手筈が整えられた。これにより雷撃隊は官軍の戦略的脅威の範疇から完全に外れることとなった。

6月18日、官軍の山野への進撃に対し、雷撃隊を率いる辺見十郎太は砲弾の雨の中、必死に官軍をくい止めていた。だが、北東の人吉からの別働第二旅団の攻撃、北西の山野からの別働第三旅団の攻撃により、郡山・坊主石山が別働第二旅団の手に落ちた。結果、両者の間の高熊山に籠もっていた熊本隊は完全に包囲された。

官軍は6月20日、高熊山の熊本隊と雷撃隊が占領する大口に攻撃を加えた。この時の戦闘では塹壕に拠る抜刀白兵戦が繰り広げられた。

しかし、人吉・郡山・坊主石山からの三方攻撃の中、寄せ集め兵士の士気の激減と敵軍の圧倒的な物量で、さしもの辺見指揮下の部隊も敗れ、遂に大口は陥落した。

雷撃隊が大口から撤退することになった時、辺見十郎太は鹿児島を発した当時の私学校徒勇士があればこの敗をとることは無かったと祠の老松を抱えて号泣した。これが有名な「十郎太の涙松」の由来になった。

6月25日、雷撃隊は大口の南に布陣し、曽木、菱刈にて官軍と戦ったが、覆水盆に返ることなく、相良長良率いる行進隊と中島健彦率いる振武隊と合流し、南へと後退していった。ここに大口方面における約2ヶ月もの戦いに幕は下りた。(つづく)


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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西南戦争(5) [歴史]

 

西南戦争(5)

1-11 鹿児島方面の戦い

まだ戦争の帰趨が覚束なかった2月末、政府は鹿児島の人心を収攬し、薩軍の本拠地を衝くために旧藩の国父であった島津久光に議官柳原前光を勅使として派遣した。

しかし、久光は薩軍に荷担することはしないが、旧主の恩顧を以てしても効がないとした。よって勅使らは中原尚雄らを出獄させ、弾薬製作所・砲台を破壊し、火薬・弾薬を没収して引き揚げた。

熊本城の包囲が解けた4月23日、政府は参軍川村純義海軍中将を総司令官として別働第一旅団(師団長高島鞆之助)・別働第三旅団2箇大隊(田辺良顕中佐)を主力とする陸海軍混成軍を鹿児島に派遣した。

しかし、27日に上陸して本営を設けた川村参軍は情勢を判断して増援を求めた。そこで政府は新たに第四旅団(曾我祐準少将)・別働第五旅団(大山巌少将)1箇大隊を派遣した。

川村参軍が最初に着手したのは市民生活の安定で、仁礼景通大佐を仮の県令として警察業務を代行させ、逃散してしまった県官の逮捕・査明等をおこなわせた。5月3日になると、新県令岩村通俊が赴任して来、西郷に告諭書を送った。

1-11-1 城山・重富・紫原の戦い

薩軍では、4月28日の江代の軍議の後、中島健彦を振武隊など11箇中隊の指揮長として鹿児島方面に派遣した。

監軍貴島清を伴って出発した中島健彦は途中で別府晋介・桂久武らと会して5月1日に軍議を開き、別府晋介が横川に主張本営を置いて鹿児島方面を指揮し、前線部隊の中島らはさらに進んで山田郷から鹿児島に突入することとなった。

5月5日には遅れて到着した相良長良を指揮長とする行進隊など10箇中隊が振武隊と合流した。

薩軍は当初、山田街道から城山北方に出、背面から官軍を攻撃しようとしたが、5月3日は雨に阻まれ、4日は激しい抵抗にあって冷水へ後退した。

6日には西方に迂回して甲突川を越えて急襲しようとしたが、渡河中に猛烈な射撃を受けて大敗し、伊敷へ後退した。この頃、薩軍は各郷から新兵を募集し、新振武隊15箇中隊を編成した。また上町商人からなる振武附属隊も作られた。

5月11日から13日にかけては、催馬楽山の薩軍と海軍軍艦龍驤との間で大規模な砲撃戦がおこなわれ、14日から17日にかけては、官軍によって薩軍の硝石製造所・糧秣倉庫等が焼却された。

薩軍に包囲されて市街の一画を占領している状態の別働第一旅団は24日、武村を攻撃したが敗退した。29日、第四旅団が薩軍の不意を衝いて花倉山と鳥越坂から突入したが、これも撃退された。

5月22日、川村参軍は第四旅団1箇大隊半・別働第三旅団2箇中隊を右翼、別働第一旅団2箇大隊半を左翼として軍艦4隻と小舟に分乗させ、艦砲で援護しながら重富に上陸させて薩軍の後方を攻撃させた。

また、軍艦龍驤を加治木沖に回航して薩軍の増援を阻止させた。左右翼隊の健闘でさしもの薩軍も遂に重富から撃退され、次いで磯付近で包囲攻撃を受け、北方に敗走した。こうして官軍は重富を確保した。

これに対し、23日、中島健彦・貴島清・相良長良は官軍に反撃し、行進隊8箇中隊と奇兵隊2箇中隊で雀宮・桂山を襲撃し、多数の銃器・弾薬を獲得した。

5月24日、別働第一旅団と別働第三旅団は大挙攻勢に出、涙橋付近で交戦する一方、軍艦に分乗した兵が背後を衝き、薩軍を敗走させた。逆襲した薩軍と壮烈な白兵戦が展開されたが、夕方、暴風雨になり、これに乗じた官軍の猛攻に弾薬乏しくなった薩軍は耐えきれず、吉野に退却した。

この紫原(むらさきばる)方面の戦闘は鹿児島方面でおこなわれた最大の激戦で、官軍211名、薩軍66名の死傷者を出した。翌25日、第四師団は下田街道を南下し、坂元・催馬楽・桂山から別府隊・振武隊十番中隊の背後を攻撃し、吉野へ追い落とした。26日には同師団が鳥越道と桂山の二方から前進攻撃したところ、薩軍は抵抗することなく川上地方へ退却した。

1-11-2 官軍主力の鹿児島連絡

大口南部の薩軍を退けた川路利良少将率いる別働第三旅団は6月23日、宮之城に入り川内川の対岸および下流の薩軍を攻撃した。一斉突撃を受けた薩軍は激戦の末、遂に鹿児島街道に向かって退却した。

別働第三旅団の部隊は翌24日には催馬楽に至り、次々に薩軍の堡塁を落として、夕方には悉く鹿児島に入り、鹿児島周辺の薩軍を撃退した。こうして官軍主力と鹿児島上陸軍の連絡がついた。

退却した薩軍は都城に集結していると予測した川村純義参軍は6月29日、別働第一旅団を海上から垂水・高須へ、第四旅団を吉田・蒲生へ、別働第三旅団を岡原・比志島経由で蒲生へ進め、都城を両面攻撃することとした。また海軍には重富沖から援護させ、鹿児島には第四旅団の1箇大隊を残した。

1-12 都城方面の戦い

人吉方面撤退後の6月12日 、村田新八は都城に入り、人吉・鹿児島方面から退却してきた薩軍諸隊を集め、都城へ進撃する官軍に対する防備を固めた。

1-12-1 恒吉方面

7月7日、振武隊大隊長中島健彦は国分より恒吉に到着した。このとき官軍は百引・市成に進駐していたので、この方面への攻撃を決定した。振武隊は夜に恒吉を出発し、8日に百引に到着した。

ここで三方面から官軍を抜刀戦術で襲撃した。不意を突かれた官軍は二川・高隈方面まで敗走した。この戦いで薩軍の死傷者が8名ほどであったのに対し、官軍の死傷者は95名ほどで、そのうえ大砲2門・小銃48挺・弾薬など多数の軍需品を奪われた。

一方、越山休蔵・別府九郎ら率いる市成口牽制の奇兵隊・振武隊・加治木隊も8日に市成に到着した。越山らが兵を三方面に分けて進撃したのに対し、官軍は阜上からこれを砲撃し、戦闘が開始された。

戦闘は激しいものとなり、夕方、官軍は民家に火を放ち、二川に退却した。薩軍も本営の指令で兵を恒吉に引き揚げ、振武十一番隊を編隊し直し、奇兵隊一・二番中隊とした。

大崎に屯集しているとの情報を得た先発の奇兵隊は7月11日、官軍を奇襲したが、二番隊長が戦死するほどの苦戦をした。そこで、勝敗が決しないうちに蓬原・井俣村に退却した。

一方、後発の振武隊は進路を誤り、荒佐の官軍と遭遇し、半日に渡り交戦したが、結局大崎付近まで退却した。7月12日、蓬原・井俣村の奇兵隊は大崎に進軍したが、荒佐野の官軍はこの動きを察知し、大崎にて両軍が激突した。

当初、戦況は薩軍にとって不利な方向に傾いていたが、大崎の振武隊と合流し、官軍に快勝した。しかし、末吉方面が危急の状態に陥ったので、この夜、村田新八は各隊に引き揚げて末吉に赴くように指示した。

1-12-2 踊方面

横川方面が官軍に制圧されてしまったため、7月1日、薩軍の雷撃隊六・八・十・十三番中隊、干城隊一・三・五・七・九番中隊、正義隊四番中隊等の諸隊は踊郷に退却し、陣をこの地に敷いた。

官軍は7月6日、国分郷に進入して背後より踊の薩軍を攻撃し、薩軍は大窪に退却した。薩軍は襲山郷の桂坂・妻屋坂を守備すべく、干城隊七番中隊などを向かわせ、その他の諸隊に築塁の準備をさせたが、踊街道から官軍が進出しているとの情報を受け、正義隊四番・雷撃隊十三番・干城隊一番隊・雷撃隊八番隊がこれを防いだ。

また、官軍は襲山街道からも攻めてきたため、干城隊三・七番隊、雷撃隊六番隊がこれを防いだが、決着はつかず両軍は兵を退いた。ここで官軍は第二旅団全軍をもって大窪の薩軍を攻めた。

7月12日、辺見十郎太は赤坂の官軍の牙城を攻撃するため、雷撃隊を率いて財部の大河内に進撃。この地は左右に山があり、中央に広野が広がっているという地形となっており、官軍はその地形に沿う形で陣を敷いていたため、薩軍は左右翼に分かれて山道から官軍を奇襲し優位に立ったが、雨が降り進退の自由を失い、あと一歩のところで兵を引き揚げた。

7月17日、辺見十郎太は奇兵隊を率いてきた別府九郎と本営の伝令使としてやってきた河野主一郎らと合流し、荒磯野の官軍を攻撃するため兵を本道・左右翼に分け、夜明けに高野を出発した。

辺見らの諸隊は官軍に対し善戦するが、河野が本営に帰還するよう命じられたことによる右翼の指揮官の不在と官軍の援軍の参戦、弾薬の不足により、雷撃隊は高野へ、奇兵隊は庄内へとそれぞれ退却した。

19日には都城危急の知らせにより高野の雷撃隊は庄内へ移動し守りを固めた。また辺見十郎太は23日の岩川攻撃作戦のために雷撃六番隊、干城七番を率いて岩川へ向かった。

1-12-3 福山方面

第三旅団が7月10日、敷根・清水の両方面から永迫に進軍し、行進隊十二番中隊を攻撃したので、行進隊は通山へ退却した。一方、敷根・上段を守備していた行進隊八番中隊は、官軍の攻撃を受け、福原山へと退却した。

行進隊八・十二番中隊は上段を奪回しようと官軍を攻撃するが、破ることができず、通山へ退却した。7月15日早朝、行進隊・奇兵隊は嘉例川街道を攻撃したが、官軍の守りは堅く、加治木隊指揮長越山休蔵が重傷を受けたため、攻撃を中止し通山へ退却した。

7月23日、22日に官軍が岩川に進出したとの報を受け、高野から雷撃隊八・七番隊・干城隊七番隊を率いてきた辺見十郎太と合流し、辺見十郎太・相良長良を指揮長として岩川へ進軍し、官軍と交戦した。16時間にも及ぶ砲撃・銃撃戦であったが、結局、薩軍は官軍を破れず、末吉へと退却した。

1-12-4 高原方面

第二旅団は7月14日、小林から高原を攻撃し高原を占領した。薩軍は7月17日、堀与八郎を全軍指揮長とし雷撃隊・鵬翼隊・破竹隊などの9中隊を正面・左右翼・霞権現攻撃軍(鵬翼三番隊)の4つに分け、深夜に植松を発ち、正面・左右翼軍は暁霧に乗じて高原の官軍を奇襲し、あと一歩のところで高原を奪還するところであったが、官軍の増援と弾薬の不足により兵を引き揚げた。

一方、霞権現へ向かった鵬翼三番隊は奇襲に成功し、銃器・弾薬等の軍需品を得た。この戦い以降、官軍は警戒を強め、7月17日に堡塁や竹柵を築いて薩軍の奇襲に備えた。7月21日薩軍は再び高原を攻撃するため官軍を攻撃するが、官軍の強固な守備と援隊の投入により、高原奪還は果たせず、庄内へと退却した。

1-12-5 財部・庄内・通山・末吉方面

別働第三旅団は7月24日、粟谷から財部に進軍し、指揮長不在の薩軍を攻撃して財部を占領した。続いて、退いた薩軍を追って、右翼を田野口・猪子石越から三木南・堤通に進め、本体・左翼を高野村街道から進めさせ、平原村で河野主一郎部隊の守備を突破し、庄内を占領した。薩軍が都城に退却したため、別働第三旅団はさらにこれを追撃して都城に侵入した。

第四旅団は福山と都城街道・陣ヶ岳との二方面から通山を攻撃した。中島健彦は振武隊を率いてこれを防ぎ、善戦したが、すでに都城入りしていた別働第三旅団により退路を阻まれて大打撃を受けた。その間に第四旅団は都城に入ることができた。別働第一旅団は岩川から末吉の雷撃隊(辺見十郎太)・行進隊(相良長良)と交戦し薩軍を敗走させ、都城に入った。

7月24日、要所である庄内方面・財部方面が官軍に占領された結果、都城の各方面で薩軍は総崩れとなり、この日官軍は都城を完全に占領した。

これ以降、薩軍は官軍へ投降する将兵が相次ぐものの、活路を宮崎へと見出していこうとした。しかし、この守備に適した都城という拠点を官軍に奪取された時点で、戦局の逆転はほぼ絶望的となってしまった。

1-13 豊後・美々津・延岡方面の戦い

豊後・日向方面は4月末から5月末にかけて、野村忍介が率いる奇兵隊とそれを後援する池上四郎の部隊の働きで薩軍の支配下におかれたが、官軍の6月からの本格的反撃で徐々に劣勢に追い込まれていった。

薩軍は都城の陥落後、宮崎の戦い、美々津の戦、延岡の戦いと相次いで敗れて北走し、8月末には延岡北方の長井村に窮することとなった。

1-13-1 三田井・豊後・日向方面

4月30日、西郷隆盛から豊後方面突出の命を受けた奇兵隊指揮長野村忍介は、椎葉山を越え、一部を富高新町(細島西方)の守備及び細島方面の警備に任じ、主力は延岡に進出した。

これを後援するために5月4日に三田井方面に派遣された池上四郎指揮部隊約1000名は、薩軍の本拠地人吉と延岡の交通路にあたる三田井の警備に部隊の一部を当て、主力は東進して延岡に進出した。

延岡に進出した薩軍はここに出張本営を設け、弾薬製造、募兵、物資調達をし、奇兵隊1箇中隊を宮崎に、奇兵隊2中隊を美々津に、奇兵隊3中隊を細島に、奇兵隊3箇中隊を延岡に配置して、政府軍がまだ進出していない日向を支配下に置いた。

以後、池上四郎は延岡から豊後方面に進出した野村忍介を後援・指揮するとともに三田井方面の指揮をも執った。

5月14日、高城七之丞率いる正義隊など6箇中隊は延岡街道鏡山の熊本鎮台警備隊を襲撃し、追撃して馬見原、川口に進出した。

熊本鎮台部隊が5月22日に馬見原から竹田方面に転進すると、この方面を担任することになった第一旅団は5月25日、折原を攻撃し、遂に三田井を占領した。

しかし、三田井を占領された薩軍は6月1日、日影川の線を占領し、官軍進撃を阻止した。こうして苦戦・後退しながらも、薩軍は8月まで延岡方面への官軍の進出を阻止しつづけた。

1-13-2 豊後方面

奇兵隊指揮長野村忍介は、5月10日以後、奇兵隊8個中隊を率いて、本格的に豊後攻略を開始した。12日に先発の4箇中隊が延岡を出発して重岡、13日に竹田に入って占領し、ここで募兵して報国隊数100名を加えた。

14日には後続の4箇中隊も竹田に到着し、大分突撃隊を選抜して部隊に加えた。このように豊後攻略は順調に進展した。しかし、政府軍は15日に熊本鎮台と第一旅団から部隊を選抜して竹田に投入して反撃に出た。

両軍の激戦は10数日におよび、29日に竹田は陥落して政府軍の手に落ちた。奇兵隊は6月1日に臼杵を占領したが、6月7日の野津道貫大佐の指揮する4箇大隊の攻撃と軍艦3隻による艦砲射撃により6月10日に敗退した。こうして北方から圧力を受けた奇兵隊は6月22日、本拠地を熊田に移した。

1-13-3 野尻方面

破竹隊は小林を守備していたが、7月11日、官軍第二旅団によって占領された。官軍はさらに軍を進めて薩軍と21日から野尻で交戦したが、薩軍は疲労のため勢いをなくし、別働第二旅団が翌22日に野尻を占領した。

1-13-4 宮崎方面

7月24日、第三旅団は河野主一郎らの破竹隊を攻撃し、庄内を陥落させた。同日、別働第一旅団は末吉を攻撃し、別働第二旅団は財部を攻撃した。そしてついに第三旅団・別働第三旅団・第四旅団が都城を陥落させた。

7月25日、薩軍の中島健彦や貴島清らの振武隊、行進隊、熊本隊が山之口で防戦したが、第三旅団に敗北した。この時、三股では別府九郎の奇兵隊などが防戦していた。

7月27日、別働第三旅団が飫肥を攻めて陥落させた。この時、多くの飫肥隊員、薩兵が投降した。高岡を攻撃するため今別府に集まった第二旅団は7月28日、別働第二旅団と協力して紙屋に攻撃を仕掛けた。

辺見十郎太・中島健彦・河野主一郎・相良長良らの防戦により官軍は苦しい戦いになったが、やっとの思いでこれを抜いた。翌29日、官軍は兵を返して高岡に向かう途中で赤坂の険を破り、高岡を占領した。

都城・飫肥・串間をおさえた第三旅団・第四旅団・別働第三旅団は7月30日、宮崎の大淀河畔に迫った。同時に穆佐・宮鶴・倉岡を占領した。

7月31日、第三旅団・第四旅団・別働第三旅団は大雨で水嵩の増した大淀川を一気に渡って宮崎市街へ攻め込んだ。薩軍は増水のため官軍による渡河はないと油断していたので、抵抗できず、 宮崎から撤退したため、官軍は宮崎を占領した。次いで第二旅団により佐土原も占領した。

そこで宮崎・佐土原と敗北した薩軍は、桐野利秋をはじめ辺見十郎太、中島健彦・貴島清・河野主一郎らの諸隊と、池辺吉十郎の熊本隊、有馬源内が率いる協同隊やほかに高鍋隊も高鍋河畔に軍を構えて官軍の進撃に備えた。

これに対し官軍は、広瀬の海辺から第四旅団・第三旅団・第二旅団・別働第二旅団と一の瀬川沿いに西に並んで攻撃のときを待った。この時、別働第三旅団は多くの薩軍兵捕虜の対応をするために解団した。

8月1日、海路より新撰旅団が宮崎に到着した。この後、一の瀬川沿いに戦線を構えている他の旅団と共に高鍋に向かった。翌2日、各旅団が高鍋を攻め、陥落させた。

1-13-5 米良方面

7月13日、人吉が陥落した後、干城隊指揮長阿多荘五郎は米良口の指揮を執ることとなり、諸隊を編成して米良方面の守りを固めていたが、7月23日、高山天包に進撃するも敗れ、越の尾に退却した。

7月29日、越の尾を攻めてきた官軍にまたも敗退した。8月2日、銀鏡にいた部隊は美々津に退却せよとの命令を受け、美々津に向かった。

1-13-6 美々津方面

8月2日に高鍋を突破され敗退した薩軍は、美々津に集結し戦闘態勢を整えた。本営は延岡に置き、山蔭から美々津海岸まで兵を配置した。この時に桐野利秋は平岩、村田新八は富高新町、池上四郎は延岡に、順次北方に陣を構えて諸軍を指揮した。

別働第二旅団は8月4日、鬼神野本道坪屋付近に迂回して間道を通り、渡川を守備していた宮崎新募隊の背後を攻撃した。薩軍は渡川、鬼神野から退いて、8月6日、山蔭の守備を固めた。西郷隆盛はこの日、各隊長宛に教書を出し奮起を促した。

8月7日、奇兵隊三・六・十四番隊は別働第二旅団の攻撃を受け、山蔭から敗退。官軍はそのまま薩軍を追撃し、富高新町に突入した。薩軍はこれを抑えきれず、美々津から退いて門川に向かった。同日、池上四郎は火薬製作所と病院を延岡から熊田に移し、本営もそこに移した。(つづく)


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西南戦争(6) [歴史]

 

西南戦争(6)

1-13-7 延岡方面

官軍は8月12日、延岡攻撃のための攻撃機動を開始した。別働第二旅団が8月14日に延岡に突入し、薩軍は延岡市街の中瀬川の橋を取り除き抵抗したが、やがて第三・四旅団、新撰旅団も突入してきたため敗退した。この日の晩、西郷隆盛は自ら陣頭に立ち、明朝官軍との雌雄を決しようと発言したが、諸将はまだその時機ではないと諌めた。

薩軍は長尾山・無鹿山を拠点に兵を配置した。この時の彼我の勢力は薩軍約3,500名に対し官軍約50,000名であった。8月15日早朝、西郷隆盛は桐野利秋・村田新八・池上四郎・別府晋介ら諸将を従え、和田越に上って督戦をした。

一方山県有朋参軍も樫山にて戦況を観望した。このように両軍総師の督戦する中で戦闘は行われ、一進一退の攻防の最中、官軍は別隊を進め、薩軍の中腹を攻撃しようと熊本隊に迫った。熊本隊は官軍を迎え撃ったが苦戦、辺見十郎太と野村忍介が熊本隊を援助したが、官軍は守備を突破した。

激戦の末、寡兵のうえ、軍備に劣る薩軍は長尾山から退き、続いて無鹿山からも敗走し、熊田に退却した。この機に官軍は総攻撃を仕掛けて薩軍の本拠を一挙に掃討することを決意し、明朝からの総攻撃の準備を進めた。

1-14 可愛岳突囲

8月15日、和田越の決戦に敗れた薩軍は長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎宅に本営を置いた。降伏・決戦・突破の選択に迫られた薩軍は8月17日午後4時、官軍の長井包囲網を脱するため、遂に可愛岳突破を決意した。

突破の隊編成として、前軍に河野主一郎・辺見十郎太、中軍に村田新八・池上四郎、後軍に中島健彦・貴島清をおき、桐野利秋は西郷隆盛と共に中軍で総指揮をとった。この時の突囲軍は精鋭300~500(『新編西南戦史』は約600名)であった。

17日夜12時に可愛岳に登り始め、翌18日早朝、可愛岳の頂上に到着した。ここから北側地区にいた官軍を見たところ、警備が手薄であったため、薩軍は辺見十郎太を先鋒に一斉に下山攻撃を開始した。不意を衝かれた官軍の第一・第二旅団は総崩れとなり、退却を余儀なくされた。このため薩軍は、その地にあった官軍の食糧、弾薬3万発、砲一門を奪うことに成功した。

1-15 山岳部踏破と帰薩

可愛岳を突破した薩軍は8月18日、鹿川分遺隊を粉砕し、三田井方面への進撃を決定した。その後、薩軍は19日には祝子川の包囲第2線を破り、翌20日に鹿川村、中川村を落として三田井へと突き進んだ。

21日、薩軍は三田井へ到着するが、ここで桐野利秋は官軍による包囲が極めて厳重であり、地形が非常に険しいことから薩軍の全軍が突破することは困難であると考え、熊本城の奪取を提案するも、西郷隆盛はこれを却下し、22日深夜、薩軍は鹿児島へ向けて南進を開始した。

これに対し、薩軍による可愛岳突破に衝撃を受けていた官軍は、横川・吉松・加治木などに配兵し、薩軍の南進を阻止しようとするが、少数精鋭であり、かつ機動力に長ける薩軍の前に失敗に終わった。

これは、薩軍の行動が始めから一定の目的に従っていたわけではなく、その時々の官軍の弱点を突くものであり、鹿児島へ向けて出発したものの、最終的に鹿児島突入を決定したのは、米良に到着した後のことであったということも一因であった。

8月24日、薩軍は七山・松ヶ平を抜け、神門に出たが、ここで別働第二旅団松浦少佐の攻撃を受けるも、何とかこれを免れ、26日には村所、28日には須木を通過し、小林に入った。

同日、薩軍は小林平地からの加治木進出を図るが、薩軍の南進を阻止すべく鹿児島湾、重富に上陸した第二旅団にこれを阻まれ、失敗に終わった。迂回を余儀なくされた薩軍は9月1日、官軍の守備隊を撃破して鹿児島に潜入した。

1-16 城山籠城戦

9月1日、鹿児島入りすると、辺見十郎太は私学校を守っていた200名の官軍を排除して私学校を占領し、突囲軍の主力は城山を中心に布陣した。このとき、鹿児島の情勢は大きく薩軍に傾いており、住民も協力していたことから、薩軍は鹿児島市街をほぼ制圧し、官軍は米倉の本営を守るだけとなった。

しかし、9月3日には官軍が形勢を逆転し、城山周辺の薩軍前方部隊を駆逐した。反撃に出た薩軍では9月4日、貴島清率いる決死隊が米倉を急襲したが、急遽米倉へ駆けつけた三好重臣少将率いる第二旅団に阻まれ、貴島以下決死隊は一掃された。

こうして官軍は9月6日、城山包囲態勢を完成させた。この時に城山に籠もる薩軍は350余名(卒を含めると370余名)であった。官軍の参軍山県有朋中将が鹿児島に到着した9月8日、可愛岳の二の舞にならないよう、「包囲防守を第一として攻撃を第二とする」という策をたて、西南戦争は最終局面に入った。

9月19日、一部の将士の相談のもと、山野田一輔・河野主一郎が西郷の救命のためであることを隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって西郷の縁戚でもある参軍川村純義海軍中将のもとに出向き、捕らえられた。

しかし、22日に西郷は「城山決死の激」を出し決死の意を告知した。翌23日、軍使山野田一輔が持ち帰った参軍川村純義からの降伏の勧めを無視し、参軍山県有朋からの西郷隆盛宛の自決を勧める書状にも西郷は返事をしなかった。

9月24日午前4時、官軍砲台からの3発の砲声を合図に官軍の総攻撃が始まった。このとき西郷隆盛・桐野利秋・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら将士40余名は西郷が籠もっていた洞窟の前に整列し、岩崎口に進撃した。

弾丸が飛び交う中で指揮していた西郷隆盛は腹と股に銃撃を受け、島津応吉久能邸門前の路上に倒れて歩行不可能になった。己の死期を悟った西郷隆盛は、東方を遥拝した後に別府晋介の介錯により切腹した。

その頃官軍は岩崎谷の周囲から包囲し、狭い陣地に猛烈な射撃を加えた。この地において薩軍の将士、桐野利秋・村田新八・桂久武・池上四郎・辺見十郎太・山野田一輔・岩本平八郎等40名余りが命を落とした。

しかし、挙兵の意を後世に伝えるために別府九郎・野村忍介・神宮司助左衛門は熊本鎮台の部隊に、坂田諸潔は第4旅団の部隊にそれぞれ降伏した。中島健彦だけは今以て行方が知れない(「鹿児島籠城記」では岩崎谷で戦死したという。これが正しいようだ)。

西南戦争による官軍死者は6,403人、薩軍死者は6,765人に及んだ。この戦争では多数の負傷者を救護するために博愛社が活躍した。

2 エピソード

2-1西郷南洲と十年役

当時、此薩摩の暴動に付いては、西郷が加つて居るか居らぬかと云ふことは、一の疑問であつた。現に大山すらも「西郷は決して加つて居らぬ」と云ふものだから、一般の人も「大山がああ云ふのであるから、西郷は加つて居らぬ。」と云ふたものであつたが、私は、「いや、そうでない。西郷はくみする考はなくとも、是迄の情報に於いては、外のものが必ず漕ぎ出すに違ひない。」と云ふた。(『西南記伝』引山県有朋実話)

2-2 西郷先生の徳

熊本県、士農工商に至るまで、此節は薩兵を慕ふが如き有様にて、万事不都合の義、毛頭無し。西郷先生之徳、万世に輝きたるものに候。(『西南記伝』引山野田一輔「陣中日記」)

2-3 熊本籠城中の惨状

籠城が久しくなるに従って、糧食は減つて来る。煙草も尽きて来る。谷子爵の当時の苦衷と云ふものは、共に籠城した余等でなければ、到底想像だも出来ないであろうと思はれる。其所で、子爵は、幹部は、戦闘線に出なくともいいのであろうからと云ふので、余等一同は、栗の粥を啜り、砲弾で死んだ軍馬の肉を、是幸いと取って煮染にして喰ふ。……(『西南記伝』引樺山資紀実話)

2-4 薩軍の敵丸収集

其の日(三月十八日)正面軍の密使、福田丈平、植木より至る。其君に曰く、賊軍、弾丸己に欠き、村民をして、我軍の射る所を、取拾せしめ、1箇二厘五毛の償を以つて之を買ふ。然れども、唯、其券を与ふるのみ。之を請求するも賠償せず。衆乃其詐欺を知り、今復之を拾はずと。(『征西戦記稿』)

2-5 古番峠

古番峠は、八代を距ると、約五里、球摩八代両郡の交界にして、四顧皆山路、極めて険階、所謂一夫之を扼すれば、万卒も過る能はざるもの。面して隻賊の守るなし。我兵一丸を費さずして之を踰え、山口村に至る。村中僅に十戸許、皆山根に行き、渓水を汲て飲料とす。地に米穀を産せず、芋裨の類を以て食とす。実に山間の孤村なり。(『征西戦記稿』)

2-6 起死回生

是より先、戦死者を収拾するに方り、一兵卒其の隻眼を銃射せられ、八日間晶外に外れ、絶えて飲食せず、能く生命を保てりと。今、之を病院に致す、口言ふこと能はず、唯目を開きたるのみ。 官急に鶏卵を火酒に加へて之を飲ましめ、蘇せりと。(『従西日記』)

2-7 猪俣勝三

是日(7月1日)伍長代理猪俣勝三、坪屋村の炊事所に在り。高畑山巳に敗るると雖ども、未だ炊事所を移すの命を受けず、乃ち炊具を収めて命を待つ。而して隊長は、谿を下り、岡許に退さしを以て、其命を伝ふるに暇あらず、賊は巳に坪屋に乱入す。猪俣遂に害に遭ふ。人其能く職を守ってするを嘆惜す。(『西南戦記稿』)

2-8 薩軍困苦を極む

賊の降伏日に夥しく、手負人等の咄にも、賊軍の困苦を語らざるはなし。伊集院某は、45日前、都城より帰り来り某困しみしを語るに、4日間、イチゴと草木の葉とを喰ひ、或は土をも喰たる由。

其他、竹内金次郎も先日走り帰りて、語るにも、小銃の弾丸は樫木を用る等、実に困難を極めたりと云。(『西南記伝』引市来四郎 『十年日誌』)

2-9 牙営に三味線と婦人の駒下駄

薩将辺見十郎太が、先鋒隊を掲げて、可愛岳の官軍を突いたときは、時恰も18日の昧爽、官軍守兵の交替期で、其時、守兵の混乱雑踏と云ふものは、殆ど形容することが出来ぬ。

而して辺見が、獅子奮迅の勢で、絶壁を飛下り、萱原の中を飛び越え、大喝一声、電光石火の如く、官軍の牙営(第一旅団、第二旅団)に斫り込んだ勢に辟易して、官軍は皆四散し、牙営に在つた三好少将や野津少将は、周章狼狽、措く所を失つて逃げた。

其醜態と云ふものは、実に見るに忍びざる有様で。我等が辺見に従つて、牙営に入つたときには、種種の遺棄品も多くあつたが、一寸、吾人の目を惹いたものは、三味線と婦人の駒下駄であつた。是は正しく官軍の牙営にあつたものである。(矢田宏実話)

3 官軍の編成

鹿児島県逆徒征討総督:有栖川宮熾仁親王
参軍:山縣有朋陸軍中将・川村純義海軍中将
新撰旅団
司令長官:小松宮彰仁親王陸軍少将(5月29日-)
第1旅団
司令長官:野津鎮雄陸軍少将
第2旅団
司令長官:三好重臣陸軍少将(2月29日-)・大山巌陸軍少将(3月10日(別働第1旅団司令長官兼任)-)・黒川通軌陸軍大佐(5月13日-)
参謀長:野津道貫
第3旅団
司令長官:三浦悟楼陸軍少将(3月10日-)
第4旅団
司令長官代理:黒川通軌陸軍大佐(4月15日-)
司令長官:曾我祐準陸軍少将(4月16日-)
別働第1旅団
司令長官:大山巌陸軍少将(2月27日-)・高島鞆之助(3月28日-)
参謀長:岡沢精
下士:津田三蔵(3月11日-)
別働第2旅団
司令長官:山田顕義陸軍少将(3月28日-)
別働第3旅団
司令長官:川路利良陸軍少将兼警視庁大警視・大山巌陸軍少将(6月28日(別働第5旅団司令長官兼任)-)
別働第5旅団
司令長官:大山巌陸軍少将(4月13日-)
熊本鎮台
司令長官:谷干城陸軍少将
参謀長:樺山資紀陸軍中佐
参謀副長:児玉源太郎陸軍少佐
歩兵第13連隊(熊本)
連隊長:与倉知実
大隊長:奥保鞏
歩兵第14連隊(小倉)
連隊長心得:乃木希典陸軍少佐
連隊旗手:河原林雄太陸軍少尉
東京鎮台歩兵第3連隊(高崎):梅沢道治
大阪鎮台歩兵第8連隊(大阪)大隊長:大島義昌陸軍大尉
広島鎮台歩兵第12連隊(丸亀)連隊長:黒木為楨
警視隊
佐川官兵衛(元会津藩家老)・斎藤一(元新撰組隊士)
海軍艦隊指揮官:伊東祐麿海軍少将
その他従軍者
一戸兵衛・大浦兼武・神尾光臣曹長・川上操六・川村景明・志水直・立見尚文(大隊長)・寺内正毅(右腕を負傷)・東条英教・西寛二郎・福島安正

4 参考文献

川口武定『従征日記』、明治十一年初版(青潮社、昭和六十三年復刻)
海軍省編『西南征討志』、明治十八年初版(青潮社、昭和六十二年復刻)
参謀本部陸軍部編『征西戦記稿』、明治二十年初版(青潮社、昭和六十二年復刻)
佐々知房『戦袍日記』、明治二十四年初版(青潮社、昭和六十二年復刻)
川崎三郎『西南戦史』、博文堂、明治三十三年初版(大和学芸社増訂版、一九七七年)
出石猷彦「熊本籠城の実況」(日本史籍協会編『維新史料編纂会講演速記録』、続日本史籍協会叢書、明治四十四~大正六年、東京大学出版会、昭和五十二年復刻)
日本黒龍会編『西南記伝』、日本黒龍会、明治四十四年
加治木常樹 『薩南血涙史』、大正元年初版(青潮社、昭和六十三年復刻)
圭室諦成『西南戦争』、日本歴史新書、至文堂、昭和三十三年
大久保利鎌等編『鹿児島県史』、鹿児島県、昭和十六年
陸上自衛隊北熊本修親会編『新編西南戦史』、明治百年史叢書、昭和五十二年
古閑俊雄『戦袍日記』、青潮社、昭和六十一年
原口泉・永山修一・日隈正守・松尾千歳・皆村武一『鹿児島県の歴史』、山川出版社、1999年
鈴木孝一『ニュースで追う 明治日本発掘②』、河出書房新社 一九九四年
山田尚二「詳説西郷隆盛年譜」(『敬天愛人』第十号特別号、西郷南洲顕彰会)
山田尚二「西南戦争年譜」『敬天愛人』第十五号、西郷南洲顕彰会、平成十一年
塩満郁夫「鹿児島籠城記」『敬天愛人』第十五号、西郷南洲顕彰会、平成十一年
吉満庄司「西南戦争における薩軍出陣の「練兵場」について」『敬天愛人』第二十号、西郷南洲顕彰会 、平成十六年
塩満郁夫「鎮西戦闘鄙言前巻」『敬天愛人』第二十号、西郷南洲顕彰会、平成十六年
塩満郁夫「鎮西戦闘鄙言後巻」『敬天愛人』第二十一号、西郷南洲顕彰会、平成十七年

(おわり)


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秋月の乱 萩の乱 [歴史]

秋月の乱

秋月の乱(あきづきのらん)は、1876年(明治9)に福岡県秋月(現・福岡県甘木市秋月)で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。

1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱に呼応して、旧秋月藩の士族宮崎車之助、磯淳、土岐清、益田静方、今村百八郎ら約400名によって起こされた反乱である。

神風連の乱から3日後の10月27日、今村を隊長とする「秋月党」が挙兵、まず明元寺で警察官を殺害(日本初の警察官の殉職)。

旧秋月藩の士族はあらかじめ旧豊津藩の士族杉生十郎らと同時決起を約束していたため、このあと豊津へと向かい、10月29日に到着する。

しかしこのとき旧豊津藩士族は決起しない方針を固め、杉生らは監禁されており、談判中、豊津側の連絡を受けて到着した乃木希典率いる小倉鎮台が秋月党を攻撃。

秋月側は死者17名を出し(政府軍の死者2名)江川村栗河内(現・甘木市大字江川字栗河内)へ退却、10月31日に秋月党は解散し、磯、宮崎、土岐ら7名は自刃した。

今村は他26名とともに秋月へ戻り、秋月小学校に置かれていた秋月党討伐本部を襲撃し県高官2名を殺害、反乱に加わった士族を拘留していた酒屋倉庫を焼き払ったのち、分かれて逃亡したが、11月24日に逮捕された。

なお益田は挙兵前の10月26日に旧佐賀藩士族の同時決起を求めるため佐賀へ向かったが、その帰りに逮捕されている。

12月3日に福岡臨時裁判所で関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた今村と益田は即日斬首され、約150名に懲役、除族などの懲罰が下された

萩の乱

萩の乱(はぎのらん)は、1876年(明治9)に山口県萩で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。

1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱と、同年10月27日に起こった秋月の乱に呼応し、元長州藩士族の前原一誠(元参議)、奥平謙輔ら約100名によって起こされた反乱である。

10月28日、萩の明倫館(旧藩校)を拠点にして、前原を指導者とする「殉国軍」が挙兵。しかし政府側に察知され、萩で広島鎮台の攻撃を受け、11月6日までに三浦梧楼が率いる政府軍により鎮圧された。

前原・奥平ら幹部7名は本隊と別行動をとり東京へ向かうべく船舶に乗船し、萩港を出港したが、悪天候のため宇竜港(現在の出雲市内にあった)に停泊中、11月5日に逮捕された。


12月3日に萩で関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた前原と奥平は即日斬首された。

なお、松下村塾の塾頭玉木文之進(吉田松陰の叔父)は塾生であった前原らが事件に関与した責任を感じ、切腹した。

 

明治新政権指導層の分裂から前原一誠らが山口県萩でおこした士族の反乱。明治維新の改革は急速に士族の特権を奪っていき,斬髪脱刀令から徴兵令にいたる諸改革,次いで秩禄公債による知行取上げは士族の没落に拍車をかけるものであった。

士族の中には新政府の改革を支持できず,中央における指導層にも征韓論の政変による断裂作用がおこり,政治情勢は険悪化し,諸々において士族の蜂起が繰り返された。

萩の乱は,吉田松陰に学んだ前原一誠が参議をやめて帰藩して1876年(明治9)10月におこした事件で,萩在住の不平士族が中心となっておこした。

同志230名余とともに陸軍の造兵廠から武器弾薬を奪って政府軍に対したが官軍の来援の前に敗走,前原は石見でとらえられ斬首,その他自刃する者が多かった。前原らは九州の反政府的機運との共同決起をのぞんだが,連絡不十分なまま壊滅した。

1874年

2月1日 - 佐賀の乱

1876年

10月24日 - 神風連の乱
10月27日 - 秋月の乱
10月28日 - 萩の乱


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神風連の乱 [歴史]

神風連の乱

 神風連の乱(しんぷうれんのらん)は、1876年(明治9)に熊本市で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。

 1876年10月24日に旧熊本藩の士族太田黒伴雄(おおたぐろともお)、加屋霽堅(かやはるかた)、斎藤求三郎ら約170名によって結成された「敬神党」により起こされた反乱。この敬神党は「神風連」の通称で呼ばれていたので神風連の乱と呼ばれている。

▼概要

 1876年10月24日深夜、敬神党が各隊に分かれて鎮西鎮台司令官種田政明宅、熊本県令安岡良亮宅を襲撃し、種田・安岡ほか県庁役人4名を殺害した。その後、全員で政府軍の鎮西鎮台(熊本城内)を襲撃し、城内にいた兵士らを次々と殺害し、砲兵営を制圧した。

 しかし翌朝になると政府軍側では兒玉源太郎ら将校が駆けつけ、その指揮下で態勢を立て直し本格的な反撃を開始。

 加屋・斎藤らは銃撃を受け死亡し、首謀者の太田黒も銃撃を受けて重傷を負い、付近の民家に避難したのち自刃した。指導者を失ったことで他の者も退却し、多くが自刃した。

 敬神党側の死者・自刃者は計124名。残りの約50名は捕縛され、一部は斬首された。政府軍側の死者は約60名、負傷者約200名。

 この反乱は秩禄処分や廃刀令により明治政府への不満を暴発させた一部士族による反乱の嚆矢となる事件で、この事件に呼応して秋月の乱、萩の乱が発生し、翌年の西南戦争へとつながる。

▼敬神党

 敬神党は、旧熊本藩士族の三大派閥の一つであった勤皇党の一派である。

 熊本藩では教育方針をめぐり3派閥に分かれており、藩校での朱子学教育を中心とする学校党、横井小楠らが提唱した教育と政治の結びつきを重視する実学党、国学・神道を基本とした教育を重視する勤皇党が存在した。勤皇党のうち、明治政府への強い不満を抱く構成員により、敬神党が結成された。

 この敬神党は神道の信仰心が非常に強かったため周囲からは「神風連」と呼ばれていた。敬神党の構成員は多くが神職に就いており、新開大神宮で「宇気比」(うけい)と呼ばれる祈祷を行い、神託が下ったとして乱を起こしたのである。

 なお、三島由紀夫は晩年、神風連の乱に強い関心を持ち、敬神党の思想に共感していたといわれる。

▼その他

 種田が殺害された際、その場にいた種田の愛人は負傷しながらも熊本電信局へ走り、「ダンナハイケナイ ワタシハテキズ」(旦那はいけない、私は手傷)と打った電報を東京の親元に送信した。

 このエピソードは、カタカナのみを使い短く簡潔かつ的確にまとめることが重要な電報文体の好例として新聞紙上に紹介され、当時の一般市民が電報の利用方法や有用性を理解するきっかけの一つになった。


★太田黒伴雄(おおたぐろ ともお)

(熊本藩歩卒)天保5年(1834)~明治9年(1876)10月25日

 幼少にして父を失い、11歳の時大野家に引取られて大野姓を名乗る。
 文久3年大野家の義弟が成長したので自ら出て、のち飽托郡内田村の新開大神宮祠官太田黒伊勢の養子となった。彼ははじめ朱子学を学び、次に陽明学の書を愛読したが、林桜園に師事してから神道に熱中した。

 明治2年7月藩主細川韶邦から召されて桜園が東上した際、随伴して有栖川宮や岩倉具視と桜園との会見にも陪席した。

 しかし桜園の神道万能の政策は当時の時勢を反映することは不可能であり、失意のまま熊本に帰って来た桜園を彼は懸命に看護したが、高齢の桜園は死亡した。

 師亡き後、彼は推され、同志(神風連)の頭首となった。9年3月廃刀令が出、さらに県令安岡良亮により熊本県下の諸学校生徒の断髪令が下された。

 同年10月24日神風連は決起し、熊本鎮台司令長官種田政明を倒し、安岡県令を傷つけ、砲兵営を破ったが歩兵営で苦戦におちいり、彼はそこで重傷を負い、退いて法華坂の民家で死んだ。

★加屋霽堅(かや はるかた)

(熊本藩士・加藤神社祠官)天保7年(1836)~明治9年(1876)10月24日

 16歳の時、父熊助は事に座して自刃したので弟妹二人と共に母の里、中村直方にたより窮乏の中に育った。

 のち国家老溝口蔵人の食客になった。彼は文武に苦学し、武は四天流の奥義に達し、文は林桜園の原道館に入り国学・神道を学び、上野在方・太田黒伴雄らと共に桜園門下三豪の一人となった。万延元年家名再興を許され昇組となり三人扶持を給された。

 文久2年公子長岡護美の上京に際し、これの衛士の一人として宮部鼎蔵らと共に上洛して天下の志士と交わる。翌3年学習院録事にあげられたが、8月18日の政変で同志と共に逆境に立ち、元冶元年から慶応3年まで四年の間、熊本の牢獄に繋がれた。

 明治元年釈放され長崎にあり、熊本藩のため諸藩との折衝の任に当った。4年大楽源太郎の乱に連なって河上彦斎らと共に捕えられた。

 7年県政から実学党に退けられ、彼は加藤社の神官に任ぜられた。9年神風連の乱に当って太田黒と共に総裁となり、熊本鎮台に突入、歩兵営にて戦死した。年41没。

(参考) 

▼士族

 士族(しぞく)とは、明治維新後、旧武士階級に与えられた族称である。

 1869年の版籍奉還の後、かつての武士階級は華族(徳川宗家、大名。公卿も含まれた)、士族(旗本、各藩の藩士)、卒族(足軽)に編成された。

 その後、一部の郷士や卒族、在官の平民も士族に編入された(平民になった者も多い)。壬申戸籍作成(1872年)の際に「士族」と記載された。

 なお、1884年の華族令で華族に爵位が導入された際、岩倉具視らを中心に士族の爵位を創設することも検討されたが、華族の五等爵をさらに増やすことによる制度の煩雑化と、公家や大名と同様、華族としての待遇を望む元勲の勢力によって、士族の爵位創設は頓挫し、明治維新の功労者らは勲功華族(新華族)として士族から昇格していった。(華族は互選で貴族院議員になるなど、特権身分である)

 また、士族に生まれた者であっても、分籍した場合は平民とされた。これは華族も同様である(士族の家の次男三男が分籍した場合は平民の戸籍となる)。

▼士族反乱

 士族反乱(しぞくはんらん)は、日本の明治初期に旧武士階級であった士族が明治政府に対して起こした一連の反政府活動である。

 江戸時代後期に開国し、王政復古により成立した明治政府は四民平等政策のもと、大名、武士階級を廃止して華族、士族を創設する。

 秩禄処分により俸禄(家禄)制度は撤廃され、廃刀令の施行など身分的特権も廃された。また、明治政府が行う文明開化、殖産興業政策による西洋技術・文化の輸入、朝鮮出兵を巡る征韓論で政府が紛糾し、明治六年の政変で西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが下野すると士族層に影響を与え、明治政府に反対する士族は不平士族と呼ばれる。

 1874年には江藤が故郷の佐賀県で擁立されて反乱(佐賀の乱)し、1876年(明治9)には熊本県で神風連の乱、呼応して福岡県で秋月藩士による秋月の乱、10月には山口県で前原一誠らによる萩の乱など反乱が続き、それぞれ鎮圧される。

 1877年には鹿児島県で私学校生徒ら薩摩士族が西郷を擁立して、最大規模となる西南戦争が起こるが、これも士族側の敗戦に終わった。

 西南戦争以後に、不平士族の反対運動は国会開設や憲法制定を要求する自由民権運動に移行する。

▼士族の解体

江戸時代までの武士階級は戦闘に参加する義務を負う一方、主君より世襲の俸禄(家禄)を受け、名字帯刀などの身分的特権を持っていた。こうした旧来の特権は、明治政府が行う四民平等政策や、近代化政策を行うにあたって障害となっていた。

1869年の版籍奉還で士族は政府に属することとなり、士族への秩禄支給は大きな財政負担となっており、国民軍の創設などにおいても封建的特権意識が弊害となっていたため、士族身分の解体は政治課題であった。

1873年には徴兵制の施行により国民皆兵を定め、1876年には廃刀令が実施された。家禄制度の撤廃である秩禄処分も段階的に行われた。身分を問わず苗字を付けることが認められ(国民皆姓)、異なる身分・職業間の結婚も認められたため、士族階級の実質的な身分は平民と同じになった。

士族身分の解体により大量の失業者が発生した。政府や諸官庁に勤めたり、軍人、教員などになる者もいたが、職がなく困窮する例も多く、慣れない商売に手を出して失敗すると「士族の商法」と揶揄されることもあった。

士族を職につかせ、生活の救済を図る士族授産、屯田兵制度による北海道開発など政府による救済措置も行われた。西郷隆盛が唱えた征韓論には失業士族の救済、という側面もあったが、西郷は政争に破れ下野する。

廃刀令以降、1877年の薩摩士族の反乱である西南戦争まで、各地で新政府の政策に不平を唱える士族反乱が起こった。また、初期の自由民権運動は不平士族が中心になっていた(士族民権ともいわれる)。

履歴書や紳士録の類には士族という記載が残り(「○○県士族」)、幾分か名誉的な意味は持ち、家柄を誇る風潮も残った。戸籍の族籍記載は1914年(大正3)に撤廃され、第二次世界大戦後の戸籍法改正で公文書から完全に消滅した。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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ドバイの歴史 #2 [歴史]

2、マクトゥーム家

ドバイ歴代首長

マクトゥーム・ビン・ブティー   ( 1833-1852 )
サイード・ビン・ブティー      ( 1852-1859 )
ハシュル・ビン・マクトゥーム   ( 1859-1886 )
ラーシド・ビン・マクトゥーム   ( 1886-1894 )
マクトゥーム・ビン・ハシュル   ( 1894-1906 )
ブティー・ビン・スハイル     ( 1906-1912 )
サイード・ビン・マクトゥーム   ( 1912-1958 )
ラーシド・ビン・サイード     ( 1958-1990 )
マクトゥーム・ビン・ラーシド   ( 1990-現在  )


 その血統からマクトゥーム家(アール・マクトゥーム)は由緒あるブ・ファラーサ部族に属する。またこのブ・ファラーサ部族は、バニヤス族から分かれた小部族の一つと見なされている。

 いくつかの部族集団の連合であるバニヤス族の地位は高く、現在のアラブ首長国連邦(UAE)にあ たる地域に対する支配とその影響力でもってその名が知られていた。

 ブ・ファラーサ部族の発祥の地はアブダビと見られている。1833年にシェイク・マクトゥーム・ビン・ブティーと、ブ・ファラーサ部族の約800人からなる集団がアブダビからドバイの地に移り住み、このことがマクトゥーム家によるドバイ統治の始まりと見なされている。

 当時のドバイは、この地方の他の定住地の殆どと同じく、ただの小村落に過ぎなかった。しかしマクトゥーム家がこの地に移り住んだことを契機にドバイの変貌が始まった。現在ドバイは、たくさんの外国からの観光客やビジネスマンを引き寄せ、世界で最も活気のある都市の一つとなっている。

 シェイク・マクトゥームは非常に若くしてドバイの権力を握った。当時のドバイの歴史を語る記録が殆ど無いにもかかわらず、シェイク・マクトゥームが勇敢で有能な指導者であ ったことは広く知られている。

 シェイク・マクトゥームは新しい首長国を建設する過程で直面した政治的および経済的な困難を大胆に克服していった。1852年に亡くなるまでには、当時「トルーシャル・コースト(休戦海岸)」と呼ばれていたこの地域に大きな影響力を振るい、多くの人々の尊敬を集める権 威者となっていた。

 シェイク・マクトゥームの弟、シェイク・サイード・ビン・ブティー・アール・マクトゥームがその跡を継いだ。シェイク・サイードは、ドバイを人々にとって安住の地にしようという兄の政策を踏襲した。

 この目的のために、アブダビ及びオンム・アル・カイワインとの連盟結成という賢明な決定を下され、将来起こりうる紛争を見越して自らの権力を固めた。

 1859年のシェイク・サイードの死去の直後、シェイク・ハシュル・ビン・マクトゥーム・アール・マクトゥームがドバイの首長位を継いだ。シェイク・ハシュルは強い正義感を持った勇敢な指導者で、
ドバイが英国および湾岸地方の他の首長国との間に結んだ休戦条約の遵守に断固たる態度を示した。

 シェイク・ハシュルが亡くなると部族の長老たちは、シェイク・ラーシド・ビン・マクトゥームを自分たちの指導者に選ぶことで意見が一致した。

 1892年にシェイク・ラーシドは婚姻を通じて、ブ・シャーミス部族との間に同盟関係を結んだ。このブ・シャーミス部族は、この地域で数少ない豊穣なオアシスの一つであ ったため当時、戦略的要衝と見なされていたブレイミ地方を本拠地にしていた。しかしシェイク・ラーシドは同じ年に病にかかり、結局1894年に息を引き取った。

 その後、シェイク・マクトゥーム・ビン・ハシュルが跡を継いだ。英国政府の文書では、シェイク・マクトゥームの経済政策が「自由かつ開明的」(1)と描写されている。

 シェイク・マクトゥームが商人に課されていた税金を廃止したため、ドバイの港は急速に発展し、そこでの商売は彼の治世を通して繁盛した。ドバイは蒸気船の定期寄港地となり、アラビア湾沿岸の主要な商港としての地位を確立した。

 そのシェイク・マクトゥームは1906年に亡くなった。彼の息子たちは権力を手にするにはまだ年が若過ぎたため、その従兄弟のシェイク・ブティー・ビン・スハイルがドバイの首長位を継ぐことになった。

 この時シェイク・ブティーは既に高齢で、それからわずか6年後の1912年に亡くなった。そしてシェイク・サイード・ビン・マクトゥーム・アール・マクトゥームがドバイ首長の位を継ぐことになった。 (つづく)


脚注:
1“Records of Dubai 1761-1960” Vol.2, Archive Editions,1994,p.16  
     
*人名によく見られる「アール」という語はアラビア語で「家族・一家」
という意味を表す。
また同様に「ビン・?」は「?の息子」という意味。


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ドバイの歴史 #4 [歴史]

4、シェイク・ラーシド


 ドバイの統治者シェイク・ラーシドは、マクトゥーム家出身の8番目の統治者で1958年から1990年まで国を治めた。ドバイの住民からとても愛され尊敬された人で、ドバイをモダン化する必要性を感じ、それにとても貢献した。ドバイの為の明確なビジョンを持ち、多くの人が不可能と思うことを成し遂げた。

 彼はシェイク・サイードの長男として生まれ、首長国の政治には早くから関わってきて、父親のマジュリス(協議会)にもよく参加した。好奇心に溢れ人々のジレンマや意見に熱心に耳を傾けた。 そしてマジュリスで実際目と耳にしたことを理解しようと、その日に起こった事を両親に長々と尋ねた。 

 子供の頃はその地域で一番の教育を受けた。アル・アハマディヤ学校に通い、イスラム学、アラビア語そして算数を学んだ。 良い生徒だったが、熱中したのは鷹狩だった。

 “彼は早い時期からライフルの扱いに優れていた。躾や教育は主に母親が係わった。この鷹狩への情熱こそ、シェイク・サイードとシェイク・ラーシド、つまり父と息子を生涯結び付けたものだった。 (”1)

 これら狩猟の旅は一年に二回行われ、彼は従者と共に後にはイランやパキスタンへと遠征することもあ った。その狩の旅では彼は統治者としての任務を離れ、大勢の少年の一人に戻れた。狩の好みの対象はフサエリノガン、ガゼル、ウサギそしてライチョウだった。

 シェイク・ラーシドは実地的な働きかけをする為に、日々規則正しいスケジュールをこなした。彼は進行中のプロジェクトを、一日に二回自分で視察に出かけた。

 おざなりの説明では満足しないで、ドバイの全プロジェクトについて詳細な理解を求めた。更に彼にとってこれらの視察旅行は、市井の人と会う絶好の機会であった。

“夕方家に帰ると、伝統的議会のマジュリスという公式業務が待っていた。そこでは統治者が直接国民の問題や不平を聞く場を設けていた。シェイク・ラーシドはこの業務に真面目に取り組んでいた。 (”2) 彼の忍耐力は賞賛に値するもので、シェイク・ラーシドは一人一人の問題が解決するようにと、真剣に注意を払った。

 マジュリスには色々な国籍の国民がいて、議論の中心的役割を果たした。重要な意見を持つ人々に囲まれ、プロジェクトが検討され、形作られ、このマジュリスのメンバーが実際の遂行を受け持つことが多かった。

 ドバイが近代的な都市になることを確信していたシェイク・ラーシドは、遂に彼の都市がみごとに発展するのを目にすることが出来た。

 この統治者は、外国人を含んだ社会のメンバーから実行不可能だと思われていたようなプロジェクトをも積極的に手がけた。そんなプロジェクトの中にアルマクトゥーム病院という、このトルーシャル・ステイツ全域(現UAE)で最初の近代病院の建築と、マクトゥーム・ブリッジというドバイとデイラを結ぶクリークにかかる橋の建設、(この橋のお蔭でもうクリークをぐるっと回って向こう側に行く必要がなくなった。)および空港建設があ った。

 そしてこの空港は開設後すぐに予想を越える需要量を誇ることになった。“これらの空港と橋建設といった通信の為のプロジェクトで明らかになったことは、ドバイにおけるインフラの計画が、ただ単純に地域の差し迫った必要性に答えたというレベルのものでなく、もっと野心的なアイデアの結果で、それはドバイの将来に備えてのものであった、ということである。 (”3)

 1990年10月7日シェイク・ラーシドが亡くなった。彼のレガシー(功績)はドバイの都市計画の中に見られた。彼の死のニュースが駆け巡った。世界の主権者達が哀悼の言葉を送ってきた。

 “しかし最も異例なことは、大西洋を越えたニューヨークの国連での国々の反応だった。その時国連総会はパレスチナについての提案をめぐり議論を交わしていたのだが、彼の死を知らされた国連総会と安全保障理事会は一分間の黙祷を捧げることにした。その後、クエート、ポーランドそしてアメリカの代表がシェイク・ラーシドに賞賛の言葉を呈した。

 1912年に彼が誕生した時には、( 余りその存在が知られていなかったので )取り立ててニュース沙汰にもならなかったものだった。シェイク・ラーシドは苦労してドバイを発展させ、後にUAEを恒久的存在に仕立てあげた。
 
 そしてその誕生から78年後には、遂にその死が国連総会をも影響するような存在になった。それは類まれな人による疑いも無く類まれな功績に対する、類まれな告別であ った。(”4)  (つづく)

脚注:
1 ウイルソン・グラーム、ドバイの父、メディア・プリマ、ドバイ、1999p46
    
2 Ibid.、p65
  
3 ハード?ベイ・フラウキ、トルーシャル・ステイツからアラブ首長国連へロングマン、 ロンドン &ニューヨーク、1996年p261

4 ウイルソングラーム、ドバイの父、メディアプリマ、ドバイ1999年p215


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