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西南戦争(1) [歴史]

 

西南戦争(1)

西南戦争(せいなんせんそう)とは、1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。

丁丑の乱・十年戦争・私学校戦争・西南の役(せいなんのえき)とも呼ばれ、明治初期の一連の士族反乱のうち最大規模のもので、日本最後の内戦となった。

目次

1 経過

1.1 遠因(明治六年政変)
1.2 近因(私学校と士族反乱)
1.3 薩軍の結成と出発
1.4 征討軍派遣
1.5 熊本城強襲と小倉電撃作戦
1.6 薩軍主力北部進出と長囲策
1.6.1 高瀬付近の戦い
1.6.2 田原坂・吉次峠の戦い
1.6.3 植木・木留の戦い
1.6.4 鳥巣方面
1.7 薩軍の長囲策の破綻と官軍衝背軍の上陸
1.7.1 熊本城長囲
1.7.2 鎮台兵の出撃
1.7.3 衝背軍上陸
1.7.4 小川方面の戦い
1.7.5 松橋付近の戦い
1.7.6 宇土・堅志田・緑川の戦い
1.7.7 御船の戦い
1.7.8 衝背軍の熊本入城
1.7.9 薩軍の八代急襲
1.8 城東会戦
1.9 薩軍の三州盤踞策と人吉攻防戦
1.9.1 神瀬方面
1.9.2 万江方面
1.9.3 大野方面
1.9.4 人吉攻防戦
1.10 大口方面の戦い
1.11 鹿児島方面の戦い
1.11.1 城山・重富・紫原の戦い
1.11.2 官軍主力の鹿児島連絡
1.12 都城方面の戦い
1.12.1 恒吉方面
1.12.2 踊方面
1.12.3 福山方面
1.12.4 高原方面
1.12.5 財部・庄内・通山・末吉方面
1.13 豊後・美々津・延岡方面の戦い
1.13.1 三田井・豊後・日向方面
1.13.2 豊後方面
1.13.3 野尻方面
1.13.4 宮崎方面
1.13.5 米良方面
1.13.6 美々津方面
1.13.7 延岡方面
1.14 可愛岳突囲
1.15 山岳部踏破と帰薩
1.16 城山籠城戦

2 エピソード

2.1 西郷南洲と十年役
2.2 西郷先生の徳
2.3 熊本籠城中の惨状
2.4 薩軍の敵丸収集
2.5 古番峠
2.6 起死回生
2.7 猪俣勝三
2.8 薩軍困苦を極む
2.9 牙営に三味線と婦人の駒下駄

3 官軍の編成

4 参考文献

1 経過

1-1遠因(明治六年政変)

明治6年(1873年)6月以来の閣議で議論された朝鮮問題は、8月17日に西郷隆盛を大使として派遣する(遣韓大使論。征韓論を参照)ことに決定し、明治天皇に上奏したが、明治天皇から、「岩倉具視の帰朝を待って、岩倉と熟議して奏上せよ」との勅旨があったので、発表は岩倉帰国まで待つことになった。

しかし、岩倉が帰朝した後は、西郷を遣韓大使として派遣することに反対する木戸孝允・大久保利通らの内治優先論が出てきた。

9月15日の再閣議で西郷を派遣することに決定したが、これに反対する木戸孝允・大久保利通・大隈重信・大木喬任らの参議が辞表を提出し、右大臣岩倉も辞意を表明する事態に至った。

これを憂慮した太政大臣三条実美は18日夜、急病になり、岩倉が太政大臣代行になった。そこで、西郷隆盛・板垣退助・副島種臣・江藤新平は岩倉邸を訪ねて、閣議決定の上奏裁可を求めたが、岩倉は了承しなかった。

9月23日、西郷が大将兼参議・近衛都督を辞し、位階も返上すると上表したのに対し、すでに宮中工作を終えていた岩倉は、閣議の決定とは別に西郷派遣延期の意見書を天皇に提出した。

翌24日に天皇が岩倉の意見を入れ、西郷派遣を無期延期するとの裁可を出したので、西郷は辞職した。このとき、西郷の参議・近衛都督辞職は許可されたが、大将辞職と位階の返上は許されなかった。

翌25日になると、板垣退助・副島種臣・後藤象二郎・江藤新平らの参議も辞職した。この一連の辞職に同調して、征韓派・遣韓大使派の林有造・桐野利秋・篠原国幹・淵辺群平・別府晋介・河野主一郎・辺見十郎太をはじめとする政治家・軍人・官僚600名余が次々に大量に辞任した。

この後も辞職が続き、遅れて帰国した村田新八・池上四郎らもまた辞任した(明治六年政変)。

もともと西郷は明治天皇より「韓国問題は西郷に一任する」という内旨を承っていた。これに感動した西郷は終始外征問題に専念し、下野した後も外征への情熱は衰えることはなかった。したがって、この当時西郷に内乱を企てようとする気配は全くなく、よって遣韓大使問題(征韓論)の決裂は西南戦争の遠因とは言い得ても、最大の要因とすることには疑問を抱かざるを得ない。

1-2 近因(私学校と士族反乱)

下野した西郷は明治7年(1874年)、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設した。

その目的は、西郷と共に下野した不平士族たちを統率するためと、県下の若者を教育するためであったが、外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州へ遊学させる等、積極的に西欧文化を取り入れてるという点から、外征を行うための強固な軍隊を創造することが目的であった。

やがてこの私学校はその与党も含め、県令大山綱良の協力のもとで県政の大部分を握る大勢力へと成長していった。

一方、近代化を進める中央政府は明治9年(1876年)3月8日に廃刀令、同年8月5日に金禄公債証書発行条例を発布した。この2つは帯刀・禄の支給という旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせた。

これが契機となり、明治9年(1876年)10月24日に熊本県で「神風連の乱」、27日に福岡県で「秋月の乱」、28日に山口県で前原一誠による「萩の乱」が起こった。

鰻温泉にいた西郷はこれらの乱の報告を聞き、11月、桂久武に対し書簡を出した。この書簡には士族の反乱を愉快に思う西郷の心情の外に「起つと決した時には天下を驚かす」との意も書かれていた。

ただ、書簡中では若殿輩(わかとのばら)が逸(はや)らないようにこの鰻温泉を動かないとも記しているので、この「立つと決する」は内乱よりは当時西郷が最も心配していた対ロシアのための防御・外征を意味していた可能性が高い。とはいえ、西郷の真意は今以て憶測の域内にある。

一方、私学校設立以来、政府は彼らの威を恐れ、早期の対策を行ってこなかったが、私学校党による県政の掌握が進むにつれて、私学校に対する曲解も本格化してきた。

この曲解とは、私学校を政府への反乱を企てる志士を養成する機関だとする見解である。そしてついに、明治9年(1876年)内務卿大久保利通は、内閣顧問木戸孝充を中心とする長州派の猛烈な提案に押し切られ、鹿児島県政改革案を受諾した。

この時、大久保は外に私学校、内に長州派という非常に苦しい立場に立たされていた。この改革案は県令大山の反対と地方の乱の発生により、その大部分が実行不可能となった。

しかし、実際に実行された対鹿児島策もあった。その1つが明治9年(1876年)1月、私学校の内部偵察と離間工作のため中原尚雄以下24名の警吏を帰郷するという名目の下、鹿児島へと派遣したことである。

これに対し、私学校徒達は中原尚雄等の大量帰郷を不審に思い、その目的を聞き出すべく警戒していた。

1月29日、政府は鹿児島県にある武器・弾薬を大阪へ移すために、赤龍丸への搬出を秘密裏に行った。

鹿児島の火薬庫にあった火薬・弾丸・武器・製造機械類は旧薩摩藩時代に藩士が醵出した金で造ったり購入したりしたもので、一朝事があって必要な場合、藩士やその子孫が使用するものであると考えていた私学校徒は、この秘密裏の搬出に怒り、夜、草牟田火薬庫を襲って、弾丸・武器類を奪取した。この夜以後、連日、各地の火薬庫が襲撃され、俗にいう「弾薬掠奪事件」が起きた。

一方、1月30日、私学校幹部篠原国幹・河野主一郎・高木七之丞ら七名は会合し、谷口登太に中原尚雄ら警視庁帰藩組の内偵を依頼し、同日暮、谷口報告により中原の西郷暗殺計画を聞いた。

篠原国幹・淵辺群平・池上四郎・河野主一郎ら私学校幹部は善後策を話し合い、小根占で猟をしていた西郷隆盛のもとに西郷小兵衛を派遣した。

また、弾薬掠奪事件を聞き、吉田村から鹿児島へ帰ってきた桐野利秋は篠原国幹らと談合し、2月2日に辺見十郎太ら3名を小根占へ派遣した。

かくして四弟小兵衛と辺見から西郷暗殺計画と弾薬掠奪事件を聞いた西郷は、これに対処するために鹿児島へ帰った。帰る途中、西郷を守るために各地から私学校徒が馳せ参じ、鹿児島へ着いたときには相当の人数にのぼった。

1-3 薩軍の結成と出発

私学校党は2月3日、中原尚雄ら60余名を一斉に捕縛し、以後、苛烈な取調べがおこなわれた。その最中の2月4日夜、小根占から帰った西郷は幹部たちを従え、旧厩跡にあった私学校本校に入った。

翌5日、私学校幹部及び137分校長ら200余名が集合して大評議がおこなわれ、今後の方針が話し合われた。別府晋介と辺見十郎太は問罪の師を起こすべしと主張したが、永山弥一郎は西郷・桐野・篠原・村田ら数名が上京して政府を詰問すべしと主張した。永山策には山野田一輔・河野主一郎が同調した。

しかし、池上四郎が上京途中の危険を説いて反対した。そこで村田三介は寡兵随従策を、野村忍介は自分が寡兵を率いて海路で小浜に出で、天皇に上奏する策を主張した。

こうして諸策百出して紛糾した。最後に桐野が「断の一字あるのみ、…旗鼓堂々総出兵の外に採るべき途なし」と断案し、全軍出兵論が満座の賛成を得た。永山はこの後も出兵に賛成しなかったが、桐野の説得で後日従軍を承知した。

2月6日、私学校本校に「薩摩本営」の門標が出され、従軍者名簿の登録が始まった。この日、西郷を中心に作戦会議が開かれ、西郷小兵衛の海路から長崎を奪い、そこから二軍に分かれて神戸・大阪と横浜・東京の本拠を急襲する策、野村忍介の海路で長崎に出、そこから東上、豊前・豊後から四国・大坂に出、そこから東上、熊本・佐賀・福岡を経ての陸路東上の三道分進論が出されたが、小兵衛・野村の策は3隻の汽船のみで軍艦を持たない薩軍にとっては成功を期し難く、池上四郎の熊本城に抑えをおき、主力北上論に決せられた(『新編西南戦史』等では池上策が採られたとされているのでそれに従ったが、川尻軍議で池上の主力北上・一部抑え策と篠原の全軍強襲策が対立し、後者に決していることから推せば、この時の結論はむしろ漫然とした陸路東上策であった可能性が高い。川尻で先着した別府晋介に熊本隊の池辺吉十郎が策を尋ねた時に、別府が策は無しと答えたことがこれを証する)。

2月8日に部隊の編成が開始された。2月9日、西郷の縁戚川村純義中将が軍艦に乗って西郷に面会に来たが、会うことができず、県令大山綱良と鹿児島湾内の艦船上で会見した。

このときに大山がすでに私学校党が東上したと伝えたため、川村は西郷と談合することをあきらめて帰途につき、長崎に電報を打って警戒させた。

一方、鹿児島では、2月9日に県庁に自首してきた野村綱から、「大久保から鹿児島県内の偵察を依頼されてきた」という内容の自供を得て、西郷暗殺計画には大久保も関与していたと考えるに至った。

薩軍では篠原国幹が編成の責任者となり、桐野利秋が軍需品の収集調達、村田新八が兵器の調達整理、永山弥一郎が新兵教練、池上四郎が募兵をそれぞれ担当し、12日頃に一応の準備が整えられた。

募兵、新兵教練を終えた薩軍では2月13日、次のように大隊編成がなされた(隊長の正式名称は指揮長。一般に大隊長とも呼ばれた。副長役は各大隊の一番小隊隊長がつとめた)。

一番大隊 ─ 指揮長篠原国幹、一番小隊隊長西郷小兵衛
二番大隊 ─ 指揮長村田新八、一番小隊隊長松永清之丞
三番大隊 ─ 指揮長永山弥一郎、一番小隊隊長辺見十郎太
四番大隊 ─ 指揮長桐野利秋、一番小隊隊長堀新次郎
五番大隊 ─ 指揮長池上四郎、一番小隊隊長河野主一郎
六番・七番連合大隊 ─ 指揮長別府晋介 
六番大隊 ─  指揮長越山休蔵、大隊監軍柚木彦四郎
七番大隊 ─  指揮長児玉強之助

いずれの大隊も10箇小隊、各小隊約200名で、計約2,000名からなっていたが、加治木外4郷から募兵し、後に六番・七番大隊と呼ばれた連合大隊は2大隊合計の総員約1600名で、他の大隊に比べ人員も少なく装備も劣っていた。この外、本営附護衛隊長には淵辺群平がなり、狙撃隊を率いて西郷を護衛することになった。

2月14日、私学校本校横の練兵場(旧厩跡にあった私学校横の旧牧場。『新編西南戦史』『翔ぶが如く』など、閲兵がおこなわれた練兵場を伊敷練兵場としているものが多いが、いずれも誤りである。

「西南戦争における薩軍出陣の「練兵場」について」)で騎乗した西郷による大隊の閲兵式が行われた。翌15日、50年ぶりといわれる大雪の中、薩軍の一番大隊が鹿児島から熊本方面へ先発した(西南戦争開始)。17日には西郷も鹿児島を出発し、加治木・人吉を経て熊本へ向かった。

一方、鹿児島から帰京した川村純義中将から薩軍の問罪出兵の報を得た政府は2月19日、鹿児島県逆徒征討の詔を発し、正式に薩軍への出兵を決定した。

(つづく)


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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