SSブログ

西南戦争(2) [歴史]

 

西南戦争(2)

1-4 征討軍派遣

薩軍が熊本城下に着かないうちにすでに政府側は征討の詔を出し、薩軍の邀撃(ようげき)に動き出していた。薩軍が鹿児島を発したのが2月15日で、熊本城を包囲したのが2月21日。

対して政府が征討の勅を出したのが2月19日であった。つまり薩軍が動き出してわずか4日で、熊本城を包囲する2日前だった。

このことから明治政府の対応の速さの背景には電信などの近代的な通信網がすでに張り巡らされていたことがわかる。明治政府は有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督(総司令官)に任じ、実質的総司令官になる参軍(副司令官)には山県有朋陸軍中将と川村純義海軍中将を任命した。

これは、カリスマ的指導者である西郷に対抗して権威のある貴種を旗印として用いるためと、どちらか一方を総司令官にせずに、同じ中将の2人を副官に据えることで、陸軍と海軍の勢力争いを回避するためであった。

また薩摩・長州の均衡をとる、西郷の縁戚である川村を加えることで薩摩出身者の動揺を防ぐ等の意も含まれていた。当初、第一旅団(野津鎮雄少将)・第二旅団(三好重臣少将)・別働第一旅団(高島鞆之助大佐)・別働第二旅団(山田顕義少将)の外に川路利良少将兼警視庁大警視が率いる警視隊(後に別働第三旅団の主力)などが出動し、順次、他の旅団も出動した。

中でも臨時徴募巡査で編成された新撰旅団は士族が中心の旅団で、その名称から新撰組が再編成されたと驚いた薩兵がいたそうだ。

1-5 熊本城強襲と小倉電撃作戦

2月19日、熊本鎮台が守る熊本城内で火災が起こり、烈風の中、火は楼櫓に延焼し、天守閣までも消失した。この火災の原因は今もって不明である。

2月20日、別府晋介率いる第一大隊が川尻に到着し、熊本鎮台偵察隊と衝突した。相次いで大隊が川尻に到着した21日の夜に川尻で薩軍の軍議が開かれた。

軍議では池上四郎が主張する「熊本に抑えを置き、主力北上」策と篠原国幹らが主張する「全軍による熊本城強襲」策が対立したが、強襲策が採用され、2月22日早朝から順次大隊は熊本に向けて発し、熊本城を包囲強襲した。

桐野利秋の第四大隊・池上四郎の第五大隊は正面攻撃、篠原国幹の第一大隊・村田新八の第二大隊・別府晋介の加治木の大隊、及び永山弥一郎の第三大隊の一部は背面攻撃を担当した。

一方、官軍は谷干城少将を熊本鎮台司令長官、樺山資紀中佐を参謀長として、熊本城を中心に守備兵を配置した。この時の戦力比は薩軍約14000人に対して、鎮台軍約4000人であった。

古来、攻城側は守城側の10倍は必要とされていることからすれば、いかに剽悍な薩摩兵とはいえ、1対3での包囲強襲は無謀な作戦ということができよう。この強襲中の昼過ぎ、遅れて西郷が川尻から代継宮に到着した。

同日午後、薩軍は官軍一部の植木進出を聞き、午後3時に村田三介・伊東直二の小隊が植木に派遣され、夕刻、伊東隊の岩切正九郎が第十四連隊(乃木希典少佐)の軍旗を分捕った。

一方、総攻撃した熊本城は堅城で、この日の状況から簡単には攻め落とせないとみなされた。夜、本荘に本営を移し、ここでの軍議でもめているうちに、官軍の第一・二旅団は本格的に南下し始めた。

この軍議では、一旦は篠原らの強襲策に決したが、遅れて到着した西郷小兵衛や野村忍介の強い反対があり、深夜に開かれた再軍議で熊本城を長囲し、一部は小倉を電撃すべしと決した。

翌23日に池上四郎が村田・深見らの小隊を率いて小倉へ向けて出発したが、途中で激戦の銃声を聞いて池上は田原に転進し、村田三介の小隊だけが小倉方面へ進んだ。しかし、この小隊も植木で官軍と遭遇し、小倉電撃作戦は失敗した。

1-6薩軍主力北部進出と長囲策

薩軍は少ない大砲と装備の劣った小銃で、堅城に籠もり、優勢な大砲・小銃と豊富な弾薬を有する鎮台を攻めるなど無謀この上もない作戦を採用した。

したがって2月21日から24日に至る薩軍の攻撃は悉く失敗しただけでなく、剽悍な士の多くがこの攻城戦で消耗して、24日以後は両軍の対峙状態に陥った。

そこで、薩軍は南下してくる官軍、また上陸してくると予想される官軍、熊本鎮台に対処するために、熊本城強襲策を変更して長囲策に転じ、諸将を次のように配置した。

邀撃軍(官軍の南下阻止)
桐野利秋 ─ 山鹿方面
篠原国幹 ─ 田原方面
村田新八・別府晋介 ─ 木留方面
長囲軍
池上四郎(16箇小隊・2箇砲隊)
海岸守備隊(官軍の上陸展開阻止)
永山弥一郎(三番大隊の主力)
熊本隊(案内・偵察)

植木方面、木留・吉次方面、鳥巣方面、熊本方面では引き続き官軍と薩軍の攻防戦が繰り広げられ、2月20日~27日には熊本方面、3月1日~31日には田原・吉次方面、3月10日~4月15日には鳥巣方面、3月4日~4月15日には植木・木留方面で激しい戦闘が行われた。

なお、この間および後に薩軍に荷担した九州諸県の各隊は、貴島隊(隊長貴島清、薩摩新募の1箇大隊約2,000名)を除けば、大約以下の通りである。

党薩諸隊 ( )内は主な隊長・指揮者
熊本隊(池辺吉十郎) ─ 約1,500名
協同隊(平川惟一・宮崎八郎) ─ 約300名
滝口隊(中津大四郎) ─ 約200名
飫肥隊(伊東直記・川崎新五郎) ─ 約800名
佐土原隊(島津啓次郎・鮫島元) ─ 約400名
人吉隊(黒田等久麿・村田量平) ─ 約150名
都城隊(龍岡資時・東胤正) ─ 約250名
報国隊(堀田政一) ─ 約120名
高鍋隊(石井習吉・坂田諸潔) ─ 約1,120名
中津隊(増田宋太郎) ─ 約150名
延岡隊(大島景保) ─ 約1,000名

1-6-1 高瀬付近の戦い

2月24日、第一旅団(野津鎭雄少将)と第二旅団(三好重臣少将)は相次いで南下中であった。久留米で木葉の敗戦報告を聞いた両旅団長は南下を急ぐ一方、三池街道に一部部隊を分遣した。

第十四連隊(乃木希典少佐)は石貫に進む一方で高瀬方面へ捜索を出した。25日、第十四連隊は山鹿街道と高瀬道に分かれて進撃した。山鹿方面では第三旅団の先鋒1箇中隊の増援を得て24日に転進して来た野村忍介の5箇小隊と対戦することになったが、高瀬道を進んだ部隊は薩軍と戦闘をすることもなく高瀬を占領した。

この時の薩軍の配置はほぼ以下のようになっていた。

山鹿 ─ 野村忍介(5箇小隊)
植木 ─ 越山休蔵(3箇小隊)、池辺吉十郎(熊本隊主力)
伊倉 ─ 岩切喜次郎・児玉強之助ら(3箇小隊)、佐々友房ら(熊本隊3箇小隊)

これに対し、官軍の征討旅団は順次南関に入って本営を設け、ただちに石貫に派兵し、岩崎原に増援を送った。

官軍が高瀬川の線に陣を構築するのを見た岩切らは高瀬川の橋梁から攻撃を仕掛け、熊本隊は渡河して迫間・岩崎原を攻撃した。しかし、岩切らは石貫東側台地からの瞰射に苦しみ、熊本隊は増援を得た第十四連隊右翼に妨げられて、激戦対峙すること2時間、夜になって退却した。

2月26日、越山の3箇小隊は官軍の高瀬進出に対し、山部田と城の下の間に邀線を敷き、佐々らの熊本隊3箇小隊及び岩切・児玉らの3箇小隊は寺田と立山の間に邀線を敷いて高瀬前進を阻止しようとした。

池辺の熊本隊主力は佐々らの部隊が苦戦中という誤報を得て寺田に進んだ。山鹿の野村の部隊は進撃を準備していた。この時、桐野・篠原・村田・別府らが率いる薩軍主力は大窪(熊本市北)に集結中だった。

薩軍主力は大窪で左・中・右3翼に分かれ、次の方向から高瀬及び高瀬に進撃しつつある官軍を挟撃する計画でいた。

右翼隊(山鹿方面) ─ 桐野利秋(3箇小隊約600名)
中央隊(植木・木葉方面) ─ 篠原国幹・別府晋介(6箇小隊約1,200名)
左翼隊(吉次・伊倉方面) ─ 村田新八(5箇小隊約1,000名)

これに対し官軍は、薩軍主力の北進を知らず、前面の薩軍が未だ優勢でないとの判断にもとづき、次のように部署を定めた。

第一陣

前駆 ─ 乃木希典少佐(4箇中隊)
中軍 ─ 迫田大尉(2箇中隊)
後軍 ─ 大迫大尉・知識大尉(2箇中隊)

第二陣

予備隊 ─ 長谷川中佐(4箇中隊)
山鹿方面守備隊 ─ 津下少佐(3箇中隊)
応援(総予備隊) ─ (2箇中隊、1箇大隊右半隊)

薩軍の右翼隊は未明、山鹿から菊池川に沿って南下し、玉名付近の官軍左翼を攻撃し、中央隊は田原坂を越え、木葉で官軍捜索隊と遭遇戦になり、左翼隊は吉次峠・原倉と進み、ここから右縦隊は高瀬橋に、左縦隊は伊倉・大浜を経て岩崎原に進出した。

官軍は捜索隊の報告と各地からの急報で初めて薩軍の大挙来襲を知り、各地に増援隊を派遣するとともに三好重臣旅団長自ら迫間に進出した。官薩両軍の戦いは激しく、三好重臣少将が銃創を負ったほどの銃砲撃戦・接戦がおこなわれた。

午前10時頃、桐野利秋率いる右翼隊は迂回して石貫にある官軍の背後連絡線を攻撃した。この時に第二旅団本営にたまたま居合わせた野津道貫大佐(弟)は旅団幹部と謀って増援を送るとともに、稲荷山の確保を命じた。

この山を占領した官軍は何度も奪取を試みる薩軍右翼隊を瞰射して退けた。次いで、南下してきた野津鎭雄少将(兄)の兵が右翼隊の右側面を衝いたので、猛将桐野の率いる右翼隊も堪らず、江田方面に退いた。稲荷山は低丘陵であるが、この地域の要衝であったので、ここをめぐる争奪戦は西南戦争の天目山ともいわれている(余談、NHKの「その時歴史は動いた」でも取り上げられた)。

右翼隊の左縦隊は官軍を岩崎原から葛原山に退けたが、中央隊は弾薬不足で退却した。この機に援軍を得た官軍中央諸隊は反撃に出た。薩軍も敵前渡河を強行したりして高瀬奪回を試みたが官軍の増援に押され、日没もせまったので、大浜方面へ退却した。官軍も疲労で追撃する余裕が無かった。この方面の戦闘は激戦で西郷小兵衛以下、薩軍諸将が戦死した。

1-6-2 田原坂・吉次峠の戦い

3月1日から3月31日まで、現在の熊本県鹿本郡植木町大字豊岡で田原坂・吉次峠の激戦が繰り広げられた。春先で冷え込みが酷く、雨も降る厳しい状況の中で戦いは始まった。

官軍は田原坂防衛線突破のため、3月11日、軍を主力と別働隊に分けた。主力は田原坂・吉次峠の突破のために、別働隊は山鹿の桐野利秋部隊の動きを封じ込むためにおかれた。

しかし、主力軍は地形を存分に利用した薩軍の激しい銃撃と、抜刀白兵戦に手も足も出ず、田原坂の正面突破を諦めて、西側から攻めて横平山(那智山)を奪うことにした。

白兵抜刀攻撃に対抗するため、官軍は士族出身の兵卒を選び抜刀隊を組織したが、討ち破られたため、3月13日、新たに警視抜刀隊を組織した。

3月14日、官軍は田原坂攻撃を開始したが、結局横平山を占領することはできなかった。しかし、警視抜刀隊が薩軍と対等に戦えることが分かり、有名な抜刀隊の歌が作られた。

官軍は3月15日、薩軍の守備を破り、ついに横平山(那智山)を占領した。この日に初めて官軍は、薩軍の防衛線に割って入ることに成功したのである。3月16日は、戦線整理のために休戦した。

3月17日、官軍は西側からと正面からの攻撃を開始した。しかし、地形を生かした薩軍にあと一歩及ばず、田原坂の防衛線を破ることは出来なかった。この間、3月4日からの官軍の戦死者は約2,000名、負傷者も2,000名にのぼった。

官軍主力隊本営では3月18日、野津鎮雄少将(第一旅団長)・三好重臣少将(第二旅団長)、参謀長野津道貫大佐、高瀬征討本営の大山巌少将などによって幕僚会議が開かれた。この会議は作戦立案と意思統一をするためにおこなわれた。

これまでの戦いの中で、官軍は多大な兵力を注ぎながらも、一向に戦果が挙がらず、兵力のみが費やされてきた。この原因として挙げられるのは、薩軍が優れた兵を保持していることと、地の利を生かして田原坂の防衛線を築いているためである。

現状を打開するには、いち早く田原坂の堅い防衛線突破する必要がある。しかし、兵の疲労を考慮し、19日は休養日として、20日早朝に二方面から総攻撃を決行する、と決めた。

20日早朝、官軍は開戦以来、最大の兵力を投入した。攻撃主力隊は豪雨と霧に紛れながら、二股から谷を越え、田原坂付近に接近した。そして雨の中、二股の横平山の砲兵陣地から田原坂一帯に未だかつてない大砲撃を開始した。

砲撃が止むと同時に薩軍の出張本営七本のみに攻撃目標を絞り、一斉に突撃した。薩軍は官軍の猛砲撃と、断続的に降り注ぐ雨のため応戦が遅れ、七本では状況が把握できないまま攻撃を受けざるを得なかった。

薩軍は防衛線を築いていながらも、突然の攻撃のため徐々に応戦できなくなり、植木方面に敗走した。官軍の攻撃を成功に導いたのは別働の吉次峠部隊の活躍が大きい。吉次峠部隊は、薩軍に対して牽制攻撃を仕掛けた。

これによって官軍主力は「田原坂突破」一本に的を絞ることが出来た。しかし、吉次峠部隊の被害は甚大で、駒井大尉をはじめ、この攻撃で多くの命が失われた。

官軍・薩軍の田原坂での攻防は17日間続いた。しかし、薩軍の健闘もむなしく、植木方面への敗走によって、田原坂の重厚な防衛線は破られた。

その後、官軍は田原坂を下って植木方面までの侵攻を試みたが、途中で薩軍の攻撃にあって中止となった。田原坂の戦いでは薩軍は敗北に終わったが、21日には早くも有明海・吉次峠・植木・隈府を結ぶ線に防衛陣地を築きあげた。そうすることによって官軍の熊本への道を遮断し、攻撃を遅らせようとした。

3月1日に始まった田原をめぐる戦い(田原坂・吉次峠)は、この戦争の分水嶺になった激戦で、薩軍では副司令格であった一番大隊指揮長篠原国幹をはじめ、勇猛の士が次々と戦死した。官軍も3月20日の戦死者だけで495名にのぼった。田原坂の激戦は官軍の小隊長30名のうち11名が命を落としたことからも窺うことができる。こうして多大な戦死者を出しながらも、官軍は田原坂の戦いで薩軍を圧倒し、着実に熊本鎮台救援の第一歩を踏み出した。

(つづく)


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


nice!(1) 

nice! 1

西南戦争(3)西南戦争(1) ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。