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西南戦争(5) [歴史]

 

西南戦争(5)

1-11 鹿児島方面の戦い

まだ戦争の帰趨が覚束なかった2月末、政府は鹿児島の人心を収攬し、薩軍の本拠地を衝くために旧藩の国父であった島津久光に議官柳原前光を勅使として派遣した。

しかし、久光は薩軍に荷担することはしないが、旧主の恩顧を以てしても効がないとした。よって勅使らは中原尚雄らを出獄させ、弾薬製作所・砲台を破壊し、火薬・弾薬を没収して引き揚げた。

熊本城の包囲が解けた4月23日、政府は参軍川村純義海軍中将を総司令官として別働第一旅団(師団長高島鞆之助)・別働第三旅団2箇大隊(田辺良顕中佐)を主力とする陸海軍混成軍を鹿児島に派遣した。

しかし、27日に上陸して本営を設けた川村参軍は情勢を判断して増援を求めた。そこで政府は新たに第四旅団(曾我祐準少将)・別働第五旅団(大山巌少将)1箇大隊を派遣した。

川村参軍が最初に着手したのは市民生活の安定で、仁礼景通大佐を仮の県令として警察業務を代行させ、逃散してしまった県官の逮捕・査明等をおこなわせた。5月3日になると、新県令岩村通俊が赴任して来、西郷に告諭書を送った。

1-11-1 城山・重富・紫原の戦い

薩軍では、4月28日の江代の軍議の後、中島健彦を振武隊など11箇中隊の指揮長として鹿児島方面に派遣した。

監軍貴島清を伴って出発した中島健彦は途中で別府晋介・桂久武らと会して5月1日に軍議を開き、別府晋介が横川に主張本営を置いて鹿児島方面を指揮し、前線部隊の中島らはさらに進んで山田郷から鹿児島に突入することとなった。

5月5日には遅れて到着した相良長良を指揮長とする行進隊など10箇中隊が振武隊と合流した。

薩軍は当初、山田街道から城山北方に出、背面から官軍を攻撃しようとしたが、5月3日は雨に阻まれ、4日は激しい抵抗にあって冷水へ後退した。

6日には西方に迂回して甲突川を越えて急襲しようとしたが、渡河中に猛烈な射撃を受けて大敗し、伊敷へ後退した。この頃、薩軍は各郷から新兵を募集し、新振武隊15箇中隊を編成した。また上町商人からなる振武附属隊も作られた。

5月11日から13日にかけては、催馬楽山の薩軍と海軍軍艦龍驤との間で大規模な砲撃戦がおこなわれ、14日から17日にかけては、官軍によって薩軍の硝石製造所・糧秣倉庫等が焼却された。

薩軍に包囲されて市街の一画を占領している状態の別働第一旅団は24日、武村を攻撃したが敗退した。29日、第四旅団が薩軍の不意を衝いて花倉山と鳥越坂から突入したが、これも撃退された。

5月22日、川村参軍は第四旅団1箇大隊半・別働第三旅団2箇中隊を右翼、別働第一旅団2箇大隊半を左翼として軍艦4隻と小舟に分乗させ、艦砲で援護しながら重富に上陸させて薩軍の後方を攻撃させた。

また、軍艦龍驤を加治木沖に回航して薩軍の増援を阻止させた。左右翼隊の健闘でさしもの薩軍も遂に重富から撃退され、次いで磯付近で包囲攻撃を受け、北方に敗走した。こうして官軍は重富を確保した。

これに対し、23日、中島健彦・貴島清・相良長良は官軍に反撃し、行進隊8箇中隊と奇兵隊2箇中隊で雀宮・桂山を襲撃し、多数の銃器・弾薬を獲得した。

5月24日、別働第一旅団と別働第三旅団は大挙攻勢に出、涙橋付近で交戦する一方、軍艦に分乗した兵が背後を衝き、薩軍を敗走させた。逆襲した薩軍と壮烈な白兵戦が展開されたが、夕方、暴風雨になり、これに乗じた官軍の猛攻に弾薬乏しくなった薩軍は耐えきれず、吉野に退却した。

この紫原(むらさきばる)方面の戦闘は鹿児島方面でおこなわれた最大の激戦で、官軍211名、薩軍66名の死傷者を出した。翌25日、第四師団は下田街道を南下し、坂元・催馬楽・桂山から別府隊・振武隊十番中隊の背後を攻撃し、吉野へ追い落とした。26日には同師団が鳥越道と桂山の二方から前進攻撃したところ、薩軍は抵抗することなく川上地方へ退却した。

1-11-2 官軍主力の鹿児島連絡

大口南部の薩軍を退けた川路利良少将率いる別働第三旅団は6月23日、宮之城に入り川内川の対岸および下流の薩軍を攻撃した。一斉突撃を受けた薩軍は激戦の末、遂に鹿児島街道に向かって退却した。

別働第三旅団の部隊は翌24日には催馬楽に至り、次々に薩軍の堡塁を落として、夕方には悉く鹿児島に入り、鹿児島周辺の薩軍を撃退した。こうして官軍主力と鹿児島上陸軍の連絡がついた。

退却した薩軍は都城に集結していると予測した川村純義参軍は6月29日、別働第一旅団を海上から垂水・高須へ、第四旅団を吉田・蒲生へ、別働第三旅団を岡原・比志島経由で蒲生へ進め、都城を両面攻撃することとした。また海軍には重富沖から援護させ、鹿児島には第四旅団の1箇大隊を残した。

1-12 都城方面の戦い

人吉方面撤退後の6月12日 、村田新八は都城に入り、人吉・鹿児島方面から退却してきた薩軍諸隊を集め、都城へ進撃する官軍に対する防備を固めた。

1-12-1 恒吉方面

7月7日、振武隊大隊長中島健彦は国分より恒吉に到着した。このとき官軍は百引・市成に進駐していたので、この方面への攻撃を決定した。振武隊は夜に恒吉を出発し、8日に百引に到着した。

ここで三方面から官軍を抜刀戦術で襲撃した。不意を突かれた官軍は二川・高隈方面まで敗走した。この戦いで薩軍の死傷者が8名ほどであったのに対し、官軍の死傷者は95名ほどで、そのうえ大砲2門・小銃48挺・弾薬など多数の軍需品を奪われた。

一方、越山休蔵・別府九郎ら率いる市成口牽制の奇兵隊・振武隊・加治木隊も8日に市成に到着した。越山らが兵を三方面に分けて進撃したのに対し、官軍は阜上からこれを砲撃し、戦闘が開始された。

戦闘は激しいものとなり、夕方、官軍は民家に火を放ち、二川に退却した。薩軍も本営の指令で兵を恒吉に引き揚げ、振武十一番隊を編隊し直し、奇兵隊一・二番中隊とした。

大崎に屯集しているとの情報を得た先発の奇兵隊は7月11日、官軍を奇襲したが、二番隊長が戦死するほどの苦戦をした。そこで、勝敗が決しないうちに蓬原・井俣村に退却した。

一方、後発の振武隊は進路を誤り、荒佐の官軍と遭遇し、半日に渡り交戦したが、結局大崎付近まで退却した。7月12日、蓬原・井俣村の奇兵隊は大崎に進軍したが、荒佐野の官軍はこの動きを察知し、大崎にて両軍が激突した。

当初、戦況は薩軍にとって不利な方向に傾いていたが、大崎の振武隊と合流し、官軍に快勝した。しかし、末吉方面が危急の状態に陥ったので、この夜、村田新八は各隊に引き揚げて末吉に赴くように指示した。

1-12-2 踊方面

横川方面が官軍に制圧されてしまったため、7月1日、薩軍の雷撃隊六・八・十・十三番中隊、干城隊一・三・五・七・九番中隊、正義隊四番中隊等の諸隊は踊郷に退却し、陣をこの地に敷いた。

官軍は7月6日、国分郷に進入して背後より踊の薩軍を攻撃し、薩軍は大窪に退却した。薩軍は襲山郷の桂坂・妻屋坂を守備すべく、干城隊七番中隊などを向かわせ、その他の諸隊に築塁の準備をさせたが、踊街道から官軍が進出しているとの情報を受け、正義隊四番・雷撃隊十三番・干城隊一番隊・雷撃隊八番隊がこれを防いだ。

また、官軍は襲山街道からも攻めてきたため、干城隊三・七番隊、雷撃隊六番隊がこれを防いだが、決着はつかず両軍は兵を退いた。ここで官軍は第二旅団全軍をもって大窪の薩軍を攻めた。

7月12日、辺見十郎太は赤坂の官軍の牙城を攻撃するため、雷撃隊を率いて財部の大河内に進撃。この地は左右に山があり、中央に広野が広がっているという地形となっており、官軍はその地形に沿う形で陣を敷いていたため、薩軍は左右翼に分かれて山道から官軍を奇襲し優位に立ったが、雨が降り進退の自由を失い、あと一歩のところで兵を引き揚げた。

7月17日、辺見十郎太は奇兵隊を率いてきた別府九郎と本営の伝令使としてやってきた河野主一郎らと合流し、荒磯野の官軍を攻撃するため兵を本道・左右翼に分け、夜明けに高野を出発した。

辺見らの諸隊は官軍に対し善戦するが、河野が本営に帰還するよう命じられたことによる右翼の指揮官の不在と官軍の援軍の参戦、弾薬の不足により、雷撃隊は高野へ、奇兵隊は庄内へとそれぞれ退却した。

19日には都城危急の知らせにより高野の雷撃隊は庄内へ移動し守りを固めた。また辺見十郎太は23日の岩川攻撃作戦のために雷撃六番隊、干城七番を率いて岩川へ向かった。

1-12-3 福山方面

第三旅団が7月10日、敷根・清水の両方面から永迫に進軍し、行進隊十二番中隊を攻撃したので、行進隊は通山へ退却した。一方、敷根・上段を守備していた行進隊八番中隊は、官軍の攻撃を受け、福原山へと退却した。

行進隊八・十二番中隊は上段を奪回しようと官軍を攻撃するが、破ることができず、通山へ退却した。7月15日早朝、行進隊・奇兵隊は嘉例川街道を攻撃したが、官軍の守りは堅く、加治木隊指揮長越山休蔵が重傷を受けたため、攻撃を中止し通山へ退却した。

7月23日、22日に官軍が岩川に進出したとの報を受け、高野から雷撃隊八・七番隊・干城隊七番隊を率いてきた辺見十郎太と合流し、辺見十郎太・相良長良を指揮長として岩川へ進軍し、官軍と交戦した。16時間にも及ぶ砲撃・銃撃戦であったが、結局、薩軍は官軍を破れず、末吉へと退却した。

1-12-4 高原方面

第二旅団は7月14日、小林から高原を攻撃し高原を占領した。薩軍は7月17日、堀与八郎を全軍指揮長とし雷撃隊・鵬翼隊・破竹隊などの9中隊を正面・左右翼・霞権現攻撃軍(鵬翼三番隊)の4つに分け、深夜に植松を発ち、正面・左右翼軍は暁霧に乗じて高原の官軍を奇襲し、あと一歩のところで高原を奪還するところであったが、官軍の増援と弾薬の不足により兵を引き揚げた。

一方、霞権現へ向かった鵬翼三番隊は奇襲に成功し、銃器・弾薬等の軍需品を得た。この戦い以降、官軍は警戒を強め、7月17日に堡塁や竹柵を築いて薩軍の奇襲に備えた。7月21日薩軍は再び高原を攻撃するため官軍を攻撃するが、官軍の強固な守備と援隊の投入により、高原奪還は果たせず、庄内へと退却した。

1-12-5 財部・庄内・通山・末吉方面

別働第三旅団は7月24日、粟谷から財部に進軍し、指揮長不在の薩軍を攻撃して財部を占領した。続いて、退いた薩軍を追って、右翼を田野口・猪子石越から三木南・堤通に進め、本体・左翼を高野村街道から進めさせ、平原村で河野主一郎部隊の守備を突破し、庄内を占領した。薩軍が都城に退却したため、別働第三旅団はさらにこれを追撃して都城に侵入した。

第四旅団は福山と都城街道・陣ヶ岳との二方面から通山を攻撃した。中島健彦は振武隊を率いてこれを防ぎ、善戦したが、すでに都城入りしていた別働第三旅団により退路を阻まれて大打撃を受けた。その間に第四旅団は都城に入ることができた。別働第一旅団は岩川から末吉の雷撃隊(辺見十郎太)・行進隊(相良長良)と交戦し薩軍を敗走させ、都城に入った。

7月24日、要所である庄内方面・財部方面が官軍に占領された結果、都城の各方面で薩軍は総崩れとなり、この日官軍は都城を完全に占領した。

これ以降、薩軍は官軍へ投降する将兵が相次ぐものの、活路を宮崎へと見出していこうとした。しかし、この守備に適した都城という拠点を官軍に奪取された時点で、戦局の逆転はほぼ絶望的となってしまった。

1-13 豊後・美々津・延岡方面の戦い

豊後・日向方面は4月末から5月末にかけて、野村忍介が率いる奇兵隊とそれを後援する池上四郎の部隊の働きで薩軍の支配下におかれたが、官軍の6月からの本格的反撃で徐々に劣勢に追い込まれていった。

薩軍は都城の陥落後、宮崎の戦い、美々津の戦、延岡の戦いと相次いで敗れて北走し、8月末には延岡北方の長井村に窮することとなった。

1-13-1 三田井・豊後・日向方面

4月30日、西郷隆盛から豊後方面突出の命を受けた奇兵隊指揮長野村忍介は、椎葉山を越え、一部を富高新町(細島西方)の守備及び細島方面の警備に任じ、主力は延岡に進出した。

これを後援するために5月4日に三田井方面に派遣された池上四郎指揮部隊約1000名は、薩軍の本拠地人吉と延岡の交通路にあたる三田井の警備に部隊の一部を当て、主力は東進して延岡に進出した。

延岡に進出した薩軍はここに出張本営を設け、弾薬製造、募兵、物資調達をし、奇兵隊1箇中隊を宮崎に、奇兵隊2中隊を美々津に、奇兵隊3中隊を細島に、奇兵隊3箇中隊を延岡に配置して、政府軍がまだ進出していない日向を支配下に置いた。

以後、池上四郎は延岡から豊後方面に進出した野村忍介を後援・指揮するとともに三田井方面の指揮をも執った。

5月14日、高城七之丞率いる正義隊など6箇中隊は延岡街道鏡山の熊本鎮台警備隊を襲撃し、追撃して馬見原、川口に進出した。

熊本鎮台部隊が5月22日に馬見原から竹田方面に転進すると、この方面を担任することになった第一旅団は5月25日、折原を攻撃し、遂に三田井を占領した。

しかし、三田井を占領された薩軍は6月1日、日影川の線を占領し、官軍進撃を阻止した。こうして苦戦・後退しながらも、薩軍は8月まで延岡方面への官軍の進出を阻止しつづけた。

1-13-2 豊後方面

奇兵隊指揮長野村忍介は、5月10日以後、奇兵隊8個中隊を率いて、本格的に豊後攻略を開始した。12日に先発の4箇中隊が延岡を出発して重岡、13日に竹田に入って占領し、ここで募兵して報国隊数100名を加えた。

14日には後続の4箇中隊も竹田に到着し、大分突撃隊を選抜して部隊に加えた。このように豊後攻略は順調に進展した。しかし、政府軍は15日に熊本鎮台と第一旅団から部隊を選抜して竹田に投入して反撃に出た。

両軍の激戦は10数日におよび、29日に竹田は陥落して政府軍の手に落ちた。奇兵隊は6月1日に臼杵を占領したが、6月7日の野津道貫大佐の指揮する4箇大隊の攻撃と軍艦3隻による艦砲射撃により6月10日に敗退した。こうして北方から圧力を受けた奇兵隊は6月22日、本拠地を熊田に移した。

1-13-3 野尻方面

破竹隊は小林を守備していたが、7月11日、官軍第二旅団によって占領された。官軍はさらに軍を進めて薩軍と21日から野尻で交戦したが、薩軍は疲労のため勢いをなくし、別働第二旅団が翌22日に野尻を占領した。

1-13-4 宮崎方面

7月24日、第三旅団は河野主一郎らの破竹隊を攻撃し、庄内を陥落させた。同日、別働第一旅団は末吉を攻撃し、別働第二旅団は財部を攻撃した。そしてついに第三旅団・別働第三旅団・第四旅団が都城を陥落させた。

7月25日、薩軍の中島健彦や貴島清らの振武隊、行進隊、熊本隊が山之口で防戦したが、第三旅団に敗北した。この時、三股では別府九郎の奇兵隊などが防戦していた。

7月27日、別働第三旅団が飫肥を攻めて陥落させた。この時、多くの飫肥隊員、薩兵が投降した。高岡を攻撃するため今別府に集まった第二旅団は7月28日、別働第二旅団と協力して紙屋に攻撃を仕掛けた。

辺見十郎太・中島健彦・河野主一郎・相良長良らの防戦により官軍は苦しい戦いになったが、やっとの思いでこれを抜いた。翌29日、官軍は兵を返して高岡に向かう途中で赤坂の険を破り、高岡を占領した。

都城・飫肥・串間をおさえた第三旅団・第四旅団・別働第三旅団は7月30日、宮崎の大淀河畔に迫った。同時に穆佐・宮鶴・倉岡を占領した。

7月31日、第三旅団・第四旅団・別働第三旅団は大雨で水嵩の増した大淀川を一気に渡って宮崎市街へ攻め込んだ。薩軍は増水のため官軍による渡河はないと油断していたので、抵抗できず、 宮崎から撤退したため、官軍は宮崎を占領した。次いで第二旅団により佐土原も占領した。

そこで宮崎・佐土原と敗北した薩軍は、桐野利秋をはじめ辺見十郎太、中島健彦・貴島清・河野主一郎らの諸隊と、池辺吉十郎の熊本隊、有馬源内が率いる協同隊やほかに高鍋隊も高鍋河畔に軍を構えて官軍の進撃に備えた。

これに対し官軍は、広瀬の海辺から第四旅団・第三旅団・第二旅団・別働第二旅団と一の瀬川沿いに西に並んで攻撃のときを待った。この時、別働第三旅団は多くの薩軍兵捕虜の対応をするために解団した。

8月1日、海路より新撰旅団が宮崎に到着した。この後、一の瀬川沿いに戦線を構えている他の旅団と共に高鍋に向かった。翌2日、各旅団が高鍋を攻め、陥落させた。

1-13-5 米良方面

7月13日、人吉が陥落した後、干城隊指揮長阿多荘五郎は米良口の指揮を執ることとなり、諸隊を編成して米良方面の守りを固めていたが、7月23日、高山天包に進撃するも敗れ、越の尾に退却した。

7月29日、越の尾を攻めてきた官軍にまたも敗退した。8月2日、銀鏡にいた部隊は美々津に退却せよとの命令を受け、美々津に向かった。

1-13-6 美々津方面

8月2日に高鍋を突破され敗退した薩軍は、美々津に集結し戦闘態勢を整えた。本営は延岡に置き、山蔭から美々津海岸まで兵を配置した。この時に桐野利秋は平岩、村田新八は富高新町、池上四郎は延岡に、順次北方に陣を構えて諸軍を指揮した。

別働第二旅団は8月4日、鬼神野本道坪屋付近に迂回して間道を通り、渡川を守備していた宮崎新募隊の背後を攻撃した。薩軍は渡川、鬼神野から退いて、8月6日、山蔭の守備を固めた。西郷隆盛はこの日、各隊長宛に教書を出し奮起を促した。

8月7日、奇兵隊三・六・十四番隊は別働第二旅団の攻撃を受け、山蔭から敗退。官軍はそのまま薩軍を追撃し、富高新町に突入した。薩軍はこれを抑えきれず、美々津から退いて門川に向かった。同日、池上四郎は火薬製作所と病院を延岡から熊田に移し、本営もそこに移した。(つづく)


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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