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西南戦争(6) [歴史]

 

西南戦争(6)

1-13-7 延岡方面

官軍は8月12日、延岡攻撃のための攻撃機動を開始した。別働第二旅団が8月14日に延岡に突入し、薩軍は延岡市街の中瀬川の橋を取り除き抵抗したが、やがて第三・四旅団、新撰旅団も突入してきたため敗退した。この日の晩、西郷隆盛は自ら陣頭に立ち、明朝官軍との雌雄を決しようと発言したが、諸将はまだその時機ではないと諌めた。

薩軍は長尾山・無鹿山を拠点に兵を配置した。この時の彼我の勢力は薩軍約3,500名に対し官軍約50,000名であった。8月15日早朝、西郷隆盛は桐野利秋・村田新八・池上四郎・別府晋介ら諸将を従え、和田越に上って督戦をした。

一方山県有朋参軍も樫山にて戦況を観望した。このように両軍総師の督戦する中で戦闘は行われ、一進一退の攻防の最中、官軍は別隊を進め、薩軍の中腹を攻撃しようと熊本隊に迫った。熊本隊は官軍を迎え撃ったが苦戦、辺見十郎太と野村忍介が熊本隊を援助したが、官軍は守備を突破した。

激戦の末、寡兵のうえ、軍備に劣る薩軍は長尾山から退き、続いて無鹿山からも敗走し、熊田に退却した。この機に官軍は総攻撃を仕掛けて薩軍の本拠を一挙に掃討することを決意し、明朝からの総攻撃の準備を進めた。

1-14 可愛岳突囲

8月15日、和田越の決戦に敗れた薩軍は長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎宅に本営を置いた。降伏・決戦・突破の選択に迫られた薩軍は8月17日午後4時、官軍の長井包囲網を脱するため、遂に可愛岳突破を決意した。

突破の隊編成として、前軍に河野主一郎・辺見十郎太、中軍に村田新八・池上四郎、後軍に中島健彦・貴島清をおき、桐野利秋は西郷隆盛と共に中軍で総指揮をとった。この時の突囲軍は精鋭300~500(『新編西南戦史』は約600名)であった。

17日夜12時に可愛岳に登り始め、翌18日早朝、可愛岳の頂上に到着した。ここから北側地区にいた官軍を見たところ、警備が手薄であったため、薩軍は辺見十郎太を先鋒に一斉に下山攻撃を開始した。不意を衝かれた官軍の第一・第二旅団は総崩れとなり、退却を余儀なくされた。このため薩軍は、その地にあった官軍の食糧、弾薬3万発、砲一門を奪うことに成功した。

1-15 山岳部踏破と帰薩

可愛岳を突破した薩軍は8月18日、鹿川分遺隊を粉砕し、三田井方面への進撃を決定した。その後、薩軍は19日には祝子川の包囲第2線を破り、翌20日に鹿川村、中川村を落として三田井へと突き進んだ。

21日、薩軍は三田井へ到着するが、ここで桐野利秋は官軍による包囲が極めて厳重であり、地形が非常に険しいことから薩軍の全軍が突破することは困難であると考え、熊本城の奪取を提案するも、西郷隆盛はこれを却下し、22日深夜、薩軍は鹿児島へ向けて南進を開始した。

これに対し、薩軍による可愛岳突破に衝撃を受けていた官軍は、横川・吉松・加治木などに配兵し、薩軍の南進を阻止しようとするが、少数精鋭であり、かつ機動力に長ける薩軍の前に失敗に終わった。

これは、薩軍の行動が始めから一定の目的に従っていたわけではなく、その時々の官軍の弱点を突くものであり、鹿児島へ向けて出発したものの、最終的に鹿児島突入を決定したのは、米良に到着した後のことであったということも一因であった。

8月24日、薩軍は七山・松ヶ平を抜け、神門に出たが、ここで別働第二旅団松浦少佐の攻撃を受けるも、何とかこれを免れ、26日には村所、28日には須木を通過し、小林に入った。

同日、薩軍は小林平地からの加治木進出を図るが、薩軍の南進を阻止すべく鹿児島湾、重富に上陸した第二旅団にこれを阻まれ、失敗に終わった。迂回を余儀なくされた薩軍は9月1日、官軍の守備隊を撃破して鹿児島に潜入した。

1-16 城山籠城戦

9月1日、鹿児島入りすると、辺見十郎太は私学校を守っていた200名の官軍を排除して私学校を占領し、突囲軍の主力は城山を中心に布陣した。このとき、鹿児島の情勢は大きく薩軍に傾いており、住民も協力していたことから、薩軍は鹿児島市街をほぼ制圧し、官軍は米倉の本営を守るだけとなった。

しかし、9月3日には官軍が形勢を逆転し、城山周辺の薩軍前方部隊を駆逐した。反撃に出た薩軍では9月4日、貴島清率いる決死隊が米倉を急襲したが、急遽米倉へ駆けつけた三好重臣少将率いる第二旅団に阻まれ、貴島以下決死隊は一掃された。

こうして官軍は9月6日、城山包囲態勢を完成させた。この時に城山に籠もる薩軍は350余名(卒を含めると370余名)であった。官軍の参軍山県有朋中将が鹿児島に到着した9月8日、可愛岳の二の舞にならないよう、「包囲防守を第一として攻撃を第二とする」という策をたて、西南戦争は最終局面に入った。

9月19日、一部の将士の相談のもと、山野田一輔・河野主一郎が西郷の救命のためであることを隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって西郷の縁戚でもある参軍川村純義海軍中将のもとに出向き、捕らえられた。

しかし、22日に西郷は「城山決死の激」を出し決死の意を告知した。翌23日、軍使山野田一輔が持ち帰った参軍川村純義からの降伏の勧めを無視し、参軍山県有朋からの西郷隆盛宛の自決を勧める書状にも西郷は返事をしなかった。

9月24日午前4時、官軍砲台からの3発の砲声を合図に官軍の総攻撃が始まった。このとき西郷隆盛・桐野利秋・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら将士40余名は西郷が籠もっていた洞窟の前に整列し、岩崎口に進撃した。

弾丸が飛び交う中で指揮していた西郷隆盛は腹と股に銃撃を受け、島津応吉久能邸門前の路上に倒れて歩行不可能になった。己の死期を悟った西郷隆盛は、東方を遥拝した後に別府晋介の介錯により切腹した。

その頃官軍は岩崎谷の周囲から包囲し、狭い陣地に猛烈な射撃を加えた。この地において薩軍の将士、桐野利秋・村田新八・桂久武・池上四郎・辺見十郎太・山野田一輔・岩本平八郎等40名余りが命を落とした。

しかし、挙兵の意を後世に伝えるために別府九郎・野村忍介・神宮司助左衛門は熊本鎮台の部隊に、坂田諸潔は第4旅団の部隊にそれぞれ降伏した。中島健彦だけは今以て行方が知れない(「鹿児島籠城記」では岩崎谷で戦死したという。これが正しいようだ)。

西南戦争による官軍死者は6,403人、薩軍死者は6,765人に及んだ。この戦争では多数の負傷者を救護するために博愛社が活躍した。

2 エピソード

2-1西郷南洲と十年役

当時、此薩摩の暴動に付いては、西郷が加つて居るか居らぬかと云ふことは、一の疑問であつた。現に大山すらも「西郷は決して加つて居らぬ」と云ふものだから、一般の人も「大山がああ云ふのであるから、西郷は加つて居らぬ。」と云ふたものであつたが、私は、「いや、そうでない。西郷はくみする考はなくとも、是迄の情報に於いては、外のものが必ず漕ぎ出すに違ひない。」と云ふた。(『西南記伝』引山県有朋実話)

2-2 西郷先生の徳

熊本県、士農工商に至るまで、此節は薩兵を慕ふが如き有様にて、万事不都合の義、毛頭無し。西郷先生之徳、万世に輝きたるものに候。(『西南記伝』引山野田一輔「陣中日記」)

2-3 熊本籠城中の惨状

籠城が久しくなるに従って、糧食は減つて来る。煙草も尽きて来る。谷子爵の当時の苦衷と云ふものは、共に籠城した余等でなければ、到底想像だも出来ないであろうと思はれる。其所で、子爵は、幹部は、戦闘線に出なくともいいのであろうからと云ふので、余等一同は、栗の粥を啜り、砲弾で死んだ軍馬の肉を、是幸いと取って煮染にして喰ふ。……(『西南記伝』引樺山資紀実話)

2-4 薩軍の敵丸収集

其の日(三月十八日)正面軍の密使、福田丈平、植木より至る。其君に曰く、賊軍、弾丸己に欠き、村民をして、我軍の射る所を、取拾せしめ、1箇二厘五毛の償を以つて之を買ふ。然れども、唯、其券を与ふるのみ。之を請求するも賠償せず。衆乃其詐欺を知り、今復之を拾はずと。(『征西戦記稿』)

2-5 古番峠

古番峠は、八代を距ると、約五里、球摩八代両郡の交界にして、四顧皆山路、極めて険階、所謂一夫之を扼すれば、万卒も過る能はざるもの。面して隻賊の守るなし。我兵一丸を費さずして之を踰え、山口村に至る。村中僅に十戸許、皆山根に行き、渓水を汲て飲料とす。地に米穀を産せず、芋裨の類を以て食とす。実に山間の孤村なり。(『征西戦記稿』)

2-6 起死回生

是より先、戦死者を収拾するに方り、一兵卒其の隻眼を銃射せられ、八日間晶外に外れ、絶えて飲食せず、能く生命を保てりと。今、之を病院に致す、口言ふこと能はず、唯目を開きたるのみ。 官急に鶏卵を火酒に加へて之を飲ましめ、蘇せりと。(『従西日記』)

2-7 猪俣勝三

是日(7月1日)伍長代理猪俣勝三、坪屋村の炊事所に在り。高畑山巳に敗るると雖ども、未だ炊事所を移すの命を受けず、乃ち炊具を収めて命を待つ。而して隊長は、谿を下り、岡許に退さしを以て、其命を伝ふるに暇あらず、賊は巳に坪屋に乱入す。猪俣遂に害に遭ふ。人其能く職を守ってするを嘆惜す。(『西南戦記稿』)

2-8 薩軍困苦を極む

賊の降伏日に夥しく、手負人等の咄にも、賊軍の困苦を語らざるはなし。伊集院某は、45日前、都城より帰り来り某困しみしを語るに、4日間、イチゴと草木の葉とを喰ひ、或は土をも喰たる由。

其他、竹内金次郎も先日走り帰りて、語るにも、小銃の弾丸は樫木を用る等、実に困難を極めたりと云。(『西南記伝』引市来四郎 『十年日誌』)

2-9 牙営に三味線と婦人の駒下駄

薩将辺見十郎太が、先鋒隊を掲げて、可愛岳の官軍を突いたときは、時恰も18日の昧爽、官軍守兵の交替期で、其時、守兵の混乱雑踏と云ふものは、殆ど形容することが出来ぬ。

而して辺見が、獅子奮迅の勢で、絶壁を飛下り、萱原の中を飛び越え、大喝一声、電光石火の如く、官軍の牙営(第一旅団、第二旅団)に斫り込んだ勢に辟易して、官軍は皆四散し、牙営に在つた三好少将や野津少将は、周章狼狽、措く所を失つて逃げた。

其醜態と云ふものは、実に見るに忍びざる有様で。我等が辺見に従つて、牙営に入つたときには、種種の遺棄品も多くあつたが、一寸、吾人の目を惹いたものは、三味線と婦人の駒下駄であつた。是は正しく官軍の牙営にあつたものである。(矢田宏実話)

3 官軍の編成

鹿児島県逆徒征討総督:有栖川宮熾仁親王
参軍:山縣有朋陸軍中将・川村純義海軍中将
新撰旅団
司令長官:小松宮彰仁親王陸軍少将(5月29日-)
第1旅団
司令長官:野津鎮雄陸軍少将
第2旅団
司令長官:三好重臣陸軍少将(2月29日-)・大山巌陸軍少将(3月10日(別働第1旅団司令長官兼任)-)・黒川通軌陸軍大佐(5月13日-)
参謀長:野津道貫
第3旅団
司令長官:三浦悟楼陸軍少将(3月10日-)
第4旅団
司令長官代理:黒川通軌陸軍大佐(4月15日-)
司令長官:曾我祐準陸軍少将(4月16日-)
別働第1旅団
司令長官:大山巌陸軍少将(2月27日-)・高島鞆之助(3月28日-)
参謀長:岡沢精
下士:津田三蔵(3月11日-)
別働第2旅団
司令長官:山田顕義陸軍少将(3月28日-)
別働第3旅団
司令長官:川路利良陸軍少将兼警視庁大警視・大山巌陸軍少将(6月28日(別働第5旅団司令長官兼任)-)
別働第5旅団
司令長官:大山巌陸軍少将(4月13日-)
熊本鎮台
司令長官:谷干城陸軍少将
参謀長:樺山資紀陸軍中佐
参謀副長:児玉源太郎陸軍少佐
歩兵第13連隊(熊本)
連隊長:与倉知実
大隊長:奥保鞏
歩兵第14連隊(小倉)
連隊長心得:乃木希典陸軍少佐
連隊旗手:河原林雄太陸軍少尉
東京鎮台歩兵第3連隊(高崎):梅沢道治
大阪鎮台歩兵第8連隊(大阪)大隊長:大島義昌陸軍大尉
広島鎮台歩兵第12連隊(丸亀)連隊長:黒木為楨
警視隊
佐川官兵衛(元会津藩家老)・斎藤一(元新撰組隊士)
海軍艦隊指揮官:伊東祐麿海軍少将
その他従軍者
一戸兵衛・大浦兼武・神尾光臣曹長・川上操六・川村景明・志水直・立見尚文(大隊長)・寺内正毅(右腕を負傷)・東条英教・西寛二郎・福島安正

4 参考文献

川口武定『従征日記』、明治十一年初版(青潮社、昭和六十三年復刻)
海軍省編『西南征討志』、明治十八年初版(青潮社、昭和六十二年復刻)
参謀本部陸軍部編『征西戦記稿』、明治二十年初版(青潮社、昭和六十二年復刻)
佐々知房『戦袍日記』、明治二十四年初版(青潮社、昭和六十二年復刻)
川崎三郎『西南戦史』、博文堂、明治三十三年初版(大和学芸社増訂版、一九七七年)
出石猷彦「熊本籠城の実況」(日本史籍協会編『維新史料編纂会講演速記録』、続日本史籍協会叢書、明治四十四~大正六年、東京大学出版会、昭和五十二年復刻)
日本黒龍会編『西南記伝』、日本黒龍会、明治四十四年
加治木常樹 『薩南血涙史』、大正元年初版(青潮社、昭和六十三年復刻)
圭室諦成『西南戦争』、日本歴史新書、至文堂、昭和三十三年
大久保利鎌等編『鹿児島県史』、鹿児島県、昭和十六年
陸上自衛隊北熊本修親会編『新編西南戦史』、明治百年史叢書、昭和五十二年
古閑俊雄『戦袍日記』、青潮社、昭和六十一年
原口泉・永山修一・日隈正守・松尾千歳・皆村武一『鹿児島県の歴史』、山川出版社、1999年
鈴木孝一『ニュースで追う 明治日本発掘②』、河出書房新社 一九九四年
山田尚二「詳説西郷隆盛年譜」(『敬天愛人』第十号特別号、西郷南洲顕彰会)
山田尚二「西南戦争年譜」『敬天愛人』第十五号、西郷南洲顕彰会、平成十一年
塩満郁夫「鹿児島籠城記」『敬天愛人』第十五号、西郷南洲顕彰会、平成十一年
吉満庄司「西南戦争における薩軍出陣の「練兵場」について」『敬天愛人』第二十号、西郷南洲顕彰会 、平成十六年
塩満郁夫「鎮西戦闘鄙言前巻」『敬天愛人』第二十号、西郷南洲顕彰会、平成十六年
塩満郁夫「鎮西戦闘鄙言後巻」『敬天愛人』第二十一号、西郷南洲顕彰会、平成十七年

(おわり)


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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