SSブログ

第一部 豊田章一郎のニッポン考 《4》 [人物・伝記]

第一部 豊田章一郎のニッポン考 《4》

F1の夢に酔うな

 自動車レース最高峰のフォーミュラ1(F1)。参戦は、トヨタの長い間の夢だったとされる。来年からの挑戦へ向けマシンの開発が進んでいる今、豊田章一郎さん(76)も熱い思いを託しているのかと思った。が、返ってきたのは、産業を支えてきた技術者の自負と、厳しい経営者の顔だった。

――F1参戦は夢だったとか。

 「いや、夢じゃない。反対している。英二さん(豊田英二・最高顧問)と、やっちゃいかんと言ってるんだ。車が好きというのとは違うからね。レースというのは技術の本質ではなくて、面白い。だから技術屋があれにのめり込むと、本業を忘れちゃうんですよ。ちょっと古い考えかもしれませんが」

 自ら「内燃機関用噴射弁の研究」で工学博士号を持つ〈技術屋〉。その気質は熟知している。

 「こんなものは、生半可でやるもんじゃない。並大抵で勝てるわけじゃない。生産活動でも同じことですよ。いかに効率よく、機敏にパッパッと手を打つかっていうことですよ。全社挙げて、そこに集中しないとね。ただ、そうすると、本業がおろそかになることにつながる」

 「いつも言っているように、自動車を通じて、より豊かな社会づくりに貢献したいということです。われわれは、産業をやろうとしている」

――それでも賛成したのはどうして。

 「ヨーロッパでも仕事を始めたし、輸出もどんどんと伸ばさなきゃいかん。そのためには、販売活動もしなくちゃね。(F1などのレースは)宣伝の大きい部分なんですよ。だからやる」

3大レースは道楽過ぎる

 産業のための技術、販売戦略としてのF1参戦を強調する豊田章一郎さん(76)。F1では先輩格のホンダの創業者本田宗一郎と比較すれば、"総帥の思想"が形作った企業のカラーが浮かび上がってくる。

 「いつのことだったか、僕が初めてレースを見たのは鈴鹿サーキット(三重県鈴鹿市)でね。大型にはクラウン、中型はコロナ、小型にはパブリカが出て、みんな勝っちゃった。それが最初ですよ」

 「それから何回も、富士スピードウェイ(静岡県小山町)に行ってね。レースは最初のうちはいいよな。ダーッと走って。そのうち、だんだん脱落していって。影がなくなっちゃうと、(僕たちも)スーッと帰る」

――楽しそうですね。やっぱり、レースが好きなのでは。

 「まあ、そりゃ、嫌いじゃないけどね」

 トヨタのレース歴は、実は華々しい。世界ラリー選手権(WRC)やル・マン24時間耐久レース、米国で人気のカートなどに次々と挑戦し、見事な成績を残してきた。しかし、F1参戦には条件を付けた。

 「世界のビッグレースとされるカートと、F1、WRCの3つ全部に参加している会社はないですよ。アメリカのレースは、販売店が好きだからほとんどやってますけど、この3つ全部をやるというのは道楽が過ぎるんじゃないの。だから、どっかやめるのなら、F1をやってもいいよと。その代わり、やる以上は本腰入れてやらないとだめだと、ぼくは思ってるんですよ」

 言葉通り、F1の拠点となるドイツの現地法人「TMG(トヨタ・モータースポーツ)」には、27か国、400人以上の専門スタッフが集まり、マシン開発に取り組んでいる。車体とエンジンともに自前で参加するのは、現時点ではフェラーリしかない。

 「大投資ですよ。ボディーとエンジンと、要するに車全部をつくって出そうという会社はあんまりない。だから、そういう状態を、トップはよく知っていてもらわなくちゃ困る。道楽でね、そんなことやられちゃたまらない」

――トヨタは昨年11月、富士スピードウェイを買収したが、〈遅過ぎるくらいだ〉とおっしゃったとの話もあるが。

 「いや、そんなこと言わない。買えなんて、ひと言も言わない。買うというのを押さえつけた方ですよ」

 モータースポーツに積極的だったホンダの車は、若者をひきつけたと言われる。これに対して、トヨタは堅実、まじめとされ、面白みに欠けると評されたこともある。それが、来年からは同じF1の土俵で戦う。企業カラーの激突でもある。

 「F1に勝とうとして、自動車を始めたわけではない。本田宗一郎さんは、逆かもしれんよ。レースで勝とうというつもりで(始めたのかも)。あの人なんか、自分でドライブしていたしね。勢いが違う。本田さんはスポーツ野郎かもしれん」
(つづく)

--- 読売新聞2001年5月18日掲載 ---

nice!(0) 

第一部 豊田章一郎のニッポン考 《5》 [人物・伝記]

第一部 豊田章一郎のニッポン考 《5》

21世紀わかる万博に

 「21世紀がわかる万博に」。2005年日本国際博覧会協会会長として、豊田章一郎さん(76)の発言が熱くなる。私たちの暮らしから、人類の未来まで、その行方を示す万博に、と情熱を傾ける。

 博覧会協会最高顧問となった堺屋太一さん(65)が、万博の新しいコンセプトを作成中だ。6月中には示される。

 「万博はね、これから堺屋さんが素晴らしいコンセプトを作ってくれると思うが、僕もいろいろ考えている。やはり進歩していかなければならないですな、人類全体が。それにはね、エネルギーの問題とか、環境問題とか、技術の問題とかが絶対必要ですよ。文化だけじゃだめだ。人類だって、あと80年たったら滅亡するっていう本まで出てるんだもの」

 博覧会協会会長には97年に就任。財界に協力を求めるためのお飾りではない。黒田真・元協会事務総長(68)の後任探しで、女性初の経済同友会副代表幹事だった坂本春生さん(63)に白羽の矢を立てた。堺屋さんを最高顧問に招く時も、先頭に立って汗をかいた。堺屋さんは〈情熱にほだされた〉と証言している。

 「20世紀を振り返って、21世紀は人類としてこういう世紀にしていかなきゃいかんよということが、万博に行けばわかるというものにできるといいなと」

――歴史を学べと。

 「人類は、これから何世紀も存続しないとだめでしょう。こんなにじゃんじゃん自然破壊に協力したら(滅んでしまう)。みんなで生きていくためには、歴史、それは何も人類の歴史だけじゃない。そう、地球の歴史もだ。いろいろ勉強していかなければならない」

愛知から始めたい

 「この愛知から始めたい」。豊田章一郎さん(76)が、堺屋太一さん(65)に博覧会協会の最高顧問就任を依頼した際、強調した一言だった。愛知県は大量生産が盛んな工業社会の典型。一番日本的なこの地域から、違ったかたちにしたい、しなければいけないんだとの思いだったという。

 「我々には知恵はあまりないから、(協会最高顧問に)堺屋さんを招いてやっている。(みなさんの中には)ほかにも頭のいい人はいるが、頭だけで実行しない人が多い。それでも、口では言ってもらいたい。実現するのは我々がやりますから」 

 その堺屋さんが語っている。〈トヨタ自動車というのは、日本の高度成長期、大量生産時代の最高の発信者だった。今、豊田さんは、万博によって愛知県から新しい何かを発信したいと考えている〉と。中部地方が得意としてきたモノづくりだけではだめなのか。

 「だめでしょうな。万博にモノづくりじゃ魅力ないのじゃないか。だいたい嫌われているんだよ、モノづくりは。手を動かすことが嫌いになっているんだ」

 「(モノづくり嫌いを)直さないといかんでしょうが、それは教育の問題でね。要するに、こういう机を作りなさいと言っても、作れなくなったらおしまいですから。昔の人は法隆寺みたいなものを造っちゃった。今はのこぎりやのみ、金づちを使えるような人は少ないのでは。コンピューターばかりじゃだめですよ」

 モノづくりの代表として、悔しさは隠さない。しかし、新しい発信を目指し、より魅力ある万博のために、具体的な展示方法に言及している。

 「万博の会場に行ったら、地球はこういうふうにやればやっていけますよと、今のままでいたらだめですよと。そういうことがわかるような展示。小学生にも、中学生にも、大人にもわかるように、段階別に作ってと」

 「未知の世界がたくさんありますから、人類の英知を使って、これから解明していけば、非常に楽しい未来が見えてくるだろうと。そういうのを子供なら子供、大人なら大人が楽しく理解して、いい方向に進んでいくことが基本になるような催しになればいいなと」

――ただ、堺屋さんの思い切った発言に、協会や愛知県が戸惑っているようにもみえますが。

 「そんなことはない。基本的なコンセプトは変えない。堺屋さんと我々は、だいたい一緒だよ。細かいやり方は違うかもしれないけど」

 堺屋さんに全幅の信頼をみせながら、歴史を学ぶことの大切さを重ねて強調した。

 「やはり、歴史を知らないとだめだな。今のことだけ考えていると、来年はうまくいく、いかないということばっかりになる」

(第一部 おわり)

--- 読売新聞2001年5月19日掲載 ---


nice!(0) 

第二部 豊田家 《1》 [人物・伝記]

トヨタ 伝

 三河生まれの世界企業、トヨタ自動車の中核に、「豊田家」がある。同社は自動織機を発明した豊田佐吉を礎として、64年前、長男の喜一郎によって創業された。

 佐吉の独創性や、自動車づくりにかけた喜一郎の情熱は、喜一郎のいとこ英二や、長男の章一郎ら、「豊田家」が輩出した次代のリーダーたちによって受け継がれ、培われて、トヨタの躍進へとつながった。時代が大きく変わる中で、今なお、巨大企業の求心力であり続ける「豊田家」を探る。

第二部 豊田家 《1》

" モノづくり " のDNA

 小雨の降る、まだ肌寒い三月二十五日の昼ごろだった。名古屋城を望む名古屋市西区のホテル「ウェスティンナゴヤキャッスル」の正面玄関に、黒塗りの高級車が続々と乗り付けた。

 車から降りてきたのは、トヨタ自動車会長の奥田碩(ひろし)(68)、社長の張富士夫(64)をはじめトヨタグループ各社のトップや販売店の代表者、そしてトヨタ自動車や豊田自動織機製作所の創業家、豊田一族の面々だった。

 ホテルで最も大きな宴会場「天守の間」の上座では、白いカサブランカやピンクのバラで飾られ、スポットライトを浴びたモノクロの二枚の肖像写真が、彼らの到着を待っていた。

 織機王・豊田佐吉の長男、喜一郎と、佐吉の婿養子となった利三郎である。一九三七年、トヨタ自動車工業を創業したエンジニアの喜一郎と、経理に明るい利三郎の義兄弟は、くしくも一九五二年、相次いで亡くなった。

 この二人の五十回忌を記念した盛大な昼食会が、喜一郎の長男で同社名誉会長の豊田章一郎(76)の主催で開かれた。章一郎の長男で同社取締役の章男(45)が、約百人の座を仕切る司会を務めた。

 食事が進み、招待客代表として締めのあいさつに立ったのは、奥田だった。

 「二人の研究開発に注いだ情熱と、モノづくりにかけた熱い思いは、今でいうベンチャー精神と言えるでしょう。このトヨタDNA(遺伝子)は先達たちから引き継がれ、現在のトヨタを作り上げています」

 現在のトヨタの最高実力者が、創業者から続いてきた一筋の流れを強調した。昼食会終了後、ロビーに出てきた張が語った。

 「祖先を大切にする豊田家らしい。席順は、血のつながりのない自動車販売店や部品の協力メーカーが最前列で、豊田家の人たちは末席。決して前に出ることはないが、こうしたことが精神的な求心力になっているのではないか」

 創業者をしのぶ昼食会が、豊田家の持つ意味を改めて確認する場になったと、張は言うのである。

心遣い 組織に脈々

 名古屋市千種区城山町の高台に、こぢんまりとした寺がある。豊田家のぼだい寺、常楽寺である。

 三月二十五日、ホテルで喜一郎、利三郎の五十回忌の昼食会が始まる二時間ほど前、豊田家の人々や近親者はホテルから約六キロ離れたこの寺に集まっていた。

 盆や正月も別々に過ごす一族が唯一集合するのが、節目の法要の時という。二人の合同の法要は二十数年ぶりだ。

 体調を崩して出られなかったトヨタ自動車最高顧問の豊田英二夫妻以外は、関係者のほとんどが出席した。章一郎(76)の弟で、病気で社長の座を去った達郎(72)も、杖をつきながらゆっくり寺に入った。章一郎の妹、和可子を妻とした元建設相の斉藤滋与史(しげよし)(82)も車いすで駆けつけた。章一郎が「あっくん」と呼ぶ章男(45)や孫たちの姿もある。

 法要後は、代々の墓がある近くの日泰寺に場所を移し、喜一郎や利三郎の墓参りをした。

 最後に章一郎が二人の墓に手を合わせたのを見届けると、集まった三十人ほどが、だれ言うともなく一斉にお辞儀をした。一族の結束が再確認された瞬間だった。

 豊田家が五十回忌の墓参りを済ませた二日後が喜一郎の命日である。この日、豊田家の墓には、再びスーツ姿の男たちが集まっていた。豊田自動織機製作所の社員たちだった。

 同社では、織機王の佐吉の墓だけでなく、喜一郎、利三郎の命日にも、部長会、課長会、班長会など職制会の代表が墓参りをする。出張扱いの業務である。この日は、今年、人事異動で昇進したばかりの八人が、顔をそろえていた。

 豊田家の墓地の区画は約三百平方メートルもあり、墓石も三十基近い。迷わないように、引率役の庶務係長が墓の配置図と線香を配り、「今日は、喜一郎さんの命日です。せっかくですから、佐吉翁、利三郎さんのお墓もお参りしてください」と声をかけた。その言葉を合図のようにして、参加者は墓を一つ一つ確かめながら、線香を手向けていった。

 「創業者は遠い存在かと思っていましたが、墓参りに来て親近感を感じました」と、班長の男性(34)。会社の発展を祈ったという。

 豊田家と姻せき関係にあるINAX会長の伊奈輝三(63)は「豊田の本家は冠婚葬祭をちゃんとやっている。豊田家にならって、トヨタ自動車も、人を非常に大切にしている印象を受ける」と証言する。

 その義理堅さは秘書たちにとって悩みの種だった。「トップがどんな小さな葬儀にも行くから、しょっちゅう大切な会議が流れて、スケジュール作りが大変だった」という。

 トヨタ車体社長の久保地理介(61)は「うちの会長の葬儀にも、トヨタのトップクラス全員が来てくれた。役員の両親が亡くなると、必ずトヨタから花が届く。うちのお袋の時にも届いた」と語る。

 トヨタは、豊田家が見せるこまやかな心遣いを組織として受け継いでいる、ともいう。「葬」と「祭礼」を何より重んじる豊田家の伝統。それが、グループ会社を一点に向かわせる求心力になっている。

 久保地はトヨタ自動車出身だ。外に出て初めて、トヨタの秘密を知った。 (つづく)

(敬称略)

--- 読売新聞2001年6月26日掲載 ---

nice!(0) 

第二部 豊田家 《2》 [人物・伝記]

第二部 豊田家 《2》

持ち株2%のカリスマ

 静岡県湖西市の山里に、「豊田佐吉記念館」がある。発明王の佐吉はこの地で生まれた。昨年度は約二万四千五百人が訪れ、うち約五千人がトヨタグループの社員だった。

 記念館は佐吉生誕百二十周年の一九八七年に設立が決まり、生家も復元された。トヨタ自動車などグループ十三社と地元の関連会社二社が出資して運営している。

 グループ各社別の来場者数は毎月、チェックされ、記念館の月報で各社に連絡される。「少なければ、暗に、もっと来て欲しいと要望します。ここはグループの精神的なルーツですから」。事務局の近藤貴俊(52)が言う。

 人材育成を長く担当したトヨタ自動車OB(72)は、トヨタの強さの秘密を「豊田家のトップを教祖に置いた宗教国家だったからだ」と分析する。一つの方針を打ち出せば、全員が一丸となる結束力を見せてきた、と言うのだ。

 教祖の資格は「開祖・佐吉」との血縁関係ではないか、とも。「カリスマ性を引き継ぐのは、血のつながりだとの意識が、日本人の精神の奥深くに潜んでいる。天皇制や家元制度に通じる自然な感情ではないか」

 「宗教国家」とは言わないまでも、創業者や創業家に敬意を表す企業は多い。

 三井グループでは、年に数回、各社の総務部長が、東京・向島の三井家を祭る「三囲(みめぐり)神社」に参拝する。住友グループも、住友家と社員を祭る場所に、歴代の社長経験者が年に一度お参りする。

 正反対の企業もある。ホンダの創業者・本田宗一郎は、社員に「おやじ」と慕われたが、自分が死んだ時の社葬を許さなかった。その後の法要に会社がタッチすることもない。

 トヨタ自動車にも、変化は生じている。九九年六月のトップ人事で、豊田章一郎(76)が会長から名誉会長に退き、豊田家出身者で代表権を持つものがいなくなった。トヨタ自動車の創業(三七年)以来、初めての事態だ。

 会長の奥田碩(68)は、ことあるごとに「章一郎さんはもう年だし、次世代はまだ若い。いつまでも創業家に求心力を頼れない」と語る。奥田がそう言う背景には、一つの数字がある。「豊田家の持ち株比率は2%ほどしかない」のだ。

 奥田が選択した結束力の源は、資本の論理だ。九九年、トヨタ自動車は一挙に五人の副社長を、デンソー、アイシン精機などの主要グループ会社に送り込んだ。持ち株会社構想の布石ともされた。

 名古屋市内のホテルで開かれた創業者の喜一郎と利三郎の五十回忌の昼食会終了後だった。章一郎の長男で、昨年六月にトヨタ自動車の取締役に抜てきされた章男(45)が、二人の遺影に向かって深々とおじぎをした。「私はまだグループのために何もできていない。頭を下げるぐらいしかできないじゃないですか」

 同社総務部長の中村貞次(51)が語っている。「豊田家だから社長になれる時代ではないが、同じ能力があるなら豊田家の人の方が、気持ちの収まりがいい」。変化の兆しはあるが、創業家の存在感はいまだに大きい。(つづく)

(敬称略)

--- 読売新聞 2001年6月27日掲載 ---

nice!(0) 

第二部 豊田家 《3》 [人物・伝記]

第二部 豊田家 《3》

「 原点 」守り人 花絶やさず

 「夏は少なくとも一週間に一回、冬は十日に一回の割でお墓に行き、掃除してきます」。静岡県湖西市にある豊田佐吉記念館管理人の三浦仁(70)は、来館者の案内のほか、豊田家の墓を守るのが大事な仕事である。記念館裏山の「山の墓」と、市内の元ぼだい寺・妙立寺の墓は、一日たりとも花が枯れる日はない。

 三浦がこの地に来たのは一九八五年十月。記念館がオープンする三年前で、佐吉時代からの母屋の管理を、豊田家から頼まれたのが始まりだった。豊田家は今もここに本籍を置き、「豊田章一郎」の表札がかかる。三浦が妻絹江(65)とともに住み込んで十五年が過ぎた。

 三浦は、愛知県安城市の出身。全国の作業員宿舎を転々としながら、トンネル掘りや橋りょう工事などをして帰郷し、五五年にトヨタグループの愛知製鋼に入社した。

 「留守番だけでもやってくれんか。夫婦二人でのんびり暮らしたらどうか」と、当時、愛知製鋼相談役の白井富次郎(故人)から声がかかったのは、五十五歳の定年を迎える直前だった。

 「なぜ私なのかわからない。うそをつかないということぐらいかな。結婚が決まっていた娘を自宅に入らせて、こちらに住むことにした」

 「佐吉翁のことも、豊田家のこともよく知らず、佐吉翁に関する本を読みあさった」。そんな三浦でさえ、驚かされたのが、前任の管理人、堀田蔵吉(故人)の豊田家に対する献身ぶりだった。

 「堀田さんは毎日、佐吉翁たちのお墓に来て、供えられた水はいつでも飲めるほどでした」と、妙立寺の住職、吉塚通敬(74)は話している。墓と家の「守(も)り人」として、淡々と暮らす後半生だった。

 堀田は佐吉のもとで働いたことがある。「佐吉翁に心酔し、『だんな様』と呼んで慕っていた」と語るのは、四十年近く前、堀田が管理人になったころから知るデンソーの関連会社、浜名湖電装常務の三浦数弘(62)だ。

 三浦を管理人に指名した白井は、佐吉と同じ湖西市の生まれで、豊田自動織機製作所常務などを経て、湖西市長も務めた。堀田を起用したのも白井である。八十歳となり引退する堀田の後任探しを章一郎から頼まれて、今度は三浦の人柄を見込んだのだ。だが、その三浦も古希を迎え、引退を考え始めている。

 三代目をどうするか。この時代、住み込みの管理人探しは難しく、警備会社に委託するのも手である。しかし、章一郎は「家というのは、毎日、戸の開けたてをやって空気を入れないと、かびがはえるんじゃないですか。宝物はしまいっ放しじゃだめですよ」と、住み込みを希望する。

 章一郎の秘書を務め、記念館の開館にかかわった東和不動産社長の加藤武彦(63)は、「親身になって世話をしてくれる人が二十四時間住んでくれて、佐吉の精神を受け継ぎ、伝えてもらいたいと考えておられるのではないでしょうか」と推察する。「トヨタの原点」に対する章一郎の思い入れである。 (つづく)

(敬称略)

--- 読売新聞2001年6月28日掲載 ---


nice!(0) 

第二部 豊田家 《4》 [人物・伝記]

第二部 豊田家 《4》

全員にDNA刷り込め

 作業服姿の若者八十九人が、カマやほうきを手にミカン畑に散って、草むしりや草刈り作業を始めた。高校を卒業し、トヨタ自動車に入社すると同時に、同社の職業訓練校「トヨタ工業技術学園」(愛知県豊田市)で専門技術を学び始めた新入社員たちだ。

 豊田佐吉記念館(静岡県湖西市)で、佐吉の生涯を描いたビデオを見た後、記念館裏山のミカン畑が、研修の場となった。「これはホオズキだから抜かんようにな」。記念館管理人の三浦仁(70)に指導されながら、慣れない手つきで雑草を刈った。

 研修の目的は、「会社のルーツを知る」「会社への帰属意識を高める」ことだ。学園生の佐野昌志(18)は「あきらめることなく発明に打ち込んだ佐吉はすごい。前向きに仕事に取り組みたくなった」と感想を語った。

 春先、三浦のカレンダーは、研修予定の書き込みでいっぱいになる。トヨタ自動車三百六十人、豊田自動織機製作所百十人……。今年は三、四月で、グループ各社などから、約千二百人の新入社員が記念館に送り込まれてきた。

 豊田市内のトヨタ自動車体育館で、四月二日に開催された同社の入社式。約千五百人の新入社員を前に、社長の張富士夫(64)は、「現地現物主義(現場第一主義)」や「チャレンジ精神」を身につけてもらいたいとあいさつした。入社式のあいさつでは、必ず盛り込まれるフレーズだ。

 ベースは同社の経営理念「豊田綱領」にある。佐吉の生き方を基に、一九三五年、喜一郎と義兄の利三郎が五か条にまとめた。二十一世紀に入っても、決して色あせることはない。

 張は、あいさつの最後にも、「障子を開けてみよ。外は広いぞ」という佐吉の言葉を引き、視野を大きく持て、と語った。

 トヨタの社員は一歩目から、「トヨタDNA(遺伝子)」の刷り込みが始まっている。その遺伝子の元をたどると、いつも佐吉にたどりつく。

 今月二十日、トヨタ自動車名誉会長の豊田章一郎(76)は湖西市に招かれて、市内の商工業者らを相手に講演した。「創業の原点に立ち返り、自分たちの遺伝子、すなわちDNAをしっかり受け継ぐ」ことの必要性を強調し、創業者の父、喜一郎とともに、祖父、佐吉の功績もたどってみせた。
 「トヨタは宗教国家だ」と分析したトヨタOB(72)は「モノづくり精神を忘れるな、がその教義だ」と語る。

 「教義では、モノづくりにかけた開祖・佐吉をたたえる。だから、佐吉はいつまでもあがめられ、佐吉につながる豊田家が、求心力として利用されてきた」と指摘する。

 一方で、OBで元産業技術記念館長の斎藤謹吾(61)は「次の社長は、豊田家の内だ外だ」とか「豊田家への大政奉還」などの議論はあまり意味がないと言う。

 トヨタDNAが骨の髄まで染み込んでいることでは、「会長の奥田碩さんや張さんも、内の人」だから、と言うのである。 (つづく)

(敬称略)

--- 読売新聞2001年6月29日掲載 ---


nice!(0) 

第二部 豊田家 《5》 [人物・伝記]

第二部 豊田家 《5》

大争議経て両輪に

 神主の祝詞が始まった。今年一月九日、愛知県豊田市のトヨタ自動車本社工場内に鎮座する豊興神社。本殿前には、会長の奥田碩(ひろし)(68)と、労組委員長の東(あずま)正元(51)が並んで立っていた。少し離れた広場には役員と組合三役ら約八十人が控えている。祝詞が終わり、かしわ手が響いた。

 労使そろって、会社繁栄を祈願する恒例の新年祭で、二十一世紀を迎えた。

 トヨタを束ねる一方のトップは、労組委員長である。梅村志郎(74)は、トヨタがまだ自工と自販に分かれていた一九七一年から十年もの間、旧同盟系のトヨタ自工労組の委員長を務めた。

 その梅村が忘れられない光景がある。七六年一月、名古屋市内のホテルで開催された組合創立三十周年記念パーティーでのことだ。

 招待した社長の豊田英二(87)(現トヨタ自動車最高顧問)が「うちの組合がお世話になっています」とあいさつしながら、来賓として出席していた他社の労組幹部たちの間を回っていた。英二が身内のように振る舞ってくれたのが、うれしかった。

 そして、英二は戦後間もなくの「トヨタ争議」当時の労組役員たちと、にこやかに談笑した。「あんなに感動していた姿は見たことがない」。梅村は、四半世紀余り、英二の心の片隅に残っていたものがわかった。

 日本が敗戦からまだ立ち直れないでいた五〇年、金融引き締めを強行したいわゆるドッジラインで、企業は閉鎖や人員整理を強いられた。トラックを造っても売れない。倒産の瀬戸際に、「人が財産」としてきたトヨタが、社員の二割に当たる千六百人もの人員整理と、一割の賃金引き下げを組合に提案した。

 猛反発した組合は座り込みやハンスト、デモを繰り広げた。入社二年目で争議を経験した元本社工場工務部長原健一(75)は「職場の長がつるし上げられている場面をよく見た」と証言する。家庭に配られた退職勧告状や要請状は組合によって回収され、焼却する炎が本社事務所前で上がった。

 約二か月間続いた闘争は、創業者の豊田喜一郎の社長辞任と引き換えに、組合が提案をのんで収束した。二千人を超す組合員が会社を去った。

 以来、トヨタのトップは、何より組合を気遣うようになる。会社が揺らぎ、組合対策を誤れば、創業家といえども地位を追われかねない。

 職場のリーダーたちと会社役員が船上で共同生活し、交流を深めることが目的の「洋上セミナー」という行事があった。「会社のためなら、一肌脱いでやろうという人をつくりたかった。実は組合対策だったんです」と当時の労務担当者(72)。

 「組合の人は元気でやっているか。いつも無理を聞いてもらって感謝している」。歴代社長を務めた豊田家の英二、章一郎、達郎は組合幹部と会うと、真っ先にこう声をかけた。

 「我々は支え合っている」と東が言う。トヨタ争議から半世紀、いま、約六万人を抱える労組は、役員とともにトヨタと豊田家を守る藩屏(はんぺい)になった。 (つづく)

(敬称略)

--- 読売新聞2001年6月30日掲載 ---

nice!(0) 

第二部 豊田家 《6》 [人物・伝記]

第二部 豊田家 《6》

「 重み 」背に 人脈の輪

 「創業家に生まれてしまいました、としか言えません」。一年前のトヨタ自動車の株主総会。最年少の新任取締役に就任した豊田章男(45)は、記者会見で、社内での豊田家の役割について尋ねられ、慎重な口調で答えた。にじみ出たその重みの背景には、財界、政界、官界につながる「豊田家」の広がりがあった。

 トヨタ自動車や豊田自動織機製作所など、トヨタグループ企業のルーツ、豊田佐吉は、百三十四年前、遠江国山口村(現・静岡県湖西市)の大工の家に生まれた。

 佐吉と最初の妻・たみとの間に生まれた喜一郎は、大学出の技術者として、自動織機の開発で父を助け、後にトヨタ自動車工業を創業する。喜一郎の妹、愛子の夫として豊田家に入った利三郎は、経営手腕を発揮して、喜一郎を支えた。

 佐吉から喜一郎、章一郎(76)、章男と続くのが、いわゆる「本家」だ。章一郎が現在の当主であり、冠婚葬祭では、一族を代表する。

 利三郎の長男で、佐吉の初孫だった幸吉郎が六月二十九日、八十二歳で死去した。あす二日の告別式でも、章一郎が「親せき総代」を務める。

 豊田家の人々は、その多くがグループ企業の要職につき、結束を強めていった。このような一族ぐるみの経営は、佐吉や弟の平吉ら第一世代から、すでに始まっていた。

 喜一郎の死去後、トヨタを支えたのが平吉の二男、英二(87)である。

 その手腕には信奉者も多く、「創立は喜一郎さんだが、本当にものにしたのは英二さんだ」と、一九三七年入社組でデンソー名誉顧問の白井武明(89)は言う。

 豊田家出身のトヨタ自動車社長は、利三郎、喜一郎、英二、章一郎、そして章一郎の弟の達郎(72)の五人。病気によって、達郎はわずか三年で一線から退いた。そこから、豊田家以外の社長の時代が続いている。

 豊田家は、結婚によって、政財官界へ人脈を広げた。章一郎は、元建設相の斉藤滋与史とは義理の兄弟だし、斉藤の親せきをたどれば、元首相の中曽根康弘に至る。
 遠縁では旧三井銀行、三井物産、清水建設、新日鉄、大昭和製紙、INAX、トーメンなどの役員の名が上がる。高島屋、大昭和製紙などの創業家と縁が多いのも特色だ。

 さらに章一郎の娘・厚子は、現財務省審議官藤本進と結婚し、官界ともつながった。 直接、政界に打って出たり、実業界で活躍したりする女性の名前はまだ聞こえてこない。

 今、豊田家からのトヨタ自動車取締役は、章男と、英二の三男・周平(54)の二人。章男は六月の新役員人事でアジア本部長に、周平も欧州統括会社社長に決まった。

 昨年、章男を取締役に取り立てたことについて、会長の奥田碩(ひろし)(68)が語っている。「豊田家だから、チャンスはあげますよ。取締役までは上げる。あとは実力次第だ」。重圧の中で、トップを狙う時代となった。 (つづく)

(敬称略)

--- 読売新聞2001年7月1日掲載 ---

nice!(0) 

第二部 豊田家 《7》 [人物・伝記]

第二部 豊田家 《7》

「 同じかまの飯 」継承

 豊田一族は、屋号でお互いを呼び合っていた。「本家」「新家」、さらに屋敷の地名から付けられた「押切」「主税(ちから)町」である。

 名古屋市内の料亭に、豊田家の人々二十数人が顔をそろえ、うたげが始まると、この四つの屋号が飛び交い始めた。「本家の章一郎さん」と言えば、豊田家当主の豊田章一郎(76)のことである。

 「年に一、二回集まり、食事をしながら酒を飲んでいました」。豊田佐吉の末弟・佐助の娘、節子(59)と結婚し、豊田家の一員となったINAX会長伊奈輝三(63)が「いとこ会」を振り返る。

 いとこ会は、佐吉兄弟の子供たちがつくった。「本家」は、佐吉の子供のうちでも、長男でトヨタ自動車工業創業者の喜一郎とその子供たちのことを言った。佐吉の娘婿となり、養子に入ったトヨタ自工初代社長の利三郎は「新家」。先月二十九日、八十二歳で亡くなった幸吉郎(元豊田自動織機専務)もその一人だった。

 佐吉の次弟・平吉は、名古屋市西区押切に住んでいたため、二男の英二(87)(トヨタ自動車最高顧問)たちは「押切」と呼ばれた。

 「どんなことを話していたのか、よく覚えていないが、みんな酒が強かった。本家は静かに飲んでいた」。記憶をたどる伊奈は、一九六三年十二月の結婚後、佐助の屋敷(東区主税町)に由来する「主税町」の一人として参加した。酒が好きだった佐吉の一族に交じって酒を酌み交わし、親ぼくを深めていった。

 豊田家が求心力となってきたトヨタ自動車には、幹部が毎日、気軽に集まることのできる場がある。愛知県豊田市のトヨタ本社二階にある役員食堂である。昼ともなると、本社内はもちろん、各工場からも役員がやって来る。

 四人掛けのテーブルが並び、それぞれの上には、木製のおひつが置かれ、ご飯だけは役員自らよそう習いだ。「同じかまの飯」意識が培われる。

 章一郎とよく同じおひつを囲む常務の木下光男(55)は、「一緒に雑談をしているという感じ」と、この部屋の雰囲気を語る。元トヨタ自販常務川原晃(77)は、寡黙な英二も、この時だけは口がなめらかだった、と振り返る。

 しかし、雑談だけでは終わらない。社長や会長の隣の席を狙うこともある。「フランクに話せるいい機会。懸案事項について、トップの意向をうかがうには都合がよかった」と川原は言う。

 創業のころ、トヨタの工場では、食堂に山盛りのダイコンおろしが置かれ、喜一郎は、社員らとともにご飯をかっこんだ。文字通りの「同じかまの飯」だった。

 豊田一族のいとこ会は、メンバーが要職について忙しくなったり、世代が変わったりして、三十年ほど前に自然消滅した。英二の長男で、アイシン精機社長の幹司郎(59)は「会に引っ張りだされたことは覚えている。今はもう、押切とか主税町と呼び合うこともない」という。

 うたげは終わった。しかし、一族の結束は残っている。

 INAXはトヨタ車しか購入しない。トヨタの工場や本社ビルのトイレには、INAXのロゴが光る。トヨタグループのデンソーやアイシン精機、トヨタホームとINAXの取引が始まったのも、伊奈が「主税町」の一員となってからである。 (つづく)

(敬称略)

--- 読売新聞2001年7月2日掲載 ---

nice!(0) 

第二部 豊田家 《8》 [人物・伝記]

第二部 豊田家 《8》

“ 自動車屋の女房 ” 走る

 トヨタ自動車のおひざ元、愛知県豊田市の「豊田家庭婦人ボランティア」に一九六七年十二月、バザーの売上金で買ったマイクロバスが届いた。施設に贈り届けるのだが、運転手がいない。「私が運転するわよ」。四十七歳の寿子(かずこ)が言った。

 「自動車屋の女房なんだから、車の免許は全部持ってるの」。会長の寿子がハンドルをにぎり、田んぼの中のでこぼこ道を走った。

 「自動車屋」とは、この年、トヨタ自工社長に就任したばかりの豊田英二(87)のことである。以後、遠方へは、寿子が運転して出かけることになった。ボランティア活動を終え、会員を家まで送り届けることもあった。副会長だった木場幸代(79)は「木場さんも偉くなったもんだ。社長夫人に運転させて」と、よく周囲に冷やかされた。

 当時、豊田市は集団就職してきた中卒の工員たちで、人口が急増していた。残業に疲れ、孤独な若者たちの離職に加え、暴行や恐喝事件も相次ぎ、県警が「勤労青少年の転落防止重点地区」に指定したほどだった。家庭婦人ボランティアは、彼らの母親代わりになろうと設立された。

 「主人も心を痛めているが、そこまでかかわれない。私でできることがあれば、代わりにやりたいので、仲間に入れて下さい」。入会の時、寿子はそう言って頭を下げた。

 家庭婦人ボランティアはその後、豊田ボランティア協会となった。寿子はそれ以外にも、数々のボランティア団体のトップを務め、高齢で引退した。いま、八十一歳になる。その後を、長男・幹司郎(59)(アイシン精機社長)の妻、彬子(あきこ)(54)が継いでいる。

 ふだんの活動拠点「勤労センター憩の家」では、かっぽう着姿でトイレ掃除や昼食の準備、会報や資料づくりに駆け回る。「トヨタでは現地現物(現場第一)主義と言われるでしょう。それは豊田家全体のエキスにもなっていて、私も現場が好きなんです」

 トヨタが、後に豊田市となる挙母(ころも)町に工場進出したのは、一九三八年だった。古事記にも、挙母の名は登場する。江戸時代には挙母藩があった。一九五九年、由緒ある地名が、外様企業の名にちなんで変更される時には、推進する市長や議会へのリコール運動など市を二分する反対運動が起きた。

 以来、トヨタは、地域に根付くことを重要な経営方針としてきた。

 「英二の家内であることは忘れてほしい」と仲間に言った寿子。彬子も「私は豊田家の嫁として活動しているのではない。そういうものは切りたい」と言う。しかし、結果的にその一翼を担ってきた。

 トヨタで地域交流を担当する総務部長の中村貞次(51)は「グループのイメージアップに、豊田家の女性が貢献している」と認める。

 豊田市も、豊田家の女性たちによるボランティア活動を歓迎する。「関連企業の奥様もたくさん入り、活動が盛んになる」からだけでなく、トヨタグループからの支援も期待できるとの計算がある。

 彬子は活動で帰宅が遅くなる時がある。トヨタとともに生きてきた義父の英二が掛けてくれた言葉は、いつも、「ありがとう」だった。 (つづく)

(敬称略)

--- 読売新聞2001年7月3日掲載 ---

nice!(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。