SSブログ

吉田政治の『遺産』~終焉から50年---3 [人物・伝記]

3 不思議の国

 黙殺した九条の芦田修正

 議会での新憲法審議で、当時の首相、吉田茂は「第九条は自衛のための戦争も認めていない」と述べ後世に禍根を残した。だが、猪木正道・京大名誉教授は『評伝吉田茂』の中でこう書いている。

 「吉田首相の勇み足はさいわいなことに憲法改正案特別委員会とその小委員会において、芦田均小委員長の努力により是正された」。そのはずであった。

 昭和21年6月28日、帝国議会に連合国軍総司令部(GHQ)からの新憲法草案を審議するための憲法改正案特別委員会が設置された。さらにその中に、修正案を練る小委員会が設けられた。ともに委員長は、与党自由党の芦田均だった。

 小委員会は、8月20日九条について二カ所の修正を行う。ひとつは「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という第一項の前に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という一節を加えた。

 もう一つは、第二項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」の前に「前項の目的を達するため」と挿入した。

 いずれも芦田自身の手になるといわれるが、特に後者の修正の意味は大きかった。これによって国際紛争解決のための戦力は持てないが、自衛のためには保持できるという解釈が成り立つからだ。

 芦田は外交官出身の政治家で、この後日本民主党を結成23年3月首相となるが、この「芦田修正」に対する史家の評価は高く、猪木氏も「歴史的功績を残した」と書いている。

 重要なことは、芦田修正をGHQ側が即座に了承していることだ。高柳寧二元憲法調査会長らによる『日本国憲法制定の過程』2には、次のようなGHQ内のエピソードが記録されている。

 修正案を見て、起草のメンバーだった民政局のピーク博士がホイットニー局長にこのことを伝え「この修正は日本がディフェンス・フォース(自衛のための軍)を保持し得ることを意味すると思うが」と述べたところ、ホイットニーに「あなたはそれがよい考えであるとは思わないか」といわれ、彼もそう思ったので引き下がった。

 ホイットニーは言うまでもなくGHQの幹部であり、このことをマッカーサーも了解していたことは間違いない。この時点で現憲法でも再軍備が可能なことにお墨付きを得たといってもよさそうだ。

 ところが肝心の吉田は芦田修正を無視しつづける。退陣後に書かれた吉田の『回想十年』には、その意味について全くといっていいほど触れていない。外務省の後輩である芦田への対抗心だったかもしれないが、その後も「再軍備はしない」との姿勢を貫くのである。

 岡崎久彦元駐タイ大使も政治外交史シンポジウムで、芦田修正についてはGHQの実力者であったケーディス民政局次長が「これでいいんじゃないか」とOKを出していたという事実をあげ「ものごとのいちばん大事なことが動いているときに、吉田がそれをわかっていたか。あれがきちっとかっていたらその後の答弁も変わってきたはずだ」と述べている。

 吉田がこのチャンスに方向転換しなかったことは、後々の政府の憲法論議にも影響を及ぼす。つまり政府が自衛隊は憲法違反していないというのは、国家には本来的に自衛権があるとの理論にもとづくもので、芦田修正による解釈にはよっていないのである。

 吉田はこの後、いったん政権を片山哲と芦田に明け渡すが、昭和23年10月、再び首相となる。

 そして昭和25年6月には米国務省顧問、ジョン・フオスター・ダレスが初めて来日、吉田との講和をめぐる交渉にのぞむ。ダレスは、極東における共産主義の浸透を恐れる米国の意を体し、講和に当たって日本が再軍備するよう強く求めた。

 しかし吉田は「日本は再軍備にともなう経済費用や国民一般の激しい抗議に耐える余裕がない」と述べ、はねつける。

 米国における戦後日本研究の第一人者、ジョン・ダワー氏の『吉田茂とその時代』によれば「ダレスはこの一戦で出鼻をくじかれた思いであった」。

 そして、後に「まるで(童話の)不思議の国のアリスになったような気持ちになった」と述べているという。

 ダレスには、国の基本である国防を、経済や国民感情に任せるということが、どうしても理解できなかったのだろう。占領側が再軍備を勧めているのにもかかわらず。(皿木喜久)


--- 産経新聞 2004(H16)/12/06(月曜日)--- 

nice!(0) 

吉田政治の『遺産』~終焉から50年---4 [人物・伝記]

4 マッカーサーのくびき

2人3脚の元帥とワンマン

 1948(昭和23)年2月26日、米国務省の政策企画室長をつとめていたジョージ・ケナンは空路、日本に向けて旅立った。

 飛行機で太平洋を横断してくるのはまだ、大変な時代だった。『ジョージ・F・ケナン回顧録』によれば、シアトルからアンカレジ、それにアリューシャン列島の小さな島で給油しながら三十数時間かけ東京に着いた。途中でヒーターが故障し、体は凍りつくようだった。

 ケナンが命がけで日本にきた理由はただひとつ、連合国軍総司令官のダグラス・マッカーサーと会い、「説得」することだった。

 ウィンストン・チャーチルがソ連など共産主義の脅威を「鉄のカーテン」と呼んだのが2年前のことだった。ケナンの来日当時、米国務省はその「封じ込め」に躍起であった。

 ところが、西の防波堤となるべき日本はといえば、占領軍のマッカーサー元帥らが「昔の君主に等しい役柄を楽しんでいた」(同回顧録)状態で、国務省の世界政策になど聞く耳をもっていない。

 ケナンは回顧録で「マッカーサーの日本」を次のように酷評している。「日本は全く武装解除され、非軍事化されてしまっていた。ソビエトの軍事拠点によって半ば包囲されてしまっていた。

 にもかかわらず、日本の防衛についていかなる種類の対策も占領軍当局によって講じられていなかった」。

 それなのに「マッカーサーの占領政策の本質は、日本の社会を共産主義の政治的圧迫に抵抗できないはどにも弱いものとし、共産主義者の政権奪取への道を開くことを目的に立てられた政策の見本のようなものだった」。

 ケナンは他の”使者 ”同様、国務省を代表してマッカーサ-に、日本の再軍備に道を開くとともに、公職追放を緩和して改革を推進させるよう進言するつもりだった。

 しかし、マッカーサーはケナンの話に耳は傾けたものの、再軍備を認めようとはしなかった。

 マッカーサーが憲法上自衛権が認められるという芦田修正を承認していながら、かたくなに再軍備を拒否する姿勢について、岡崎久彦氏は政治外交史シンポジウムでこう述べていた。

 「彼は日本の占領政策を成功させるためには天皇制を維持するしかないということを信念としていた。そのためには他のものは犠牲にしていいと考えていた」。

 天皇制と軍の双方を残しては日本は戦前と何も変わらないという、他の戦勝国の批判をかわせないという意味だろう。ソ連をはじめ共産主義の脅威を国務省ほどに感じていなかったこともあった。

 一方、昭和23年10月に再び政権に就く吉田茂は、早期に講和を結び独立することだけを外交官である自分の使命としていたようだ。このため、同じ早期講和論者であるマッカーサーに頼るしかない。

 それだけにマッカーサー施政下に吉田が再軍備をすることはできなかったのだ。文字通りの二人三脚だった。

 もっとも、戦後を代表するジャーナリストのひとり、阿部真之助は『現代政治家論』の中で「国内的には手のつけられないワンマンも、対外的には理想型のイエスマンであった」と、吉田のマッカーサー傾斜を批判している。

 だがそのマッカーサーも、昭和25年6月25目朝鮮戦争が起きると、吉田に対し警察予備隊という名の「再軍備」を命じざるを得なかった。

 さらに翌26年4月にはマッカーサー自身がトルーマン米大統領に解任された。吉田にとっての「くびき」はとれたのである。

 しかも、米側は28年10月になると、訪米した自由党政調会長、池田勇人と国務省極東担当のロバートソンとの会談で、32万人の陸上兵を求めるなど、矢のように兵力増強を求めてきている。朝鮮戦争特需で経済も良くなっていた。

 そうした追い風にも吉田は相変わらず自衛隊を「戦力」と認めない。ならばといって、「戦力」を持つための憲法改正も拒否しつづけた。

 マッカーサーのくびきがはずれ、独立も回復、吉田は名実ともに絶対的ともいえる権力を得てしまった。

 その権力を離したくないため、国内左翼を中心とする「逆コース」といった批判を押し切ってまで、自衛隊を軍として認知したり、憲法改正に踏み込んだりすることをさけた。

 今から見れば、そうとしか思えない。(皿木喜久)


--- 産経新 2004(H16)/12/07(火曜日)--- 

nice!(0) 

~ ジョン・F・ケネディが生きていたら、ベトナムの悲劇は回避できたか ~ [人物・伝記]

~ ジョン・F・ケネディが生きていたら、ベトナムの悲劇は回避できたか ~

歴史家たちは40年間、この問いの答えを見つけようとしてきた。ロバート・ダレクは、新著『未完の人生:ジョン・ F・ケネディ』で、「イエス」の答えを出した。だがその背後に「ケネディと側近の関係」があることを見落としている。

---------------------------------------------------------------------------------------

ケネディの伝記が明かさなかったベトナム戦争の真実

---------------------------------------------------------------------------------------
ジョン・F・ケネディが生きていたら、ベトナムの悲劇は回避できたか――――。歴史家たちは40年間、この問いの答えを見つけようとしてきた。ロバート・ダレク
は、新著『未完の人生:ジョン・ F・ケネディ』で、「イエス」の答えを出した。だがその背後に、「ケネディと側近の関係」があることを見落 としている。

もしジョン・F・ケネディが生きていたら、ベトナム戦争に全面介入したか――

過去40年間、最も人々を悩ませているのがこの問いかもしれない。ケネディを英雄化した「キャメロットの神話 」が、今も生きているせいもあるだろう。どんなに彼のイメージを汚すスキャンダルが明らかになろうとも、こ の「仮説」だけは語りつがれている。

ケネディがダラスで暗殺されなければ、アメリカは悪夢の10年――5万の死体袋の山、シカゴ暴動、ニクソン 大統領の誕生、シニシズムの蔓延――を経験せずにすんだかもしれない、という期待だ。

歴史家のロバート・ダレクは新著『未完の人生:ジョン・F・ケネディ、1917~1963』で、ケネディはベト ナム戦争を始めなかっただろうと書いている。その見方には賛成だ。だが彼の説は、説得力に欠ける。この問題 を語るときに不可欠な要素を掘り下げていない。

ダレクは、ベトナムの泥沼に介入することを躊躇するケネディの発言――これまでに何度も引用されてい るものだ――を寄せ集めたにすぎない。米兵の引き上げを求めるメモのほか、ジャーナリスト、ウォルター・ク ロンカイトのインタビューで、これは南ベトナムの戦争でありアメリカの戦争ではないと答えたこと、64年の大 統領選で再選されればベトナムから引き揚げると語ったこと、などだ。

だがこうした証拠は、せいぜい可能性を示唆しているにすぎない。たとえば1964年5月27日に録音されたテ ープによれば、リンドン・ジョンソン副大統領は、国家安全保障問題担当のマクジョージ・バンディ大統領補佐 官にこう語っている。

ベトナムは「戦う価値」があると思わない、と。もしジョンソンが翌日死亡して
、(次の大統領がベトナムの泥沼にのめり込んだとしたら)歴史家はジョンソンが生きていたらベトナムから撤退したか を議論することだろう。


●ベトナム戦争の泥沼にのめり込んだのはケネディの男たちだった


それでは、ケネディならベトナムに全面介入しなかったと考える理由は何なのか 。ケネディがベトナムに介入しただろうと考える人たちは、彼もジョンソン同様、「冷戦の戦士」だったと主張 する。

また、ロバート・マクナマラ国防長官、ディーン・ラスク国務長官らジョンソンを戦争に引きずり込んだ 側近を任命したのはケネディだというのが、彼らの主張だ。ケネディの男たちが戦争に向かったというわけだ。

だがここにこそ、ダレクが見逃したケネディとジョンソンの決定的な違いがある。1000日に及ぶ在任中、 ケネディは次第に側近たちに不信感をいだくようになっていた。彼らの誤った判断のために、危機に陥いること が度重なったからだ。

たいていは、ケネディの意見が正しかった。ダレクは、ケネディが軍幹部たちと対立して いたことを鮮明に書いている。だが、ケネディが政権内の側近に対しても同様に距離を置き始めたことには触れ ていない。

ケネディがこの不信感をジョンソンに語ることはなかった。ジョンソンは、ハーバード大学卒の知性 あふれる側近たちに気後れしていたが、同様にハーバードの学位をもつケネディには、その威光は通用しなかっ た。

ケネディと側近たちの関係を変えるきっかけとなったのは、62年10月の「キュバー危機」だった。13日間 にわたって米ソの緊張が高まり、核戦争の瀬戸際に追い込まれた事件だ。アメリカは、ニキタ・フルシチョフ首 相率いるソ連が、核ミサイルを積んだ船をアメリカの目と鼻の先にあるキューバに向かわせているとの情報をつ かんだ。

CIA(米中央情報局)によれば、ミサイルは数週間のうちにキューバに到着し、アメリカの大部分を射程圏内 に収めるという。ケネディは緊急会議を招集し、危機にどう対処すべきかを話し合った。


●キューバ危機をめぐる政権内部の対立がきっかけ


歴史家は危機後の20年間、予防的攻撃をしかけるべきだと主張するタカ派と、平和 的な解決を模索すべきだと進言するハト派に分裂するなか、ケネディが中間の道――武力行使でフルシチョフを 撤退させるのではなく、海上封鎖で対抗する――を取ったことに焦点を当ててきた。

だが82年になって、ケネディとフルシチョフが密約を結んでいたことを側近の一部が明らかにした。ソ連 がミサイルを撤去すれば、アメリカはトルコから中距離ミサイルを撤去するというものだ。

もちろんダレクもこ の密約について言及しており、緊急会議「エクスコム」の内容を録音したテープの発言を引用している。

だがダレクは、最も重要な10月27日――危機が回避された日――に録音された内容に触れていない。この日、フルシチョフが取引を提案してきた。ケネディとジョージ・ボール国務副長官を除くエクスコムのメンバー 全員がこの取引に反対を唱え、キューバのミサイル基地を空爆すべきだと主張した(ボールがジョンソン政権の 異端児になったのも不思議はない)。

フルシチョフの提案が伝えられると、ケネディはすぐに好意的な反応を示した。こう述べているのがテープ から聞き取れる。

「国連の誰が見ても、公正な取引だと思うだろう。たいていの人は、対等な取引のチャンスが与えられたら それを受けるべきだと考える」これに猛烈に反対したのがバンディだ。震える声で、「同盟国との関係に尽くしている政府の人間は、み な同じ気持ちであることをお伝えします。

トルコのミサイルを撤廃するようなことがあれば、同盟関係は著しく 低下するでしょう」と語っている。

マクナマラもかたくなに反対し、「われわれがキューバを攻撃する前」に何らかの段階が必要だと語って いる。統合参謀本部が数日前に提出した計画では、500機の爆撃機で7日間連続空爆し、その後キューバに侵攻 するとある。

ケネディはしばらく黙っていた。「この両日でしなければいけないことを考えていた。500機の爆撃機もキ ューバ侵攻も、トルコからミサイルを撤去しないがために必要になる。血が流れはじめると、人はいきり立つも のだ。

NATO(北大西洋条約機構)のことを考えてみろ。ソ連がベルリンを掌握したら、みんなこういうはずだ。 『フルシチョフの提案に乗ればよかった』とね」


●自分を信じたケネディ、信じられなかったジョンソン


その夜、ケネディは親しい側近たちを執務室に集めてこう言った。弟で司法長官 のロバート(取引には強硬に反対していた)を駐米ソ連大使のもとへ送り、公にしないことを条件に取引に応じることを伝える、と。

同じく取引に反対していたリンドン・ジョンソンがこの集まりに参加していなかったこと は、重要な意味をもつはずだ。彼は、密約についても知らされていなかった。

秘密裏に取引を交わしたことは、後にまで影響を与えている。バンディは88年の回顧録『危機と生還』で 、取引を受け入れなければ、ベトナム戦争や外交に破滅的な結果がもたらされたと告白。

「同僚や国民、同盟国 を欺き、断固としてソ連に対抗する必要がある」と思わせた、と書いている。リチャード・ニクソンは北ベトナ ムに対する強硬策を正当化するときに、キューバ危機の「誤った教訓」を好んで口にしたものだ。

ジョンソンは この誤った教訓を学んだけでなく、ケネディが側近と一心同体ではなかったということを目撃するチャンスを失 った。

極秘に録音されていたエクスコムのテープは、後にベトナム戦争にのめり込んでいくバンディやマクナマ ラに、ケネディが対抗していたことを示す証拠に満ちている。ダレクの伝記には、政権内のこうした不協和音は まったくでてこない。

ケネディが生きていたらベトナムから撤退していたとする説は、側近への不信感から彼が 戦争に懐疑的になっていった事実を抜きには語れない。そして、彼がこの見方をジョンソンと共有しなったこと も大きく関係している。

「ベスト&ブライテスト」(ワシントンの優秀なエリートたち)が皮肉な言葉になる以前に、ケネディは彼 らがまちがった判断を下すことに気づいていた。ケネディは、自分の直感を信じるべきだということを知ってい た。

ジョンソンは、自分を信じられなかった。ジョンソンがベトナム戦争に突入し、ケネディがしなかった理由 は、そこにある。

--- 2003/05/27 (フレッド・カプラン) 翻訳MSN Journal :ジャーナル編集部 ---


nice!(0) 

母親に教わった商人の原点 [人物・伝記]

母親に教わった商人の原点「ないない尽くし」の贈り物

 私が商人としての心構えを学んだのは、小さな洋品店を切り盛りしていた母親からでした。はっきりとした話とか文章で伝授されたものではなく、あくまで日常会話の中とか、その背中を見ながら自然に学びとったものです。

 私が小学校くらいの頃でしようか、おやじが道楽ばかりするので、よく夫婦けんかをしていました。母親はけんかして涙を流していても、お客様の前に出ると、一転して笑顔になりました。もしお客様に泣き顔なんか見せると、「あの店は暗い」と言って次から買いに来てくれない。商売とは、そういうものだというのを教わりました。

 そんな母から私は「ないない尽くしのプレゼント」を贈られたと思っています。お客様は来てくれないもの、取引先は商品を卸してくれないもの、銀行は貸してくれないものだと思え、という教えです。

 実際、昭和30年から40年代くらいまでは、スーパーに卸してもらえない商品というのは沢山ありました。宅配が当たり前であった牛乳をはじめ、化粧品もそうだし、もちろんブランド品なんかとんでもなかった。

 担保などないから銀行も貸してくれない。その内やっと貸してもらえるようになって、世の中が不況の時も一生懸命返していたら、銀行の担当者から「伊藤さんのところはちゃんと返済していただいて助かります」と言われた。つまり、借りたカネを返さない会社があるんだ、と言うことを、その時初めて知りました。

 借りたカネは必ず返すもの、取引先への支払いはきちんとするもの、社員への給料は毎月払うものと考えたら、経営とはそんな生やさしいものではないことがわかる。政府みたいに借金の埋め合わせに好きなだけ国債を刷ったら、やっていけるような企業などありません。

 頼りになるのは現金しかないということが、骨身にしみていましたから、バブルの時も一切投資話などには乗らなかった。

最近は、間接金融より直接金融だとかいって、簡単に上場する企業もあるようですが、資本市場から調達したカネもタダでもらったカネじゃない。支払うべき税金や配当などを考えると、それ以上の利益を上げ続けなけなきゃいけないと言うことです。むしろ銀行から借りた方が安くつくこともある。

 イトーヨーカ堂は1972(昭和47)年に上場した時は、私は、幹事証券会社の担当者に「あまり高い株価をつけてくれるな」と頼みました。「上場する企業の社長から株価を下げてくれと言われたのは初めて」とあきれられましたが、使い道のないカネを持っていてもしょうがないでしょう。

 日本も豊かな時代を経て、黙っていてもお客様は来てくれるもの、商品は入れてくれるもの、銀行は貸してくれるもの、と言う感覚に慣れきってしまい、商いの本質が忘れてしまったような気がします。

小売業でも、単品管理だとか、CS(顧客満足)といったもっともらしい言葉は氾濫しているけれど、根本の問題がわからずに技術に走ってしまってダメになっている。

 私は昔、お客様を一瞥しただけで何を欲しがっているかがわかったんです。締めているネクタイの柄でどんなモノを買いそうか予想がついた。モノが売れないとか言ってるけれど、それは本当の意味でお客様のことを見ていないからではないでしょうか。



--- 伊藤 雅俊(イトーヨーカ堂名誉会長)Nikkei Business 2002年1月21日号 有訓無訓 から --- 

nice!(0) 

マイクロソフト社会長兼CEO ビル・ゲイツ [人物・伝記]

マイクロソフト社会長兼CEO ビル・ゲイツ(49)

<第1話>

80年代初頭、あくせくと生活の為に働く平凡な若者の一人に過ぎなかったビル・ゲイツだが、1986年7月発売のニュース週刊誌「USニューズ・アンド・ワールドレポート」では、最もリッチなアメリカ人の36位に登場している。わずか6年でなし得た、まさに現代のアメリカンドリームである。

ビルは1955年10月、父は弁護士、母は福祉団体の役員という、どこにでもある少し裕福なシアトルの家庭に生まれている。小さい頃から、頭が良く、母親には反抗してばかり、学校は退屈で、みかねた両親は、小児精神科医にビルを連れていき、カウンセリングまで受けている。

やがて、ビルは、そのルーツとも言われるレイクサイドスクールに進む。三目並べやリスク(ゲームの1種)は、この当時の作品だ。また、のちにマイクロソフト社の共同経営者となるポール・アレンと出遭ったのも、この頃である。

ここでは、子供をスクールに通わせる母親達が、がらくた市を開き、その収益金で学校の備品を購入していた。そこで、母親達によって購入されたコンピューター端末を、一目見た瞬間、ビルはこの機械の虜となる。毎夜寝室を抜け出し、深夜の教室で、この端末に向かう程、彼はコンピューターにのめりこんでいった。

<第2話>

1972年に、インテル社が世界初のマイクロプロセッサの開発に成功する。それを聞いたビルとポールは、「これを使えば、コンピューターの中央演算処理装置をマイクロチップにおさめることができ、小さなコンピューターを作ることができる。そのためには、その小さなコンピューターを動かせるソフトがきっと必要になる」と確信した。

彼らは、大手コンピューター会社に、片っ端から手紙を書き、インテル社が開発したマイクロチップ用のBASICを作りましょうと提案するが、当時17歳であった彼らの話を、まともに聞く会社は無かった。

翌年、ビルは、応用数学を学ぶため、ハーバード大学へ進学する。なぜ、コンピューターじゃないのか? という問いに対し、ビルはコンピューターに関しては、大学教授よりもはるかに詳しく、学ぶことが何もないと思ったと答えています。

<第3話>

1974年のこと、ポール・アレンが血相を変えて、ビルの部屋に飛び込んで来た。ポールが手にしていたのは1冊の雑誌。その表紙を飾っていたのは、世界初のパーソナルコンピューター「アルテア」であった。中を読んでみると、「アルテア」には、インテル社のマイクロチップが使っていると書かれていた。「もう始まっているんだ。早くしないと乗り遅れぞ!」

小さくて安いマイクロコンピューターの時代が来ると確信していたビルは、大学に休学届けを出し、ニューメキシコ州に移ることを決心する。そして、1975年4月4日、マイクロ-ソフト社(のちにハイフンを取り、マイクロソフト社と改名)を設立する。ビルとポールを含め、たった4人の若者だけでの船出であった。

<第4話>

最初の仕事は、アルテアで使えるBASICの開発であった。その後、アルテア以外に、3つの会社がマイクロコンピューターを発売したが発売当初こそ、自社ソフトを使用していたものの、1年も経たないうちに、3社とも、マイクロソフトBASICを採用している。

実は、マイクロソフトのMS-DOSは、ビルが一から立ち上げたものではないことをご存知でしょうか?当時、シアトルのある会社が売りに出していたQ-DOSのことを知ったビルが、これを使う方が早いと考え、その使用権を買い取ったものであった。

大きな転機は、80年にやって来た。あのIBM社が接触してきたのだ。しかし、これはビルの手柄というよりも、当時のIBM会長がビルの母親と知り合いであったという幸運が味方したと言った方が正しいかもしれない。

<最終話>

IBMはマイクロソフトにとって、大切なお客であったので、社員全員がこの巨大企業のどんな要求にも応えようと一生懸命だった。しかし、IBMはとても官僚的で、新しいパソコンの時代を本当に理解しているとは思えなかった。ある日、ビルがソフトウエアの開発を一任してほしいと頼んでも、良い返事を貰うことができなかった。しだいに、ビルはIBM社の仕事に疲れを感じ始める様になっていた。

そこで最低限の協力だけはすることにして、あとのスタッフには「ウインドウズ」の開発に専念させた。新しい時代の流れに乗り遅れるわけにはいかなかった。

1990年、ウインドウズ3.0の発売をひかえたマイクロソフトは、IBMのパソコンにウインドウズを採用する様に提案するが、巨人企業の出した回答は、やはりNOであった。ビルは、IBMとの決別を決心する。別れない限り、手足を縛られ、前に進めなくなるのは見えていた。やらなけらばならないことは、他にたくさんあると感じていた。

1975年、4人の若者でスタートしたマイクロソフト社は、現在、世界中で37000名を超える社員数を誇り、コンピューター関連企業のトップを快走中である。

 
--- 世界情勢/海外ニュースの読み方 http://ken-herbie.com■プチ現代偉人物語■ から---

nice!(0) 

サム・ウォルトン(米ウォルマート創始者) [人物・伝記]

サム・ウォルトン(米ウォルマート創始者)
  
 世界最大の売上高を誇るディスカウントストア「ウォルマート」の創業者サム・ウォルトンのプチ伝記をお届けします

(第1話)

 1918年、オクラホマ州に生まれたサム・ウォルトンは、幼少の頃から、雑誌売りで家計を助け、貧しかった両親から、お金を使わないことを学んだ。この頃の経験は、ウォルマートが成功し、億万長者になった後も変わることなく、質素な生活をおくる習慣を築いた。

 ミズーリ大学時代には、既に、助手を雇って、新聞配達のビジネスを始めており、偉大な経営者になる片鱗は、この頃から発揮されていたようだ。

 大学を卒業したサムは、あるスーパーマーケットへ入社する。戦争が長引き、サムは入隊するために会社をやめるが、結局、持病の不整脈のため、戦場へ行くことなく除隊する。

 そして百貨店の経営を目指すのだが・・・

(第2話)

 とある大都市での百貨店経営が順調であったサムだったが、ある日、婚約者のヘレンが言った言葉が、彼の運命を変えることとなる。「私はあなたのいくところなら、どこへでもついていくわ。但し大都市以外ならね」

 こうして、サムは人口1万人以上の町には立ち入り禁止となったのであった。 ところが、皮肉なことに、このことが、小さな町に出店するというウォルマートの出店政策の基礎となった。

 サムは、やむなく他にやれる店がないか探しはじめ、やがて小さなバラエティストアを見つける。しかし、それは赤字続きで全く繁盛していない、みすぼらしい店であった。

 この時、サム27歳。アーカンソー州の田舎町に開いた小さな雑貨店が、今日のウォルマートの原点となった。

(第3話)

 開業当初は赤字が続いたが、サムはここで店を経営するためのノウハウをしっかりと学んだ。そして、たった5年で州一番のバラエティストアへと成長させる。

 ところが、店が順調に利益を上げだすと、突然、地主が姿を現し、「契約更新をしない」と言い始めた。地主は、サムが儲かっているのを知る、自分の息子にやらせようと考えたのであった。

 結局、契約書の盲点をつかれ、サムは、店を手放さざるをえなくなる。そして、町から出て行くのであった。サムの実業家人生の中で、最悪の時を迎えることになる。

 1950年、32歳になった年、妻子と再び店探しを始め、ようやく1軒の店を譲り受けることができた。そこは人口たった3千人のベントンビルという寂しげな町で店舗は、わずか112坪足らずであった。

(第4話)

 サムは、この再出発の店でセルフサービスの方式を取り入れることにした。今では当たり前の光景となったが、当時は、まだセルフサービスは珍しく、瞬く間に人々の間で評判となった。
 
 後日、サムは、自ら「私がやったことの大半は、他人の模倣である」「他社から学ぶことこそ成功への近道」であるとはっきり語っている。

 店の売上は順調に伸びていたが、サムは、「時代の流れ」を敏感に感じ始めていた。人々の関心は、「価格」へと向かっている。これからは、ディスカウントストアの時代だ。


 1962年、サムが44歳の時、ついにディスカウントストア「ウォルマート」をオープンする。当初は、発注計画や定番商品もなく、コンピューターなどもちろんなかった。

 あるのは、「低価格販売」と「満足を保証」だけ。安定した仕入先もなく、当然、大手メーカーからは、相手にもしてもらえない状況であった。

(第5話)

 サムの経営理念は、いたってシンプルである。「すべてはお客が決める」「お客様はすべて正しい」「安く仕入れた分の儲けは、お客に還元するのだ」サムの考えは、見事に的中し、ウォルマートは、次第に多くの客の支持を得ることとなる。 

 一方、サムは、ウォルマートの従業員達とも、良きパートナーシップを築こうと気を配った。彼らの意欲を高めるために、利益分配制度や株式の割引購入制などを、いち早く導入した。

 また、全従業員に会社の売上額や利益などの情報を公開し、共有することにも努めた。 そして、あのアメリカで、社内の労働組合もなく、業績を上げ続けてきたのである。

 1970年、株式を公開。1991年、ついに年商で、全米小売業第1位となるのである。

 現在の年商は2500億ドル(約25兆円)を超え、店舗の数は、世界中で5000店舗を超えるまでになった。

 1992年、大統領から自由勲章を受章。

 その年の4月、静かに息を引き取った。

 サム・ウォルトン(米ウォルマート創始者)1992年逝去
 
--- 世界情勢/海外ニュースの読み方 http://ken-herbie.com■プチ現代偉人物語■ から---
  

nice!(0) 

スターバックス誕生秘話 [人物・伝記]

-スターバックス誕生秘話-
 
故郷のコーヒー味を忘れることができなかった1人のオランダ人。彼の信念が、世界各地に4000店以上を展開するコーヒーチェーンの礎となりました。

 今回は、ハワード・シュルツ(51) スターバックス会長の物語です

 (第1話)

 良質のアラビカ種で、ほどよくローストされた故郷のコーヒーをアメリカ在住のオランダ人ピートは、決して忘れることができませんでした。 当時、アメリカのコーヒーと言えば、ドス黒くてただ苦いだけの飲み物だったのです。

 1966年、ピートは、自分が求めるコーヒーをアメリカ人にも味わってほしいという願いをこめて、「ピートの店」を開きます。やがて、この店のコーヒーの評判は、各地に広がり、1972年遠くシアトルから、ある男達が、ピートの店を訪ねてきたのでした。
 
*プチ・コーヒー通
  泡立てたミルクの色が、カトリックのカプチン修道僧の法衣と頭巾の色に似ていることから、カプチーノと呼ばれる様になりました

 (第2話)

 シーゲルは、仲間2人とシアトルで、コーヒーショップを始めることになっていた。そこで、はるばるシアトルから、「ピートの店」を訪ね、美味しいコーヒーの淹れ方を伝授してもらうことにした。

 彼らは、メルヴィルの小説「白鯨」に登場する、コーヒー好きの航海士スターバックにちなんで、自分達の店を「スターバックス」と名付けた。

 豆はピートから仕入れ、「焙煎後2週間以内の豆だけを使う」というピートの教えを頑なに守った。 店は順調に伸びていった。

 10年が経過し、シーゲルらは、マーケティングを強化しようと考え、ニューヨークから、ある男を呼ぶ・・
 
*プチ・コーヒー通
 コーヒー豆には、アラビカ種・ロブスタ種・リベリカ種の3種がある。高質なのは、アラビカ種。 ロブスタ種は、大量生産できるが、味は劣る。

(第3話)

 事業拡大のため、はるばるニューヨークから呼ばれた男こそ、現スターバックス会長のハワード・シュルツでした。

 早速、シュルツはコーヒーの豆を買い付けに、イタリアへ出張する。 そこでは、今までシュルツが飲んだことのない様な極上のエスプレッソを味わうことができた。 また、ミラノの街のあちこちに見かける洒落たエスプレッソバーが、市民の社交場になっていることも学んだ。

 大きな衝撃を受けて帰国したシュルツの頭からは、ミラノで飲んだエスプレッソの味と洒落たエスプレッソバーのことが離れなかった。 

 「これだ!」と考えたシュルツは、会社(スターバックス)にコーヒーバーを提案するが、会社からは全く相手にされない日々が続いた
 
*プチ・コーヒー通  「マキアート」イタリア語で「染み」のこと。エスプレッソにミルクで染みをつけたものが、カフェ・マキアート。 一方、ミルクに
エスプレッソで染みをつけたものが、ラテ・マキアート。ついでに、私が好きなのは、キャラメル・マキアート。

 (第4話)

 資金のなかったシュルツは、地元の投資家を募り、念願であったコーヒーバーを開こうとしていた。 1985年、シュルツはスターバックスの豆だけを使用するという条件で、独立を果たす。

 そして、現在のスターバックスの店舗の礎となるコーヒーバー「イル・ジョルナーレ」をOPENさせた。

 一方のスターバックスと言えば、当時のフレーバーコーヒーブームの中で、苦戦を続けていた。 開店して15年、グルメコーヒーを追い求めてきたため、今さら、フレーバーコーヒーを受け入れる体制にはなかったのだ。

 シーゲルら3人は、次第にスターバックス経営への関心を失い始めていた。
  
 *プチ・コーヒー通
 フレーバーコーヒーとは、焙煎(ロースト)の段階でバニラやナッツなどの香りをつけたコーヒーのこと

 (第5話)

 フレーバーコーヒーを邪道とするスターバックスは、頑として店には置こうとしなかった。 次第に、客足は離れていった。商売としてのうま味を失ったオープン当時の3人組は、コーヒーチェーンを止め、それぞれ別の事業へ乗り出すことを
考え始めていた。

 1人はスターバックスを退職し、1人はビールの販売事業をすることにした。

 そんな折、「スターバックス買収」の話が持ちあがる。 買収を申し出たのは、他ならぬ、彼らがニューヨークから呼んだハワード・シュルツであった。

 シュルツは、独立して開いたコーヒーバー「イル・ジョルナーレ」が成功し、11店舗を持つまでになっていた。

 取引は成立し、「イル・ジョルナーレ」の看板は、一夜にして「スターバックス」へと変わった。
 
*プチ・コーヒー通
 カップのサイズ、どれにしようか悩んだことありませんか?通常、ショートは8オンスで、いわゆる缶コーヒーとほぼ同じ大きさ。トールは12オンスで、その1.5倍。グランデは16オンスですので、ショートの2倍の大きさです

(最終話)

 スターバックスを買収したシュルツは、持ち前の経営センスを活かし、次々と店舗を拡大させていきます。

 「自分より有能な社員を雇い、やりたいようにやらせる」というモットーで、どの店に行っても均一な品質のコーヒーを提供できる様、バリスタの教育に力を入れてきました。

 1996年、スターバックス初の海外進出となった場所を、皆さん、どこだと思いますか?

 それは、銀座でした。流行に敏感な日本人なら、フラペチーノやカフェモカに飛びつくだろうと考えたシュルツの読みは、見事に当たりました。
 
 2001年には、スイスにも出店し、念願であったヨーロッパ進出も果たしました。


 現在、世界中で4000店を超える世界最大のコーヒーチェーンは、「故郷のコーヒーを忘れることができずに、真の味を追い続けた」1人のオランダ人の信念から生まれたのでした。

(補足)
 スターバックスのロゴマークは、「美味しいコーヒーで、多くの人を魅了したい」という思いから、北欧神話に登場する魅惑的な歌声で、海の男たちを魅了した、尾を2つ持つ伝説の人魚セイレンから来ています。よく見ると、確かに尾ひれが2つありますね。
  
*プチ・コーヒー通
 フラペチーノは、氷を細かく砕いた(かき氷状の)飲み物のことですが、スターバックスによって商標登録されていますので、他社で見ることはできません
 
--- 世界情勢/海外ニュースの読み方 http://ken-herbie.com■プチ現代偉人物語■ から---
  


nice!(0) 

第一部 豊田章一郎のニッポン考 《1》 [人物・伝記]

トヨタ 伝

 トヨタ自動車名誉会長の豊田章一郎さん(76)は、戦後間もない数年間を、親せきが経営する北海道・稚内の水産加工会社ですごしている。かまぼこやちくわを焼きながら、その機械の設計や製造をしていた。だれもが「あすの飯を食べるのに必死だった」時代から、ほぼ半世紀。豊かさだけを追い求め、何かを忘れてしまった現代日本人に警鐘を鳴らす。

 豊田章一郎氏 1925年2月生まれ。織機王・佐吉の孫、トヨタ自工創業者・喜一郎の長男。名大工学部卒。52年に入社。82年、工販合併で誕生したトヨタ自動車の社長に就任。92年会長、99年から名誉会長。94年から4年間、経団連会長。現在、2005年日本国際博覧会協会会長。

第一部 豊田章一郎のニッポン考 《1》

偉ぶらず普通の国に

 「日本は普通の国になれって、よく言われるじゃない。あまりにも豊かさだけを求めて、普通であることを忘れているんじゃないかって」

 「豊かさは求めなくちゃいかんと思う。だけど、日本の国を忘れちゃいかん。世界も忘れちゃいかん。自分だけよけりゃいい、ということはよろしくない。共存共栄ですよ」

 「何も大きくなるだけが能じゃない。強くするだけが能じゃない。普通の国になりゃいいんですよ。えらくならんでもいいんです」

 厳しい視線は、国の規制や保護に頼るような企業、産業にも向けられる。

 「最近、中国からの輸入品は安くて、日本の産業はどうなるとかね。要するに、保護されている業界はもう少し自覚を持って、国際競争に勝てるよう努力しなくちゃいけない。今は、さぼっている方が得するみたいな制度があるでしょ。例えば農業だって、休耕ですよ。米作らなければ金をくれるような。そういう制度はよろしくないですよ。教育上よろしくない。そう思いませんか」

----- 日本人は働かないようになってしまった?

 「いや、働きますよ。ただ、働くことが悪いことだなんて言わんようにしてほしいんだ。よく働く人や、一生懸命やる企業、勉強する人は、伸びていくような社会にしないと」

----- やはり普通ではないと。

 「ある程度の規制で保護されているところは、撤廃すると痛みを感じる。そういうところが普通の国にならんと、ちょっとおかしいんじゃないですか。何となく現状を直していきたいという世論があるのではないか。それを端的に言ったのが小泉首相であって、わっと支持率が上がっている。国民は期待しているんじゃないですか。だけど実行は難しい。ものすごく難しい」

----- おかしくなったのは、いつごろからでしょう。


 「変だぞと思い始めたのは、十年近く前からじゃないですか。日本がね、いばりだしちゃったんですよ。バブルがはじける前かな。新聞が書きましたよ。日本の銀行は世界のベスト10を占めている。世界の金融を日本が制覇したって。その時には、これでいいのかなと思いました。日本はそれほど偉くないよと。そしたら、馬脚を現してダーッと落ちた」

----- 改めて普通の国とは。

 「私はフランス人です、私は日本人ですと。みんなそれぞれあるんですよ、どんな国で育ってきたのか。そういうことのはっきりした人であり、国ですよ。おれは日本人だ、ということを忘れてもらっちゃ困る」

----- 佐吉の気概「今こそ」 章一郎さん現代社会に警鐘

 「今みたいに満ち足りて豊かで、働かないでいいように思われたら、たまらんですよ。日本には大借金があって、反面、外国には旅行者がバンバン行っている。外国人から見たら、日本て何にも貧乏じゃない。むしろ、もうかっているじゃないか、という印象がありますよ」

----- この国のかたちへの指摘は厳しい。

 「飛行場に降りると着地料がかかる。成田から高速道路料金が高い。ホテルを出ようとして勘定書きを見てびっくりする。そういうのは、けたはずれに悪いですな。このごろ感じるのは、なんで日本は高速道路が有料なのか、外国では少ないですよ。もっと研究して、ただにしたらいい」

 「ものを作る人はものを作り、金融の人は金融をやる。普通のことを普通にやればいい。自分を過大評価せず、かといって見くびってもいけない。世界の中での日本の位置からすれば、社会貢献はしないと。アフリカへ行ってご覧よ。何も食えないような人がいるんだから。そういうところに、日本は何か感じるところがないといけない」

----- 未来を託す若者へも不満は募る。

 「我々は、お国のためを思って一生懸命やっている。だから極端に言えば、若者も我々と同じような気持ちでやってもらえればいいと思うけど。そのかわり、苦しいですよ」

 トヨタグループ各社の新入社員は毎年四月、静岡県湖西市の「豊田佐吉記念館」や愛知県豊田市の「鞍ヶ池記念館」を研修で訪れる。そこで学ぶことは?

 「まあ、日本人になれってことじゃないですか。明治以後、国際化、開国してからさ、日本人がどういうふうにやってきたかという歴史は、知ってなきゃいかんのじゃないか」

----- 祖父の佐吉は代表的な明治の日本人だった。

 「佐吉はね、やはり何とかして日本を一人前の国にしたいという気持ちがあった。それは佐吉だけじゃない。その当時の若者は皆、そういう気持ちでいた」


 「手前みそになるが、佐吉はまず、親が苦労しているのを何とか楽させようという純粋な気持ちから、楽に機織りができるように、それから当時の産業の中心だった繊維業を興した。それは非常によかった」

 佐吉の残した言葉はまとめられ、トヨタグループの経営精神を束ねる「豊田綱領」となった。〈上下一致、至誠業務に服し産業報国の実を挙ぐべし〉で始まる。

 「古いかもしれんけど、今こそ、そういう気持ちを取り戻してほしい。自分からそういう気持ちでやっていくためにも、先人のことをよく知っておく必要がある」

----- そして、こう注文する。

 「日本は外国から期待されている。日本の景気が悪くなったらおしまいだって言ってくれている。もっと考える日本人になってもらわないと、だめなんじゃないですか」

「障子を開けてみよ。外は広いぞ」

--- 変革の心 今も脈々「 変えないこと最も悪い 」 ---

 今年のトヨタ自動車入社式。社長の張富士夫(64)は、「障子を開けてみよ。外は広いぞ」という言葉を、新入社員へのはなむけとした。同社をはじめトヨタグループのルーツとなった豊田佐吉(1867―1930)が80年前、中国・上海に紡織会社を進出させた時の言葉である。小さく収まることを嫌った佐吉の精神は、今も受け継がれている。

 佐吉は、静岡県山口村(現・湖西市)の貧しい大工の家に生まれた。18歳の時、「教育も金もない自分は、発明で社会に役立とう」と決心し、機織り機の改良に取り組んで、100件近い特許を取得した。佐吉の興した織機会社から、現在のグループ各社が枝分かれした。

 佐吉とともに自動織機の改良・開発に取り組んできた長男、喜一郎(1894―1952)の心は、欧米に負けない自動車づくりへと向かう。織機会社の中に設けた「自動車部」で、若い技術者とともに自動車づくりに熱中。1935年、試作第1号の国産乗用車A1型を完成させた。東京までの試乗で難所の箱根を越えた時、喜一郎は感慨を込めて「イマ ハコネヲ コエタ」と電報を打った。

 喜一郎は現場に出ない技術者を認めなかった。出れば、油にまみれる。「1日に3回以上、手を洗わないような技術者はものにならない」。この考えが、トヨタの「現地現物主義」につながった。
 世界的にも評価の高い「トヨタ生産方式」のベースとなった「ジャスト・イン・タイム(ちょうど間に合うように)」は喜一郎の造語。必要な時に、必要な材料を、必要なだけ受け取る生産方式を目指した。後に、副社長まで務めた大野耐一(1912―1990)が中心となって、「かんばん方式」へとまとめ上げた。

 倒産の危機もあった。1950年、経営難から大規模な労働争議が起きた。「この荒波を何とか乗り切りたいが、それには、ここを解散するか、または一部の方にトヨタ丸から降りていただくか、道は二つに一つしかない」。そう語った喜一郎は、会社を救うため、自ら社長の座を去った。

 販売部門を分離したトヨタ自工の再建を託されたのが、豊田自動織機製作所の社長だった石田退三(1888―1979)だった。

 昭和40年代に入り、アメリカが日本のメーカーに資本自由化を厳しく迫った折、次々に海外企業と資本提携を進める他社を横目に、石田は「自分の城は自分で守れ」と語り、堅実経営と技術力の強化を自らに課しながら、孤高を貫いた。

 創業者一族から再びトヨタ自工社長となったのが、喜一郎のいとこで現在、最高顧問の豊田英二(87)。喜一郎からも厚い信頼を得ていた。

 マイカーブームの中で、相次いでヒットを出し、GMとの提携も進めるなど、今日のトヨタを築いた。英二は「乾いたタオルでも、知恵を出せば水が出る」と、1銭のコストダウンにも懸命に取り組んだ。

 トヨタ自工、自販合併(1982年)以後、喜一郎の長男の章一郎(76)、二男の達郎(71)と豊田家からの社長が続いたが、その後が現会長の奥田碩(68)。「これからの時代は、何も変えないことが最も悪いことだと考えてほしい」。変革を迫られながら、たじろいでいるような日本で、この言葉が響いている。

(つづく)

--- 読売新聞2001年5月14日掲載 ---


nice!(0) 

第一部 豊田章一郎のニッポン考 《2》 [人物・伝記]

第一部 豊田章一郎のニッポン考 《2》

新しいものに挑む

 企業には栄枯盛衰がある。昨年、英国に渡った豊田章一郎さん(76)は、かつて世界を制した織機メーカーの夢の跡を訪ねて、その思いを新たにした。だからこそ、立ち止まることはできない。

 昨年七月、英国・マンチェスター近郊のオールダムにあった織機メーカー「プラット社」跡に立っていた。約七十年前、同社に通った父・喜一郎の足跡をたどるためだった。当時、世界最大の織機メーカーだった。

 「産業革命をリードした会社だけれど、今は廃虚になっていた。工場はレンガだったから、建物は建っているけど、中は空。ああなっちゃいかんなと、日ごろ言ってるんですよ。豊田市があなっちゃいかん。時代は変わりますからね、どんどん新しいものに変わっていかないと、だめです」

 同社は1929年12月、豊田佐吉、喜一郎父子が開発した自動織機の特許を百万円で買った。これを資金に、豊田自動織機製作所内に作られた「自動車部」が、トヨタ自動車のルーツとされている。

 「プラットは、織機だけやってたでしょう。だから、だめになったんじゃないですかね。自動織機(豊田自動織機製作所)でも、紡織機の売り上げは全体の一割にも満たない。もし、自動織機が自動車関連の仕事をしていなかったら、つぶれちゃってるでしょうね。自動車をやったことは、トヨタグループにとって非常によかった」

――トヨタの今後は。

 「自動車がなくなったら、おしまいですよ、トヨタグループなんて。変わらなくても、自動車がうまくいけばいいけれど」

 「だから、常に危機感を持ち、常に新しいものに挑戦していかなくてはならない」

現場へ何度も足運べ

 トヨタの国内の販売シェアは40%を超え、2位以下を大きく引き離す。今年1月には、フランスの現地工場を稼働させるなど、世界戦略も着々と進んでいる。しかし、豊田章一郎さん(76)は慢心を戒め、「現場へ足を運べ」という。

――トヨタの「一人勝ち」ですが。

 「冗談じゃない。そういうことを書いてもらっちゃ困る。慢心しちゃう。生きるか死ぬか、必死なんですよ。こういう言葉は現代的ではないけれど。そりゃそうですよ。我々はGM、フォード、フォルクスワーゲン、ダイムラーベンツ、日産と、みんな強い相手と競っているんだから」

 このトップの危機感に加え、現場に出掛け、自分の目と足で確かめ、頭で考える伝統の「現地現物主義」が、トヨタの強さを培ったのかもしれない。新車の試乗会で、「最初から最後まで車に乗っていたのは、豊田英二氏(最高顧問)と章一郎氏だった」と元開発担当者。章一郎さんも現場人間だった。

 「このごろ、なかなか行けないね。(工場へ)行くといい。いろんなことがわかる。コミュニケーションをよくするとか、何をやっているかを知るにしても、現場に行くっていうことが、一番わかりやすい」

 「(自民党総裁選に出た)四人にしてもね、もっと現場へ出て、事実を知らないとだめですよ。日本の国がどうなっているかをね。批評家じゃいかんのよ」

 「だけど、僕がちょっと行くぞとなったら、ダーッとみんな付いてくる。そういうのはよろしくない。だから、黙って行った方がいいんだよ」

――見方を知らない人が現場に行っても、わからない。どんなところに視線を向けるのですか。

 「僕は例えば、絵の展覧会に行っても、何もわからない。わかんないけれども、何回も行くうちに何となく分かってくる。何回も行かなくちゃ、だめなんだ」

 トヨタはいまや自動車にとどまらない。住宅産業や、インターネットでの電子商取引事業「ガズー」を展開するなど、総合産業を目指しているとも言われる。トヨタの社名から、自動車という文字が消える日は近いのか。

 「いや近くない。自動車というのは割合、すそ野が広いんですよ。自動車だけでも総合企業と言える。材料があるし、通信もある。だからグループの中でトヨタは、自動車の一部をやってるだけ。そんな産業は、そんなにたくさんないですよ。これがおかしくなったら、日本だって、社会だっておかしくなっちゃう」

 ただ、内燃機関が動力源だった自動車の歴史に、大きな転機が迫っている。

 「自動車に代わるものが出てくるかと言えば、今のところない。ただし、エンジンとかボディーとか、形は変わりますよ。50年たてば、燃料電池に変わっているだろうけど、自動車自体はありますよ。日本の国の基幹産業は、守っていかなきゃだめです」    (つづく)

--- 読売新聞2001年5月15日掲載 ---

nice!(0) 

第一部 豊田章一郎のニッポン考 《3》 [人物・伝記]

第一部 豊田章一郎のニッポン考 《3》

意地が作る己の道

 創業者の跡継ぎが、同じ道を歩くとは限らない。時代の脚光を浴びるとも限らない。それでも、意地が、新しい道を求めさせることもあるのだ。

 「おやじなんかの話を聞くとね、自動車を造りだしたのが昭和10年ぐらいでしょ。まあ、夢は乗用車。本当は乗用車をやろうと思ったけれども、戦争が激しくなったから、トラックに切り替えちゃった。2つの工場のこっち側がトラック、こっち側が乗用車というつもりだったのが、戦争でしょ」

 トヨタ自動車の創業者で豊田章一郎さん(76)の父、喜一郎は「日本人の頭と腕で」国産の大衆車を造ることが夢だった。戦争がその夢を遮り、戦後は、倒産の危機が夢を奪った。ついに自分の手で乗用車の大量生産を始めることはなかった。

 喜一郎はこうも語って聞かせたという。

 「おれは自動車のことは何もやらなかったと、僕に言いましたよ。全部、部下がやってくれたと。ただし、おれは紡織機には全知全能をかけたが、世間は、全部、(父の)佐吉がやったと言ってるよと。そこに意地がわくという言葉を使ってましたから。だけど、いろんな行動を見ていると、自動車のことでも必死になってやっていた。しかし、僕にはそう言っていた」

――なぜ、章一郎さんにそう言ったのでしょうか。

 「わからん。僕の受け止め方としてはね、お前がいくら自動車やったって、自動車はおれがやったということになる。だから、もし、お前が何か仕事をやりたいと思ったら、自動車以外のことでやらなきゃだめだよというサゼスチョンかもしれんですよ」

みんなが努力している

 父に「自動車以外の道へ行け」と暗示された豊田章一郎さん(76)は、1952年、父の急死で、トヨタ自動車工業に入社。わずか27歳の取締役だった。現実と危機感が、夢にとって代わった。

――最初から自動車を受け継ぐということしか念頭になかったんですか。

 「いや、そんなことはない。住宅がある。プレコンというのをやってましたよ。これもおやじの夢ですけどね。いや夢じゃない。戦後の焼け野原の中で、焼けないような住宅を作ろうと考えた。だからコンクリートにした。おやじは庭でコンクリートこねて、試作していた。日本人だって、ちゃんとしたうちに住む権利があるぞと」

 「最初の発想、夢はね、平らな屋根にして、そこにヘリコプターが下りるというような家ができるといいなと。これは僕の夢だったかもしれんな」

 「ところがね、平らな屋根になると、雨が漏る。それから日射のせいで暑いんだよ。大失敗。まあヘリコプターはね、今でも規制が多くて何ともならん。それと、ものが悪いよね。やかましい」

――取締役でのトヨタ入社。これも創業家ゆえ。プレッシャーはありませんでしたか。

 「ない、ない、ない。必死になって明日の飯を食おうというばかり。総理大臣だったらもっとプレッシャーかかりますから。会社はみんなが努力してる。みんなが同じですよ。一人でやっているわけではない」

 目前に待ち構えていたのは、夢よりも現実だった。

 「昭和32年(1957)に独フォルクスワーゲンのフォルクスブルク工場を見に行った時でも、1日に2000台造っていましたよ。当時、我々は6、70台かな。10対1より小さい。その程度の規模のところで、値段で競争するにはいったいどうしたらいいだろうと」

 今、トヨタは世界有数の企業へと育った。

 「もし豊田自動織機製作所から自動車を始めていなかったら、今ごろは(トヨタグループは)つぶれちゃっているでしょうね」

 祖父の佐吉、父の喜一郎の功績によって、その後も、創業家がグループに対する求心力になってきたとされる。父の死後から半世紀、章一郎さんの長男の章男さんが44歳という異例の若さでトヨタ自動車の取締役に就任した。しかし、「求心力なんてマスコミが言うだけ」とそっけない。

 「やっぱりみんなでやっているから。豊田家だけでやっているわけではない。株を見ればわかるでしょう。フォード社の多くの株を押さえるフォード家とは違うから」

 「(父のあとを継いだ)石田退三さんは、求心力を使ってやっていこうという気があったと思いますよ。おれは(先代の)佐吉から薫陶を受けたと、しょっちゅう話し、それをグループのみんなに植え付けた。僕はそういう芸当をようやらん」

(つづく)

--- 読売新聞2001年5月17日掲載 ---


nice!(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。