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捨て子の少女の死 [Others]

捨て子の少女の死と、脱・格差社会のもと
1996年11月の四川省の寒村。若い未婚の男性農夫が草むらに捨てられた女の子の赤ちゃんに気づきました。赤ちゃんを育てるのは、貧乏な彼にとって重い負担。そう考える彼は何回も赤ちゃんを抱き上げては下ろし、立ち去ってはまた戻りました。最後、彼は命が尽きそうな赤ちゃんに呟きました。

 「私と同じ、貧しい食事を食べてもいいかい」と。

 独身のまま1児の父親になった農夫は、粉ミルクを買うお金もないため、赤ちゃんはお粥で大きく育てられました。病気がちな体は心配の種でしたが、聡明で近所からとてもかわいがられたのは、お父さんの救いでした。

 女の子は5歳になると、自ら進んで家事を手伝うようになりました。洗濯、炊飯、草刈りと、小さな体を一生懸命に動かして、お父さんを手伝いました。ほかの子と違ってお母さんがいない少女は、お父さんと2人で家をきり盛りしました。

突然押し寄せた不幸

 小学校に入ってからも、少女はお父さんをがっかりさせたことはありませんでした。習った歌をお披露目したり、学校での出来事を話したりと、お父さんを楽しませました。そんな平和な家庭に突然の暗雲がたれ込みました。

 2005年5月。ある日、少女は鼻血がなかなか止まらない状態になりました。足にも赤い斑点が出たため、お父さんと病院に行くと、医者に告げられた病名は「急性白血病」でした。

 目の前が真っ暗になりながら、お父さんは親戚と友人の元に出向き、借りられるだけのお金を借りました。しかし、必要な治療費は30万元。日本円にして400万円です。中国よりずっと裕福な日本でも、庶民にとっては大金になるような治療費を、中国の農民がどうにかできるはずもありません。集めたお金は焼け石に水でした。

 かわいい我が子の治療費を集められない心労からか、日々痩せていくお父さんを目にして、少女は懇願しました。「お父さん、私、死にたい。もともと捨てられた時に、そのまま死んでいたのかもしれない。もういいから、退院させてください」と。

自ら治療を放棄すると退院

 お父さんは少女に背を向けて、溢れ出た涙を隠しました。長い沈黙の後、「父さんは家を売るから、大丈夫だよ」と言いました。それを聞いて、女の子も泣き出しました。「もう人に聞いたの。お家を売っても1万元しかならないのでしょ。治療費は30万元ですよね」と。

6月18日、少女が読み書きできないお父さんに代わって病院に「私は娘への治療を放棄する」との書類を提出しました。彼女はまだ8歳でした。幼い子につらい思いをさせてしまったことを知ったお父さんは、病院の隅で泣き崩れました。そして娘を救うことのできない自分を恨み、運命の理不尽に怒りを覚えました。

 娘は生まれてまもなく実の父母に捨てられたうえに、貧乏な自分と1日も豊かな生活を経験したことがありません。8歳になっても靴下さえ履いたことがありません。それでなくてもつらい人生を歩まなくてはいけなかったのに、さらに追い打ちをかけて病に苦しめられるとは。

 退院して家に戻った少女は、入院する前と同じように家事をし、自分で体を洗います。お父さんに、自分は勤勉で、かわいく、そして綺麗好きな娘として記憶に残してほしい。そう願いながら、1つだけお父さんに甘えました。

 新しい服を買ってもらい、お父さんと一緒に写真を撮ってもらったのです。それもお父さんを思ってのこと。「これで、いつでも私のことを思い出してもらえる」と。

70万元の寄付が集まり、治療を再開

 ささいな幸せの日々も、終わりが見え始めてきました。病気は心臓に及び始め、ついに彼女は学校に行くのもままならなくなりました。苦痛から、学校に向かう小道を、1人カバンを背負って立ち尽くすこともありました。そんな時には、目は涙で溢れていました。

 少女の死が近づいたころ、ある新聞記者が病院側からこの話を聞き、記事にしました。少女の話はたちまち中国全土に伝わり、人々は彼女のことで悲しみ、わずか10日間に70万元の寄付が集まりました。女の子の命はもう一度希望の火が灯され、彼女は成都の児童病院に入院し、治療を受け始めました。

 化学治療の苦痛に、少女は一言も弱気を吐いたことがありません。骨髄に針を刺した時さえ、体一つ動かしません。ほかの子供と違って、少女は自分から甘えることをしないのです。

訪れた運命の日

 2カ月の化学治療の間に、何度も生死をさまよいましたが、腕のよい医師の力もあって、一時は完全回復の期待も生まれました。しかし、…。やはり化学治療は、病が進行し衰弱していた少女の体には、無理を強いていたのです。

化学治療の合併症が起き、8月20日、女の子は昏睡状態に陥りました。朦朧とした意識の中で彼女は自分の余命を感じます。翌日、看病に来た新聞記者に女の子が遺書を渡しました。3枚もの遺書は彼女の死後の願いと人々への感謝の言葉で埋め尽くされています。8月22日、病魔に苦しめられた女の子は静かに逝きました。

 少女のお父さんは冷たい娘をいつまでも抱きしめ涙を流しました。インターネット上も涙に溢れかえり、彼女の死のニュースには無数の人々がコメントを寄せました。8月26日、葬式は小雨の中で執り行われました。少女を見送りに来た人にあふれ、斎場の外まで人で埋まりました。

 女の子の墓標の正面には彼女の微笑んでいる写真があります。写真の下部に「私は生きていました。お父さんのいい子でした」とあります。墓標の後ろには女の子の生涯が綴られてありますが、その文面の最後は「お嬢さん、安らかに眠りなさい。あなたがいれば天国はさらに美しくなる」と結ばれています。

殺人は微増にとどまるが…

 紹介した話は、僕が中国で旅している間に偶然に耳にしたものです。詳細に興味を持つ方はどうぞ僕のブログをご覧ください。

 セレブの奥さんが夫を、医師を目指す兄が妹を、バラバラ殺人する事件が相次いで報道されたり、息子が父親のしつけに耐えられなくなり、母親と幼い兄弟を放火殺人してしまったり、とここ最近、家族同士の殺人事件のニュースを聞かない日がないくらい増えています。

家族同士の殺人事件は、今に始まったことではありませんが、どうも最近はこれまで以上に凄惨になり、数も増えている気がします。

 2006年版の警察白書によれば、刑法犯で警察が被害届を受理した件数(認知件数)は2001年度に273万5000件だったのが、2005年度には226万9000件と減り、殺人事件は同じく1340件が1392件と微増、放火は2006件が1904件と減っています。検挙件数で見ると、殺人は1261件が1345件と、これも増えてはいますが、目立って増えているわけではありません。

 白書の統計の中で、家族間の殺人がどのようになっているのか分からないので、凄惨な家族殺人が増えているというのは単なる印象論なのですが、どうも現代の日本は、家族の絆や生命の重みを大事にする気持ちが、薄まりつつあるのではないかと感じます。

カネや国に頼る前に、必要なこと

 もちろん勘違いだとは思いますが、そう感じるのは「カネ」さえかければ的な議論が先行し、何をするにしても基本である人の気持ちが置き去りにされているようだからです。例えば、現在、安倍内閣が掲げている教育再生や少子化対策などの是正の議論の中では、必ずといっていいほど、国が対策を講じず、必要な予算をつけなかったから「学校が荒廃した」「子供を産めない夫婦が増えている」というものがあります。

 カネがないからダメになった、という意見に、僕は素直に賛成できません。紹介した中国の少女の家庭は貧乏だったけれども、少女を優しい思いやりのある子供に育てました。お金はなかったですが、少女には夢があり、家族愛が育まれました。

 この少女が生きた四川省の農村部では、1人当たりの年間現金収入は1000元(約1万4000円)も届かないと聞いています。ですから治療費の30万元というのは、年間収入が500万円の人が15億円の治療費を負担するようなものです。

思いやる心がない社会の寒さ

 少女の話がまたたくまに中国全土に広がったのは、中国も最近の経済発展でカネがすべてという退廃した空気が充満し、そして日本をはるかに凌ぐ格差社会の実態があるからだと思います。少女の話からお金よりも大事にしなくてはならないものがある、いくらお金があっても得られないモノがあるのだということに気づかされ、それがなんの見返りもない寄付という形になったのだと思います。

 お金は、あることに越したことはありません。予算もそうです。教育再生、格差社会の是正に限らず、どんな改革を実行するのにも、予算は少ないより多い方がましです。しかし、お金をかければ、必ずいい結果が出るものでもありません。

 学校が荒れているのは、教育予算の規模も関係しているかもしれませんが、僕には家族が、人を思いやる心を子供に与え、教えていないことに根本の原因があると思えます。もちろん家族だけが人を思いやる心を教えるものではありません。家族が教えられなくても、教師、地域、仲間が代わりを務めることもあるでしょう。

 暖冬の中、寒々しい話をたびたび聞くにつけ、心のぬくもりについて考えてみました。

著者プロフィール

宋 文洲(そう・ぶんしゅう)
ソフトブレーン
マネージメント・アドバイザー

 1963年6月中国山東省生まれ。84年中国・東北大学を卒業後、日本に国費留学する。90年北海道大学大学院工学研究科を修了。天安門事件で帰国を断念し、日本で就職したが、勤務先が倒産。

1992年ソフト販売会社のソフトブレーンを創業し、代表取締役社長に就任、1999年2月代表取締役会長に。2000年12月に東証マザーズ上場、2005年6月に東証1部上場を果たす。

2006年1月代表権を返上し取締役会長に、同年9月1日、「もう1人の社長」「陰の実力者にならない」として、取締役会長を辞任し、マネージメント・アドバイザーに就任する。

宋 文洲
2007年1月25日 木曜日 NBonline 

 

 

 


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首相靖国参拝 [Others]

<首相靖国参拝>小泉首相、靖国神社に参拝

 小泉純一郎首相は15日午前、東京・九段北の靖国神社に参拝した。首相は「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳。献花料をポケットマネーから3万円払った。

 参拝方式は「一礼」だった。首相の靖国参拝は01年の就任以来6年連続で、これまで回避していた終戦記念日の参拝に、退任を控え初めて踏み切った。現職首相の「8・15参拝」は85年の中曽根康弘首相以来21年ぶり。

 首相は01年自民党総裁選の公約であることを参拝理由として説明するとみられるが、中韓両国の反発は必至で、自民党総裁選の論議にも影響しそうだ。

 首相はモーニング姿で公用車に乗って公邸を出発、午前7時41分に同神社に到着し、本殿で参拝した。

 首相は01年4月の自民党総裁選で「8・15参拝」を公約に掲げた。しかし、同年は外交上の配慮から8月13日に前倒しした。その後、春季例大祭初日の4月21日(02年)▽1月14日(03年)▽元日(04年)▽秋季例大祭初日の10月17日(05年)――と日付を変えて参拝、8月15日は見送ってきた。

 しかし、首相として最後の参拝となる今年は、首脳交流を拒絶する中国への批判を強め、8月に入ってからは「公約は生きている」「公約は守るべきものだ」などと参拝の意向を強く示唆していた。

 現職首相の「8・15参拝」は三木武夫首相が75年に初めて実施。その後、福田赳夫首相、鈴木善幸首相が行ったが中曽根康弘首相が85年に公式参拝として実施して以来、参拝自体が中断。

 その後、橋本龍太郎首相や小泉首相らが参拝した際は、別の日程を選んでいた。
 
 首相が「8・15参拝」に踏み切ったのは、首相参拝を支持する安倍晋三官房長官の自民党総裁選での優位が揺るぎない情勢で政局への直接的な影響が回避でき、退任を控えての参拝なら中韓両国の反発も限定的との判断からとみられる。

 小泉首相の参拝への反発から中韓両国は首脳交流を凍結しており、今回の参拝で反発を強める近隣諸国との関係改善は次期政権の課題となる。

【鬼木浩文、小山由宇】8月15日(火)7時49分

 (毎日新聞) - 8月15日8時15分更新


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短時間がすべてを変える [Others]

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短時間がすべてを変える

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塩はわずかの量で料理全体の味を変えます。

醤油も砂糖もそうです。

同様に、ごくわずかな時間が、一日全体の質を変えるということがあります。 

ベスト・セラ-『知的生活の方法』など数々の著作家としても知られる
渡辺昇一氏の言葉を引用します。

「毎日五分前後の運動をすることによって、
今や私の背骨は、私より二十歳も若い学者たちよりも柔軟になった。

肉体でもそうなら、脳にも毎日三十分か一時間くらい異質な運動を
与えてみてはどうであろうか。

毎日一時間、仕事と関係のないことで頭を使おうと決心するならば、
そのことによって、生活のクオリティは一変するだろうと予想してよい。

毎日一時間だけ、今までやらなかった『高級なこと』をやることによって、
残りの二十三時間のクオリティが善変するのではないだろうか」

渡辺昇一著『クオリティライフの発想』より

この説には、なるほどなと思えます。

たとえば、「朝の十分間読書」というすばらしい教育があります。

林公(ひろし)という高校の先生が提唱されて以来、
今や「朝の十分間読書」は、全国、数万校の小・中・高校に広がってきています。

「朝の十分間読書」は、子どもが各自、
自分の好きな本を開いて、授業前の十分間、
声を出さずに読書をするだけの活動です。

しかし、その十分間は、騒がしかった校内が
水を打ったようにシーンと静まり、
時々ページをめくる音が聞こえるだけの知的で豊かな時間となります。

その十分間が、学校生活全体を変えました。

「朝の十分間読書」を実践している教室では、
本好きな子が急激に増えました。

子どもたちに、読む力と同時に書く力もついてきました。

さらには、その教育効果は子どもたちの生活面にも及びました。

続けているうちに、次第に遅刻が減り、
イジメや校内暴力がなくなってきたのです。


短時間のちょっと異質なクオリティが継続すると、
いつの間にか何かを変えていくのです。


一日、たった5分間でいいかもしれない。

自分の何かを変えるために、
いままでやらなかった「高級なこと」に時間を使ってみませんか?

 

★ 今日の言葉から学べるヒント ★

ちょっと違うことを5分間だけやってみる。

(^.^)


心の糧・きっとよくなる!いい言葉  Vol.154

中井俊已  http://www.t-nakai.com/


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「ダ・ヴィンチ・コード」とかけて「小泉改革」と解く [Others]

その心は「分かりやすい映像」に潜む功と罪

 「ダ・ヴィンチ・コード」が映画史上歴代2位の順調な滑り出しを見せている。レオナルド・ダ・ヴィンチが名画に託して伝えようとしたイエス・キリストの謎を追う原作の歴史ミステリー小説は、全世界で5000万部を突破する売れ行きを記録したのだから、映画の方も計画通りの立ち上がりと言っていい。

 この映画、実は「小泉改革」とある種の共通点を持っている。複雑な物事の背景をすぱっと短い言葉で斬って、畳み掛けるように結論に導いていく。検証のために持ち出してくる資料や素材そのものは事実を含んでいるのだが、相反する膨大な証拠や資料の検証を抜きに、考える暇を与えず映像や音で本能に訴えかける。

 小泉改革の本質が「テレビ時代の劇場型政治」なのだとすれば、「ダ・ヴィンチ・コード」の中で繰り広げられるのは、「映像時代のパフォーマンス型神学論争」にほかならない。国会のテレビ中継で民放のニュース番組も顔負けのフリップが使われるようになった今、「パフォーマンスを否定するよりも、うまく活用した方が勝ち」なのは、残念ながら否めないのだろう。

小泉首相の資料は60字が上限

 知人の官僚で、小泉純一郎首相に経済政策を説明するための資料を作成している人物がいる。彼曰く、「小泉首相に手渡す資料では、1ページにつき20字×3行、合計60字以上、文字が並んでいると読んでもらえない。そんな不文律がある。文字が長くなりそうな場合、60字で止めて、後は余白にグラフや図表を多用するのがコツ」なのだそうな。

 上に引用した発言がすでに100字近いのだから、60字の制約がいかに大きいか、お分かりいただけるだろう。見出しと簡単な要旨を語っただけで、すぐに60字など超えてしまう。
 この方法には、1つの利点がある。1枚につき60字の文字とグラフしかない資料なら、読まずに「見る」だけで理解できるのに加え、ポイントが1点に絞られているだけに、改めて疑問を抱くこともない。

 これ1枚だけなら論争に耐え得ないものの、1枚めくると関連した別の資料が何枚も飛び出してくる。

要するに、論点を少しずつずらしながら、細部に深入りしないで結論に導いていく技術さえ身につけたなら、相手が疑問を感じる材料を最初から提供しないという意味で、「一見すると隙のない論戦」に持ち込めるのだ。

 映画の中でも、同じ手法で「バチカンが闇に葬ってきた歴史の真実」が語られる場面がある。
1700年前の「見てきたような映像」

 映画の重要な登場人物は、「聖書が神の国からファクスで送られてきたと信じているのかい?」と誰もが感じるであろう疑問を口にして、こう畳み掛けていく。

「聖書は4世紀当時の権力者、つまり教会の指導者とローマ帝国の意思が加わって、布教に都合の良い文書だけが選別された」

「イエスが人だった事実はコンスタンティヌス帝が開催した公会議で否認され、父(神)と子(人)と聖霊の三位一体論が作り上げられた」

「聖書から削除された外典の中に、イエスがマグダラのマリアと呼ばれる女性を誰よりも愛し、接吻し、結婚していたとの記述がある」

 かっこ内に引用した3つの文章は、ともに60字以内に収まっている。いずれも、それだけを取り上げたなら、事実そのものを捏造しているわけではない。それぞれローマ時代のセピア色の映像がかぶさって、ニケア公会議や新約聖書の編纂という4世紀の出来事が、「あたかも見てきたように」描かれている。

 結論から先に言えば、「ダ・ヴィンチ・コード」で論点となっている「歴史的真実」は、タイムマシンでも登場しない限り、科学的には白とも黒とも断定できない代物にほかならない。そもそも、イエスが十字架にかけられてから、ニケア公会議や新約聖書の確定までに、300年を超える月日が流れている。

 現在の科学技術を駆使しても、江戸時代の史実を検証するのは容易ではないだろう。まして羊皮紙の写本と口頭伝承で伝えられた史実を4世紀に検証するのだから、それこそ事実は藪の中だったに違いない。

福音書にない「イエス復活の現場」

 ダ・ヴィンチが生きた中世末期のヨーロッパなら、教会の側が上記のような混沌とした事実に目をつぶり、聖書の正典に書かれていない伝承や外典の記述をすべて抹殺した、との批判もある程度の意味を持つ。

 しかし、現代はプロテスタントを中心に聖書そのものの研究が進み、1冊の本や1本の映画などでは到底論じきれないような、膨大な業績が残されている。

 手短にいくつか興味深い例を挙げてみよう。「現存する聖書はすべて写本で、聖書の原本というものは存在していない」「旧約聖書と新約聖書の間には、カトリックだけが正典と認めている旧約聖書の続編がある」「イエスの生涯を記した4福音書の中で、最も古いと見られるマルコによる福音書は、元々はイエスの復活の現場を描いていない」

 上記の論点は、ごく一部の原理主義的な教派を除き、現代の教会が普通に認めている事実である。

マルコによる福音書は、マグダラのマリアを含む3人の女性が十字架にかけられて葬られたイエスの墓に行き、遺体がなくなっているのを目にして「墓を出て逃げ去った」と記している。「震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。

真実は分かりにくい混沌の中にあり

 本来の福音書はここで終わり、その後は「後代の加筆と見られている」ことを表す〔〕でくくられている。この加筆部分でイエスは復活し、まず話題のマグダラのマリアの前に現れて、11人の弟子(ユダを除く)の前に現れ、天に上げられる。

 この〔〕は、カトリック、プロテスタントが共に公認している「新共同訳聖書」(日本聖書協会)の新約聖書97~98ページに明記してあるので、ご興味ある方はご自分でページをめくってみることをお勧めしたい。少し大きな書店なら、必ず棚に置いてあるはずだ。

 60字の見出しと映像で分かりやすく見せられるものはすべて偽りである、などと言うつもりはない。それでも、真実などというものはいつでも「藪の中」なのであり、「分かりやすい単純な真実」に飛びつく前に、正反対の方向から物事を考え直す癖だけは、忘れないように心がけたいと思っている。

 さて、せっかくなので最後に映画の感想を一言。エンターテインメントとしての魅力に欠ける、との酷評も伝わってくるものの、少なくともカネを出して見る価値はある。それが筆者の結論だ。

 ただし、見る前に原作を読んでおかないと、ストーリーについていくのが難しいのではなかろうか。ベストセラー1冊、映画1本で西洋史の根本が揺らぐなどと信じ込む前に、「そもそもの原作」である新約聖書も合わせて読破しておけば、現代の世界政治に対する理解を深めるきっかけにもなるだろう。

 「改革なくして成長なし」のワンフレーズと比べると、本にも映画にもそれなりに複雑な筋書きが込められているので、念のため。

寺山 正一

2006年5月30日 火曜日日経BP NBonline


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江戸の性談-男は死ぬまで恋をする 第1回 [Others]

第1回 江戸時代は「何でもあり」

  歴史学者としていくぶんためらいを感じながら、私が江戸の性愛を研究し続けてきたのは何故だろう。根っからのすき者だからか、それとも春画春本のマニアックな愛好家だからだろうか。

  残念ながら理由はそのどちらでもない。真相はもっと情けないもので、研究者として江戸時代のさまざまな人間関係に興味を惹かれ、多くの史料をひもといていくうちに、知らず知らずのうちにこの道に迷い込んでいたのである。

   江戸時代の人々の「性」は、今日同様それぞれの「生」と深く関わっていた。だから、性の問題に目を伏せたまま当時の人生は語れないし、社会や時代も見えてこない。おのずと歴史家は性愛についても饒舌な語り手でなければならないはず。そんな認識(学問的良心?)が、私を性愛研究へ誘ったのだった。

  ともあれひとたびその世界を覗き始めると、これが当初の学問的動機など忘れさせるほど面白い。一体江戸の性愛文化のどこが興味深いのか。とても一口では言えないが、あえて要約すれば、その多彩さと切実さに尽きるのではないか。
  性愛文化の多様さ。そう、江戸時代は何でもありなのだ。プラトニックな忍ぶ恋もあれば、人妻の爛れた不倫はもとより老女の情痴事件の例だって事欠かない。

  男女の間だけではない。江戸初期には武士社会を中心に少年愛(衆道)の大輪の薔薇が咲き誇り(衆道は武士道の花!)、その蔭で、江戸時代を通して女どうしの恋もひっそり息づいていた。

  多彩さは、しかしそれだけでは私を魅了するに足らなかっただろう。史料に接して得た印象は、同性愛であれ性同一性障害であれ、老らくの性であれ幼児の欲情であれ、さまざまな性愛のかたちが、逸脱的な性愛、言いかえれば「病気」と認識されていないことである。

  もちろん性同一性障害者に対するイジメはあったし、老いてなお絶倫となれば男女の別なく世間の評判にはなった。しかし西欧の性科学の洗礼を受けていない当時、男女の通常の行為と異なる性行為を、普通じゃないというだけの理由で病気(異常性愛)視することはなく、性愛の多彩さを宗教的倫理的に断罪することもなかったようだ。

「極楽まいり、したことある?」

  「極楽まいり」という言葉をご存知だろうか。『広辞苑』にも載っていないこの言葉に初めて出会ったのは、『瞼の母』や『相楽総三とその同士』などの作品で知られる長谷川伸(一八八四―一九六三)の小説『足尾九兵衛の懺悔』においてだった。        

  もちろん小説だからすべてが史実とは言えず、作者自身の体験も織り込まれていると推測されるのだが、ともあれアウトローの生きざまを鮮やかに描き切った希有な名作であることに違いはない。   
 
  その言葉は、嘉永四(一八五一)年、九兵衛が満十三歳で京都の立売町の塩問屋に丁稚奉公していたときに、二十六歳の「おさだ」という奉公女の口からこぼれ出た。

  おさだは男勝りで「髪の毛の長いのが自慢の、くりくりとした働きもの」。そんな彼女が、「子柄が少々よろしかった」(美少年系の)主人公にいつしか好意を寄せ、ある日、土蔵の二階に誘い込んで、「あんた極楽まいり、まだしたことないやろ」と九兵衛に尋ねたのである。

  九兵衛が何のことだか分からなくて「知らん」と答えると、おさだは頬を熱くして、「九はン、あんた極楽のあるところ知らんやろ、ここにあるわいな」と、「白い足のつけ根」を九兵衛の目の前にさらした。           
 
  年上の女のプライベートレッスン。少年にとって初めての体験はめくるめく快感を与えてくれたに違いない。しかし、それにもまして、極楽はここ(女陰)にあるの。さあ、お出で、と言わんばかりの「極楽まいり」なる表現に、その自信に満ちた色情に、私は心打たれずにはいられなかったのである。

多彩な性、切実な生            

  男女の交わりは「極楽」の愉悦であると性を礼賛した背景には、江戸時代の人々の生の危うさがあった。島原の乱と幕末の動乱を除けば大きな戦乱こそなかったが、それだけで江戸を「天下泰平」の時代と決めつけるのは問題が多すぎる。はたして江戸はそれほど安穏な時代だったのか。      

  大地震、大洪水そして大火事が多くの人命を奪ったことは言うまでもない。天然痘や麻疹など折々の流行病(幕末になるとコレラも加わる)は、われわれが想像する以上の犠牲者を出していた。

  たとえば享保元(一七一六)年のインフルエンザ流行は、江戸だけでひと月に八万人の死者を出したと伝えられているし、文久二(一八六二)年にも、麻疹の流行によって、やはり江戸だけで二十六万人以上が亡くなったと記録されている。      
  このような酷薄な現実が、江戸時代の性愛文化全体に影響を及ぼしていないはずはないのである。おおらかで癒しを与えてくれるという印象の一方で、江戸の性愛に心中(情死)をいとわない情念の濃さ、暗さがつきまとっているのも、社会全体に影を落としていた「生の危うさ」ゆえであろう。

  いつ露と消えるかもしれない命だから、不慮の「地獄」がすぐそこに口を開いているかもしれないから、限られた人生の中で精一杯「極楽」を享受しようとした江戸時代の男と女。そんな切実で一途な快楽主義が私を魅了したのである。

以下本書では、幼児・少年から臨終の老人まで、男の人生の流れにそって、江戸時代の性愛に関する研究の成果を披露することにしよう。

(つづく)

2004年8月25日
氏家幹人


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江戸の性談-男は死ぬまで恋をする 第2回  [Others]

第2回 十三歳なら知っててあたり前

子どもたちと性。どうしてこのテーマが赤裸々に江戸時代の春画に描かれたのだろうか。江戸時代の人々の「生」と深く関わっていた「性」について考える。

  江戸時代の男の子は、何歳くらいで童貞を失ったのだろうか。

  現在の滋賀県草津市で生まれた奇僧金谷上人(1761~1832)の場合は11歳だったと、本人自ら書き残している。

  まだ早松と呼ばれていた九歳の年に、叔父が住職を務める大坂の寺に預けられた上人は、お経を覚えるどころか、木魚に小便をかけたり花瓶にウンチを垂れたりと悪さのし放題。極めつけはリサという娘と「結縁の事」に及び、言語道断なと折檻を受けたのを機に寺を飛び出してしまったとか(『金谷上人御一代記』)。
 
 「結縁の事」とは男女の交合のことで、それが11の年の出来事だったというのだ。

  民俗学者の赤松啓介(1909~2000)は、かつて地方では、村の大道を「男女混成のガキども」が次のように合唱して歩いていたものだと懐古している(同『非常民の民俗境界』)。

  ××屋のオバハンが
  13むすこのチン噛んで
  いたかった
  いたかった

  現在なら大騒動になるところだが、当時は村の大人たちも「エヘラ、エヘラと大笑い」し、行列に混じっている自分の息子に「お前も噛んでもらいんかとすすめたお袋」もいたらしい。

  赤松に言わせれば、「子どもが13にもなれば、もう性交ぐらい知っていて当たり前」で、「13になった男の子のヘコイワイ、フンドシイワイなどに、目上の女性たちによる性教育、社寺の参詣をかねて同伴の年長の女性たちによる性教育などが行われた」のだという。

  13歳で初体験は珍しくなかった(もっとも誰でもというわけではなく、容貌の可愛い子ほどチャンスは優先的にめぐってきたのだろうが)。となると金谷上人の“11歳の経験”は、早いには違いないが異様に早熟というほどでもなかったのかもしれない。

  いや、当時は数え年だから11歳は満年齢なら9歳か10歳、まだ小学校の4、5年生ではないか。そう考えるとやはり早過ぎると言うべきか。事実、上人(早松少年)もそのために厳しい折檻を受なければならなかった。11歳で女と交わってしまったのは(寺で修行中の身で、おまけに相手が後家ではなく商家の娘だったことも加わって)、とんでもない行為には違いなかったようだ。
 
●最初の女

  小説家谷崎潤一郎(1886~1965)が、子どもの頃一緒に風呂に入った母親の、大腿部の辺の肌が素晴らしく白くてきめ細かいのに「思わずハッと」したことはよく知られている。

  同じく小説家の里見弴(1888~1983)の半自伝的作品『極楽とんぼ』にも、母親の肉体に欲情する六、七歳の主人公の悩ましくも微笑ましい様子が余さず描かれている。

  床を共にし、肌を合わせ、春な気分を刺激されたからといって、もちろん男の子たちは大人の男と同じように女体に欲情するはずもない。しかし母であれ乳母であれ“最初の女”を恋慕う気持ちが、成人後に女性に対して抱くそれにもまして濃厚だったのも、また事実だろう。

  母を慕うのは当然としても、血のつながりのない乳母に対する情の深さは、「乳母」が死語になろうとしている今日、われわれの想像を越えるものがあった。

  早川聞多『春画のなかの子供たち』は、江戸時代の子どもに関心を持つ者にとって、歓迎すべき一冊である。著者(早川)は問う。欧米のエロティック・アートにほとんど登場しない子どもの姿がなぜ江戸時代の春画にしばしば見られるのか。

  「性愛という最もナイーブな場面に子供を平気で登場させた江戸人の感覚の中に、多少とも大人と子供の関係を見直す視点」を見出そうとする著者の問題意識は鋭利で今日的だ。

  何より、紹介されている春画そのものが刺激的である。なかでも読者の目を釘付けにするのは、喜多川歌麿の『会本妃多智男比』と渓斎英泉の『美多礼嘉見』だろう。

  鈴木春信が子どもの性に対する好奇心を可憐な詩情に包んで描いたのに対して、歌麿や英泉ら江戸後期の絵師たちは反対にこれを誇張したと著者は指摘しているが、はたして歌麿や英泉の春画に描かれている子どもたちは露骨な痴態を示している。

  歌麿の作品には、男と交わっている姉を見て見ぬふり、澄まし顔で「とぼしたくなつてきたヨ」(僕もしたくなっちゃった)と六歳ぐらいの弟が勃起した皮かぶりの逸物を右手で握りしめている姿が描かれているし、英泉の作品では、さあこれからというときに目を覚ました幼子が、母の乳首をいじりながら、父の巨根と同角度で可愛いチンチンをそそり立たせている。

  欲情する子どもたち。それにしてもどうしてこんな情景が臆面もなく描かれたのか。著者は“笑い”をもたらす効果を強調しているが、私には、子どもたちは画面の春情(エロティックな気分)をいや増すために登場させられたとしか思えない。
  なぜ。春画の主な鑑賞者(買い手)であった当時の男たちは、すでに述べたように母親や乳母の肉体によって春な気分を初体験し、その“初めての女の肉”から引き裂かれた痛み(乳離れ傷)は、われわれの想像以上に深いものだっ
た。

  だとすれば春画を開いた男たちは、そこに描かれている子どもの姿に当然自分の過去を見出したと思われるからである。幼い頃体験した新鮮で衝撃的な春情がよみがえり、失われた春を再発見した彼らは、想像と追憶の限りない海に漕ぎ出し、画面には描かれていないそれぞれの春に身をゆだねることができたからである。
       
(つづく)


2004年9月1日
氏家幹人


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江戸の性談-男は死ぬまで恋をする 第3回 [Others]


第3回お笑い大江戸版阿部貞事件

江戸時代には庶民の家庭だけでなく、武士や学者の家でも、実は日常的に猥談卑語が飛び交っていた。

  突然だが、「男根切り」の話題から始めなければならない。というとまず阿部定事件が思い浮かぶが、似たような話は江戸の昔にもあった。江戸小咄集(小島貞二編『定本・艶笑落語』二)に、「二本指」と題してこんな咄が載っている。

  「惚れて惚れて、惚れぬいた」亭主を後に残し て先立ったおかみさん、自分が死んだのをいいことに新しい女と出来ているんじゃないかと心配で、夜な夜な亡霊となって出現した。

  亭主はほとほと困って、「おまえが死んだあとは、どうせ不用もんだ。ホラよ、こいつを渡してやらア」と「男の一物」をスッパリ切って渡したところ、おかみさんの亡霊は喜んで姿を消した。これでもう亡霊に悩まされることもない。ほっとした亭主だったが……。

  あくる朝になって、またしても「うらめしやア……」。さすがにむっとしたのか、亭主が「この上、何がほしいんだ?」と詰問すると、おかみさんの亡霊は「あー、あと、右手の指が二本ほしい」──。

  右の話がいつごろ成立したのか、実のところ定かでない。とはいえ明和五年(一七六八)刊の『怪談御伽猿』にも、飼い主が若い女と睦みはじめたのに嫉妬した女猿が飼い主の「陰嚢」を両手で引きちぎった話が載っているくらいだから、女性が嫉妬のあまり男根切りの暴挙に及ぶというシナリオは、江戸時代にもわりと身近なものだったのではないだろうか。

  幕末を代表する知的幕臣、川路聖謨の日記(『寧府記事』)をひもといてみ
よう。嘉永二(一八四九)年二月には以下のような記述がある。
  
  ふとしたきっかけで「きん玉」を切った人がいた。きん玉が腐ると死んでしまうと聞いたその人は、折から残暑の厳しい頃、とりあえず切ったきん玉を虫籠に入れ風通しのよい窓のところに置いていた。

  さて夜が更けて人が寝静まると、虫籠の中のきん玉が鳴きはじめた。耳を澄ますと、その鳴き声は「キンキラレ、キンキラレ」と聞こえたそうな。

  虫籠の中のきん玉が、キンキラレと鳴いた。笑い話にしても馬鹿げている。一体なぜ川路はこんな馬鹿げた話を日記に記したのだろう。

   理由は一つ。川路の日記は極秘の記録でも私的なメモでも、役人としての執務記録ですらなく、息子の在任中、江戸で寂しく留守をしている老母の無聊を慰める“読み物”として書かれていたからである。

  近況を詳しく報告すると同時に「母上、こんな面白い話があるんですよ」といったノリで綴られた日記は、手紙のように定期的に江戸へ送られた。すなわち奈良奉行川路聖謨は、愛しい母上を楽しませ腹の底から笑ってもらおうと、猥談めいた小咄までせっせと集め記したのだった。

  キンキラレの話は、その一例に過ぎない。川路の日記には、母への愛が書かせた猥談が他にも数多く載っている。「母上、どうです面白いでしょう?」というわけ。

  清廉潔白で教養あふれる憂国の官僚(役人の鑑!)と定評がある川路聖謨が見せた意外な一面。さらに意外なことに、良妻賢母の誉れ高い川路の母親もまた、息子から送られてくる猥談の数々を心から楽しんでいた様子なのである。猥談は、川路家の潤滑油として重要な役割を演じていたのである。

春画の意外な効用

  武士の家庭でも猥談があからさまに語られていた江戸時代――。だからといって猥談が尊重されていたとは言えないが、すくなくとも倫理に反し健全な教育環境をぶち壊すものとして無条件に害悪視されていなかったことは事実である。

  江戸といえば、もちろん春画も忘れてはならない。 春画が、閨房の友(性欲を煽る小道具)や性技の参考書(テクニック指南)、あるいは男女を限らず自慰の際に用いられたことはよく知られている。

  他に防火や防弾のお呪いにされた例もあり、たんなる鑑賞用浮世絵という以上の実用的価値を帯びていたようだ。暮らしのなかの春画。

  江戸時代、春画がいかに生活に根づいていたか。それは、武士の世界で春画が贈答品として用いられていた事実から端的にうかがえる。江戸文化を研究した趣味人で昭和十三年(一九三八)に亡くなった林若樹の随筆に、江戸末期に貸本業を営んでいた人の興味深い昔語りが載っている(『若樹随筆』)。

  「春本」(春画入りの本)は貸本屋にとって最も儲かる商品で、本屋もまた暮れの餅代を稼ごうと年末年始にかけて出版したものだ。そう述べたあとで、元貸本屋の主人は、

  或屋敷ニてハ、国元より初めての勤番ハ奥の女中等へお土産として新版のもの二三種宛を初春内ニ差上くるか例なりき。

  江戸藩邸勤務となって初めて国許からやって来る藩士が、藩邸の奥女中に新刊の春画春本を挨拶がわりに贈ることが恒例となっていた大名家もあったというのだ。

  この他殿中(江戸城内)においても、坊主衆が懇意の大名たちに新春の「御祝儀」として贈ったと述べている。坊主たちは「内々差上けし」というから、さすがに表立った品ではなかったようだが、それにしても春画が新春のプレゼントの定番になっていたことに変わりはない。

  それは当時も違法な出版物ではあったが、読者の側にやましさは希薄だっ
た。閨房の刺激剤というだけでなく、春画は初笑いの具、豊穣と多産を予祝する縁起物として認知され、広い需要があったのである

扇情的な春画絵馬

  文化九年(一八一二)、五十一歳で江戸小日向にある廓然寺の住職を引退し、悠々自適の隠居暮らしを始めた十方庵こと大浄敬順は、近郊の散策と小旅行を繰り返し、その印象を『遊歴雑記』に記している。

  敬順が武蔵国足立郡三ツ木村(現在の埼玉県鴻巣市のうち)の山王大権現を訪れたのは、文化十三年(一八一六)、五十五歳の年だった。この小さな神社は、意外に評判が高かったらしい。近郷どころか江戸の女性たちも、それぞれ身体の悩みを抱えてここに参詣し、真剣に願を掛けたのである。

  敬順が注目しかつ眉をひそめたのは、これらの女性たちからお礼として奉納された絵馬の絵柄だった。この箇所は原文に近い形でご紹介しよう。

  捧たる絵馬若干(ル:そこばく)ある中に、多くは人の交合を画て上たり。但し男女の腰の下を隠して夜着引かぶり重りて臥たるあり。又は抱合たるあり。口通するあり。

  或は舟まんじうと覚しく男女ほたえる(氏家注・ふざける)様あり。雌雄の猿の孳(ル:つるめ)るあり。又は人の交合を見て猿は児女を犯さんとする抔ありて、己がこゝろに春画を彩色して奉納せり。一風といふべし。

  「絵馬若干(そこばく)ある」の「若干」は、わずかではなく多数の意味だろう。ともあれ絵馬が奉納されていて、その多くはなんと人のセックスシーンを描いた春画風のものだというのだ。

  抱き合い、口を吸い合う男女の痴態や、舟饅頭(舟で春をひさぐ私娼)と客の身体がもつれあう場面、さらは猿の性交や人間のセックスを見て発情した猿が女の子を襲おうとする変態的趣向のものまであって、盛り沢山。その淫らで煽情的な絵柄が目に浮かぶ。

  分別盛りの父や母、そして祖父母までが家庭の中で猥談を飛ばし合い、母や姉が卑猥な春画絵馬を、正々堂々、神社に奉納する光景は、ポルノ不感症になりつつある現代日本人にとっても、すくなからず異様に感じられるはずだ。

  江戸時代の性は、今日以上に男女の秘め事や閨房のプライバシーといった狭い領域に収まり切れなかったのである。


2004年9月8日
氏家幹人


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小泉演説を封印した一通の書簡 [Others]

小泉演説を封印した一通の書簡「靖国問題はアメリカの問題」

 自民党総裁選は、安倍でほとんど決まったようでもあるが、まだまだ一波乱ありそうでもある。最大の不確定要因は、8月15日だろう。

 小泉首相が8月15日に靖国参拝を強行するのかどうか。強行した場合、どのようなリアクションが中韓両国から返ってくるのか。そしてアメリカはどう出るか。

 ここにアメリカをあげるのは、これまで靖国問題に関しては、我関せずの立場を貫いてきたアメリカが、かなりはっきりと小泉首相の靖国参拝に異議をとなえはじめた(非公式にではあるが)という事情があるからだ。

米議会での演説が急きょ取り止めに

 この月末に小泉首相はワシントンを訪問して、ブッシュ大統領と旧交を暖め、2人でテネシー州にあるエルビス・プレスリーの旧宅をたずねる予定になっていると聞く。

 小泉首相はイラクからの自衛隊撤退を優先課題としたため、ブッシュ大統領のご機嫌を損じないように、牛肉の輸入再開に早々と踏み切ったようだが、その程度のことプラス・プレスリー旧宅訪問で、ブッシュ大統領との関係を良好に保つことができ、靖国参拝も容認させられると踏んでいるとしたら、それは小泉首相の計算ちがいというべきだろう。

 そのあたりの事情は、この6月24日の「ヘラルド朝日」に寄稿されたポール・ジアラ元米国防総省日本部長の「首相参拝は米国にも損失」と題する論説を一読すれば、(同日の朝日新聞「私の視点」にもこの論説は転載されているが、残念ながら訳文があまりよくないため大切なニュアンスがだいぶ抜け落ちている)すぐわかる。

 前にこのページでも、小泉首相が訪米時に、米上下両院の合同本会議で演説するプランがあったにもかかわらず、米下院外交委員会のハイド委員長(共和党)が、小泉首相の靖国参拝を理由として、そのような演説に反対する旨の書簡をハスタート下院議長に出した結果、そのプランがお流れになったことを伝えた (第73回 ポスト小泉を呪縛する靖国問題と竹中問題)。

 先のジアラ氏の論説によると、その書簡には、「A級戦犯をまつった靖国神社に毎年公式参拝をつづける小泉首相に米議会本会議場でそのような演説をすることを許したら、フランクリン・ルーズベルト大統領が、真珠湾攻撃を受けた日に、『今日はアメリカが国家的恥辱を受けた日だ』と総弁をふるったあの有名な演説(この演説でアメリカ人は奮起し、国家的恥辱をはらさんと本気で戦争をはじめた)をした議場を汚すことになる」とあり、その一言がきいて、小泉首相の上下両院合同本会議での演説がお流れになったのだという。

 アメリカの上下両院合同本会議で演説をするというのは、アメリカが国賓級のお客に与える最大の特権である。そのような特権を与えられながら、それを靖国問題で棒に振ってしまうような政治家がいるとは、想像することすらできないという唖然たる調子でこの論説は全文がつらぬかれている。

 そして靖国問題が、中国、韓国にとってだけの問題ではなく、その他のアジア諸国にとっても、そしてアメリカ自身にとっても重大な問題なのだということを噛んで含めるような調子で、書いている。

アメリカの歴史認識にかかわる靖国問題

 小泉首相は、何度も、靖国参拝にイチャモンを付けているのは、中韓両国だけで、あとは世界中の国が何の異議も持たないばかりか、当然視しているというようなことを述べているが、そういう事実は全くない。

 ジアラ氏は、靖国問題は、いまや他人事ではなくて、アメリカ自身の問題になっていると強調する。靖国問題はアメリカの歴史認識の問題にダイレクトにかかわってくるという。

 そして問題の根源は、A級戦犯が1978年にわざわざ意識的に合祀されたことにあるという。

 「それ以来、靖国は、太平洋戦争の責任問題を忌避しようとする人々のシンボルになってしまった。靖国神社の中にある遊就館と呼ばれる戦争博物館には、第二次大戦での日本の立場がはっきり示されている。

 それは、あの戦争において、日本が政治的にも道義的にも正しかったという主張である。その展示によると、あの戦争はルーズベルト大統領がアメリカの戦略的利益を守るために陰謀と挑発によってひき起こしたもので、日本にとってそれはやむをえず引き込まれた自衛戦争だったということだ」

 「アメリカではもっとましで、もっと正しい戦争の原因論が信じられており、このような愚劣な歴史の書き換えは、アメリカに対する直接的な挑戦と受けとめられている」

 このあたりの表現の裏にこめられた、アメリカのエスタブリッシュメント層の激しい怒りの感情が読みとれるだろうか。

変わりつつある米アジア外交の機軸

 アメリカはこれまで、靖国問題をめぐる日中間の確執に直接かかわりを持たないようにしてきた。しかし、ここにきて、そうもいってられないというニュアンスがアメリカ側に強く出はじめており、このジアラ氏の論説にもそれが強く出ている。

 以下、長文のジアラ氏論説を意訳して紹介してしまうと、次のようなことを主張している。

 これまで、アメリカ側には、日米関係を強固なものにしておくことが、アメリカのアジア外交の基軸であるという認識があった。

 アメリカにとって日本は、これまでアジア最大の政治的軍事的同盟国であり、第一の貿易相手国であり、切っても切れないほど強く結ばれたパートナー的関係にある国とみなしてきた。

 しかし、ここにきてアメリカのその認識は大きく変わりつつある。

 アメリカにとって米中関係はすでにきわめて大きなものになっていて、米日関係と比較したときに、これまでのように、単純に米日関係のほうが大事とすぐに決められない場面がいろいろと出てきている。

 特に、この靖国問題のように、日本側の主張にアメリカにとって納得がいかない部分が含まれている場合には、アメリカがその言い分を支持して行動を起こすというようなことは基本的にしたくない。

 ことにその問題が関係国の間で、感情的に燃え上がりやすい要素を含んでいる場合には、アメリカは手を出したくない。

 アジアにおいて日本は基本的にアメリカと一体の国とみなされている。しかし、日本と一体と見られることがアメリカの戦略上アメリカに不利となる場合には、アメリカは日本と行動を共にすべきではない。

 そして靖国問題はそのようなケースだという判断がジアラ氏の考えの基本にある。

“ 真珠湾 ” を蒸し返す靖国問題

 1945年以来、日本は国際社会で、平和と安全を維持する民主国家の善良な一員として、比類のない名声をかちとってきた。アメリカはそのような日本と価値を共有し、行動を共にするパートナーとしてずっといい関係を保ってきた。

 そのようにして長い時間をかけて、日本が国際社会で勝ち取ってきた名声を、いま日本は靖国問題で投げ捨ててしまおうとしているように見える。

 中国の言い分と日本の言い分を聞いていると、あの民主主義も人権もまだ確立されていない発展途上の国家が、まるで、日本より正しいことをしている国のように聞こえてくる。

 日本は明らかに、この靖国問題では、国家的退行現象を起こしつつある。アメリカがこのような日本と一体であるとみなされることは、国家戦略上アメリカの損失である。場合によっては、アメリカは日本から身を引くという選択をしなけれなならない。

 日本とアメリカの間の歴史的関係は、あの激しい戦争を戦った敵国同士だったことだ。それが今日では、過去の怨念をすべて乗り越えて、強固な同盟国になっている。

 日本と中国も同じように激しい戦争を戦った敵国同士だが、日本と米国のようにそのような歴史的怨念関係をすべて乗り越えて親しい関係になるということができないわけではない。

 日中関係がそのように修復されてアジアに安定がもたらされることがアメリカの利益にもなる。

 靖国問題がこのような形で両国間の最大の障害でありつづけている状況は、日本のためにも、中国のためにも、アメリカのためにも良くない。

 日本が靖国問題の持つこのネガティブな側面に気づけば、そこから抜け出すのは簡単なことだという。要するに、小泉首相が、次のように宣言すればよいのだ、とジアラ氏はいう。

 「日本にとってなにより大切なのは、国際社会における日本の名声であり、日米関係であり、日中関係です。靖国参拝が、そのすべてをぶちこわすということがわかりましたので、私はもう靖国神社に参拝しませんし、私の後継者も参拝しないほうがいいと思います」

 全くジアラ氏の主張の通りだと思うが、人から何かいわれてその通りにすることが何より嫌いな小泉首相は、おそらくこのジアラ氏の忠言を受け入れることはしないだろう。

アメリカが用意した 「 和解 」 のプラン

 ところで、このジアラ氏の論説の英文オリジナルには、末尾に、奇妙な一文がある。

 「この宣言をするのにどこよりもピッタリの場所は、アメリカ議会の上下両院合同本会議場であることは明らかではないか」

 以上の一文が、朝日新聞の日本語訳文からはなぜか落ちているが、英文オリジナルにはあるのだ。

 小泉首相が両院合同本会議に招かれて演説する話は、すでにお流れになってしまったのではなかったのかと思って、そのくだりを読み直してみると、実はまだ完全に終わった話とは書かれていない。まだ可能性は残っているようなのだ。

 おそらく、この背景にある真実はこんなところではないか。

 はじめブッシュ大統領が、靖国問題で日中両国が救い難い衝突コースに入りつつあるのを見て、小泉首相にその窮地から抜け出すための場として、米議会の両院合同本会議での演説という場を設定してやった。

 ところが小泉首相がかたくなにそのようなアメリカ・プランの解決策に乗ることを拒否したため、そして、米国内からも先に述べたように、米国議会で小泉首相に演説させることに反対の声が出たためにこのプランは軌道に乗らなかった。

 しかし、これこそ最良の解決策と信じている日米両政府の関係筋の人々が、ジアラ氏とトリビューン朝日紙を使って、そのプランをもう一押しするために、あの論説という形で、アメリカ政府側の意思をもう一度どう誤解しようもない形で日本に伝えた。

 アメリカ政府が、基本的にあの論説に書かれたような気持ちと意思を持っていることは、すでにさまざまのチャネルを通じて、日本政府・小泉首相側には伝わっている(以前、ブッシュ大統領が直接に日米首脳が顔を合わせる場で小泉首相を口説いたことがあるという話を書いたこともある)のに、小泉首相はそれを一貫して無視してきたのである。

「 小泉美学 」 は外交的破滅をもたらす

 この先いったいどうなるのか。

 アメリカ側がさらに一押しして、アメリカ滞在中に突如小泉首相の議会演説での靖国不参拝宣言がなされる可能性もゼロではないと思う。

 しかし、それ以上に可能性があるのは、小泉首相の8月15日の参拝だろう。

 なにしろそれだけが、小泉首相がこれまでにした大きな政治的約束で、まだ果たしていないことなのである。

 小泉首相がこだわる「小泉美学」からすると、この約束は何が何でも果たしたい約束だろう。だがそれを強行した場合、国際的にどのようなリアクションが起こるか。まだ、誰にも予想がつかない。

 いずれにしても、小泉首相が8月15日に参拝するかどうかは、いつものことながら、8月15日当日までわからないだろう。

 小泉首相が参拝するかどうかで、その後の政治的様相が大きく変わってくることは必定だから、おそらくは、自民党総裁選も、そのときまでは大きく動くことはないのではないか。

 だがこの問題に関して、福田、安倍候補のスタンスはとっくの昔から明瞭すぎるほど明瞭である。

 安倍はつい最近も、首相の靖国神社参拝を支持する新人議員の会である「伝統と創造の会」に出席して、「自分が行くか行かないかを、事前に明言するようなことはしないが、行ったとしてそのことは誰からも批判されるべきではない。行きたい気持ちは持ちつづける」と明言した。そして、「外国から何かいわれてしないようなことはありえない」とも明言した。

 だが、何か言ってくる国が中国、韓国のような国でなく、アメリカの場合はどうなのか。

 アメリカが靖国参拝批判をもっと強めてきたとき、小泉首相にしろ、安倍にしろ、それにどう対応するのか。

 8月15日が近づけば近づくほど、この問題は大きくなっていきそうだ。

立花 隆

(立花 隆氏プロフィール)

評論家・ジャーナリスト。1940年5月28日長崎生まれ。1964年東大仏文科卒業。同年、文藝春秋社入社。1966年文藝春秋社退社、東大哲学科入学。フリーライターとして活動開始。1995-1998年東大先端研客員教授。1996-1998年東大教養学部非常勤講師。2005年10月から東大大学院総合文化研究科科学技術インタープリター養成プログラム特任教授。

著書は、「文明の逆説」「脳を鍛える」「宇宙からの帰還」「東大生はバカになったか」「脳死」「シベリア鎮魂歌?香月泰男の世界」「サル学の現在」「臨死体験」「田中角栄研究」「日本共産党研究」「思索紀行」ほか多数。講談社ノンフィクション賞、菊池寛賞、司馬遼太郎賞など受賞。

 

2006年6月27日 Nikkei BP


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映画「君の名は」 [Others]

真知子と春樹—数寄屋橋/佐渡/雲仙

会えそうで会えない。一緒になれそうでなれない。そんな状況が恋人たちをいっそう盛り上げる。

 空襲の夜、互いを助け合い、東京・銀座の数寄屋橋で半年後の再会を約束する真知子と春樹。別れ際、

 春樹「君、肝心なことを。君の名は何て?」

 真知子「わたくし……」

 再び警報が鳴り、ふたりは名前を告げず、あわただしく別れていく。

 東京、新潟・佐渡、長崎・雲仙などを舞台に、ふたりは深く愛し合うが、何度もすれ違い、じりじりするような恋に身を焦がしていく。

 真知子と春樹が再会を誓った数寄屋橋は皇居(旧江戸城)の外堀にかかる石造りの橋だった。1957(昭和32)年、外堀が高速道路建設のため埋め立てられ、橋も取り壊された。

 現在、名残をとどめるものは、近くの公園に立つ石碑のみ。碑には「君の名は」の原作者菊田一夫さんによる「数寄屋橋 此処(ここ)にありき」といった文字が刻まれている。

 そんな数寄屋橋に魅せられた一人の女性がいる。

 クラブ「数寄屋橋」のママ、園田静香さんだ。「数寄屋橋」は文壇バーとして知られ、渡辺淳一さんや森村誠一さん、北方謙三さんら作家たちでにぎわう。

 園田さんは熊本市出身。映画で見た芸者にあこがれて花柳界に入った。その後、後援者の力添えを得て、銀座に進出、数寄屋通りに店を構えた。38年前のことだ。入居していたビルが競売されたため、現在は少し離れた場所に店を移している。

 最初に店の名前を考えたとき、出身地にちなんだ名前か、花柳界時代の源氏名にするか悩んだ。「銀座で店を出すのだから、全国誰でも知ってて、覚えやすくて、世間の通りのいいものがいい」として「数寄屋橋」を選んだ。

 開店から2、3年して、東宝の重役でもあった菊田さんが店を訪れた。数寄屋橋がなくなったことを残念がっていたのか、菊田さんは店の名を聞いて「数寄屋橋がここで生きていたのか」とたいへん喜んだ。園田さんは愛想半分で「今宵(こよい)もあなた待ちますという気持ちでつけました」。

 菊田さんはさらに上機嫌になって色紙に「数寄屋橋 人の波 待つ人は来ぬ かなしさよ」としたためた。

 「この時にこの名前にして良かったと思いました。『君の名は』の数寄屋橋を私の店で残し続けよう、私自身が『真知子』になって、お客さんである『春樹』を待ち続けようと思ったのです」。作詞作曲を手がける園田さんには「貴方(あなた)待ちます数寄屋橋」という曲もある。

 数寄屋橋だけではない。真知子と春樹は、作品の舞台となった場所でも語り継がれている。

飢餓感が心に強く訴える

 断崖(だんがい)絶壁に日本海の荒波が押し寄せる新潟・佐渡の尖閣(せんかく)湾。

 映画「君の名は」第1部の最後の場面で、「すれ違っていた」真知子(岸恵子)と春樹(佐田啓二)がついに結ばれようとする。

 離婚を決意した夫の子どもを宿した絶望から、尖閣湾の釣り橋から身を投げようとする真知子、そこに駆けつけた春樹。

 春樹「僕は君を、もう、誰の手にも。そのつもりで、僕は君を迎えにきたんだ」

 真知子「私、私どうしたらいいんでしょう。子どもが。子どもが」

 ふたりは釣り橋の上で愛を確認するものの、おなかの中の子どものために、また別離を決意する。

 春樹「君はやっぱり帰るべきかもしれない。浜口さん(夫)のところへ」「僕たちはどうしても忘れなきゃいけないんだ」

♪  ♪  ♪

 釣り橋は、地元住民でつくる有限会社「尖閣湾揚島(あげしま)観光」が建設した。正式名称は遊仙橋。沖合に浮かぶ揚島を結ぶ、尖閣湾観光の目玉だった。映画の後、橋は「真知子橋」と呼ばれ、観光客が大勢訪れた。

 社長を務めた浜辺竹蔵さん(81)は50年以上前のロケの様子を覚えている。「佐田啓二さんが高さ15メートルの揺れる釣り橋の上で何度も何度も撮り直しをする。佐田さんの役者根性には恐れ入ったね」

 真知子橋はその後、鉄筋の橋として建て直され、現在は3代目が架かっている。しかし、尖閣湾揚島観光が運営する遊園の観光客は近年減り続け、昨年は12万人。ピークだった92年ごろの4分の1になった。

 遊園の支配人坂下清さん(48)は「あの有名な『君の名は』の雰囲気を再現するため、資金さえ調達できれば、元の木造の釣り橋の真知子橋に戻したい」と話す。

♪  ♪  ♪

 温泉の湯気が立ち上る長崎・雲仙。離婚調停に疲れた真知子は雲仙のホテルで従業員として働き始める。

 雲仙では、硫黄臭がたちこめる「お糸地獄」や、霧氷の織りなす普賢(ふげん)岳などで撮影が行われた。

 54年のロケ当時、雲仙にはたくさんの見物客が押し寄せ、「真知子漬け」「真知子タオル」「君の名は人形」などの土産物もできて、「君の名は」一色になった。

 雲仙市小浜町に住む福田厚さん(83)は地元消防団の一員として、雑踏整理にあたった。「とにかくすごい人でね。あんなにたくさんの観光客は後にも先にも見たことがない」

 撮影が行われたお糸地獄近くには現在、ロケを記念した「真知子岩」があり、菊田一夫さんの言葉が刻まれている。当時大流行した「真知子巻き」をして写真に納まる人も多い。

 金子スマ子さん(75)は、真知子の就職先として撮影された雲仙観光ホテルの客室係をしていた。「佐田さんにお茶を持っていったら『地獄ってどれぐらい熱いのですか』と聞かれました。私の一生の宝物です」

 雲仙観光ホテルにとっても「君の名は」は貴重な財産だ。

 支配人の旭達雄さん(48)は年配の宿泊客には決まって「有名な『君の名は』の舞台になったのがこのホテルで、主人公の真知子さんはここで働いていたのですよ。もちろん、映画の中での話ですが」と紹介する。「皆さん、この作品には何がしかの思いをもっているのでしょうね。懐かしそうに思い出を語ってくれますよ」

 同じように撮影が行われた北海道美幌町にも、記念して植えられた「まち子松」(現在は2代目)がJR美幌駅前にある。

♪  ♪  ♪

 それにしても、なぜ、すれ違いは人を魅了するのか。

 91年にNHK朝の連続テレビ小説「君の名は」の脚本を手がけた井沢満さん(60)はこう語る。

 「すれ違いは恋愛のバリアの大きな要素。恋愛にはバリアがあればあるほど気持ちが盛り上がる作用がある。恋愛が成就し充実しているときよりも、飢餓感がかきたてられている方が人間の心に強く訴えていくのです」

 真知子と春樹がすれ違ってから半世紀以上。携帯電話やメールなどの通信手段が格段に発達した今では、「すれ違いドラマ」を成立させることはほとんど不可能になった。

 が、たとえ「男女のすれ違い」はなくなったとしても、忘れなくてはならない人を愛し続けることは今も昔も変わりはない。

 「君の名は」のうたい文句は「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」だった。

 その悲しさは時代を超える。

文・斉藤勝寿 写真・山村行志
(2006/05/27)

〈ふたり〉

 1945(昭和20)年5月24日空襲の夜、助け合った氏家真知子と後宮春樹。命の尊さをかみしめ、心を通わせたふたりは半年後に東京・数寄屋橋で再会を約束する。

 しかし、11月24日、真知子は新潟・佐渡に向かう船上にいた。空襲で両親を失った真知子は佐渡の伯父角倉勘次の元に身を寄せることになったのだ。春樹は一人、数寄屋橋で来ることのない真知子を待つ。

 真知子の浜口勝則との結婚・離婚、春樹の北海道行きなどの物語が展開。友人の石川綾の尽力で、ふたりは気持ちを確かめ合うも、すれ違ってなかなか結ばれない。

 もともとはNHKラジオドラマ。52年4月から2年間放送され、空前のブームを呼んだ。放送時間帯は銭湯の女湯がカラになったといわれる。真知子役が岸恵子さん、春樹役が佐田啓二さんの映画版は、53年から54年にかけて3部に分けて公開され、大ヒットした。岸さんがショールを頭に巻いた「真知子巻き」が流行した。

asahi.com Travel
2006/05/30


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ロッキード事件、オランダの皇室が関与と告白 [Others]

ロッキード事件、オランダの皇室が関与と告白

  昨年は、日本でも皇室メンバーの発言が何かと取り沙汰された1年だった。「日本でも」と言ったのは、オランダでこの年末、王室メンバーの爆弾発言に沸いたからだ。問題発言をしたのは、現君主ベアトリックス女王の父で、故・前ユリアナ女王(以下ユリアナ妃)の夫であるベルンハルト殿下だ。

  ベルンハルト殿下は昨年12月1日、93歳で亡くなった。おおらかで闊達な人柄に国民の人気も高く、1週間にわたる告別セレモニーと埋葬式は壮大に執り行われた。

  それと前後して、大手週刊誌と日刊紙が相次いで発表したのがベルンハルト殿下との単独インタビューだ。「自分の死後に発表すること」という条件をつけたこの記事の中で、ベルンハルト殿下は過去の出来事や自分の心情を赤裸々に語っている。

  この中で最も話題になったのが、日本でも田中角栄逮捕で騒然となったあのロッキード事件の真相だ。ベルンハルト殿下がロッキード社から110万ドルの賄賂を受け取ったことを認めたのだ。


▼1976年当時から疑惑はささやかれていた


  疑惑はあった。1976年、米国でロッキード社を巡る贈収賄が発覚するが、ここで「オランダの非常に高い地位の人物」なる者の関与が浮上する。ベルンハルト殿下ではないのか--オランダでの噂は喧しかった。

  オランダ政府は調査委員会を設けて、事件の究明を図った。殿下はロッキード社宛にカネを要求する手紙を書いたことは認めたものの、振り込まれたスイスの銀行口座は殿下名義ではなく、委員会は本当に殿下の手にカネが渡ったかどうか明白な証拠をつかむことができなかった。


  当時政権を握っていた労働党は、ベルンハルト殿下を起訴することも辞さない構えだったが、何しろ相手は現君主の配偶者(当時)である。殿下が起訴されればユリアナ女王の退位は必至とされたことから、内閣は穏便に処理することを決め、起訴はせず、代わりに当時就いていた軍要職などの職務を退任すること、軍服は政府の許可なく公の場では着ないことなどを約束させた。

▼賄賂は結局、友人にだまし取られた?


  この真相をインタビューで語っている。100万ドルのうち、25万ドルは匿名でカネに困っている友人知人にあげたこと、75万ドルはロッキード社からの収賄を仲介した友人の取り分で、大部分は世界自然保護基金(WWF)に寄付する約束だったが、結局はその友人に全額をだまし取られたと。

  ただし、10万ドルが振り込まれた口座名義人については、「これが誰なのか全然心当たりがない」と、すっとぼけているのかと疑いたくなる答えだ。

  当時ロッキード社からの賄賂が取り沙汰されたものの、ドイツの伯爵家出身で大金持ちのベルンハルト殿下はカネには全く不自由しておらず、賄賂を受け取る理由がない。さてはこっそり愛人の子の養育費に充てようとしたのではないか--という憶測も飛び交った。

  今回のインタビューによると、ロッキードからカネをもらうことが悪いことだとはハナから思っていなかったらしい。後になって「なんてバカなことをやったんだろうと思った」という。


▼愛人問題にも率直すぎるほど率直に


  インタビューで、非嫡出の娘2人の存在も認めたことも爆弾発言だった。もっともうち1人については公然の秘密だったが。2人の存在は、ユリアナ妃もベアトリックス女王も知っていたという。

  「なんで家族に隠す必要があるんだね?」。外に子供がいると打ち明けた時、ユリアナ妃は「まるで『明日テニスでもやろうか』という話を聞いたかのように」淡々とそれを受け止めた。

  また別の時、別の愛人とつき合い続けているベルンハルト殿下に、ユリアナ妃は「そんなにいい方なら私もお会いしたいわ」と言い、みんなでスキーに行ったという。

 「妻が私のしていることを認めたのは、私を愛していたからだ」とベルンハルト殿下は振り返る。子細にわたるこんなプライベートな話まで、ベルンハルト殿下は告白した。

  2001年から2004年の間に9回にわたり行われたこのインタビューのことを、女王も、内閣も、国家情報局(王室や内閣のスポークスマン)も知らなかった。知らない間にインタビューが行われ、内容を確認する間もなく公にされてしまった。

  知らないのだから、政府に責任を問いようがない。政府がきちんと責任を取れるように計らうのが王室メンバーの務めであるのに、責任の取れないところでペラペラしゃべるのはルール違反だとインタビューを批判する声が上がった。

  君主制は王室と国民の適度な距離感があってこそ成り立つものなのに、こんなふうに王室の実情や心情を暴露してしまっては、その距離感がなくなり、君主制が崩壊しかねないという懸念の声もある。

  確かに、インタビュー記事を読んでも、ざっくばらんに語っているその内容と言葉使い(日本語に訳したとしても、絶対「です・ます」調にはならないような話し言葉)は、王室という高みを感じさせないものだ。批判の一方で、他紙の調査だが、「真実を語った殿下をもっと評価するようになった」という人は4割に達する。

  日本の皇太子殿下の昨年の発言は、自発的なものであり後に批判された、また国民との距離感を縮めたものだったという点のみに限れば、今回のベルンハルト殿下のインタビューと似ている。

  しかし、--もちろん、死後公表されるという約束や前女王の夫で王位継承権はない立場という周辺事情があるから単純に比較はできないが--内容の率直さのレベルは全く違う。

  オランダから見ると、日本の皇室は国民にとってはまだまだ天上の存在だ。距離感は必要だが、日本のは必要以上という気がしないでもない。皇室の方々の「肉声」を聞いてみたいと思うのは私だけだろうか。
(対馬 郁子=オランダ在住ライター)


--- 2005.01.11 日経BP 世界の街角から ---


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