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近衛・ルーズベルト、幻の会談を知る生き証人逝く [人物・伝記]

近衛・ルーズベルト、幻の会談を知る生き証人逝く

 また1人、日米関係の「古層」を知る証人が鬼籍に入った。ロバート・フィアリー(Robert Fearey)氏。米ワシントンの自宅アパートで2月28日息を引き取った。享年85。

 思えば世界がまだしも平和だった2001年9月8日、日本と米国は講和条約締結50周年を祝し、サンフランシスコで記念式典を開いた。ここで日本から招かれた宮澤喜一元首相と並ぶ主賓だったのがフィアリー氏である。講和条約締結過程に実際関与した当局者は、この2人くらいしかもはや生き残っていなかったからだ。

 米国では3月6日付ワシントン・ポスト紙が、メトロ(首都圏)面で訃報を伝えた。

 フィアリー氏は復帰直前の沖縄で、琉球列島米国民政府(USCAR)の文民トップに当たる民政官を務めた。当時の屋良朝苗琉球政府主席とともに、本土復帰の実務を担った。それを記憶する琉球新報だけは、7日付で短い死亡記事を載せた。ほかの大手紙が、これから追随するかどうか。

▼日米戦争は避けられた

 2000年の秋、フィアリー氏の古いアパートには、今の天皇皇后両陛下が皇太子並びに妃殿下だった頃一緒にテニスをした写真が、控えめに飾られていた。突然来訪した筆者にガサゴソと昔の資料を引っ張り出して、2つのことを教えた。

 第1に、ジョゼフ・グルー米国駐日大使は1965年に死ぬ間際まで、日米戦争を避けられる戦争だったと信じていたこと。

 第2に、戦後農地改革の青写真は、自分が書いてマッカーサー司令部に提出した文書に依拠していること。とりわけ前者を、日本から来た記者に分かってもらいたいというふうだった。

 古い国務省の慣習によると、アイビーリーグ校あたりを出た若者は大使個人秘書というものになって、一種の徒弟奉公をしたらしい。41年ハーバード大学政治学科を出たフィアリー氏は、同窓の先輩だったグルー大使に仕えるため初めて東京へやってきた。昭和16年。開戦まであと数カ月という時期だ。

 グルー大使の名は今も財団法人グルー基金として日本に残っている。毎年若干名、日本の高校卒業生を米国の大学へ送り出す奨学金を出している。余談ながら大使夫人、アリスは、黒船でやってきたペリー提督の孫娘だった。

 この時期の首相、近衛文麿は、昭和天皇との長い会談ののち、日米間にわだかまる問題すべての決着を頂上会談で決する意を固め、米大統領ルーズベルトとの直接会談を切望していた。その橋渡しにグルーは全霊を傾けていた。
 
 フィアリー氏は、人生で初めて仕えた上司が当時どれほど会談実現に真剣だったか、我がことのように感じたのであろう。

▼史上最大のifは解けないまま

 この会談プランについてはグルー著、石川欣一訳『滞日十年』下巻(毎日新聞社、1948年)によって、戦後日本人の一定層が知るところとなった。実際、このメモワールを読むと41年9月が決定的に重要だった様子を手に取るように知ることができる。

 それによればトップ会談実現へ向けた日本側の意向には切実なものがあったというのに、どうして米国は積極的に応じず、ついには近衛内閣の瓦解となって元も子もなくなるまでしてしまったのか。

 ここが分からない点である。フィアリー氏はその一端をForeign Service Journal 誌91年12月号で記事にしているけれど、核心を問いただす機会は永遠に失われてしまった。

 「もし日米戦を避けることができていたら」というのは、あの戦争から何十年経っても消えない最大のifである。ルーズベルト大統領、ハル国務長官の側に責任の少なくとも一端があったとは、真珠湾を経た米国で、あえて口にするのがはばかられるタブーになったのだろう。
 
 フィアリー氏がごく押さえ気味の記事を上掲誌に書いたのさえ、真珠湾からちょうど50年目のことだった(氏が文芸春秋2002年1月号に寄せた「近衛文麿対米和平工作の全容」も参照)。

 ワシントン・ポスト紙が載せた訃報などを基に、フィアリー氏の略歴を下に記しておく。

 ニューヨーク州ガーデンシティー生まれ。41年ハーバード大学政治学科卒、ジョゼフ・グルー米国駐日大使個人秘書となる。真珠湾後は大使らと半年拘束され、ワシントンへ退去処分となった。国務省へ奉職、アナリストとして日本占領計画の立案に携わる。この時著した農地改革の論文が、後占領当局に採用された。

 日本敗戦後、マッカーサーの政治顧問だったジョージ・アチソンの特別アシスタントとして来日、46年帰国すると国務省日本部員として50年まで務める。

 同年、トルーマン大統領特別代理として対日交渉に当たったジョン・フォスター・ダレス氏のアシスタントとなり、国務省北東アジア局局長特別アシスタントを兼ねながら、サンフランシスコ講和条約の準備作業に加わった。

 52~56年駐パリNATO(北大西洋条約機構)米国代表部を経て59~61年は再び東京で駐日米国大使館政治軍事部長。この時の最重要課題は、日米安保条約の改定だった。

 63~66年、国務省で東アジア担当次長、部長を歴任し、69年8月、沖縄へ赴任、72年5月離任するまで米国最後の民政官を務めた。米艦船のいわゆる核持ち込み問題に絡む密約の有無を巡って、今でも時々名が出る。79年国務省退官。

編集委員室主任編集委員 谷口 智彦
2004.03.12 日経BP 


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