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中東の歴史『その悠久の景色』 [Middle East]


中東の歴史『その悠久の景色』


昨年の秋、ヨルダン、シリア、レバノンを回る小さな旅をした。レバノンの首都ベイルートは、20数年前、2年間生活した場所だが、打ち統く内戦でなかなか訪れる機会に恵まれなかった。

ベィルート復興の槌音は高く、15年にも及んだ内戦が漸く終りを告げたことを語っていた。かつて私が住んでいたアパートも健在で、そのビルの前に立つと、20数年の時の経過はたちまちに失せて、あの時代の生活が蘇った。

▼ロ一マ時代以来の時の流れ

あの頃,ベイルートから初めて隣国シリアを訪ねたのは、北シリアの雄都、アレッポからであった。シリア各地はベイルートからひとまたぎの距離にあり、レバノンはシリアと深く結びついていた。アレッポには動物学の専門家である折田魏朗氏がいた。彼の案内で、翌日アレッボ市内を見て回った。

 街の中心には大きな城砦が聳え、そのすぐ脇にはアラブ独特のスーク(広場)が広がっていた。私はアレッポ城の堂々たる構えに圧倒され、スークの広さっと賑わいと妖しげな雰囲気に魅了された。翌朝早く、ハマまで見送りに来てくれた折田氏とそこで別れた。

 ハマはシリア中部の最も保守的なイスラーム教徒の町であった。私はセルビス(乗合タクシー)に乗ったが、そのそばで木製の巨大な水車がギイギイ音を立てて回っていた。川床の低いオロンテス川から水を汲み上げているのであった。古代ローマの時代からこの町の人々はずっとこのようにしてきたのだ、と折田氏は言っていた。
 
 それから私はシリアの首都ダマスカスへ行った。髭を生やしたアラプ人の運転手は、一人一人客を降ろしていき、私は最後になった。私は日本大使館を訪ねようとしていた。運転手は顔をしやくって、この方向へ行けばいい、という意味のことを言った。

そのときだった。私の方角からは死角になっていたため全く気がつかなかったのだが、褐色の臣大な岩山が圧しつけるようにそこに聳えていたのだ。

カインが弟のアベルを殺したと伝えられるカシユーン山であった。『旧約』の時代と同じように、人々は今もこの山を眺めて生活をしているのであろうか、との思いに私は捕らわれた。それから私は何度となく,シリアを訪ねる機会をもった。しかし、何度訪ねても、シリアは私の期待を裏切らなかった。カシューン山には植林が進み、今では中腹まで緑の樹木が生えてきた。

 都市は近代化され、道路は整備された。立派なホテルも多くなった。しかし、ダマスカスの乾燥した空気に触れ、祈りを呼びかけるアッザーンの響きを聞き、街並みの彼方にそそり立つカシユーン山を見るとき、私には、20数年前と同じ感動が伝わってくる。

▼「新約」の「直ぐなる道」

 一日、私はダマスカスのウマイヤド・モスクとその脇のスークからつながる「直ぐなる道」を通って、アナニア教会まで足を延ぱした。ウマイヤ・モスクは8世紀中頃、世界に君臨したウマイヤ朝の中心地だ。

 広い中庭からは聳え立つ尖塔が威圧していた。高いドームを屋根にもつスークはそのまま歴史博物館だ。かつて旅人の宿舎であったキャラバン・サラエに人々は住みつき生活している。表通りに面した入り口は狭いが、中に入ると広い中庭に面して古風な2~3階建ての建物が並んでいる。聖パウロが歩き、倒れた『新約』の「直ぐなる道」は旧市街の城壁であるローマ時代の東の門につながっている。

 アナニア教会はこの東の門のすぐ近くの道を入った所に、半ば地下に埋もれてあった。会堂にはただl人熱心に祈りを捧げる黒人がいた。祈りが終わってから、視線が会うと、彼は微笑んだ。尋ねると、エチオピアから来たと言った。パウロはこのアナニアの家でキリスト教への悟りをひらき、西欧へキリスト教を広めたのだ。私は何か心が洗われる思いになった。やっぱり、やって来て良かったと私は思った。

小山 茂樹(中東経済研究所顧問・帝京大学教授)

【小山 茂樹】

日経タ刊のコラム「十字路」を21年間担当。中東情勢を短文の中に深くえぐって定評があった。今後日本人の知っておくべき中東の諸相を執筆いただくが、今回は歴史を感じさせる紀行文。

NIKKEI  BUSINESS 

1996.04.08

 


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