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書籍で伝えるサウジの心 [Middle East]

書籍で伝えるサウジの心

 日本と外国の名前をともに冠した有効団体はいろいろある。わが日本サウデイアラビア協会(会長・小長啓一アラビア石油社長)もその一つで、サウデイアラビアとの親善を深めるのを目的に設立された。

 今年で38年になる。他の協会に比較して知名度で劣るかも知れないが、ひそかに自負していることが一つある。サウデイアラビア、あるいはアラブの文化をテーマにした出販物を、少数ながら出し続けていることである 。

実状はあまり知られず

 サウジと言えば、大方の日本人が思い浮かべるのは砂漠、石油、聖地メッカ、それに最近ではサッカーのワールドカップの話題が加わるといった程度で、実状が細かく知られているとは言えないであろう。
 
 また、現在でも一般の観光客を対象とした入国ビザを発行していないため人的交流が遅れている。協会としては、出販活動によって多少なりとも文化交流を促進使しようとしてきた。
 
 私自身がアラブと出合ったたのは35年程前、大学に入って開講したばかりのアラビア語講座を第二外国語として選択したことだった。当時、日本人のアラビア語教師は少なく、アラブ諸国からの留学生や大使館員が講師を務めていた。

 彼らとの親交を通して私はイスラム教のものの考え方などを知ることになり、やがて深い共感を覚えて代々木上原にあった東京モスクで入信した。大学3年を終えた65年にはエジプトのアズハル大学に留学。滞在は10年に及び、帰国後はアラビア石油に入社し、93年から協会の事務局長を務めている。
 
 さて、協会がこれまでに発行した書物は「アラビア研究論-民族と文化」「予言者の妻たち」「実用アラビア語会話集」「サヒーフ・ムスリム」など、書き下ろしの本や翻訳書を合わせて13点ある。

イスラム研究の出発点

 「アラビア語研究論」は76年に出販した協会としては初めての本で、慶応大学名誉教授の前島信次先生らを編集委員に、11人の研究者が民族、宗教などについて論文を寄せている。今日でも日本におけるイスラム研究の 出発点となる書物とされている。

 アラブ世界、そしてイスラム教を理解する上で大きな貢献をできたと思うのは、予言者ムハマンドの言行録をムスリムという人がまとめた「サフィーフ・ムスリム」の翻訳刊行だ。予言者の言行を記したと称する伝承は約30万を数える。中には信用できない伝承もあるが、同書には約3千の信頼された伝承を収める。
 
 伝承は信仰から礼拝、結婚、商取引、戦争、神学などあらゆることに言及しており、コーランに次ぐイスラム法の法源として今日も生きている。日本ではそれまでに訳書がなかっただけに関係者からは大いにありがたがられた。

 ところで、来年はサウジにとって、イスラム暦で数えて建国への第一歩を踏み出した年から百年目の記念すべき年に当たる。
 
 サウジは、建国の父アブドルアジーズが亡命先のクウエートからわずかの部下をつれてリヤドへ戻り、リヤド城を奪回した1902年1月15日をもって建国へのスタートの日としている。
 
 イスラム暦は1年が355日だから、それで計算すると来年の2月で100年と言うことになる。サウジ政府は、これを祝って国をあげての行事を予定しているが、日サ協会でも王の伝記を出販して敬意を表したいと、準備を進めている。
 
 アブドルアジーズ王は、西暦1880年の生まれで、53年に亡くなるまで初代の国王として国の体制固めに尽くした。「意志あるところに道は開ける」と言うのが信条で、不屈の意志と勇気とで国家の統一を成し遂げた。

 武勇と知略を備えた指導振りは「砂漠の獅子」と恐れられたという。協会では、内外の関連書類やリヤドのイマーム大学から送られた資料などを基に、画期的な伝記にしようと張り切っている。
 
 サウジへの興味をそそられそうな話題をもう一つ紹介しよう。サウジにはアラブのノーベル賞言われているキング・ファイサル国際賞がある。第3代のファイサル国王が死去した後、子息たちが王の遺産で設立した慈善団体、ファイサル財団が77年に設けたものだ。

アラブのノーベル賞

 科学、医学、イスラムへの奉仕、イスラム研究、アラブ文学の五つの部門で国際社会に貢献した人に毎年授与している。

 これまでに32カ国、118人の人が受賞しているが、96年には岩手医科大学の藤原哲朗教授が日本人として初めて医学部門で選ばれた。

 藤原先生の受賞理由は未熟児特有の病気の治療に効果のある薬を発明し、死亡率を引き下げるのに大きく寄与したことだった。

 キング・ファイサル賞の今年のテーマは科学部門が「化学」、医学部門は「アレルギー疾病」。同賞の事務局では日本からの応募を期待している。

  -- 日本サウデイアラビア協会事務局長 徳増公明 -- 
 

     1998年(平成10年)3月27日(金曜日) 
      日本経済新聞 朝刊から

 


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中東の歴史『その悠久の景色』 [Middle East]


中東の歴史『その悠久の景色』


昨年の秋、ヨルダン、シリア、レバノンを回る小さな旅をした。レバノンの首都ベイルートは、20数年前、2年間生活した場所だが、打ち統く内戦でなかなか訪れる機会に恵まれなかった。

ベィルート復興の槌音は高く、15年にも及んだ内戦が漸く終りを告げたことを語っていた。かつて私が住んでいたアパートも健在で、そのビルの前に立つと、20数年の時の経過はたちまちに失せて、あの時代の生活が蘇った。

▼ロ一マ時代以来の時の流れ

あの頃,ベイルートから初めて隣国シリアを訪ねたのは、北シリアの雄都、アレッポからであった。シリア各地はベイルートからひとまたぎの距離にあり、レバノンはシリアと深く結びついていた。アレッポには動物学の専門家である折田魏朗氏がいた。彼の案内で、翌日アレッボ市内を見て回った。

 街の中心には大きな城砦が聳え、そのすぐ脇にはアラブ独特のスーク(広場)が広がっていた。私はアレッポ城の堂々たる構えに圧倒され、スークの広さっと賑わいと妖しげな雰囲気に魅了された。翌朝早く、ハマまで見送りに来てくれた折田氏とそこで別れた。

 ハマはシリア中部の最も保守的なイスラーム教徒の町であった。私はセルビス(乗合タクシー)に乗ったが、そのそばで木製の巨大な水車がギイギイ音を立てて回っていた。川床の低いオロンテス川から水を汲み上げているのであった。古代ローマの時代からこの町の人々はずっとこのようにしてきたのだ、と折田氏は言っていた。
 
 それから私はシリアの首都ダマスカスへ行った。髭を生やしたアラプ人の運転手は、一人一人客を降ろしていき、私は最後になった。私は日本大使館を訪ねようとしていた。運転手は顔をしやくって、この方向へ行けばいい、という意味のことを言った。

そのときだった。私の方角からは死角になっていたため全く気がつかなかったのだが、褐色の臣大な岩山が圧しつけるようにそこに聳えていたのだ。

カインが弟のアベルを殺したと伝えられるカシユーン山であった。『旧約』の時代と同じように、人々は今もこの山を眺めて生活をしているのであろうか、との思いに私は捕らわれた。それから私は何度となく,シリアを訪ねる機会をもった。しかし、何度訪ねても、シリアは私の期待を裏切らなかった。カシューン山には植林が進み、今では中腹まで緑の樹木が生えてきた。

 都市は近代化され、道路は整備された。立派なホテルも多くなった。しかし、ダマスカスの乾燥した空気に触れ、祈りを呼びかけるアッザーンの響きを聞き、街並みの彼方にそそり立つカシユーン山を見るとき、私には、20数年前と同じ感動が伝わってくる。

▼「新約」の「直ぐなる道」

 一日、私はダマスカスのウマイヤド・モスクとその脇のスークからつながる「直ぐなる道」を通って、アナニア教会まで足を延ぱした。ウマイヤ・モスクは8世紀中頃、世界に君臨したウマイヤ朝の中心地だ。

 広い中庭からは聳え立つ尖塔が威圧していた。高いドームを屋根にもつスークはそのまま歴史博物館だ。かつて旅人の宿舎であったキャラバン・サラエに人々は住みつき生活している。表通りに面した入り口は狭いが、中に入ると広い中庭に面して古風な2~3階建ての建物が並んでいる。聖パウロが歩き、倒れた『新約』の「直ぐなる道」は旧市街の城壁であるローマ時代の東の門につながっている。

 アナニア教会はこの東の門のすぐ近くの道を入った所に、半ば地下に埋もれてあった。会堂にはただl人熱心に祈りを捧げる黒人がいた。祈りが終わってから、視線が会うと、彼は微笑んだ。尋ねると、エチオピアから来たと言った。パウロはこのアナニアの家でキリスト教への悟りをひらき、西欧へキリスト教を広めたのだ。私は何か心が洗われる思いになった。やっぱり、やって来て良かったと私は思った。

小山 茂樹(中東経済研究所顧問・帝京大学教授)

【小山 茂樹】

日経タ刊のコラム「十字路」を21年間担当。中東情勢を短文の中に深くえぐって定評があった。今後日本人の知っておくべき中東の諸相を執筆いただくが、今回は歴史を感じさせる紀行文。

NIKKEI  BUSINESS 

1996.04.08

 


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ひび入ったサウジ王国 [Middle East]

ひび入ったサウジ王国

 世界の石油の25%は、サウジアラビアの地下に眠っている。これは、わが国で消費する石油の125年分に相当する。しかし、サウジアラビアの経済と財政は、悪化を続けている。この1月、政府は2年連続で政府支出の削減を発表し、公共料金(電力・水道)の有料化や物価値上げを実施した。
 
 IMFは、サウジの海外資産は650億ドルと、1980年代初めの1700億ドル水準の半分にも達せず、国内の借入金も6年前はゼロであったが、現在840億ドルの巨額に達したと報告している。IMFは、サウジの財政悪化は、今世紀いっぱい続くと推定している。
 
 財政と経済悪化の原因は原油価格の低落のせいだ。サウジは1バーレル=1ドルの低落につき、25億ドルの石油収入減を被る。国庫収入の5分の4は石油輸出に依存し、財政赤字は210億ドルに達し、予算は、20%の歳出カットを決めた。
 
 イブン・サウド大王がアラビア半島の中央部一帯を武力で平定して70年余、サウド王国は、子供から孫の時代を迎えた。6000人のプリンスを抱える王国には、昔あった一体感は薄れつつある

▼誰が後継者か

 誰もがサウド王国に、「変革の嵐がやってきた」といっている。しかし、その担い手はテクノクラート、イスラム勢力や軍部ではない。王室自らがその主役である。王国のトップを構成するロイヤル・ファミリー(王家)の実体は、「政党」にほかならないからだ。
 
 いまファハド国王の後継者をめぐって王国は「ひびの入った」状態(英エコノミスト誌)である。国王は74歳に達し、心臓病と糖尿病が悪化している。しかし、激務は深夜まで続きタバコとお菓子は欠かせない。ファハド国王の後継者には腹違いの弟であるアブドラー皇太子(第一副首相)がなることは、既成事実と考えられてきた。
 
 しかし、1992年の統治基本法は、国王が死亡、執務不能などの重大な事態に陥ったときはまず、数十名の「長老プリンスが新国王を選ぶ」と規定した。必ずしも皇太子が自動的に国王に即位するわけではない(有力候補であるが)。次に、新国王の即位にはウラマー(最高宗教指導者)の承認も必要だ。
 
 さらに、新国王は、始祖の直系の子および孫の「総意」が必要であるとされている。すなわち、約500人いるといわれている「第三世代」(孫の代)のプリンスにも総意があれば国王になる資格がある。
 すなわち、現国王(74歳)、皇太子(73歳)と次の次を狙うスルタン国防省(67歳)の三者は年齢の差もわずかで、存命年数によっては王位の順序と任期に影響を与えずにはおれない。2?3年ごとに代わる短命の可能性もある。
 
 アブドラー皇太子は健康状態も申し分なくやる気十分だ。反面、スルタン国防省には健康上の問題が残るため、皇太子昇格説を疑問視する声が強い。
 スデイリー家はスルタンがだめなら、代役に国王の弟プリンス・サルマン(リヤド州知事、60歳)を担ぐことを真剣に考えている。
 
 サルマンは“次の次”を狙える「第二世代の最後のエース」だ。サウド王家の第二世代は老齢化のため表舞台から去る日は近く、第三世代のサウド外相らの期待の星は、非スデイリー家に多いといわれている。
 
 ところで、サウジには国家警備隊があるが、皇太子は第一副首相であると同時に国家警備隊司令官を兼務し、事実上、警備隊は皇太子の“私兵”である。その兵力7万人はスルタン国防省(第二副首相)の率いるサウジ国軍の兵力10万人と対峙している。

 国家警備隊はベトウィンを守る警護や東部州の石油施設の防衛を任務としている。しかし、国家警備隊には隠された別の一面がある。それは、王室クーデターにかかわってきた歴史である。

▼二つの軍隊

 サウド国王(故人)に退位(1964年)を迫ったファイサル皇太子(当時、後国王即位)は、国家警備隊(ハリド司令官、後国王即位)を王宮に派遣して国王派の近衛兵を押さえ込み“無血クーデター”を成功させた。

 武力制圧ではなく、ウラマーから正式裁可を得たということで、手柄を立てたのが現皇太子だ。論功によりファイサル新国王はアブドラーに国家警備隊をまかせたのである。
 
 ところが、アブドラー国家警備隊司令官に強く反発したのがファハド王子(現国王)らのスデイリー家(国軍と内務省系の警察を率いる)だった。ここからアブドラー皇太子とスデイリー家との間で冷戦が始まった。
 
 さて、“次”の国王がアブドラー現皇太子となれば、国家警備隊司令官の座はどうなるのか---------。
 
 第1のケースは、アブドラー新国王誕生と同時に、国家警備隊を国軍に編入する場合だ。これはスデイリー家の作戦だ。アブドラーは「裸の王様 」になるから当然反対だ。
 
 第2のシナリオは、国家警備隊司令官のポストを盟友に与える場合だ。このシナリオの可能性は十分考えられる。しかし、スデイリー家は反対だ。皇太子に対するスデイリー家の包囲作戦は始まっている。ファハド国王は統治基本法を公布し、「国家は軍隊を創設する」と宣言した。

 しかし、この規定はサウジ国軍のみを指し、国家警備隊を否定するのではないかと、アブドラー皇太子が激怒したといわれている。あわてたファハド国王は、同日付で引き続き皇太子が国家警備隊司令官の地位にとどまると、わざわざ勅令によって表明したほどだ。
 
 国家警備隊は質実剛健で、ベトウイン魂の伝統を守り、スンニ派の一派ワハビズムの中核的武装集団でもある。始祖イヴン・サウド王のボデイガードから出発したと言う名誉もある。皇太子自らも世俗の富や名声には一線を画している。隊員の皇太子に対する忠誠心は強い。
 
 一方、国軍の方は湾岸戦争の中心であり、装備面ではすぐれているが声望と士気に欠ける。もし、アブドラー皇太子が新国王に就けなければ、国家警備隊によるクーデターの可能性が高いとエジプトの著名なジャーナリストであるモハメッド・ヘイカル氏は予言している。

 その時、米軍はどう動くか。石油供給は保障されるか。原油価格はどこまで暴騰するのだろうかーーーーー。</font>
<font size="2" color="green" style="line-height:150%;">
--- 1995/6/17 週間東洋経済  クロード 鳥越 ---

 


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戦争の裏の戦い ( The war beyond the war ) [Middle East]

戦争の裏の戦い ( The war beyond the war )

レバノンの戦いは米、イラン、パレスチナの戦いでもある

 チェスに「ツークツワング」という用語がある。次の一手をどう打っても、もう降参するしかない手詰まりの状態。いわば今週のエフード・オルメルト(イスラエル首相)の状況がそうだ。

 もし彼がヒズボラへの攻撃を止めれば、ヒズボラ側としては、地域の超大国の3週間にわたる攻撃の中で、ヒズボラ兵士たちが抵抗を続け、イスラエルの町や村にロケットを打ち込んでいたというだけで、「自分たちの勝ちだ」と主張するだろう。

 もし逆に、オルメルト首相がさらにレバノン深くに攻め込むことを選べば、6年前にレバノンから撤退したことで終わったはずだった代償の高いゲリラ戦にイスラエルを陥れる危険性がある。

 このようなリスクを避けようと、オルメルト首相はありそうにない中庸の道を目指している。8月2日にオメルト首相は、「強力な」国際部隊が到着してヒズボラの武装解除を終えるまで、イスラエルはレバノン南部に侵攻を続けるだろうと述べた。やけに単純で、のんきなものだ。

 ヒズボラが記録的な数のロケットをイスラエルに打ち込んだその日、国際部隊などまだ存在しておらず、それを編成する計画もいかにも漠然とした段階の時に、オルメルト首相はそう語ったのだ。一体、誰が軍隊を提供するのか。彼らは実際に力ずくでヒズボラの武装解除を率先して行うのか、またそれが可能なのか。

 武力でなければどんな取引があるのか。未知数ばかりの中で最も確かに思われるのは、結局、この戦争はどちらが勝ったか曖昧なまま、始まった時と同じように混乱の中で終わるだろうということだ。

イランとアメリカの代理として

 引き分けで終わるのも時には悪くない。イスラエルが1948年と67年に経験したような圧倒的勝利は、一方の側を傲慢にし、もう一方の誇りを打ち砕き、何十年間も和解の妨げとなる。

 それとは対照的に、イスラエルもエジプトも勝利を主張した73年の戦争は、エジプト人の誇りを回復し、イスラエルにシナイ半島を最強の隣人との和平と交換する価値があると認めさせた。

 80年代後半のパレスチナ人によるインティファーダ(反イスラエル抵抗運動)も、ある意味で引き分けに終わった。パレスチナ人はイスラエル人をヨルダン川西岸とガザ地区から追い出せなかったが、イスラエル人の方も占領を終わらせるべくパレスチナ人の解放運動の熱を冷ますことはできなかった。

 しかし、一つにはこのおかげでイツハク・ラビン(当時、イスラエル首相)が、ヨルダン川西岸とガザ地区における独立国家となっていたはずの萌芽ともいうべきものを、ヤセル・アラファト(当時、パレスチナ解放機構の執行委員会議長)に与える必要があると確信したのだ。

 現在行われている戦争は、イスラエルとアラブとの間での最も熾烈な戦いの1つだ。これまでイスラエル国民は、これほど持続的で無差別な自国への爆撃に直面したことはなかった。これに比べると91年のサダム・フセインによるスカッド・ミサイル攻撃は、一過性の嵐のようなものだった。

 しかし、この数週間レバノンで起こっているように、戦場から人々を一掃するため数十万人のアラブ民間人に家や村からの避難命令まで出す必要に迫られたのは、イスラエルの独立戦争以来の事態だ。何百人もの死者が出て、その大半がレバノンの民間人だったが、それでもまだ最悪の致命的な地域紛争というわけではない。

 しかし、憎しみで満ちていた器に、さらに入りきれないほどのものが注がれてしまったのだ。
 多くの血が流され、怒りが生まれているが、この戦争はその代償について、また、以前イスラエルと近隣諸国が激戦の末に引き分け、その後外交の道が開かれたというような利点について、再び考え直す動きへとつながる可能性があるのだろうか。事態の行方は調停者の技量によるところが大きい。しかし今回、予兆は明るい展望を示していない。

 その理由はイスラエルとレバノンの争いが複雑だからではなく、その反対だからだ。両国には実は大して争う理由はない。

 イスラエルはエジプトと「領土と平和の交換」を実行したし、いつかパレスチナともそうしなければならないだろうが、イスラエルとレバノンの間には、そんな苦痛を伴う取引をする必要がない(シェバア農地として知られる小さな「係争地」は、せいぜいヒズボラが争いを正当化するために使う口実にすぎない)。

 実際、今回の紛争は一義的にイスラエル対レバノンの問題ではなく、むしろイスラエル対ヒズボラの支援国イランの、そして米国対イランの戦いだと言える。

 そのせいで解決が困難を極める。特に、超大国米国が調停者どころか事実上の主役としてサダム・フセイン(元イラク大統領)後の中東支配権をイランと争う中で、多少なりともこの戦争でイスラエルを代理人として利用したいという誘惑に駆られているからだ。

 これは恐ろしい新局面である。1世紀にわたるシオニズムとパレスチナのアラブ人との争いは、そこへ新たに世界や地域の争いを加えるまでもなく、既に独力で解決できないほど激しいものだった。

 冷戦はパレスチナにおける争いを長引かせた。最も期待できる和平工作が、ソ連が米国と中東支配権を争うのをやめた後に実現したことは偶然ではない。

 今、中核となる争いは再び、もっと大きな争いの中にもつれこんでしまっている。しかも今回は恐らくもっと危険だ。イランは50年代と60年代の非宗教的アラブ諸国以上に熱心に、イスラム主義を反シオニスト主義の中心に据えようとしているからだ。

 イラン側の見方をすれば、イスラエルに対するヒズボラの不敵さは、敬虔なイスラム教シーア派というブランドの素晴らしい宣伝だ。これはサウジアラビアのような、アラブ社会における米国同盟国を大いに当惑させる。

 サウジはイスラム教スンニ派を率いたいと強く望んでいるのに、アラブ・イスラエル戦争の傍観者でいればいつも腰抜けと見られてしまう。それはまた、エジプトとヨルダンという、イスラエルと和平を結んで悪評を得た国々を不安に陥れる。

 パレスチナ領では、ハマスの力を強める。ハマスはイスラエルとの和平に宗教上の異議を唱え、より協調的で宗教色の薄いファタハを抑え込んでいる。シーア派をひどく嫌いイラクで殺害しているアルカイダでさえ、先日、この騒ぎに参加せずにはいられなかった。

 ウサマ・ビンラディンの代理人であるアイマン・アル・ザワヒリが洞窟からひょっこり出てきて、イスラム対ユダヤ人、十字軍との戦争では、イラク、アフガニスタン、レバノン、パレスチナは今や一枚岩の前線部隊だと語ったのだ。

関係の切断               

 紛争がただの近隣同士のケンカでなく、イランと米国の代理戦争でもあるとしたら、それが終わった時、どうすれば持続的な平和を実現できるのだろうか。

 米国のヘンリー・キッシンジャー(元国務長官)のような(新保守主義者と反対の)外交政策の現実主義者たちの間で勢いを得てきた意見がある。この機を利用して、何年間も米国とイランとの間で議題となってきた「包括的取引」をなし遂げるというものだ。

 中東地域のあらゆる争い――イランの爆撃、イラクの将来、シリアの孤立、レバノン内のヒズボラ国家、パレスチナ人の報われない大義など――はどれも互いに絡み合っているのだから、今、そのすべてを総合的に解決し始めることを考えてはどうか。

 国連安全保障理事会は7月末、イランにウラン濃縮をやめるよう再度警告したが、米国がイランに対してもう一度、この要求に従うことで得られる政治的・経済的利益を強調しても損にはならない。

 米国とイランは話し合わなければならない。それでもやはりこの壮大な取引には、最も独創的な外交手腕をもってしても手が届かない可能性はある。

 となると、いくつかの要素を切り離した方が、あまりにも多くのものをつなぎ合わせようとするより賢明かもしれない。

 とりわけパレスチナ人の展望は、様々な部外者が時折彼らの大義を乗っ取り、イスラエルや米国、または両国に対するイスラム教徒の反感を煽るようなことをしなければ、今より明るいものになるだろう。

 イスラエル人とパレスチナ人の双方が十分な勇気と寛大さを示せば、恐らくまだ取引できることはある。突き詰めると、パレスチナ人に国を与えることができるのはイスラエル人だけで、イスラエル人が中東で切望している合法性を彼らに与えることができるのはパレスチナ人だけなのだから。

 紛争地域でお互いの利益が最も密接に一致しているのは、この2つの民族だ。結局この問題を解決することが、より広範な和平を促すための最善策なのだ。


The Middle East 
The war beyond the war  (2006年8月3日)

The Economist,EIS
2006年8月9日 水曜日


 


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イラク撤収、自衛隊には何が必要だったのか [Middle East]

イラク撤収、自衛隊には何が必要だったのか

 イラクに派遣されていた陸上自衛隊が撤収することになった。装備品などをコンテナに詰め、いったんクウェートに運んでから日本へ輸送する。最後の第10次隊の帰国は8月以降となりそうだ。

 2年半にわたって、述べ5500人。自衛隊発足以来、初めての「戦争が行われている国」への本格的派遣であった。政府は現地サマワを、派遣が許される「非戦闘地域」と認定してきたが、これは建前であって、実際には何が起きても不思議ではなかった。撤収作業中が最も危険ともいわれており、最後まで「一人の犠牲者も出さなかった」ことを貫いてほしいものだ。

 撤収決定で、まず注目されたのが米国の態度だ。米英軍を主体として、いまだにイスラム原理主義テロ集団との激烈な戦闘が展開されている。自衛隊撤収決定と前後して、拉致されていた米兵2人の惨殺死体が発見されている。

 米国の意向に反しての撤収となると、日米関係に決定的な亀裂が生じる。幸いなことにというべきか、事前の周到な調整が実ったというべきか、米政府の態度は自衛隊撤収に十分な理解を示すものであった。

 現地のムサンナ県の治安維持活動の権限が英豪軍からイラク側に委ねられる。そのことが「海外で武力行使ができない」自衛隊の撤収を可能にした。だが、陸自警護に当たっていた豪軍460人は、自衛隊撤収後、さらに危険度が高いとされるナシリア近くのタリルに派遣され、イラク治安部隊の支援、訓練任務に従事する。

 オーストラリアのこの決定は、米国支援の姿勢をより強固に示す狙いがある。日本とは次元が違う政治決断が必要だったことを、日本側も意識すべきである。

正当防衛という“盾”だけで任務は全うできるか

 小泉政権は周辺事態法やアフガン支援(インド洋への補給艦派遣)、そしてイラク派遣と、自衛隊の国際貢献のステージを高めてきた。国家としての基本姿勢の「改革」として、この側面は評価されてしかるべきだ。日米同盟を基軸とした安全保障体制の根幹はより強じんなものとなった。

 だが、問題はこれからである。事態が起きるたびに特別措置法をばたばたと成立させて自衛隊派遣を可能にするという便法から脱却すべきだ。当然、「恒久法」が必要である。

 憲法改正の焦点である9条が改正されれば、「軍」の保持と国際貢献(つまり海外派遣)が明記されることになるが、それを待つわけにはいかない。いかなる事態にも即応できる法整備が求められている。ポスト小泉政権の重要な課題である。

 それには様々な観点があろうが、主要なポイントは交戦規定の整備だ。現在は基本的には警察官の武器使用基準と同様である。自己への危険が迫った場合の「正当防衛、緊急避難」のケースでしか、武器を使用してはいけないことになっている。

 自己の管理下にある者、つまり、野戦病院に収容されている傷病隊員などに危険が迫った場合も含まれるなど、若干の修正は施されたものの、基本としては相手から撃たれなければ撃ち返せない。これでは戦闘行為が行われている地域で任務を全うできるわけがない。

 民主党代表となった小沢一郎氏は、国連待機軍、国際安全保障という持論を展開してきたが、自衛隊派遣に反対したのは「原理原則ができていない」という理由からであった。ありていに言ってしまえば、派遣する以上、他国の軍隊と同様の行動が取れるようにしてやらなければ、自衛隊が気の毒だ、ということだろう。

 ということであるならば、自民党と民主党の間で認識を共通なものとするのは、そう難しくないようにも思える。いまは自民党総裁選、民主党代表選を前に、与野党対決ムードを演出していかなくてはならない民主党だが、この段階が過ぎれば、落ち着いた論議も可能になると思われる。

 湾岸戦争で130億ドルを拠出した日本は人的貢献がなかったために「キャッシュディスペンサー」といわれ、戦後、クウェートが米紙に出した支援各国への感謝広告に日の丸はなかった。

 以来、国際社会で尊敬される存在となるには、「カネだけでなく、汗も血も」の基本姿勢が必要であるという冷厳な事実を突きつけられたのである。このことの論議をもう一度起こす必要がある。

国内訓練とイラクとの間にある違い

 新聞社在勤時代、防衛庁を担当したことがある。月に1回ほどの頻度で基地視察があった。ある基地で目の前に戦闘機を置いて、機銃掃射を実演してくれた。

 すさまじい機銃の発射音、バラバラと飛び散る薬莢(やっきょう)に度肝を抜かれた。夜の懇親会の前に、広報担当者から「相談がある」と呼ばれた。薬莢が一つ足りなくなったというのだ。

 自衛隊は、訓練で使った薬莢を全部集めて数を点検する。発射した数と合わなくてはいけない。「記者のだれかが拾ったのだろう。欲しければ改めて用意するから、いったん返すよう全員に聞いてくれないか」というのである。

 一人ずつ聞いていったら「犯人」が判明、そっと返してもらった。翌朝、全員に土産として、磨き上げた薬莢がプレゼントされた。

 イラク派遣に当たって、隊員の銃の発射訓練が変更された。自衛隊の場合、銃は標的に向かって体を横にして撃つ。相手から見れば、的の幅が狭くなって当たりにくいからだ。

 だが、防弾チョッキは脇の下が開いている。したがって、正面を向いて両腕を突き出して撃つやり方に変えた。訓練では薬莢を拾い集めて数を合わせないといけないから、撃った後、目で薬莢の行方を追うクセがついている。

 「薬莢を目で追うな」ということを徹底させるのにずいぶん苦労した。これは派遣隊長の一人から聞いた。

 より実戦態勢に近づけるために、一般には言えない苦労があったのである。退職した高級幹部から「実際にそういう事態になったらやりますよ。部隊長が目配せするんです。口に出して撃てとは言えませんから」と聞いたこともある。

 がんじがらめの態勢の中で、自衛隊の最前線はそこまで考えている。

 イラクへの自衛隊派遣には様々な意見があろうが、これだけは言っておきたい。派遣隊員たちは「公のために死ぬ」覚悟を示してくれたのである。これは、戦後の稀有な例である。
 

(花岡 信昭)


花岡 信昭(はなおか・のぶあき)氏プロフィール

現職

ジャーナリスト
慶應義塾大学院(法学研究科)講師
国士舘大学院(政治学研究科)講師
日本大学(国際関係学部外交官養成講座)講師
読売新聞監査委員会審査委員

 


略歴

1946年4月2日 長野市生まれ
1969年3月 早大政経学部政治学科卒
1969年4月 産経新聞東京本社入社。社会部を経て政治部(首相官邸,自民党,大蔵省,外務省,       防衛庁など担当)
1986年7月 政治部次長
1992年7月 論説委員兼編集委員(政治担当)
1994年2月 政治部長
1995年7月 編集局次長兼論説委員
1997年7月 論説副委員長(政治,外交,安保など担当)
2002年7月 産経新聞退社、評論活動にはいる

所属組織・学会など

日本記者クラブ会員、日本政治学会会員、日本マス・コミュニケーション学会会員、早稲田政治学会会員、東京財団委託研究プロジェクトリーダー、神奈川県戦略会議委員・道州制検討部会長、日本戦略研究フォーラム評議員、民間憲法臨調代表幹事、学校法人郁文館学園監事、NPO法人全国介護者支援協会理事

著書

小泉純一郎は日本を救えるか(PHP)/小沢新党は何をめざすか(サンドケー出版局)/沈黙の大国(扶桑社)/竹下登全人像(行研)/深紅のバラを検証する-日本社会党の研究(東洋堂)/政治家に学ぶ実力倍増法(山手書房)/検証・法人税(MG出版)/美濃部都政12年の功罪(教育社)

連載コラムなど

サンケイスポーツ、世界週報、時事通信コメントライナーなどに定期執筆。正論、諸君、VOICE、WiLLなどに論文。

2006/06/27
日経BP SAFEY JAPAN


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自衛隊イラク撤退の意味 [Middle East]

自衛隊イラク撤退の意味


 自衛隊がイラクのサマワから撤退する方向で、日本国内外の協議が進んでいる。

 イラクでは、暫定政権時代が終わり、5月下旬にマリキ首相を中心とする本格政権が発足した。6月上旬にはイラク在住のアルカイダ系テロ組織の指導者とされるザルカウィが米軍の爆撃によってと報じられた。

 6月13日にはブッシュ大統領が電撃的なバクダッド訪問を行い、マリキ新首相を激励した。これらのことを見て「イラクは安定し、自衛隊が撤退できる状況になった」と考えている読者もいるかもしれない。

 しかし私が見るところ、イラクの情勢は全く良くなっていないどころか、逆にしだいに悪化している。それを象徴しているのが、先日のブッシュ大統領のバグダッド電撃訪問のやり方である。

 大統領の訪問を事前に知らされていたのは、チェイニー、ライス、ラムズフェルドの主要3閣僚だけだった(ほかに手配を担当した事務方の数人は知っていたと思われる)。イラク側では誰も訪問を事前に知らされず、マリキ首相でさえ、ブッシュが来ていることを米側から知らされたのは、ブッシュがバグダッドのアメリカ大使館にヘリコプターで到着する5分前のことだった。

 この徹底した秘密主義は「人々を驚かせる効果を増やすため」と報じられているが、それは違う。政権が驚かせたい対象は、マスコミや一般の人々であり、政権中枢やイラク側の高官にまで訪問を知らせないでおく必要はない。

 ブッシュ政権の中枢は、イラク側の人々を全く信用できない状態だ。イラク政府の中に、閣僚クラスにさえ、ゲリラ側と密通した人間がたくさんいるからである。マリキ首相も、反米のサドル師と親しいシーア派なので信用できない。

 ブッシュ政権の内部にも、早くイラクから撤退しないとアメリカは覇権力を失ってしまうと考えている人がいる。そうした人々がブッシュの訪問をイラク側に伝え、ブッシュがバグダッドの空港からアメリカ大使館までを往復するヘリコプターがゲリラに狙撃されることが懸念された。

 つまりブッシュ政権は、イラクの誰も信用できない状態になっている。米政府は、イラクが安定した国になるまで米軍を撤退させないことを決めている。イラクの安定には、アメリカとの相互信頼が不可欠である。

 アメリカの大統領がイラクを訪問するのに、暗殺を恐れてイラクの大統領にも訪問を5分前まで教えられないという事態は、イラクがまったく安定していないことを雄弁に物語っている。このままでは、アメリカは永久に占領を終えられない。

 米軍が殺したというザルカウィも、実は存在しているかどうかすら怪しい人物で、アメリカがイラク占領を「テロ戦争」の一部であると米国民と世界に思わせるため、ザルカウィによるテロの脅威を拡大して発表し、マスコミに報道させてきた経緯がある。

 アメリカのマスコミで大々的に報じられたザルカウィの「死」には、マリキ政権の発足とともにイラクが良くなってきていることを演出しようとする、米政府の意志が感じられる。

▼アメリカと苦楽を共にする道を選んだイギリス

 イラクが安定しないのに、なぜ、日本は自衛隊の撤退を決め、イギリスやオーストラリアも撤退の方に向かい始めているのか。それはおそらく、アメリカの占領政策の失敗の結果、イラク人のほとんどが外国軍の駐留を嫌悪する事態になっており、これ以上駐留してもイラクは安定の方に向かわないと、日英豪の政府が予想しているからである。

 特に日本の場合、憲法の制約があり、非戦闘地域への駐留であることが必要とされる。占領開始当初は、イラクは1-2年で安定し、戦闘地域は非戦闘地域に変質し、自衛隊は戦闘ではなくイラク復興に協力できる存在になるので、合憲化できると日本政府は予測していた。

 しかし実際には、占領開始から2年以上すぎてもゲリラ戦は絶えず、イラクの中で比較的治安が安定している自衛隊駐留地のムサンナ州でさえ、イラク人の大半は占領軍の存在に反発し、占領に協力するイラク人はゲリラ側から脅される状況が続いていた。

 自衛隊は戦闘しないので、状況が悪化するばかりでは、駐留を続けても意味がない。このため昨年夏から、日本政府はサマワから自衛隊をなるべく早く撤退させた方が良いと考えていた。だが、日本だけが撤退すると、アメリカから「反米」の烙印を押されかねない。

 ムサンナ州の自衛隊は、イギリス、オーストラリア軍と連携しており、英豪も、撤退に向けて「出口戦略」を模索したいと考えていた。日本は英豪と時期を合わせて撤退することにした。

 日英豪のまとめ役はイギリスだったが、ブレア首相には、この件をめぐってやらねばならないことがあった。それは、アメリカをイギリスの側に引きつけておく状況を変化させないということである。

 以前の記事「アメリカの第2独立戦争」で説明したように、イギリスにとって最大の国家戦略は、アメリカを動かして「ユーラシア包囲網」というイギリス好みの世界戦略を採らせ、米英中心の国際社会の体制を維持することである。

 アメリカは、イギリスなど欧州の側が冷たい態度をとっていると、欧州を特に重視することをやめて「多極主義」(これを親英派は「孤立主義」と呼ぶ)の方向に流れていってしまう。

 911以降のアメリカの「単独覇権主義」は欧州軽視であり、潜在的な多極主義である。この傾向に危機感を抱いたブレアは、自国内の世論から反対されても、アメリカのイラク侵攻についていき、占領の泥沼にもアメリカと一緒にはまり、苦楽を共にする道を選んだ。

 イギリスがアメリカより先にイラクから手を引いた場合、イギリスにとって最も懸念されることは、イラク現地の混乱などではなく、その後のアメリカがイギリスと疎遠になり、孤立主義・多極主義の方に向かうことである。

▼アメリカも一緒に撤退させようとしたブレア

 アメリカと疎遠になったら、イギリスは国際社会の中心ではなくなり、世界に対する神通力を失ってしまう。ブレアの発言は、ブッシュと協調しているからこそ、世界に聞いてもらえている。

 アメリカと疎遠にされた後のイギリスは、EUにすり寄るしかないが、アメリカ抜きのイギリスは、もはや一目置かれる存在ではなく「ふつうの行き詰まった先進国」でしかなく、栄光は過去のものとなる。

 こうした「悪夢」を避けるため、ブレアは、どんなに英国内の世論がイラク駐留に反対しようとも、米軍が撤退の方向に動くまでは、自国軍のイラク撤退を開始するわけにはいかなかった。とはいえ、イラク占領は泥沼化するばかりで、ブレアへの支持率は下がり続けている。ブレア政権は、もう持ってもあと1年ぐらいではないかと予測される。

 こうした中、ブレアが昨年後半から採った戦略は「何とかしてアメリカをイラクから撤退させる方向に動かし、英米協調で撤退する」ということだった。米政界には、タカ派(隠れ多極主義)に押されているものの、国際協調主義(欧米中心主義)の勢力もまだ多く、イギリスはそことの連携で、早期のイラク撤収を実現しようとした。

 英ブレア政権は、イラク占領以外にも、ブッシュ政権を誘って国連やG8を国際協調主義の国際組織として立て直すことを模索しており、アメリカの戦略をイギリス好みに戻すことに尽力してきた。

 イギリスがアメリカを動かして冷戦的な「ユーラシア包囲網」戦略を採らせてきたことは、日本やオーストラリアにとってもプラスだった。日豪も、アメリカがイギリスから疎遠になって多極主義の方向に進むのは避けたかった。それで日豪も、ブレアが米政界を説得し、イラクからの協調撤退を実現することを期待し、自衛隊は撤退の時期を先延ばしし続けてきた。

 昨年秋から、マスコミでは「自衛隊はイラク撤退を検討している」という報道と「小泉首相はブッシュ大統領に、自衛隊は撤退しないという意志を伝えた」といった報道が交錯し、矛盾した状況になっていたが、その背景には、日本の撤退を歓迎しないブッシュ政権には「撤退しません」と言っておく一方で、イギリスによる対米工作がアメリカの態度を変えてくれることを期待して内部的には撤退を検討する、という状況があった。

▼引き戻しにも動かなかったアメリカ

 イギリスは国運を賭けてアメリカの方向転換を画策したが、失敗に終わっており、アメリカを国際協調主義の方向に戻すことは、日に日に困難になっている。5月末、イラクで本格政権が誕生した直後、ブレアは訪米し、ブッシュや米議会重鎮らと会った。

 この訪米でブレアはブッシュとの会談で、イラクからの撤退時期を明確にして発表することを合意しようとした。それはブッシュの人気回復にもプラスになると、英側は主張していた。

 ブレアは同時に、米政界に対し「アメリカの気のすむようにやって良いから、国連改革に熱心になってほしい。

 途上国が数の力で押してくる国連総会の権限を削り、事務総長の権限を拡大し、事務総長の人事は大陸ごとの持ち回りから、国際社会(欧米)の著名人の中から選ぶようにすればよい(そうすればアメリカの好き勝手にやれるから)」と持ち掛けた。

 ブレアはアメリカに対して、発展途上国の経済成長を鈍化させて先進国の延命につながる地球温暖化対策の推進や、イラン問題を軍事ではなく外交で解決することなども提案した。いずれもアメリカを米英中心の世界体制の中に引っ張り戻す方向を持った提案だった。

 しかしアメリカ側は、これらをすべて拒否した。イラクからの撤退時期の明確化は、ブッシュ大統領に断られた。国連改革案に対しては米政界からの真剣な反応もなく、マスコミ(英新聞)からは「ブレアは英首相を辞めた後、自分が国連事務総長になりたいから、事務総長権限を強化する改革案を出してきたのではないか」と皮肉の解説を書かれた。

 ブレアは訪米の際、ワシントンDCのジョージタウン大学で講演したが、そこでの講演原稿は本番直前に書き直され「イラン問題の解決は軍事的にやらない方がよい」「地球温暖化問題に熱心に取り組むべきだ」といった主張が削除された。

 いずれも、米政府に反対された点だった。ブレアにとって、米政界のタカ派的な姿勢を批判するのは危険なことだった。タカ派がアメリカのマスコミを動員してイギリスを敵視する世論を喚起するかもしれないからだ。

▼駄目押しの議会決議

 こうして、ブレアはアメリカを方向転換させることに失敗した。アメリカではその後、6月上旬から14日にかけて、議会の両院でイラク駐留米軍を撤退させるべきかどうかをめぐって議論がなされた。

 民主党からは「イラク占領が失敗したことはすでに確定している。今年末までに米軍を撤退させるべきだ」という主張も出たが、多くは「イラクが安定した国になるまで撤退すべきではない」「テロリストに負けてはならない」といった意見だった。

 上院では、早期撤退を求める決議案が賛成6反対93で否決され、下院では、イラク占領をテロ戦争の一部に位置づけ、撤退時期を明確にすべきでないとする決議案を、賛成256反対153で可決した。

 これらの決議は、アメリカを国際協調主義に引き戻そうとするブレアの提案が、明確に拒否されたことを示している。

 上院で、イラク撤退期限を決めるべきだという法案を出した議員の一人は、次期大統領の座を狙う民主党有力者のジョン・ケリーだったが、彼は同僚議員から批判され、途中で法案の撤退要求トーンを下げる修正を自ら行ったが、それでも圧倒的多数で否決された。

 ケリーは、米国の世論に厭戦気運が高まっているのを見て、反戦的な論調を主導すれば、次期大統領選で有利だと考えたのだろうが、その戦略は失敗した。次期大統領がどちらの党の誰になるにせよ、イラクからの早期撤退を掲げる人が当選する可能性は非常に低い。アメリカのタカ派姿勢は当分続くということだ。

 イギリスが日本やオーストラリアと協議し、日本のサマワ撤退計画が浮上したのは、ブレアの訪米が失敗し、米政界が撤退否定に向けて議論をしていたときである。ブレアの訪米の失敗により、イギリスがアメリカを協調主義に引き戻す計画は失敗で終わり、英日豪はアメリカより先に撤退に動くことになった。

▼もはや時間切れ

 米英協調はイギリスの国益の中心なので、ブレアとしては、もう少しアメリカの説得に時間をかけたいところだろうが、もう彼には余裕がない。

 イギリスが統治するイラク南部の中心都市バスラでは、状況がどんどん悪化し、事態が改善される見込みがない。バスラでは、占領開始直後には英軍と地元のイラク人指導者との関係は比較的良好だったが、今では関係は非常に悪く、殺人は絶えず、市内の上下水道や電力などのインフラは破壊されたままだ。

 英軍と、英の後押しで就任したイラク人のバスラ市長と、ゲリラ諸派という3つの勢力が、互いに対立している。

 イギリスでのブレアの支持率は今や、アメリカでのブッシュ支持率より低い22%である。しかもイギリスの世論は、どんどん反米的になっている。

 支持率の低さと反米的な世論、バスラが安定するまでの長い時間などを考えると、イギリスがアメリカにつき合ってバスラが安定するまで駐留することは、ほとんど不可能である。

 イギリスが、アメリカより先にイラクから撤退したら、英米協調は弱まり、イギリスはEUに頼らざるを得なくなる。それを見越したかのように、ブレアの後継者と考えられているゴードン・ブラウン蔵相は最近、EUを重視する新戦略を側近に描かせている。

 ブラウンが首相になるころには、イギリスの世論は今よりさらに反米的になり、アメリカとの協調路線を続けることはますます難しくなっているだろうから、新戦略が検討されるのは不思議ではない。

▼破られるユーラシア包囲網

 とはいえ、イギリスがEUにすり寄っても、EUで発揮できる指導力は限られている。東西統一後、ドイツは欧州での外交力を増加させている。イギリスにとって地政学的なライバルであるロシアでは、プーチン大統領が豊富な石油ガス資源を使って、EUに対する影響力を増やしている。

 ドイツとロシアの親密化は進んでいる。イギリスにとって、1939年の独ソ不可侵条約以来の危機である。

 イギリスは、ロシアの石油ガス攻勢に対抗するため、核好きのフランスなどに対し、新型の原子力発電所の共同開発の構想を持ち掛けたりしている。

 しかしその一方で、イギリスでは旧来の原発が出した核廃棄物の処理に政府が頭を抱えている。反原発運動は、欧州全域で根強い。原発の再開発の前途は困難に満ちている。イギリスはプーチンの攻勢に対抗できそうもない。

 ロシアは中国や中央アジア諸国とともに、ユーラシア大陸の多国間の安全保障組織「上海協力機構」を作っている。先日、上海で開かれた年次総会では、この機構へのイランの正式加盟が認められた。イランのアハマディネジャド大統領は、上海で反米的な演説を発し、胡錦涛やプーチンと相次いで会談した。

 以前の記事「非米同盟がイランを救う?」に書いたが、これでイランはユーラシアの「非米同盟」に組み込まれ、アメリカが政権転覆することは難しくなった。まだアメリカがイランに侵攻する懸念は残っているが、その場合、イラク以上のひどいゲリラ戦の泥沼にはまり、最終的に敗北するだろう。

 今回、インドとパキスタンなども上海協力機構のオブサーバーから加盟国になり、上海機構は、戦後の米英の世界戦略の基本だった「ユーラシア包囲網」を打ち破る勢いを得ている。その一方でユーラシア包囲網は、アメリカがイギリスを振り切って強硬派姿勢を貫いた結果、崩壊に瀕している。

 英米を中心とした先進国間の協調体制であるG8も、今年の議長はロシアのプーチンである。米政府が反ロシア的な論調を強めていることから、7月のロシアでのG8会議は、協調ではなく対立が目立つ会議になることが、ほぼ確定している。

 ここでも、イギリス好みの体制が崩れている。世界全体として、過去60年間続いてきた米英中心の国際協調体制が崩壊し、多極的な体制へと移行する流れが続いている。

▼日本の転換にもつながる

 日英豪がイラクから撤退しても、その後もアメリカはほぼ単独でイラク駐留を続けるだろうが、以前の記事に書いたように、米軍内部には占領の失敗を目的とするかのように、事態をわざと混乱させる勢力がいる。アメリカは単独での自滅的な駐留を何年か続けた後、疲弊して撤退するだろう。

 アメリカ経済は、景気の最大の支えである不動産バブルが崩壊しつつある状態が続いている。双子の赤字の増大によるドルの暴落を懸念する記事が米英の大手マスコミにも載るようになり、アメリカが占領に疲れてイラクから撤兵する前後に、ドル暴落が起きそうな流れになっている。

 アメリカは軍事、経済、外交のすべての面で、破綻の兆候を強めている。金本位制が崩れたベトナム戦争末期に似た症状である。

 日本にとっては、自衛隊のイラク撤収は、世界の多極化の流れに合わせて「対米従属」から「アジアの自立への協力」へと国是を変化させていく動きの始まりにつながるかもしれない。

 英米中心の世界体制が崩れて多極化が進むことは、日本にとって、終戦以来の大きな転換点となる。戦後の日本の国是は「対米従属」で、アメリカの世界覇権を前提にした国家運営をしてきた。アメリカの覇権が減退すると、日本は国是を変える必要がある。

 アメリカの方で考えてくれた日本の新しい国是は「中国などと一緒にアジアの自立を進める」というものだが、日本の側はこれまで、アメリカの覇権が減退することなど予測もしていなかった(私の多極化分析などは無根拠な話として片づけられていた)ので「日本がアジアに入ること」は「日本がアメリカに見捨てられること」と同義になってしまっていた。

 日本政府が、領土問題に対する従来の態度を微妙に変化させ、中国や韓国が反日に傾くことを誘発してきたのは、日本はアメリカに見捨てられたくないので、アジアの自立に協力することを拒否していたためであろう。

 しかし今後、このまま米英中心の世界体制が崩れて多極化していくと、日本の人々も、どこかの段階で、もうアメリカには頼れないことが分かり、中国や韓国などとの関係を改善し、アジアの自立に協力するしか方法がないことに気づくだろう。

 特に、米経済の消費が落ち込んだり、ドルが下落したりしたら、世界が転換していることが、人々の目にも明らかになる。転換はもはや、起きるか起きないかではなく、いつ起きるかという、時期の問題であると思われる。

2006年6月20日  田中 宇


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ムハンマドとはどんな人 [Middle East]

ムハンマドとはどんな人

デンマークの新聞が掲載して問題になった風刺画のもとになっている「ムハンマド」という人は、かって教科書で「マホメット」と習った人のことだと聞きましたが、そうなのでしょうか。

なぜ、ムハンマドと呼ぶようになったのでしょうか。日本では、政治家が風刺画にされても問題にならないのに、どうして今回は大きな問題になっているのでしょうか。ムハンマドとは、どういう人なのかも合わせて教えてください。

ムハンマド(570~632年)は、ユダヤ、キリスト教とならぶ三大一神教の一つであるイスラム教の開祖で、7世紀に唯一神アッラーから選ばれた「最後の預言者」として布教を行い、「神の啓示」を人々に伝えた人物です。以前は、「マホメット」と表記されました。表記が変わった理由は後段でお知らせします。

今回の騒動の原因となった風刺画は、爆弾をつけたターバンを巻いたムハンマドを描いたもので、デンマークの保守系紙ユランズ・ポステン紙が昨年9月に掲載しました。

ところが、イスラム教徒にとっては、「神の使徒」であるムハンマドの教えに従うことは重要な信仰の柱の一つであり、ムハンマドの言行は信者の規範にもなっています。

そのムハンマドが、爆弾を頭に巻いた「テロリスト」と戯画化されたため、イスラム教の一部の過激派だけでなく、一般の敬虔な信徒達も、自分達の信仰が冒涜されたと強い不快感を抱いたわけです。

イスラム教では、肖像画などは偶像崇拝につながるとの考え方が強く、そもそもムハンマドの肖像画を描くことが許されていません。

同じ一神教でも、イエス・キリストや聖母マリアを絵画に描いたキリスト教社会とは考え方に溝があります。

これに対して、欧州では、「表現の自由」の問題ととらえ、デンマーク紙の風刺漫画を他国のメディアが転載したり、新たな風刺画が登場したりして、イスラム側をさらに刺激しました。

一方、イスラム世界では、過激勢力がこの問題を利用し、抗議行動などを組織して影響力を強めようとする動きもあり、穏健派から懸念の声が出ているという側面もあります。

日本では、ムハンマドは長らく「マホメット」と表記されてきました。それは、日本のイスラム教への認識が当初、欧米の文献に基づいていたためだとみられています。

近代の欧米のイスラム研究は、中東を長く支配したトルコ系のオスマン帝国(1299~1922年)の時代と重なり、トルコ語なまりの固有名詞が当時の欧米の文献に採用されていました。

トルコ語でムハンマドは、なまりが混じって「メフメト」と聞こえます。それを欧米の研究者が
MAHOMETなどと表記し、日本語でもマホメットと定着したようです。明治から大正にかけて多くのムハンマド伝が出版されましたが、その多くに影響を与えた英国の批評家トマス・カーライル(1795~1881年)の「英雄崇拝論」は、やはりMAHOMETと表記しています。

しかし、イスラム教では、ムハンマドにアラビア語で下された啓示は神の言葉そのものと受け止められており、それを集大成した聖典コーランを、他の言語に翻訳することも本来は禁じられています。翻訳は便宜的に「注釈書」として許されているほど、アラビア語重視の宗教です。

日本では、70年代の石油ショックなどを通じて中東への関心が強まると同時に、アラビア語を学んだ研究者が増えたことなどを背景に、「欧米の目を通してではなく、直接中東を理解しよう」との反省が生まれ、その一貫として固有名詞についても原音に近い表記を用いる傾向が強まりました。

欧米でも既にムハンマドに相当するMUHAMMADといった表記となっています。

いつの間にか「ムハンマド」の表記が定着したのには、こうした背景があり、最近では「ムハンマド(マホメット)」と表記する教科書も出ているようです。


2006.3.5 産経新聞

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イスラム過激派を強化したブッシュの戦略 [Middle East]

 イスラム過激派を強化したブッシュの戦略

 イスラエルの政界で「右派外し」や「総中道化」の動きが続いている。

 イスラエルでは1995年にラビン首相が暗殺されて中東和平合意が崩壊し始めて以来、それまで強かった中道左派(労働党)に代わり、右派(リクード)が台頭した。イスラエルでは、左派はアラブ側との和解を目指し、右派はアラブ側の追い出しや弱体化を目指している。

 2001年の911後、ブッシュ政権がアラブ・イスラム世界との「テロ戦争」や「中東民主化」を始めたことにより、アメリカとイスラエルが一心同体となってアラブ側と戦う体制ができあがり、イスラエル政界における右派の優位は不動のものになったかに見えた。

 だがそれから3年後、イラク占領が泥沼化した上、アメリカがイラクの「大量破壊兵器」などに関してウソをついて戦争を始めたことが明らかになったため、中東全域で反米感情が強まり、イスラム過激派への支持が増えた。

 この新展開を受け、アメリカとイスラエルとの反アラブ同盟は、イスラエルの側から崩壊した。イスラエルのシャロン政権は、ガザの占領地からの撤退を決め、与党リクード内の右派からの反対を押し切って今夏、撤退を実現した。

 シャロンがガザ撤退を決めたのは、アラブ側がどんどん過激化してイスラエルへの敵対を強めている一方で、イラクから撤退していくアメリカは、中東の問題を仲裁できる信頼力と意欲を低下させているからだ。

 イスラエルは、早くパレスチナ人などアラブ側と何らかの和解協定を結ばない限り、過激化したアラブと長期の消耗戦を強いられて衰退する懸念が大きくなっている。

 ガザ撤退は実行してみると、イスラエル国民にかなり支持されていることが分かり、撤退に反対したリクード右派勢力への支持は急速に減退した。政治力の維持拡大を目指すシャロン首相は、この政局の勢いを活用し、11月にリクードを脱党し、新政党「カディマ」を作った。

 イスラエルの政界は従来、リクードは右派、労働党は左派という二大政党体制だったが、シャロンは「アラブ・パレスチナ側との交渉を進めた方が良い」と考える左右両派の勢力を総結集することを目指し、二大政党制を破壊し、新たな中道政党を作った。

 新政局を受け、イスラエルでは来年3月に前倒し総選挙が行われることになった。この選挙でカディマが与党の座を維持できたら、その後のシャロン政権は、西岸とゴラン高原という、ガザ以外の占領地域にある入植地も撤退させ、パレスチナ側との国境線(隔離壁)を確定し、パレスチナ新国家の建設を認める方向に動くだろう。

 シャロンは「カディマの目標は、パレスチナとイスラエルの間の恒久的な国境線を確定することだ」と明言している。

▼シャロン離脱後のリクードも右派外し

 シャロンとその支持者が去った後のリクードでは、12月20日に新党首選挙が行われ、ガザ撤退に反対していたネタニヤフ(元首相)が党首となった。ネタニヤフは、右派政党としてのリクードの方向性を明示し、党の建て直しをはかるだろうと予測されていた。

 ところが党首になったネタニヤフは、予想とは逆に、党内の最右派の勢力を切り捨て、中道色を強めようと動き出した。党首になったネタニヤフが最初にやろうとしたことの一つは、リクード内でガザ撤退に最も強く反対していた宗教系右派の指導者モシェ・フェイグリンを党内から排除することだった。

 フェイグリンは「イスラエルが占領地を獲得した1967年の六日戦争の勝利は、神の意志なのだから、占領地から撤退してはならない」「聖書に書いてあるとおり、神はイスラエルに与えた領土は、ナイル川(エジプト)からユーフラテス川(イラク)までの大イスラエルである」と主張し、90年代にオスロ合意に反対する運動を先導して有名になった。入植運動にたずさわるイスラエル人の多くが、彼の思想に賛成している。

 フェイグリンは、与党リクードを乗っ取ることを目指し、入植者たちにリクードへの入党を勧め、1999年からの6年間に1万人を入党させた(総党員数は20万人)。活動家たちの流入によって与党は右傾化を強め、行政や軍隊の日々の行動にも反映された。

 欧米が入植住宅地の縮小やパレスチナ人弾圧の軽減をイスラエルに求め、イスラエル政府はそれを了承しても、住宅省や軍隊の中に入り込んだ活動家たちは正反対の動きをする、という状態になった。シャロン政権がガザから入植地を撤去することを決めたのに対し、フェイグリンは右派軍人に「撤去活動の命令に背け」と呼びかける運動を展開していた。

 しかしフェイグリンは今や、スケープゴート的に、リクード内部ですら排除される状況にある。リクード内のガザ撤退反対派の代表格だったウジ・ランダウも、フェイグリンをリクードから排除するネタニヤフの意向を支持する表明をした。

▼右派が勝てなくなったイスラエル政界

 イスラエルの軍と入植者が撤退した後のガザは、なかなか平和にならず、むしろイスラエルが撤退したのをいいことに、アラブの過激派はエジプトからガザにロケット砲を持ち込み、イスラエルを砲撃し始めた。以前のネタニヤフなら「シャロンのガザ撤退は、イスラエルを平和にするどころか、危険にさらしている」と批判しそうなところだ。

 また、リクードが極右を切り捨てて中道派政党になってしまうと、シャロンの与党カディマとの違いがなくなり、政党として自殺行為だという見方もある。ネタニヤフ自身、党首になる直前には、そのような主旨の発言をしていた。

 にもかかわらず、ネタニヤフは極右を切ってリクードを中道化しようとしている。それは、アラブ側でイスラム過激派が力をつけ、もはやイスラエルにとって「アラブ側と戦い続け、拡大し続ける」という右派の方針が実現不可能になったからだと思われる。

 今ではイスラエルの世論も、右派のやり方は危険すぎると考えている。リクードの指導者の中には「来年3月の選挙は、右派の方針を掲げる勢力は勝てない。中道派(centrist)しか勝てないだろう」という見方がある。

 ネタニヤフは1996年に首相になった選挙の際、急速に拡大していたフェイグリンの右派勢力を味方につけるため、オスロ合意に反対する姿勢をとった。

 フェイグリンは「ネタニヤフは、あのとき私のおかけで首相になれたのに、今や私を抹殺しようとしている」と批判している。政治の風向きに敏感なオポチュニストであるネタニヤフにとって、フェイグリンはもはや「用済み」なのだろう。

▼エジプトの選挙で反イスラエル派の伸張

 フェイグリンら右派がイスラエルで用済みにされるのは、おそらく、中東諸国におけるイスラム過激派がここ半年ほどの間に、意外な早さで伸張していることと関係している。

 たとえばエジプトでは、11月から12月にかけて行われた議会選挙の結果「イスラム同胞団」を支持する候補者が、議会の約20%の議席を占めるに至った。エジプト政府は、イスラム同胞団の政党活動を禁止しているが、同胞団の活動家たちは無所属として立候補し、同胞団は候補者を立てた選挙区の6割で当選を勝ち取っている。

 投票日には、政府系の治安組織(準警察官)が、同胞団の支持者が多い選挙区の投票所の入り口に陣取って投票を妨害するなど、政府ムバラク政権は何とかして同胞団系の候補者の当選を阻止しようと手を打った。

 それらの制限を受けながらも同胞団が20%の議席を獲得したということは、今後もし同胞団が合法化され、すべての選挙区に候補者を立て、投票妨害も行われなくなった場合、エジプト議会の議席の半分前後が同胞団によっておさえられる可能性がある。ムバラク政権は、今回の選挙では議席の7割を取ったものの、前途は急に暗くなっている。

 イスラエルにとって、南隣のエジプトは非常に重要な国である。ムバラク政権は親米で、イスラエルとも国交を結んでいる。シャロンのガザ撤退に際しても、エジプトはイスラエル側が撤退した後のガザに顧問団を派遣したり、ガザのパレスチナ人警察を訓練したりして、シャロンに協力している。

 今後、ムバラク政権が倒れてイスラム同胞団の政権ができたら、イスラエルにとっては壊滅的な結果をもたらしかねない。

 イスラム同胞団の幹部は選挙後、エジプトがイスラエルと国交を持ち続けるかどうか、国民投票を行うべきだと主張した。
 
 同胞団は昔からイスラエルを敵視しており、エジプトの有権者の中に同胞団の支持者が増えていることは、イスラエルを嫌う有権者が増えていることを意味する。同胞団が大きな政治勢力となり、実際に国民投票が行われれば、エジプトはイスラエルと断交することになりかねない。

▼パレスチナではハマスが台頭

 イスラエルのお膝元にあるパレスチナでは、イスラム同胞団と親しい関係にあるイスラム過激派勢力「ハマス」が勢力を急増させている。

 12月22日に発表された世論調査によると、パレスチナ人のうちハマスに投票しようと思っている人は40%以上であるのに対し、与党のファタハ(PLO主流派)に投票するつもりの人は20%しかいない。イスラエル側の別の概算では、ハマスはすでにパレスチナ人の60-70%に支持されている。

 1990年代から政党としての活動をしているハマスは、以前は支持者のほとんどがガザに限定され、西岸には支持者が少なかった。ところが12月中旬に行われた地方議会選挙では、西岸の主要都市であるナブルスで、ハマスは投票総数の73%の得票を得ている。

 パレスチナ人は、イスラエルの言いなりになるばかりで状況を改善できず、しかも腐敗しているファタハから離反し、ハマスに鞍替えしている。

 パレスチナでは来年1月に国政議会選挙が予定されているが、このままでは与党のファタハが負けてしまう。そのため、ファタハを率いるマフムード・アッバス議長(パレスチナ自治政府のトップ)は、選挙を延期することを考えている。

 この選挙はもともと今年7月に行われる予定だったが、ファタハが勝てそうもないので、すでに一度延期されていた。このままでは再び延期してもファタハは勝てず、アッバスの人気も下がり続けているので、アッバスは辞任を考えているとイスラエル側は分析している。

 アッパスが負けてハマスが政権をとる事態を避けたいイスラエル側は、アッバスに選挙を延期できる口実を作ってやった。イスラエル政府は最近「1月の選挙では、東エルサレムでの投票を許可しない」と発表した。エルサレムの東半分は、国連の取り決めではパレスチナ国家の首都になる予定の地域だが、イスラエルは東エルサレムをパレスチナ人に割譲することを拒否している。

 東エルサレムでの投票禁止は、この流れに沿った決定だが、イスラエルは同時に、アッバスが「東エルサレムで投票が許可されないので、投票を延期せざるを得ない」と、イスラエルに責任を押しつけて投票を延期できる口実を作ってやったことになる。

 その一方で、イスラエル政府(軍)内からは「ハマスは、今はイスラエル国家の存在を否定しているが、今後政権をとったら、パレスチナ人の代表としてイスラエル側と交渉しなければならなくなるので、イスラエル国家の存在を認めるだろう。

 責任ある立場についたら、ゲリラやテロの活動も止めざるを得ない。ハマスは政権をとることで穏健化する可能性が大きい」とする分析が発表されている。イスラエル政府は従来、ハマスを「テロ組織」と非難してきたが、ハマスが政権をとったらシャロンはハマスと交渉せざるを得ず、そのための理論武装が始まっている。

▼イラクでもイスラム主義が圧勝

 アメリカの占領下にあるイラクでは、12月15日に議会選挙が行われたが、選挙結果は、イスラム主義勢力の圧勝だった。隣国イランの政府の調べによると、新生イラク議会の275議席のうち、過半数の140議席はシーア派のイスラム主義勢力がとった。

 60議席をクルド人が、40議席をスンニ派がとったが、シーア派とクルド人はいずれもイランと親しい勢力である。

 選挙の結果、新生イラクは、アメリカとイスラエルの仇敵である親イランの色彩が強い国になることが、ほぼ確実になった。イラクで来年早々に樹立される新政権は、アメリカやその他の外国軍に早期撤退を求めそうだという予測が、米軍からも出されている。

 イスラエルの北側にあるシリアとレバノンでも、イラン系の過激派勢力「ヒズボラ」が力を増し、イスラエルに対する攻撃を再び強めている。

 シリアは、レバノンのハリリ元首相を暗殺したという容疑(おそらく濡れ衣)でアメリカやフランスから圧力をかけられ、経済制裁を受けそうになっている。

 その分、シリアは、産油国で資金的余裕があるイランに頼る傾向が強まり、同時にシリア国内では、自国がイラクのように政権転覆されて無茶苦茶にされることへの怒りから、反米意識が強まっている。

 以前のシリアは政治改革など親米の方向に少しずつ進んでいたのに、米政府が、シリアにハリリ暗殺の濡れ衣を着せて政権転覆すると圧力をかけたため、反米・親イランに変質しつつある。

 エジプトとシリア、パレスチナの間にあるヨルダンは、親米・親イスラエルの方向性を保っているが、ヨルダンの人口の大半はパレスチナ人なので、エジプトとパレスチナでイスラム過激派が強くなれば、ヨルダンでもメッカ出身の「よそ者」の傀儡王室を倒し、パレスチナ人のハマス系の政府を作ろうとする動きが起きると予想される(ヨルダン王室が倒れた場合、パレスチナとヨルダンが統合して「大パレスチナ」になる可能性が増す)。

 こうしてみると、イラン、イラク、シリア、パレスチナ、ヨルダン、エジプトという、イスラエルの北と南につらなる中東諸国の多くで、反米・反イスラエルの主張を掲げるイスラム過激派の力が強くなっていることが分かる。

 イスラエル右派が「神様がイスラエルに与えた土地だ」と主張する「ナイルからユーフラテスまで」の全地域が、すでにイスラエルを敵視する人々の領土、もしくはその予備軍となっている。

▼やってはならなかった「本気の中東民主化」

 中東諸国にイスラム過激派が存在すること自体は、イスラエルもこれまで望んできたことであり、イスラエルはむしろ過激派を挑発するような言動をとってきた。

 イスラエルや、米政府内のタカ派の扇動によって、中東諸国の内部で過激派が台頭し、中東の世論は過激派を支持する傾向を強める。

 しかしその一方で、中東諸国の多くの政府は、アメリカに敵視されたくない、できれば親米国として認められ、欧米の投資家と仲良くして経済成長の恩恵にあずかりたい、と考えている。

 このように政府と世論が離反した状態が続くと、政府は国民に支持されない弱い存在になり、アメリカの軍事力や経済援助に頼らざるを得ず、アメリカとイスラエルの傀儡となる。

 政府が傀儡である限り国民の中には反政府感情が残り、政府の弱さが維持され、アメリカやイスラエルの言いなりになる状態が続く。

 エジプトやヨルダンは1970年代以来、この状態である。シリアや最近までのイランも、ある程度の改革を実行して欧米との関係を正常化したいと考えており、半分このパターンにはまっていた。

 米政府は、中東諸国の政府が民主化や自由選挙をやりたがらないことを批判し続けてきたが、中東諸国に本当に民主化をやらせようとは考えていなかった。

 本気で選挙をしたら、アメリカの傀儡政権が負け、代わりに反米政府が結成される可能性が高いからだった。「民主化」は、中東諸国に圧力をかけるための「かけ声」にすぎなかった。

 そんな状況を変えたのは、911後に「中東民主化」の戦略を掲げたブッシュ政権だった。従来の歴代政権がポーズだけ行っていた民主化(実は傀儡化)を、ブッシュは本気の民主化に変えてしまった。

 アメリカの圧力によって中東各地で本気の選挙が行われた結果、イスラム過激派が選挙で権力を持ち始めている。イラクを民主化するといって軍事侵攻し、その結果反米のイスラム主義者たちを選挙で圧勝させる結果になっているのが、最大の例である。

 今年11-12月に行われたエジプトの議会選挙も、ブッシュ政権が民主主義を実行せよとムバラクに強い圧力をかけた結果、実施されたものだ。

 アメリカは、英米型の自由市場の経済政策を実施すべきだと主張する非宗教系の民主派をテコ入れしたが、彼らは選挙でほとんど議席をとれず、完敗した。

▼失敗と分かっても中東民主化をやめないブッシュ

 現状がイスラエルにとって非常に危険なのは、中東で本気の民主主義をやり続けると、反米・反イスラエルのイスラム過激派の政権ばかりになるということが、誰の目にも明らかになっているにもかかわらず、いまだにブッシュ政権は「中東民主化」の方針を全く変えようとしていないからだ。

 イスラエル政府は、12月初めに米政府と行った戦略対話の会議などの場で、シリアのアサド政権を潰さない方が良いと表明したり、エジプトのムバラク政権に民主化せよと圧力をかけ続けるとイスラム同胞団の力を拡大させるばかりなのでやめた方がよいと要請したりしている。

 イスラエル側では、ブッシュの中東民主化戦略は、イスラム過激派を増長させるばかりで、イスラエルの安全を脅かしているという懸念が高まっている。

 ところが、この懸念に対してブッシュ大統領が放った答えは「中東で民主主義を拡大していくほど、イスラエルの将来は安泰になる。イスラエル支持者は、中東民主化に協力した方が良い」という発言だった。アメリカは、イスラエルの要請を拒否し、中東に民主主義を広め、イスラム過激派を強化している。

 なぜブッシュ政権は、反米・反イスラエルの勢力を強化するような中東民主化を、いつまでも続けるのだろうか。以前の記事に書いたように、ブッシュ大統領自身は「神様は、中東を民主化するために私を大統領にした」と神がかり的に信じ込んでいると指摘されており、中東民主化は危険だと側近やイスラエルに言われても無視し、頑固な態度をとっているとも考えられる。

 しかし、神がかりになっていないブッシュ以外のホワイトハウスの高官たちは、ブッシュにうまく提言し、方針を微妙に変えることができるはずだ。

 たとえば2002年には、ブッシュはパウエル国務長官の助言を聞き入れ、それまで国連と関係なくイラクに侵攻しようと思っていた方針を変え、イラク問題を国連に持ち込んでいる。

 ブッシュ自身は国際情勢に無知なので、側近がブッシュにうまく言えば「中東民主化」をイスラエルの脅威にならないものに変質させることは難しくないはずだ。

▼真の目的はイスラエルの弱体化?

 ところが実際には、そのようなことは行われておらず、イスラエルは脅威にさらされている。このことから推測できるのは、おそらく今のブッシュ政権の中枢には、イスラエルを弱体化させたいとひそかに思っている勢力がいるのではないかということである。

 米政界ではAIPACなどイスラエル系の圧力団体が強く、連邦議会の議員たちは、イスラエルに楯突くような言動をすることがほとんどできない。

 ここ20年間ほど、アメリカではイスラエルに楯突く態度をとった人は大統領になれない状態だ。次の大統領を狙っていると思われるヒラリー・クリントンなどは、何度もイスラエルに行き、露骨な親イスラエルの態度を取り始めている。まさに、米政界はイスラエルに牛耳られている。

 このような状況を変えたいとひそかに思っている勢力は、米政界の中に多いはずである。彼らは、機会があれば、イスラエルから名指しされないようにしつつ、イスラエルを衰退させたいと思っているはずだ。

 すでに述べたように「中東民主化」は、あまり強く推し進めなければ、アメリカとイスラエルにとって傀儡を増やせてプラスになる。だからブッシュが2002年に中東民主化の戦略を打ち出したとき、イスラエルも米政界も、ブッシュの戦略を礼賛した。

 しかしその後、中東民主化がイスラム過激派を助長する結果になってくると「ブッシュは頑固な信仰に基づいて中東民主化をやっており、側近の忠告も聞かない」という話がまことしやかにマスコミにリークされ、イスラエルの要請は無視されている。これは、巧妙なイスラエル潰しの戦法であるとも思える。

 以前の記事で述べたように、イスラエルと米英政界の主流派との関係は、良いように見えて、実は100年の暗闘状態にある。ブッシュの頑固な中東民主化によってイスラム過激派が強化されているのも、その暗闘の一つであると思われる。

 イスラエルには、アメリカしか後ろ盾がない。ブッシュ政権が、ひそかにイスラエルを弱体化させようとしている勢力によって隠然と動かされていることは、イスラエルの指導者たちにとって、非常に恐ろしいことである。

 シャロンがアラブとの和解を求めてリクードを去り、その後のリクードもシャロンの後を追って中道派に転向している背景には、おそらく、アメリカが隠然とイスラエル潰しに動いていることがある。

 アメリカに頼れない以上、イスラエルに残されている選択肢は、占領地から撤退し、アラブを含む国際社会から非難されない「いい子」に変身して、何とか国家的な存続を許される状態にするしかない。もはやイスラエルには、アラブ側を敵視することが許されなくなっている。

 イスラエル右派は、アメリカの軍事産業やキリスト教原理主義勢力と組み、過去30年間、アメリカ政界を揺さぶり続け、アメリカの世界戦略を動かしてきた。

 イスラエル右派が衰退したら、その後のアメリカは外交方針を転換させていく可能性が大きい。つまりイスラエルの動向は、日本を含む世界の人々にとって、非常に重要である。そう考えて、私はイスラエルのことを何度も記事にしてきた。

▼「ホロコースト」との関係

 アメリカの中枢で、ひそかにイスラエルを衰退させたいと思っている勢力は、中国やロシアを強化した「多極主義者」と同じものだ。彼らは、最近イランのアハマディネジャド大統領が、反イスラエル的な発言を繰り返していることに対しても、ひそかにほくそ笑んでいるに違いない。

 アハマディネジャドは、ホロコーストに関しても「作り話(myth)である」「それを信じない者が欧州で牢屋に入れられるのはおかしい」「ホロコーストは欧米人が起こしたことなのに、その再来を防ぐためのユダヤ人国家が中東に作られ、パレスチナ人が苦しんでいる。イスラエルは、欧米のどこかに移転すべきである」といった発言を繰り返している。

 前回の記事も踏まえつつ、

(1)ホロコーストの喧伝が、イスラエル右派をイスラエルとアメリカの政界で 勢力を拡大することを可能にした重要な原動力の一つだったこと、

(2)米政界に、イスラエルを弱体化させたい勢力がいそうなこと、

(3)アハマディネジャドがパレスチナ問題と絡めてホロコーストの事実性を疑う発言をしたことにより、イスラム世界にリビジョニストを支持する動きが始まりそうなこと、

(4)欧米がイランを経済制裁しても、中国やロシアがイランを助けるので制裁の効果が薄いこと、

などを考えると、多極主義者とイスラエルの戦いが、ホロコーストの事実性をめぐる戦いにも及んでいる感じがする。

 すでに記事が非常に長くなってしまったので、このあたりの詳しい話は、改めて書くことにする。

2005年12月28日  田中 宇

 


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アメリカの機密漏洩事件とシリア [Middle East]

アメリカの機密漏洩事件とシリア

 前回の記事「シリアの危機」で、シリアのガジ・カナーン内務大臣の死亡について、シリア政府が発表しているような自殺ではなく、アサド大統領の親族の指令で殺されたのではないか、という可能性について書いた。その後、この可能性をさらに高めるような出来事が起きている。

 シリアのファルーク・シャラ外相は10月13日、カナーン内相の死の翌日に行われた国葬で、弔辞を読んだ。その中でシャラ外相は、2度にわたり、カナーンの「自殺」と言うべきところを「暗殺」と言った。

 最初の言い間違いはそのまま読み流され、2度目の言い間違いの際は「暗殺」と言った後「すみません」と言い「自殺」と言い直した。

 それだけではない。検事総長のムハマド・アルロージ(Muhammad al-Louji)も同じ日、検死結果を発表するための、テレビ中継された記者発表で、シャラ外相と同様の言い間違いをしている。

 アルロージは発表の中で「内務相の事務室で発生したこの殺人、いや間違いました暗殺は・・・」と述べ、それがそのままシリア全土に放映された。

 言い間違いをしたのが一人だけなら、単なる言い間違いだったと考えることもできるが、同じ日に2人の政府高官が、全国民が聞いている発言の中で、同じような間違いをするということは、シリアが独裁で言論統制が厳しい国であることを考えた場合、2人の高官は全国民に隠れたメッセージを発したのではないかと疑うべきである。

 少なくとも、シリア人の多くはそう考え、親近者どうしの会話の中では、皆がこの件について話していると思われる。

 シリア政府全体としては、カナーンの死は「自殺」であると決定されている。外務大臣と検事総長がその決定に不満を持ち、結束してシリア国民に対し「自殺説は間違っている」というメッセージを発したのだとすれば、それはシリア政府の中枢で重大な対立が起きていることを示唆している。

 前回の記事で分析したことをふまえれば、対立は、アサド大統領の弟や従兄弟らアサド家の息子集団と、亡き父親の側近だった古参幹部集団との間で起きていると考えられる。

▼アメリカの内部でも激化する権力闘争

 シリアの中枢で内紛が起きていることがしだいに明らかになってきたが、その一方で、シリアと敵対するアメリカの中枢でも、シリア対策を一つの材料として、内紛が激化しているふしがある。

 ブッシュ大統領は、イラクから米軍を早期に撤退させることを否定する一方で、シリアやイランなど、イラクの近隣諸国との敵対関係を激化させている。

 これに対し、共和党と民主党の二大政党の両方の上院議員ら上層部の中から「ブッシュのやり方をこれ以上黙認すると、アメリカは外交的、財政的に破綻してしまう。ブッシュに強硬な戦略を止めさせ、方針転換させる必要がある」という主張が出てきて、その声はここ1カ月ほどの間に急速に強まっている。

 しかし、与党共和党の上層部がいくら忠告しても、ブッシュは全く聞き入れていない。逆にブッシュは最近、イラク占領や「テロ戦争」「中東民主化作戦」は今後も長引き、冷戦のように何十年も続くかもしれないという見通しを繰り返し述べ、イラクからの早期撤退を否定する発言を続けるとともに、イランとシリアを名指しで非難する傾向を強めている。

 二大政党の上層部は、しだいに「反ブッシュ」の傾向を強めており「ブッシュが方向転換を拒否するなら、スキャンダルで政治的に痛めつけ、言うことを聞かせるしかない」と考える方向にあるようだ。

 その中で出てきたのが「ホワイトハウスの高官が、イラク侵攻をめぐるウソを隠すため、違法な機密漏洩を行った」とするスキャンダルである。

▼慎重派の巻き返しとしての機密漏洩事件

 この事件は、米軍がイラクに侵攻する何カ月か前に、国防総省とホワイトハウスが「イラクはアフリカのニジェールからウランを買い、核兵器を開発しようとしている」と主張し始めたことに始まる。

 この主張の証拠として、政権中枢の好戦派は、イラクがニジェールからウランを買い付けた際の契約書と称する文書を出してきた。この文書はニセモノで、しかもレターヘッドや署名を見れば、すぐにニセモノであると分かるような代物だった。

 ブッシュ政権中枢には「ニセモノを証拠として戦争を始めるのはまずい」と主張する慎重派の勢力も多く、彼らはジョセフ・ウィルソンという元駐ニジェール大使に命じ、ウランの契約書と称する文書がニセモノであることを立証させた。

 好戦派は、ウィルソンの動きを止めるため、彼の妻であるバレリー・プレイムが、CIAのエージェントであることを暴露する情報を、いくつかのマスコミにリークして書かせた。

 プレイムは、ロシアや中国など世界の核兵器の開発配備の動向探査などの秘密の任務をこなすためにCIAが作ったフロント企業「ブルースター・ジェニングス社」に勤めていたが、ニューヨークタイムスなどの報道によって、ブルースター社がCIAの会社であるという秘密が世界に暴露され、CIAは世界の核兵器の動向を探るための大切な組織を事実上潰されてしまった。

 CIAは慎重派の牙城であり、好戦派の牙城である国防総省から目の敵にされており、好戦派はCIAを潰し、それに代わる諜報機関を国防総省に新設しようとしていた。CIAの情報網を潰すことは、その戦略の一環でもあった。

 イラクのニジェールウラン問題は、イラク侵攻の2カ月前にブッシュ大統領が発表した2003年の年頭教書演説にも盛り込まれ、アメリカがイラクを侵攻する大義名分として使われた。

 ブッシュが好戦派の言うことしか聞かなくなり、好戦派が慎重派を圧倒する中で、イラク侵攻が挙行され、それと前後してCIAを弱体化させる諜報機関の再編成が行われ、米中枢の対決には勝負がついたかに見えた。

 だがその後1年、2年とたつうちに、イラク占領は泥沼化し、戦死者と戦費の拡大に歯止めがかからない状態になり、おまけにニジェールウラン問題がウソの文書に基づいた主張だったことも広く問題にされるようになり、好戦派の旗色が悪くなった。

 こうした形勢転換の中で、米政界の慎重派は、今年の初めあたりから「プレイムはCIAのエージェントだと暴露した政権中枢の人物は、CIAのエージェントの正体を暴露することを禁じた法律に反している。人物を特定して訴追すべきだ」いう主張を展開して議会を動かした。

 その結果、暴露した人物として、ブッシュ大統領の選挙参謀であるカール・ローブや、チェイニー副大統領の側近であるルイス・リビーなどの名前が挙がるようになった。最近では、彼らは間もなく訴追されるとか、リビーの上司であるチェイニーの責任も問われるだろう、といった予測記事が出てきている。

▼エルバラダイのノーベル平和賞も権力闘争の一つ

 アメリカの情報漏洩スキャンダルの本質は、米中枢の慎重派が好戦派を追い出し、イラクからの早期撤退や、財政赤字の拡大の阻止などを行って、アメリカが自滅するのを防ごうとする動きの一つである。

 こうした動きがあることを踏まえつつ眺めると、シリアやイランとアメリカとの対立をめぐるいくつもの話が、より深い意味を帯びて立ち現れてくる。たとえば、IAEA(国際原子力機関)のエルバラダイ事務局長が、ノーベル平和賞をもらった話がそうだ。

 エルバラダイは、ブッシュ政権がイラクとイランに対して「核兵器開発している」と主張していたのはウソであることを、IAEAの報告書というかたちで暴露した人である。ブッシュ政権は今年の初め、彼がIAEAの理事長に再任されることに反対していた。

 エルバラダイの授賞の背景にはおそらく、アメリカの好戦派を嫌うヨーロッパ諸国の上層部が、暴露によって好戦派の戦略をくじいたエルバラダイの果敢な行動を「世界平和に貢献した」と賞賛している、という意味がある。

 ベネズエラのチャベス大統領も、今年のノーベル平和賞の最終候補者163人の中に入っていたと報じられたが、チャベスはエルバラダイよりもっと過激な反ブッシュの人である。

 チャベスは、国連総会などの国際会議で演説するたびに「ブッシュ政権こそ、世界平和を壊すテロリスト集団である」といった発言を繰り返し、世界のイスラム教徒や中南米諸国の人々から喝采されている。

 ノーベル賞の選定は、ヨーロッパ上層部の人々が中心になっているが、彼らは独仏がイラク侵攻に反対したことに象徴されるように、アメリカの慎重派の味方である。彼らも、チャベスのブッシュ非難を聞くと気分がすっきりするのかもしれない。

▼国連報告書の偽証をめぐる戦い

 アメリカの好戦派と慎重派は、イラク侵攻前に展開した闘争とほとんど同じことを、シリアをめぐっても繰り返そうとしている。

 レバノンのハリリ前首相暗殺事件に対し、国連がメフリス調査団を結成して捜査していることは前回の記事に書いたが、アメリカの好戦派はメフリス調査団にアメリカ人の捜査要員(FBI)を送り込み、調査の歪曲をはかった。

 メフリス調査団は、アメリカ人捜査員の勧めで、モハメド・シディク(Mohammed Siddiq)という、フランスに逃げてきた元シリア将校に事情聴取した。

 シディクは、レバノン駐在のシリア軍諜報機関の要員で、聴取に対し「シリア政府の機関は事件前、ハリリを殺害する計画について検討する会議を開き、私もそこに参加していた」と証言した。メフリスの捜査報告書は、シディクの証言を根拠の中核に据え、ハリリを殺害したのはシリア政府だと指摘するかたちになっていると報じられている。事)

 ところがその後、シディクはウソの証言をしているという指摘があちこちから出てきた。シリア政府は、シディクはシリア軍内で不正行為をした容疑で拘束され、軍事法廷にかけられていたが、拘置所から脱獄してフランスに逃げた人物であり、逃げおおせるためには何でも言う状況にあるので信用するなと国連に通告した。

 レバノン政府も「シディクは偽証している」として逮捕令状を出し、フランス当局は10月17日、シディクを逮捕したと発表した。

 この展開を受け、国連のアナン事務総長は「メフリス調査団は、外部から政治的な圧力を受けている」と警告した。APやロイターは、アナンが言う「圧力」とはシリアやレバノン政府からの圧力であると解釈する記事を出しているが、これは故意に歪曲した解釈だろう。シリアやレバノンの政府は弱く、国連に圧力をかけられる立場にない。メフリス調査団に対して最も圧力をかけている国はアメリカである。

 おそらく、シディクを使ってメフリス報告書を歪曲し、シリア政府がハリリを暗殺したという結論にさせようとしたのはアメリカの好戦派で、これを知った慎重派は、アナン事務総長と組み、シディクが偽証していることを暴露し、報告書の歪曲を防ごうとしている(国連は好戦派にひどい目に遭っているので慎重派に味方している)。

 10月21日に発表される予定の調査報告書がどのような中身になるか分からないが、この報告書には政治闘争の結果が反映されることは間違いない。

▼スキャンダルを和らげるためニセの和解情報を流す

 もう一つ、シリアをめぐる話でアメリカの慎重派と好戦派の対立の結果だと思われるものは、前回の記事の終わりに書いた「アメリカがシリアを許す方向で秘密交渉が行われている」という情報である。この情報がイギリスの新聞の特ダネで報じられた後、シリア政府は「事実ではない」と否定した。

 アメリカの側でも、共和党の穏健派(慎重派)が最近シリアを訪問し、シリアの高官と会談して和解の可能性を模索したことは事実だろうが、ブッシュ政権の側はシリアとは交渉しないという態度を貫いており、緊張が緩和される見通しはない。

 誰が「アメリカがシリアを許す方向で交渉している」という情報をマスコミに流しているのかを見ると、この情報はむしろ、ブッシュ政権が、本当はシリアを許す気などないのに、それを隠して「許すかもしれない」と人々に思わせるために発せられたものではないかと思われてくる。

 前回の記事で紹介したアメリカのシリア研究者ヨシュア・ランディスによると、アメリカとシリアが交渉しているという情報は、国連で働いている「B」という人物が、最近、米英のマスコミに対して流していた。

 このB氏は、以前から「イラクの大量破壊兵器は、実はシリアに持ち込まれていた」とか「シリアはパキスタンの支援で核兵器を開発している」「シリアはアルカイダを訓練している」といったウソ情報を流し続けていた人物だという。

 以前の情報漏洩のパターンから考えると、B氏は好戦派のエージェントのようだが、好戦派が今回、ブッシュ政権はシリアと和解するかもしれないと思わせる情報をばらまいているのだとしたら、その理由は、ブッシュ政権が機密漏洩スキャンダルで慎重派から痛めつけられているので、慎重派に「ブッシュは好戦的な作戦を止めたのかもしれない」と思わせてスキャンダル攻撃を和らげさせるため、ウソの和解情報を流したのではないかと考えられる。

2005年10月18日  田中 宇

 


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シリアの危機 [Middle East]

 シリアの危機

 10月12日、シリアの内務大臣であるガジ・カナーンが、大臣室で死亡した。シリアの国営通信社は自殺であると報道し、シリア政府関係者は、拳銃で自殺したと述べている。

 カナーンは1982年から2002年までの20年間、シリア軍の諜報機関のレバノン駐在代表をしていた。レバノンは1982年に南隣のイスラエル軍がアメリカ軍を巻き込んで進駐し、傀儡政権を樹立しようとしたが、

 テロ攻撃を受けて米軍が撤退し、その後イスラエルも撤退した。イスラエルの力が弱くなるのと入れ替わりに、東隣のシリアの支配力が強くなったが、約20年間におよんだレバノン支配をずっと現地で指揮していたのがカナーンだった。

 【アメリカの政権中枢では1980年代以来、イスラエルのためにアメリカの外交を変容させようとするリクード右派のユダヤ系勢力が伸張し、彼らの権力拡大を防ごうとする主流派(中道派)と隠然と対立してきた。

 1982年の米軍のレバノン侵攻は、レーガン政権の成立に寄与したイスラエル系勢力が政権中枢に入り込み、米軍をイスラエル軍のために働かせ、レバノンをイスラエルの傀儡国家にするための戦略だった。

 この侵攻が失敗した後、レーガン政権内では「イラン・コントラ事件」などのスキャンダルを通じて主流派が巻き返したが、彼らはシリアのレバノン支配を容認することで、イスラエルの再拡大を防いだ】

 カナーンはシリアのレバノン支配の頂点に長くいたため、今年2月にレバノンのラフィク・ハリリ前首相が暗殺された事件への関与が疑われていた。

 2003年3月のイラク侵攻直後から、アメリカは「次はシリアだ」と言わんばかりに、フランスなども誘い、シリアに対して「レバノンから撤退せよ」と圧力をかけ続けている。

 この過程で、それまでシリアに支配されていたレバノン内政が混乱し、その中でハリリは暗殺された。暗殺事件の発生を受けて、アメリカはさらに強くシリアにレバノン撤退を求めるようになり、シリアは「国際社会」の圧力に屈するかたちで、今年5月にレバノンから軍隊を撤退した。

 シリアのレバノン撤退後もアメリカは「ハリリ殺害はシリアの犯行だ」と主張し続けている。ハリリ暗殺は、シリアが絡んでいるかもしれない高度に政治的な事件なので、当事国のレバノンの捜査機関では手に負えず、代わりに国連が捜査にあたっている。

 ドイツの検察幹部であるデトレブ・メフリスを団長とする国連の調査団は9月にシリアを訪問し、カナーンを含む数人を事情聴取した。

 メフリス調査団の捜査はほぼ終了し、10月21日に国連安保理で調査報告が行われることになっている。

 米政府の中からは、ハリリ暗殺事件の直後から、シリア政府の犯行であると断定する発言が相次いでおり、米マスコミでも、事件直後から「ハリリ暗殺で得をしたのはシリアだから、犯人はシリア政府に違いない」といった論調があふれ、ワシントンポストやニューヨークタイムスを筆頭に、全米の多くのマスコミが、シリアの犯行だと断定している。

▼カナーンはハリリ殺害に関与していない

 カナーンは死ぬ3時間前、レバノンのラジオ局に電話して自分のことを取材させ「これが私の最後の発言になるだろう」と意味深長なことを述べている。この時点で、自殺するつもりか、尋問されて殺されるかもしれないと感じていたのかもしれない。

 自殺、他殺どちらにしても、カナーンはかなり追い詰められていた感がある。彼の死には、シリア政権中枢の内部事情が絡んでいることは間違いない。

 アメリカのマスコミでは、メフリス調査団の報告書には、暗殺はシリアの政府ぐるみの犯行であると明記されることは確実だとみられている。

 シリアの犯行とされた場合、アメリカは国連に国際法定の設置を求め、そこでシリア政府内で暗殺に関与した人々を裁くよう主張するだろうが、そうなるとシリアのアサド大統領は、カナーンを犯人として差し出すことになるかもしれない。

 カナーンは、そうした動きを悲観し、報告書発表の約1週間前に自殺したのではないかという分析記事があちこちで出ている。

 しかしカナーンは、暗殺されたハリリと親しかった。カナーンがハリリを殺したいと考えていた可能性は低い。

 スンニ派イスラム教徒であるハリリは、若いころレバノンからサウジアラビアに渡って建設会社を興し、1970年代の石油価格高騰時のサウジの建設ラッシュの中で大儲けした後、内戦後のレバノンに戻り、破壊されたレバノンの復興で儲けながら政界にも進出し、3回首相になった人物である。

 ハリリがレバノンに戻ってから首相になっていく過程で、カナーンはハリリの手腕を評価し、支援していた。

 1980年代に内戦がひどくなるまで、レバノンの首都ベイルートは、中東の金融取引の中心地として繁栄していた。内戦後、レバノンを支配したカナーンらシリア政府は、ベイルートを再び繁栄の都に戻し、その儲けをシリアも享受したいと考え、ハリリのような政治力のあるやり手のビジネスマンを重用した。

 カナーンは個人的にも、ハリリとのつながりでレバノンでビジネスを展開していた。メフリス調査団の尋問に対し、カナーンはハリリから過去に受け取った高額の小切手の束を見せ、自分はハリリからこんなに金をもらっており、ハリリと親しかったのだから、殺すはずがないと証言した。

 これに対して調査団の尋問者はカナンに対し「あなたは容疑者ではないから安心してよい」と述べたと報じられている。こうした点をふまえると、カナーンがハリリ暗殺計画を立案ないし関与したとは考えにくい。

▼レバノンの微妙な政治バランスを崩したシリアの二世

 ハリリは殺される4カ月前の昨年10月に、首相を辞めるとともに、それまでの親シリア的な立場をやめて反シリアの立場に転換したが、これはシリアがレバノン内政に大々的に干渉し、議会に圧力をかけて憲法を改定させ、親シリア的なエミール・ラフード大統領の任期を延長したことに抗議したものだった。

 それまでシリアの支配下で比較的安定していたレバノンの政界は、それ以来、混乱の度合いを深めた。

 レバノンは、マロン派、ギリシャ正教といったキリスト教系の勢力と、スンニ派、シーア派、ドルーズ派といったイスラム教系の勢力がモザイク状に分布する複雑な政治環境にある。

 国会の議席は各勢力ごとに議席数の枠が決まっているほか、大統領はマロン派、首相はスンニ派、国会議長はシーア派から選び、議会が大統領を選出し、大統領が首相を任命することが憲法で決められている。

 各派閥は、憲法で決められた微妙なバランスに沿って政治を展開してきた。シリアがレバノンの憲法を改定させ、大統領の任期を延長したことは、レバノンの政治システムの微妙なバランスを崩してしまう行為で、ハリリが抗議して首相を辞めたのは当然たった。

 シリア政府内で、ラフード大統領の任期延長を決めたのは、バッシャール・アサド大統領自身だったとされている。アサドがラフード再任を決めた後、ハリリはアサドに呼ばれてダマスカスに出向いた。

 そこでアサドはハリリに、ラフードの再選に協力してほしいと要請した。ハリリはアサドに「何で首相の私にも相談せずにラフード再任を決めたのですか」と苦情を言ったが、アサドは「言うとおりにしてくれ」とだけ言って、10分で会談を切り上げてしまったという。

 今回自殺したカナーン内相ら、アサド政権内の古参側近たちは、ラフードの再任に反対したが、バッシャールは聞き入れなかった。カナーンは、2000年に死去したバッシャールの父親、ハフェズ・アサド前大統領が育てた側近の一人である。

 シリアは、父親のハフェズの時代には、レバノン人の顔を立てつつも、反抗する者に対しては裏で隠然と脅しをかけるなど、もっと上手にレバノン支配をしていた。しかし、二世のバッシャールの時代になって、シリアは上手にレバノン運営ができなくなった。

▼悪いのはアサドの弟と従兄弟?

 バッシャールは思慮深い人であるとされている。

 古参側近のアドバイスを拒否したのは、特別な理由があったと指摘されている。

 それは、政権中枢にいるバッシャールの弟マーヘル・アサド(Maher Assad、バース党中央委員、大統領護衛隊長)や、従兄弟のラミ・マフローフ(Rami Makhlouf、携帯電話会社シリアテルなどを経営するビジネスマン、34歳)らが、ラフードの再任を強く主張したからで、その背景には、弟や従兄弟が、レバノンでラフードの権力を使ってビジネスを行い、儲けていたという経緯があったのだという。

 レバノンの政治家が、シリアから目をかけてもらうため、許認可などをいじってシリアの高官を儲けさす構造は、以前からあった。カナーンがハリリから儲けさせてもらっていたのも、その一例である。

 問題は、パパアサドの時代には、シリアの高官がぼろ儲けしても、レバノン支配そのものを破壊するまでのことはやっていなかったのに、息子たちの代になってから、その加減が分からなくなり、アサド家はレバノンという金の卵を生むニワトリを殺してしまったのではないか、ということである。

 最近は、シリア人がレバノンでぼろ儲けする傾向が全般的にひどくなり、シリアの軍人らがベイルートでレバノン人の自動車を盗んでシリア国境まで持っていき、シリア側のディーラーに売って儲けていると指摘されている。

 アサドの息子たちが無茶をして、古参の側近のアドバイスも聞かなくなっている、という話を拡大解釈していくと、バッシャールの弟や従兄弟らは、ラフードを大統領に再選させ、その結果反シリアに回ったハリリを暗殺し、これらの動きの全体に対して苦言を呈し続けたカナーン内務相をも自殺に追い込んだ(もしくは殺した)という推論になる。

 ハリリ暗殺を捜査する国連のメフリス調査団は、先月ダマスカスを訪れた際、バッシャールの弟マーヘルも尋問している。国連調査団がマーヘルを暗殺に関与したと断定した場合、バッシャールはマーヘルを国際法廷に差し出す譲歩を行う用意があるのではないか、と報じられている。

▼アサドの反論には説得性がないが・・・

 これに対してアサド大統領は、レバノンの新聞のインタビューに対して「ラフードを再任したのは、アメリカやフランスからレバノンを撤退せよと圧力をかけられたからだ。

 レバノンで最もシリアに味方してくれるラフードを再任せざるを得なかった」と述べている。アサドは、この件はハリリにも納得してもらっていたと主張している。

 「アサドの弟や従兄弟がラフードと一緒に金儲けしていたので、無理矢理ラフードを再任させた」という分析を私が見たのは、ヨシュア・ランディスというアメリカ人のシリア・ヨルダン専門の学者が、自分のウェブログで、シリア在住の外交官から聞いた話として書いている文章の中に、その指摘がある。

 この話のネタ元である「外交官」は、アメリカ人である可能性が高いが、米政府は何とかしてシリアを悪者にしようとしているので、話をねつ造している可能性がある。

 そう考えると「外交官」の指摘より、アサド大統領の主張の方が正しいかもしれないとも思える。だが、アサドがレバノン憲法を改定させてラフードを再任したら、レバノン人を怒らせ、米仏がこれに乗じてシリア撤退要求を強め、シリアは不利になることは、事前に分かっていたはずだ。

 カナーンら古参側近が、ラフード再選はやめた方が良いとアサドに忠告したのは自然な行為である。アサドはなぜ忠告を無視したのか。それを考えると「弟や従兄弟が腐敗していたから」という説は説得力がある。

(イラク侵攻前に米政権がばらまいた「イラクは大量破壊兵器を持っている」という話も、説得力があって多くの人を信じさせたが、実は仕組まれたウソだった。それを考えると、説得力があるというだけで事実と考えるのは危険なのだが)

▼カナーンは「アサド後」を期待されていた?

 カナーンの死をめぐっては、もう一つ推論がある。それは、彼がシリアの治安問題に最も精通している諜報・公安関係の第一人者で、しかもシリアを支配するイスラム教アラウィ派勢力の重鎮でもあるということに関係している。

 アラウィ派はシーア派系の山岳イスラム教徒で、シリアでは東部の山岳地帯にかたまって住んでいる。彼らが特別なのは、シリアを植民地(国際連盟の委任統治)支配したフランスが、シリア社会内部の勢力対立を活用し、少数派のアラウィ派(人口の11%)を使って、多数派のスンニ派(人口の70%)を抑える政策をとり、アラウィ派を優先的に軍人や警察官に就けたことに始まる。

 その結果、シリアが1946年にフランスから独立した後も、軍人の半数以上がアラウィ派という状態が続き、これを利用して1970年に政権をとったのが、アラウィ派将校グループの中心にいたハフェズ・アサドだった。アサドは、政府の治安担当責任者を信頼できるアラウィ派で固め、多数派のスンニ派をほとんど中枢に寄せつけないようにして、内部からの反逆を防いだ。

 このため、治安維持などシリアの行政の中心部分は、アラウィ派のアサド家側近者でないと分からない状態になっている。

 欧米の中には以前から、シリアでクーデターを誘発してアサド政権を転覆し、親米政権を作ろうと考える傾向があった。シリアでクーデターによるスムーズな政権転覆を実現しようと思えば、アラウィ派の重鎮の誰かを動かしてクーデターを実行させ、その人物がアサド家の後の政権を率いるかたちにする必要がある。そうしないと、政変後のシリアの治安が守れず、混乱してしまう。

 アラウィ派の重鎮で、シリアの治安問題に最も精通している人物といえば、長く諜報機関の幹部をやってきたカナーンである。イラク侵攻後、さかんに「次はシリアだ。必要なら政権転覆を実行する」と言っているブッシュ政権が本気なら、カナーンに目をつけるのが自然な動きだ。

 しかもカナーンは、ラフード再任やハリリ辞任をめぐり、今のアサド二世らのやり方に危機感を抱いている。カナーンはレバノン時代にアメリカとの関係がよく、4人の息子のうち2人がワシントンDCの大学に留学経験がある。

 こうした状況を考えると、欧米がカナーンに近づいて政権転覆を画策したが、それがアサド家にばれてカナーンは自殺に見せかけて殺されたのではないか、という憶測が成り立つ。

 もしくは、欧米は実際にはカナーンに接近していなかったが、アサド一族の中に、カナーンが欧米と組むことを恐れる者がいて、先制的に殺してしまったとも推測できる。

 シリアではこれまでも、自殺と発表されながらも、反逆しそうな高官を政権が殺害したのではないかと疑われている高官の死が何回か起きている。5年前には、汚職の疑いで自宅軟禁されていた元首相が、拳銃自殺しているが、これは政権によって殺されたのだろうと考えられている。

▼ブッシュはアサドが譲歩しても潰したい?

 とはいえ、アサドがカナーンに代わっても、シリアはブッシュ政権が望む「民主主義」になるわけではない。軍や警察や諜報機関が幅を利かせ、少数派のアラウィが多数派のスンニを支配している状態は変わらない。

 そもそも、アサド二世は反米主義者ではなく、何とかしてアメリカに許してもらいたいと考え、イラク国境の警備を強化したり、レバノンから撤退したり、国連調査団がカナーンら側近たちを尋問することを許可するなど、譲歩を重ねている。

 対立を望んでいるのは、アサドの側ではなく、ブッシュの側である。ブッシュ政権が「シリアはイラクにゲリラを派遣している」と非難しているのは濡れ衣である。

 シリア側は、シリアからイラクにゲリラが入らないよう国境警備を強化しているが、イラク側にいる米軍の方が何もしていないのが実態である。

 そもそもアメリカのシリア非難の中心テーマである「シリアからイラクのゲリラが入り込んでいる」というアメリカの指摘は、シリアを陥れるためのウソで、実際にはシリアからイラクには、ほとんどゲリラは入り込んでいない。

 CIAは、シリアからイラクにゲリラが送り込まれていると考えられる兆候がないと分析している。

 ブッシュ大統領やライス国務長官のシリア非難の発言は、何か言いがかりをつけてアサド政権を転覆すること自体が目的ではないかと感じさせる。

 こうした状態に手を焼いた欧米の穏健派(外交重視派)は、クーデターでアサドをカナーンと交代させれば、ブッシュが満足するのではないかと考えて、クーデターを誘発したがっていたようにすら思える。しかし、今やカナーンは死に、アラウィ派でアサドの代わりをできるような重鎮はいなくなった。

 今回の記事では、アサド一族が私欲のためにラフードを大統領に再選し、その結果反シリアに回ったハリリを殺し、ハリリの味方をしていたカナーンも殺してしまった、という筋書きを紹介した。

 だが、ブッシュ政権がイラク侵攻以来、次はシリアを潰したいというメッセージを発し続けていることを考えると、アサド一族がハリリやカナーンを殺すというのは、飛んで火に入る夏の虫であり、アサド家にとってあまりに自滅的で馬鹿げた選択である。誰が暗殺したのかを断定する前に、アメリカ側の事情を分析した方が良いだろう。

 イスラエルの新聞ハアレツによると、アサド大統領は、エジプトのムバラク大統領に会った際、メホリス調査団がシリアで調べた調書の写しを渡したが、そこには、シリア政府はハリリ殺害に関与していないことが示されていたという。

▼シリアは許されるかも

 この記事を書き上げる直前、アメリカがシリアに対し、ハリリ暗殺捜査への全面協力や、ヒズボラなど武装組織への協力停止、イラクへの越境ゲリラを抑止することなどを条件に、シリアを許すという「カダフィ型」(リビアのカダフィ政権を許したのと同じ仕掛け)の提案を行ったという報道があった。

 アメリカの上層部では、シリアを許してイラク占領に協力してもらった方が良いと考える共和党穏健派(国際協調派)が、支持率の落ちているブッシュに対し「シリアを許してやれ」と圧力をかける一方で、非公式にダマスカスに乗り込んでアサドと交渉していたという指摘もある。

 カナーンの死の直後、レバノンのメディアには「カナーンの死は、アメリカとシリアの和解条件の一つなのかもしれない」とする記事が出ている。

 イランに対しても、アメリカは主張を軟化させる兆しがある。北朝鮮に対しては、すでに譲歩した。アメリカの外交政策そのものが、タカ派から穏健派へと転換するかもしれない。このあたりのことは、事態の推移を見た上で、改めて分析する。

2005年10月15日  田中 宇

 

 


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