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「世界のソニーを作った男」第2回 [人物・伝記]

 

「世界のソニーを作った男」井深 大が考えたこと第2回

後年、ソニーは「商品開発でこそ先行するが、市場自体は後発の大企業に席巻されてしまう"モルモット"だ」と揶揄される。そうした世評に対する井深の答えは―。

■井深は、それまで真空管を使っていたラジオを全てトランジスタに変えてしまうことを考えた。世界中の誰もが手を出さないトランジスタラジオの開発のはじまりである。

トランジスタの特許を取り、製造の許可は得たが、製造方法や、技術的なノウハウは全て自分達で考え出さなければならなかった。試行錯誤を重ねるが、非常に歩留まりが悪く、困難を極め、ラジオに使えるものは、一向に完成しない。しかし、井深は決してあきらめなかった。

「(使えるものが)ゼロだったらね、これは問題になりませんけども、一つでも使えるものができるとしたらね、できるはずなんですよね。どっかにその理由があるわけですから、歩留まりを悪くしてる(理由が)。

その歩留まりを征伐するってことはね、これは非常にチャレンジャブルなんですね。そういうことで必ず歩留まりってのは、今悪くても、よくなる可能性はあるだろうと。それに挑戦しようじゃないかってのが、私の気持ちだったわけですよね。だから歩留まりの悪いものは賛成であるという、むしろそういう気持ち持っていましたね」

■特許の取得から三年後の昭和三十年、日本初のトランジスタを使ったラジオTR-55が完成。

井深の自信は次の行動を生む。井深は、大手電機メーカーを招き、トランジスタラジオを披露した。これがトランジスタ時代の幕開けとなった。真空管時代は、これを境に全て過去のものとなったのである。

「それまでの日本の産業を申しますと、大体新しいものはオリジナルをヨーロッパに求める、あるいは戦後はアメリカから原型を持ってきて、それに似たものを日本でこしらえる。そうしてその中の部品もだんだん国産化していくというのが、日本の産業の典型的な形でございました。

このトランジスタラジオから始まりました私どもの方では、サンプルのないものばっかりをつくっていったわけでございます。したがって、部品屋さんも、サンプルのないものをつくれということで、たいへん戸惑ったと思うのでございます。

四~五年たって、アメリカやドイツでトランジスタをつくろうとしたときに、どうしても日本から部品を買わざるを得なかったという状態になりまして、どんどん日本の電子工業の部品産業ってものが確立した、そのきっかけを私どもがつくったような気がしているわけでございます」

■昭和三十一年には、ラジオ用のトランジスタ生産は、三十万個/月に達し、完全にこの分野の主導権を握る勢いを見せていた。昭和三十年代の始めには従業員の数は創業時から五十倍以上にも膨らんでいた。

大企業への道を歩き始めたのである。昭和三十五年、井深はこれまで培ってきたトランジスタ製造技術を応用し、世界で初めてオールトランジスタテレビを発売する。

井深は、このテレビの使い方に新しいアイディアを入れている。そのアイディアとは、野外でも自由に使えるように小型発電機を同時に開発し販売することであった。井深は、この発電機の開発を友人の本田宗一郎に持ちかけた。

「本田さんも私もね、まず目的をね、決めちゃって、その目的をやるためにはね、その目的を達成することだけをね、目標にするわけなんですよね。こういう技術があるから、それをこう使いましょうじゃなしに、これをやるためにはこういう技術を使わなきゃなんないから、その技術を完成させましょうという、そこが私と本田さんと、非常にそこ共通してるんですよね」

■昭和四十年、ソニー初のカラーテレビ、クロマトロンが完成。しかし、製造コストは高く、一台売るごとに赤字を生む結果となった。

クロマトロンの開発を始めてから実に七年後の昭和四十三年、社運を賭けた新しい受像方式トリニトロンが完成する。トリニトロン方式の関連特許は五百件を超え、現在もその応用技術は、コンピューター画面などで使われている。井深は、この開発を最後に社長を退いた。

「ある程度、直感力に頼ってね、思い切ってやらなければね、プロジェクトなんてものは進まないと思うんですよね。そこがまあ決断ていうのか、直感力に信ずるというのか。決断ってことは、言い換えれば非常にしっかりしたそのターゲットをそこへ打ち立てちゃうわけですね、人為的に。無理であろうが、無理でなかろうが」

「私はね、そのものをつくることがね、本当の実業であってね、それ以外は虚業だということを、ずっと前からそう言い続けてきたんですよね。それで、とにかくその形の変わらないものでね、値段が変わるというのはね、これはどこか間違っているんだということを、盛んにそう言ってきたんですよね」

■井深は、常に新しい技術を求め続けた。これは、同時に現在の技術を過去に追いやることを意味する。新しい技術の誕生は、現在の設備やこれまでの投資を無駄にすることがある。守りに入って、モデルチェンジだけで済ませてしまう方法もある。しかし、井深は、その道を選ばず、常に新しいものづくりに挑戦していったのである。

2006/10/14  nikkeibp


 


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