SSブログ

「世界のソニーを作った男」第1回 [人物・伝記]

 

「世界のソニーを作った男」井深 大が考えたこと第1回

テープレコーダーやトランジスタラジオ、トリニトロンカラーテレビ。
世界を席巻した商品はもちろん、創業期に大失敗した電気釜などに至るまで、
ソニーの創業者が自ら、開発秘話を語る。

「まず、この東京通信工業をつくりますときにの創立趣意書というのが、今でも残っております。大変長いものでございますけども、私は苦心惨憺して、長い間かかってこれを書き上げたのでございます。

その中に謳っておりますことは、『東京通信工業は、技術を一番尊重して、その技術を高度に利用して、立派な商品を使って、世の中のお役に立ちたい』ということ、それから『技術者をはじめ、そこで働いている人が、思い切り働ける場を提供したい』と、そのほかさっきもちょっと申しましたけど、役所の仕事や放送局の仕事だけでなしに、『一人でも多くの人が喜んでもらえる、そういう商品をつくって、商売をしていきたい』と。

それから一番大切なことは、『人のやらないこと、どこにも存在しないもので、そういうものをこしらえていく』と、『そのためには、どんな困難が伴っても、どんな技術的な難しさがあっても、それに打ち勝っていこうじゃないか』と、そういうことを謳って、同志はみんなこれに賛成して、この東京通信工業が始まったわけでございます」

■盛田昭夫と共に東京通信工業を「世界のソニー」へと育て上げた井深大。彼は、人のやらないこと、どこにも存在しないものを目指して、常に新しい技術を求め続けてきた。

「人を喜ばせ、世の中の役に立つものを創造する」という一貫した姿勢の中、どんな困難が伴おうとも井深は挑戦し続けてきたのである。昭和二十年、終戦と同時に井深大は、それまで共に働いていた仲間七人と東京通信研究所を設立する。

「いろいろ考えました。第一番にやりましたことは、千葉県へ行って、木製のおひつを沢山仕入れてまいりました。

そのおひつの底に、アルミの渦巻き型の電極を二枚釘付けしまして、それに電線をつないで、そのおひつの中にといだお米を入れて電気を流すと、水の中を電流が流れて、熱を発散して、それでお米が炊けるという、今日の電気釜のような非常に簡単なものを考え付いたわけでございます。

実際にお米を炊いてみますと、たまにはたいへんおいしいふっくらとしたご飯が炊けるんでありますけども、大部分は芯のある、到底食べられないご飯ができたり、グチャグチャのご飯ができるということで、おひつの山を眺めながら、この仕事は残念ながら断念せざるを得なかったわけでございます」

■昭和二十一年、戦前からの知人盛田昭夫が加わり、東京通信工業を設立。このとき盛田は二十五歳。井深は三十八歳。資本金十九万円、従業員三十五名のスタートでだった。

「その頃、そろそろあの進駐軍の、放送関係のね、仕事を、今のNHKを通して貰ってたわけです。ある日行きましたら、『ちょっと来い、いいものを聞かせるから』と言って、それでテープレコーダーをそこで初めて聞いたんですよね。静々とテープが動きましてね、ものすごくきれいな音なんですよね。

それで、これはもうどうしてもこれをやらなきゃ嘘だ、という気持ちになりましてね。私だけ感心してても仕様がないんでね、うちの人たちに納得してもらわなきゃならないと思いましてね。拝み倒して、あの進駐軍の将校の人がね、私どもの御殿山の汚いバラックの所までね、持ってきてくれましてね、それでうちの全社員にそれを聞かせたわけです。『これをやらないといかんのだぞ』という、そういうオリエンテーションをまずやったわけですよね」

■こうして、東京通信工業は、日本で始めてのテープレコーダーづくりに取り組んだ。しかし、ここで大きな問題にぶつかる。それはテープレコーダーのテープであった。

困ったのは、この(テープの)ベースなんですね。で、その頃昭和二十三、四年というと、プラスチックっていうものはね、ベークライトとエボナイトとセルロイドとね、それしかないわけなんですね。

今のそのプラスチックっていうのは、殆どないわけなんです。上に塗る鉄の粉はね、これは大体検討ついておりましたね。粉では困らなかったんですけども、ベースはどうにも困りましてね。

で、初めまあツルツルしたもんでということで、セロファンに飛びつきましてね。セロファンを・・・伸びないセロファンで、湿気を吸わないセロファンの処理ってのは何とかできないかというんで、まああらゆる知識を集めましてやったんです。

初めいいんですよ、一回、二回はいい、そしてもう三回目ぐらいから、こう・・・『ワカメ、ワカメ』っていいましたけどね、こんなに(ワカメのように)なってね、ぜんぜん音にならないんで、それから困り抜きましてね、そして紙をやろうということになって・・・」

■試行錯誤を繰り返し、改良を重ねた末、昭和二十五年、ようやくこの紙テープが完成。このテープは、もの言う紙として当時の雑誌に紹介され、反響を呼んだ。紙テープの完成と共に、日本で初めてのテープレコーダーG型も発売。何か新しいものを作りたいという井深の夢がここに実を結んだのである。そして、この時、井深に新しい出会いが訪れる。

「そのG型を買いに来たのがね、音楽学校の学生なんですよね。音楽学校のために買って、それで来た学生がね、ものすごく面倒臭いことを言うんですよね。この人、音楽学校の学生なのに、えらい技術的なことガチャガチャ言うからね、『何じゃい』と思っていたのが大賀(典雄)なんですよ。

音楽学校の学生のくせにね、えらくメカでも何でも電気でも詳しいんですよね。こっちがとっちめられるぐらいすごい。そのときから出入りしてるんですよね。ひととき大賀君は監察官っていうあだ名がありましてね。商品の悪いのを全部ほじくり出してね、指摘されるのが、これまたちゃんと図星なんですよね。

いい音にしたいという一心でね。お互いにその、こここうしたらどうだ、あそこどうしたらどうだ、というようなことを。ええ、まあ私の周囲には、そういう海外からの諸雑誌がありましてね。

そういうものに、ここにこう書いてあるからというようなことで、いろいろまあ、お互いにノウハウを持ち寄ったんですよ。で、一緒に何とかものになる努力をしてるうちに、まあ私がミイラ取りがミイラになったようなもので・・・」

■G型テープレコーダーの発売から二年後の昭和二十七年。国内の関心を集める一つの事件が起きた。当時、アメリカから数多くの新しい製品が次々と輸入されていた。

その中に井深の開発したG型と同じ技術を使ったテープレコーダーも含まれていたのである。井深は特許権を侵害するとして裁判に訴え、その主張が認められた。

全ての技術をアメリカに頼らなければならなかった日本にとって、この出来事は、驚きと拍手で迎えられた。この出来事を境に井深は、次々と魅力ある画期的な製品を開発。テープのクオリティー、品質も向上していった。

「新しい技術開発なんかでも、大きな会社よりは、むしろ中堅以下の、自分で一生懸命開発して切り開いてきた企業の中のほうが、うまく成長していくんじゃないでしょうかね。

企業なんてものは規模が大きい方がいいとか、資本金が大きい方がいいとかっていうものは、だんだんこれから、それだけでは通用しなくなると思いますね」

【次回は、「商品開発でこそ先行するが、市場自体は後発の大企業に席巻されてしまう"モルモット"だ」と揶揄され始める。そうした世評に対する井深の答えは・・・】

2006年8月31日  nikkeibp


nice!(0) 

nice! 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。