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 「成田離婚」という言葉が。。。。。

「成田離婚」という言葉が。。。。。


 「成田離婚」という言葉が、かつてあった。新婚旅行先の海外でけんかをし、帰国したばかりの空港で別れてしまうカップルを指した

◆最近は「新成田離婚」だそうだ。退職記念で海外旅行をした夫婦が、帰国後に離婚することを意味している。旅先でも夫が普段の態度で接するものだから、積もり積もった妻の不満が爆発するためとか。実態は分からないが、「かもしれない」と思わせる数字がある

◆給湯機器大手のノーリツ(神戸市)が、男性の家事について全世代を対象にとったアンケート調査である。定年後、家事をする時間が増えるかどうかの質問に対し、「そうは思わない」と答えた人が、五十歳代で一番多かった。四人に一人である

◆では現在はどうかと尋ねると、せいぜいが「ごみ出し」で、多くの男性はなにもしていないに等しい。力の要るふろ掃除などをしてほしい妻は、あきらめや不満を抱えこんでいるというわけだ

◆同世代の一人として耳が痛い。互いの労をいたわり合う旅で、わだかまりが一挙に噴き出せば、楽しい時間も台なしだ。もちろん離婚という重い決断には、深刻な不和や経済的な事情なども絡む。だが、日常生活の中の小さなほころびだって怖い

◆脅かすわけではないが、来春から始まる離婚夫婦の年金分割制度で「新成田離婚」が増えるのではないか、との声がある。二人で合意すれば、離婚した妻も夫の年金額の半額まで分割支給される制度である。あれっ、だれですか? ここまで読んで、あわててふろ掃除を始めたのは。


正平調

2006/07/30 神戸新聞


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生誕二百五十年のモーツァルト。。。。。 [コラム]

生誕二百五十年のモーツァルト。。。。。


生誕二百五十年のモーツァルトと、没後百五十年のシューマンの話題に埋もれたかもしれないが、今年は日本を代表する作曲家にちなむ年でもある。没後十年を迎えた武満徹さんだ

◆アカデミズムの外から彗(すい)星のように現れ、西洋と東洋の音を結んで世界的な評価を受けた。生み出したのはコンサート用の作品だけでなく、映画やCMの音楽まで幅広い。NHKドラマ「夢千代日記」の音楽も、この人の手になるものだった

◆間を生かした沈黙の時間が少なくない。この独特の作風は、ややもすれば難解といわれる。彼の作品を取り上げるプロの混声合唱団「ザ・タロー・シンガーズ」(芦屋市)の澄んだ歌声をCDで聞きながら、それは音に対する彼の厳しさだとあらためて感じた

◆メンバーによると、楽譜は細かい指示にあふれ、取り組むのに勇気がいるそうだ。親しみやすい旋律と繊細なハーモニーの裏に厳密さがある。それほどに一つ一つの音の響きを大事にした

◆彼はかつてこう書いている。「私たちはいま、個々の想像力が自発的に活動することが出来難(にく)いような生活環境の中に置かれている。眼や耳は、生き生きと機能せず、この儘(まま)、退化へ向かってしまうのではないか、という危(き)惧(ぐ)すら感じる」と

◆街路樹が少なく騒がしい都心で先日、セミの声が珍しく耳に入った。不意に、武満さんの言葉が浮かんだ。「私たちは、もう少し積極的に、この世界を、見たり聴いたりすべきではないだろうか」。季節が奏でる音に、じっと耳を澄ませてみよう。


 正平調
2006/08/07 神戸新聞


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「靖国」の暑い夏 [コラム]

「靖国」の暑い夏

 参道に立つと都心には珍しく蝉時雨(せみしぐれ)に襲われた。靴底から焼け付いた石畳の熱気が伝わる。東京・九段の靖国神社は今年も暑い夏を迎えている

▼同神社の資料館「遊就館(ゆうしゅうかん)」で人間魚雷「回天」の展示を見た。全長一四・七五メートル、直径一メートル。その中に人ひとりが座り込む形で入る。黒く長い異様な物体。全国回天会によれば、「回天」による戦死者は百六人。多くは二十歳前後の若者だった

▼故島尾敏雄氏の小説「魚雷艇学生」を思い出していた。主人公が特攻志願した日はこんな叙述だ。「とにかく長い長い一日であった…とらえようのない思念がうつむいた頭の中でから廻(まわ)りするだけだった…長い一日が暮れ、なお心は揺れていた…就寝前に伍長(ごちょう)が紙を集めて廻った。私は『志願致シマス』と書いて出した」

▼ところが主人公は、横須賀の水雷学校で目にした快速特攻艇に落胆する。それは「うす汚れたベニヤ板張りの小さなただのモーターボート…これが私の終(つい)の命を託す兵器なのか…というより、果たしてこのような貧相な兵器で敵艦を攻撃し相応の効果を挙げ得られるだろうか」

▼島尾氏自身、九州帝大から海軍予備学生となり特攻を志願。奄美群島で出撃命令を受けたが、発進命令のないまま終戦を迎えている。自らの体験に基づく文章には魂を揺すぶられる。「回天」で亡くなった若者らの思いはいかばかりか

▼「靖国」を巡る論議が騒がしい。昭和天皇発言メモが報道され、小泉首相が十五日に参拝するのかも注目されている。が、戦没者には静かに慰霊の心を捧(ささ)げたい。そんな環境整備はできないものか。暑い夏に思う。

 
 新生面 

2006年8月8日(火) 熊本日日新聞


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ヒロシマ原爆の日 [コラム]

ヒロシマ原爆の日

 広島に、また“暑い夏8・6”がやってきた。長崎の8・9とともに、忘れてはならない日である

▼原爆忌を前にした広島市で、原爆投下を市民の手で裁こうという「国際民衆法廷」が開かれた。被告は、開発や投下に関与した当時のトルーマン米大統領、軍人、科学者たち。判決は「人道に対する罪にあたり、全員有罪」だった

▼この判決に拘束力はない。しかし、原爆投下が重大な戦争犯罪だったことをあらためて印象付ける効果はあるはずだ。六十一年の歳月が流れた今もなお多くの被爆者が放射線障害で苦しんでいる。核廃絶どころか核拡散の心配がある。「ノーモア・ヒロシマ」の声を弱めてはならない

▼広島の平和記念公園内にある原爆資料館は何度も訪れている。ここほど強烈なメッセージを放っている資料館は少ない。高熱で、ぐにゃりと曲がった一升瓶、肌に残る生々しいケロイドの写真…。悲惨な被爆のさまを初めて見た際、ちょっと目まいがしたのを覚えている

▼投下目標の変遷についての資料も興味深い。米国は原爆の威力を最大限に引き出すため地形や気象、人口などを調査。悲劇の舞台は(1)広島(2)小倉(3)長崎と決まったが、東京湾や大阪など途中で候補に挙げられた地域の中に、実は熊本の名もあったのだ。ひょっとしたら一発は熊本市に落とされ、「ノーモア・クマモト」になっていたかも

▼熊本市は、原爆投下時刻の六日午前八時十五分、サイレンを鳴らし黙祷(もくとう)を呼び掛ける。九日も午前十一時二分にサイレンが響く。熊本県では、終戦記念日には黙祷するが、原爆の日には特段何もしていないという。 


新生面 

2006年8月6日(日)  熊本日日新聞


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中東からの便り [コラム]

中東からの便り

 「いまアンマンに来ています」とメールが届いたのは、六日だった。アンマンとは中東、ヨルダンの首都。地図を広げるとこの国は、いま戦火絶えることのないイスラエルとレバノンに接し、北はシリア、そして東はイラクにつながる

▼送信してきたのは、西洋建築史を専攻する吉武隆一さん。三十歳。熊本大工学部の建築科で地中海建築史を学んだあと、いまは国士舘大イラク古代文化研究所の一員として、ギリシャにいて研究を続けている。先月下旬からはヨルダンに渡り、遺跡の発掘に携わっていた

▼数日前には西の国境の向こう側から、ズーンズーンと響く爆撃音が、三十分おきに聞こえてきた。「戦場は、報道されているよりもはるかに広い範囲にわたっているようです」。レバノン国内で煙が上がっているのも見た

▼ヨルダンのテレビは連日、レバノン空爆で犠牲になった市民や重傷を負った子どもの映像を流している。国の争い事と対極にあるはずの第三国の古代史研究者の目にも、「いまのイスラエルはユダヤ原理主義国家であり、傲慢(ごうまん)ぶりは目に余る」ものに映る。メールは、切迫する戦況を伝えていた

▼日本が、北朝鮮非難の安保理決議をめぐって活発に動いたのは、先月中旬。それが今回、全く姿が見えないのはどうしたことだろう。ロシアでのサミット前、小泉純一郎首相はイスラエルとパレスチナの双方を訪ねて自制を求めたが、戦闘が激しくなったのは、皮肉にもその直後からだった

▼きょうは六十一回目の長崎原爆忌。式典では平和を訴える声が相次ぐだろう。レバノンでの死者・不明者数は千人を超えた。 

 

新生面 

2006年8月9日(水)  熊本日日新聞


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梅干しと土光さん [コラム]

梅干しと土光さん

 長梅雨の豪雨から一転、連日うだるような猛暑。早朝からワシワシワシとセミだけは元気だ。お天道様がうらめしいほどだが、これを活用しない手はない。三年ぶりに漬けた梅を、ざるに並べた。土用干しで梅のしわも深くなった

▼梅干しは手間暇がかかるが、健康食品としては絶品だ。弁当に入れると食中毒を防いでくれる。汗をかく夏場は塩分の補給にもなる。消化吸収を助け、ガンや老化防止、疲労回復にも効果抜群という。なにせ目にするだけで酸っぱさが口中に伝わり、だ液がにじみ出るくらいだから

▼経団連会長で「ミスター行革」と呼ばれた故土光敏夫さんの食卓に並ぶのも梅干しとメザシだった。応接間にはエアコンではなく扇風機があるだけ。財界トップのつましい生活がテレビで放映されたのは二十五年前のこと。臨時行政調査会(臨調)の会長でもある土光さんの“素顔”は国民に強い印象を与えた

▼「増税なき財政再建」「受益者負担」「民活」が流行語にもなった。土光臨調は国民に我慢も強いた。小泉政権の構造改革もこれを踏襲したものだが、この四半世紀で日本社会が随分と変わってしまったような気がする

▼「一億総中流」の幻想は崩れ、格差は拡大するばかり。額に汗してこつこつと働くことより、ITを駆使して投資で巨利を得ることがもてはやされる時代。改革の旗振り役も無私の人ではなく、ファンドの推奨者だ

▼技術畑の出身で、私利私欲を嫌い、行政の無駄を省くことに汗を流した土光さん。いまの世の中を見たらきっと、梅干しを口にしたようなしかめっ面をするのではないだろうか。 


新生面 

2006年8月4日(金) 熊本日日新聞


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戦争の裏の戦い ( The war beyond the war ) [Middle East]

戦争の裏の戦い ( The war beyond the war )

レバノンの戦いは米、イラン、パレスチナの戦いでもある

 チェスに「ツークツワング」という用語がある。次の一手をどう打っても、もう降参するしかない手詰まりの状態。いわば今週のエフード・オルメルト(イスラエル首相)の状況がそうだ。

 もし彼がヒズボラへの攻撃を止めれば、ヒズボラ側としては、地域の超大国の3週間にわたる攻撃の中で、ヒズボラ兵士たちが抵抗を続け、イスラエルの町や村にロケットを打ち込んでいたというだけで、「自分たちの勝ちだ」と主張するだろう。

 もし逆に、オルメルト首相がさらにレバノン深くに攻め込むことを選べば、6年前にレバノンから撤退したことで終わったはずだった代償の高いゲリラ戦にイスラエルを陥れる危険性がある。

 このようなリスクを避けようと、オルメルト首相はありそうにない中庸の道を目指している。8月2日にオメルト首相は、「強力な」国際部隊が到着してヒズボラの武装解除を終えるまで、イスラエルはレバノン南部に侵攻を続けるだろうと述べた。やけに単純で、のんきなものだ。

 ヒズボラが記録的な数のロケットをイスラエルに打ち込んだその日、国際部隊などまだ存在しておらず、それを編成する計画もいかにも漠然とした段階の時に、オルメルト首相はそう語ったのだ。一体、誰が軍隊を提供するのか。彼らは実際に力ずくでヒズボラの武装解除を率先して行うのか、またそれが可能なのか。

 武力でなければどんな取引があるのか。未知数ばかりの中で最も確かに思われるのは、結局、この戦争はどちらが勝ったか曖昧なまま、始まった時と同じように混乱の中で終わるだろうということだ。

イランとアメリカの代理として

 引き分けで終わるのも時には悪くない。イスラエルが1948年と67年に経験したような圧倒的勝利は、一方の側を傲慢にし、もう一方の誇りを打ち砕き、何十年間も和解の妨げとなる。

 それとは対照的に、イスラエルもエジプトも勝利を主張した73年の戦争は、エジプト人の誇りを回復し、イスラエルにシナイ半島を最強の隣人との和平と交換する価値があると認めさせた。

 80年代後半のパレスチナ人によるインティファーダ(反イスラエル抵抗運動)も、ある意味で引き分けに終わった。パレスチナ人はイスラエル人をヨルダン川西岸とガザ地区から追い出せなかったが、イスラエル人の方も占領を終わらせるべくパレスチナ人の解放運動の熱を冷ますことはできなかった。

 しかし、一つにはこのおかげでイツハク・ラビン(当時、イスラエル首相)が、ヨルダン川西岸とガザ地区における独立国家となっていたはずの萌芽ともいうべきものを、ヤセル・アラファト(当時、パレスチナ解放機構の執行委員会議長)に与える必要があると確信したのだ。

 現在行われている戦争は、イスラエルとアラブとの間での最も熾烈な戦いの1つだ。これまでイスラエル国民は、これほど持続的で無差別な自国への爆撃に直面したことはなかった。これに比べると91年のサダム・フセインによるスカッド・ミサイル攻撃は、一過性の嵐のようなものだった。

 しかし、この数週間レバノンで起こっているように、戦場から人々を一掃するため数十万人のアラブ民間人に家や村からの避難命令まで出す必要に迫られたのは、イスラエルの独立戦争以来の事態だ。何百人もの死者が出て、その大半がレバノンの民間人だったが、それでもまだ最悪の致命的な地域紛争というわけではない。

 しかし、憎しみで満ちていた器に、さらに入りきれないほどのものが注がれてしまったのだ。
 多くの血が流され、怒りが生まれているが、この戦争はその代償について、また、以前イスラエルと近隣諸国が激戦の末に引き分け、その後外交の道が開かれたというような利点について、再び考え直す動きへとつながる可能性があるのだろうか。事態の行方は調停者の技量によるところが大きい。しかし今回、予兆は明るい展望を示していない。

 その理由はイスラエルとレバノンの争いが複雑だからではなく、その反対だからだ。両国には実は大して争う理由はない。

 イスラエルはエジプトと「領土と平和の交換」を実行したし、いつかパレスチナともそうしなければならないだろうが、イスラエルとレバノンの間には、そんな苦痛を伴う取引をする必要がない(シェバア農地として知られる小さな「係争地」は、せいぜいヒズボラが争いを正当化するために使う口実にすぎない)。

 実際、今回の紛争は一義的にイスラエル対レバノンの問題ではなく、むしろイスラエル対ヒズボラの支援国イランの、そして米国対イランの戦いだと言える。

 そのせいで解決が困難を極める。特に、超大国米国が調停者どころか事実上の主役としてサダム・フセイン(元イラク大統領)後の中東支配権をイランと争う中で、多少なりともこの戦争でイスラエルを代理人として利用したいという誘惑に駆られているからだ。

 これは恐ろしい新局面である。1世紀にわたるシオニズムとパレスチナのアラブ人との争いは、そこへ新たに世界や地域の争いを加えるまでもなく、既に独力で解決できないほど激しいものだった。

 冷戦はパレスチナにおける争いを長引かせた。最も期待できる和平工作が、ソ連が米国と中東支配権を争うのをやめた後に実現したことは偶然ではない。

 今、中核となる争いは再び、もっと大きな争いの中にもつれこんでしまっている。しかも今回は恐らくもっと危険だ。イランは50年代と60年代の非宗教的アラブ諸国以上に熱心に、イスラム主義を反シオニスト主義の中心に据えようとしているからだ。

 イラン側の見方をすれば、イスラエルに対するヒズボラの不敵さは、敬虔なイスラム教シーア派というブランドの素晴らしい宣伝だ。これはサウジアラビアのような、アラブ社会における米国同盟国を大いに当惑させる。

 サウジはイスラム教スンニ派を率いたいと強く望んでいるのに、アラブ・イスラエル戦争の傍観者でいればいつも腰抜けと見られてしまう。それはまた、エジプトとヨルダンという、イスラエルと和平を結んで悪評を得た国々を不安に陥れる。

 パレスチナ領では、ハマスの力を強める。ハマスはイスラエルとの和平に宗教上の異議を唱え、より協調的で宗教色の薄いファタハを抑え込んでいる。シーア派をひどく嫌いイラクで殺害しているアルカイダでさえ、先日、この騒ぎに参加せずにはいられなかった。

 ウサマ・ビンラディンの代理人であるアイマン・アル・ザワヒリが洞窟からひょっこり出てきて、イスラム対ユダヤ人、十字軍との戦争では、イラク、アフガニスタン、レバノン、パレスチナは今や一枚岩の前線部隊だと語ったのだ。

関係の切断               

 紛争がただの近隣同士のケンカでなく、イランと米国の代理戦争でもあるとしたら、それが終わった時、どうすれば持続的な平和を実現できるのだろうか。

 米国のヘンリー・キッシンジャー(元国務長官)のような(新保守主義者と反対の)外交政策の現実主義者たちの間で勢いを得てきた意見がある。この機を利用して、何年間も米国とイランとの間で議題となってきた「包括的取引」をなし遂げるというものだ。

 中東地域のあらゆる争い――イランの爆撃、イラクの将来、シリアの孤立、レバノン内のヒズボラ国家、パレスチナ人の報われない大義など――はどれも互いに絡み合っているのだから、今、そのすべてを総合的に解決し始めることを考えてはどうか。

 国連安全保障理事会は7月末、イランにウラン濃縮をやめるよう再度警告したが、米国がイランに対してもう一度、この要求に従うことで得られる政治的・経済的利益を強調しても損にはならない。

 米国とイランは話し合わなければならない。それでもやはりこの壮大な取引には、最も独創的な外交手腕をもってしても手が届かない可能性はある。

 となると、いくつかの要素を切り離した方が、あまりにも多くのものをつなぎ合わせようとするより賢明かもしれない。

 とりわけパレスチナ人の展望は、様々な部外者が時折彼らの大義を乗っ取り、イスラエルや米国、または両国に対するイスラム教徒の反感を煽るようなことをしなければ、今より明るいものになるだろう。

 イスラエル人とパレスチナ人の双方が十分な勇気と寛大さを示せば、恐らくまだ取引できることはある。突き詰めると、パレスチナ人に国を与えることができるのはイスラエル人だけで、イスラエル人が中東で切望している合法性を彼らに与えることができるのはパレスチナ人だけなのだから。

 紛争地域でお互いの利益が最も密接に一致しているのは、この2つの民族だ。結局この問題を解決することが、より広範な和平を促すための最善策なのだ。


The Middle East 
The war beyond the war  (2006年8月3日)

The Economist,EIS
2006年8月9日 水曜日


 


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短時間がすべてを変える [Others]

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短時間がすべてを変える

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塩はわずかの量で料理全体の味を変えます。

醤油も砂糖もそうです。

同様に、ごくわずかな時間が、一日全体の質を変えるということがあります。 

ベスト・セラ-『知的生活の方法』など数々の著作家としても知られる
渡辺昇一氏の言葉を引用します。

「毎日五分前後の運動をすることによって、
今や私の背骨は、私より二十歳も若い学者たちよりも柔軟になった。

肉体でもそうなら、脳にも毎日三十分か一時間くらい異質な運動を
与えてみてはどうであろうか。

毎日一時間、仕事と関係のないことで頭を使おうと決心するならば、
そのことによって、生活のクオリティは一変するだろうと予想してよい。

毎日一時間だけ、今までやらなかった『高級なこと』をやることによって、
残りの二十三時間のクオリティが善変するのではないだろうか」

渡辺昇一著『クオリティライフの発想』より

この説には、なるほどなと思えます。

たとえば、「朝の十分間読書」というすばらしい教育があります。

林公(ひろし)という高校の先生が提唱されて以来、
今や「朝の十分間読書」は、全国、数万校の小・中・高校に広がってきています。

「朝の十分間読書」は、子どもが各自、
自分の好きな本を開いて、授業前の十分間、
声を出さずに読書をするだけの活動です。

しかし、その十分間は、騒がしかった校内が
水を打ったようにシーンと静まり、
時々ページをめくる音が聞こえるだけの知的で豊かな時間となります。

その十分間が、学校生活全体を変えました。

「朝の十分間読書」を実践している教室では、
本好きな子が急激に増えました。

子どもたちに、読む力と同時に書く力もついてきました。

さらには、その教育効果は子どもたちの生活面にも及びました。

続けているうちに、次第に遅刻が減り、
イジメや校内暴力がなくなってきたのです。


短時間のちょっと異質なクオリティが継続すると、
いつの間にか何かを変えていくのです。


一日、たった5分間でいいかもしれない。

自分の何かを変えるために、
いままでやらなかった「高級なこと」に時間を使ってみませんか?

 

★ 今日の言葉から学べるヒント ★

ちょっと違うことを5分間だけやってみる。

(^.^)


心の糧・きっとよくなる!いい言葉  Vol.154

中井俊已  http://www.t-nakai.com/


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ジダン頭突きの原因めぐり報道合戦 [Sports]

ジダン頭突きの原因めぐり報道合戦 
 
  ジダンは何を言われたのか―。9日行われたW杯決勝でフランスのジダンの退場処分につながった頭突きの原因をめぐり、フランス内外のメディアでは10日、さまざまな憶測が広がっている。

 イタリアのマテラッツィが暴言を吐き、ジダンは怒りを抑えられなかったとの見方が支配的だ。その暴言の中身について、フランスのニュース専門テレビLCIの記者は「人種差別的な内容、あるいは家族に関する内容だったのではないか」との推測を紹介。ジダンはアルジェリア系移民の家庭に生まれた事実が念頭にある。

 フランス公共ラジオによると、ブラジルのテレビ局は読唇術の専門家の分析として、マテラッツィがジダンの姉を侮辱する発言を2回繰り返したとの見方を伝えた。侮辱されたのは母親との憶測もある。

 AP通信は、イスラム教国アルジェリアにいるジダンのいとこの話として「テロリスト」呼ばわりされたのではないかというフランス語の記事を配信した。英紙ガーディアンも同様に「マテラッツィがテロリストと呼んだ節がある」と情報源を明示せずに伝えた。

 ジダンは10日昼すぎ、パリに戻り、ほかの代表選手とともにエリゼ宮(フランス大統領府)の昼食会に出席した。地元テレビはシラク大統領と笑顔で握手を交わすジダンの表情を映し出したが、今のところ本人の口から真相は明らかにされていない。 (共同) 

[ 2006年07月10日 23:17 速報記事 ] 
 
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ジダン代理人「極めて深刻な」言葉

 英BBC放送によると、W杯決勝で退場になったフランスのジダンの代理人は10日、BBCに、同選手がイタリアのマテラッツィから「極めて深刻な」言葉を掛けられていたことを明らかにした。

 代理人は試合後の10日未明にジダンと話したといい、ジダンが近くすべてを明らかにするとの見通しを示した。

 代理人はBBCに「彼(ジダン)は私に、マテラッツィが極めて深刻な内容のことを言ったと述べたが、話の内容は明らかにしなかった。彼はとても落胆して寂しそうだった」と語った。

 一方、フランス公共ラジオによると、ANSA通信はイタリアのマテラッツィの父親が「(息子と)電話で短時間話したところ、(ジダンから)挑発されたと言っていた」と述べたと報じた。 (共同) 

[ 2006年07月10日 01:27 速報記事 ] 

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ジダンにドイツ各紙「気が狂ったか」

 10日付のドイツ各紙はW杯決勝で退場したフランスのジダンに焦点を合わせた記事が目立った。

 大衆紙ビルトは「気が狂ったか」との見出しで「残忍な頭突きとレッドカードは今後ずっと彼の偉大な経歴に暗い影を落とすだろう」と手厳しく報じた。

 ウェルト紙は「舞台は偉大な選手のために整えられていた。自ら航路を変更してしまったかのようだった」とその行動に疑問を呈した。ハンブルク・モルゲンポスト紙は「何という屈辱的なラストであろうか。伝説の人は何とも不名誉なラストで舞台を去った」と嘆いた。 (共同) 

[ 2006年07月10日 21:07 速報記事 

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ジダンの蛮行に仏各紙「どう説明」

 「子供たちにどう説明したらいいのか」。9日行われたW杯決勝で退場処分につながったフランスのジダンの暴力行為をめぐり、フランス各紙は10日、割り切れない思いをぶつけた。

 「敗戦はそれほど受け入れ難いことではない。むしろ困難なのは、世界中の何千万人もの子供たちに、どうしてあんな頭突きをしたのか説明することだ」。スポーツ紙レキップは1面に掲げた社説でこう嘆いた。

 9日の決勝はジダンの引退試合でもあった。レキップは「選手としてあれが最後の姿になった。あなたほどの人物にどうしてこんなことが起こり得るのか」と疑問をぶつけた。

 ジダンの暴力行為が「(決勝戦の)夜を台無しにし(ジダンの)最後に汚点を残した」と指摘したのはフィガロ紙。パリジャン紙は「偉大な選手のキャリアが暴力行為によって締めくくられるなどということが、なお信じ難い」と抑えた筆致で市民の声を代弁した。 (共同) 

[ 2006年07月10日 20:09 速報記事 ] 

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決勝で退場もジダンがW杯MVP

 国際サッカー連盟(FIFA)は10日、W杯ドイツ大会の最優秀選手に贈られる「ゴールデンボール賞」に、フランスの決勝進出に貢献したものの、決勝で退場処分を受けた司令塔、ジダンを選出した。

 FIFAが選考した候補選手10人の中から記者投票の結果、決勝でイタリア選手に頭突きを見舞って退場処分になったジダンが最多の2012点を獲得した。イタリアの24年ぶり優勝に貢献したカンナバロ主将は1977点で2位、正確なキックで攻守に活躍が目立ったイタリアのピルロは715点で3位だった。投票は決勝終了後の9日いっぱいまで行われた。

 同賞は1982年大会がロッシ(イタリア)、86年はマラドーナ(アルゼンチン)、90年はスキラッチ(イタリア)、94年はロマリオ(ブラジル)を選出。98年はロナウド(ブラジル)、前回大会の02年では初めてGKのカーン(ドイツ)が獲得するなど、3大会連続で優勝チーム以外から最優秀選手が選ばれた。 (共同) 

[ 2006年07月10日 18:10 速報記事 ]

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ジダン頭突きに記者席どよめく

 ボールの位置とは無関係な場所で、ジダンはマテラッツィに頭突きを見舞った。最初、観衆や各国記者たちは何が起きたのか分からなかったが、プレス席の各所にあるテレビでビデオ映像が流れると、大きなどよめきが起こった。

 あるベテランのドイツ人記者は「彼とドイツ大会最後の試合だったのに、クレージーだ。もう一度、あのシーンをビデオで確かめてみたい」と残念そう。国際サッカー連盟(FIFA)の技術研究グループの一人も「あれだけ経験のある偉大な選手なのに、なぜあんなことを」と嘆いていた。 (共同) 

[ 2006年07月10日 09:41 速報記事 ] 

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ジダン頭突きで退場 突然切れた 
 
  寡黙で静けさを愛するジダンに潜んでいたもう一つの気質。34歳で迎えた現役最後を飾るはずのW杯決勝の大舞台で、「突然、切れる」といわれる悪癖が出た。暴力行為による一発退場。主将が延長戦の勝負どころでピッチを去り、フランスは優勝を逃した。

 延長後半5分。ジダンはイタリアのDFマテラッツィと二言三言、言葉を交わした。その次の瞬間、相手の胸板にいきなり頭突きを食らわせた。マテラッツイはもんどり打って倒れ、主審は副審に確認の上、ジダンにレッドカードを突きつけた。世界中の誰もが美しい結末を期待したジダン最後の試合で、最悪の幕切れが待っていた。

 これがその技巧と優美なプレーにマエストロ(巨匠)の称号を冠せられた芸術家が持つ二面性なのか。初優勝した1998年フランス大会でもジダンは1次リーグのサウジアラビア戦で相手選手を踏み付け2試合の出場停止。ユベントス(イタリア)時代にも欧州チャンピオンズリーグで相手選手に頭突きを見舞い、5試合の出場停止処分を受けている。

 延長に入ってフランスは終始攻勢。イタリアは青息吐息だった。騒然としたスタジアム全体からは見たくないものを見せられた不満のブーイングがうずまいた。ジダンが退場になった時点で、フランスから勝機が遠のいた格好となった。

 PK戦の末に優勝を逃したフランスのドメネク監督は、フランス人らしい皮肉で退場を悔やんだ。「マテラッツィがジダンに何を言ったのかは知らないけどね。この試合の最優秀選手は、ジダンを退場に追い込んだマテラッツィだよ」

 後ろを振り返らずにピッチを後にしたジダンの目には涙がにじんだ。黄金のトロフィーの横を通り過ぎてロッカーに消えた。華やかなサッカー人生の最終章に、取り返しのつかない過ちを犯した。希代の司令塔は何も語らず現役生活の幕を引いた。 (共同)

[ 2006年07月10日 06:48 速報記事 ] 


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男がハマる女の香水ランキング [雑学]

男がハマる女の香水ランキング

1、クリスチャンディオール(ピュワプワゾン) 15%

2、ブルガリ(オ・パフメオーデブラン) 13%

3、ドルチェ&ガッバーナ(ライトブルー)11%

4、ルーチェフレグランス(ピンクタイフーン)9%

5、シャネル(シャネルNO.19) 7%

6、ブリトニースピアーズ(キュリアス) 6%

7、アランドロン(サムライウーマン)5%

8、エリザベスアーデン(グリーンティー)4%

9、パームツリーパシャ3%

10、ブルガリ(オムニアクリスタリン)2%

 フランスで香水が発達したのは入浴して体を洗う習慣がなかったからだと言われている。つまり、昔のフランスの貴婦人たちは垢臭いにおいを隠すために香水を全身に振りかけていたというわけだ。

 さらに昔のフランスの貴婦人たちはにおいに弱い男の性(さが)を熟知していたから、ベッドインする前はとりわけ芳しい香水を用いていたという。

 「私はそんなに男性経験が豊富じゃないけど、男の人がにおいに刺激されるってことくらいは知ってます。今使っているのはディオールのピュアプワゾンなんだけど、これはピュアな香りがするので、男の人の好感度は高いと思います(25歳・OL)

 「ブルガリの香水はハズレがないから、パフメオーデブランとオムニアクリスタリンを併用してます」(24歳・デパート勤務)

 多くの女性はブランド物の香水にこだわっているようだけど、香水を毛嫌いしている男がいるってことも知っておくべきかもしれない。

 「僕は香水なんかよりも石けんのにおいに興奮します」(29歳・会社員)


大統領を幻惑した香水伝説

 マリリン・モンローが愛用していた香水はシャネルの5番だった。

 「彼女は寝る時は何も着けずにシャネルの5番だけを全身に振りかけて寝ていたみたいですよ」(映画評論家)

 そのモンローに幻惑されたのが、ジョンとロバートのケネディ兄弟だ。ヤンキースの大スターだったジョー・ディマジオも幻惑された1人だけど、モンローの死後も花束を手向けたという話はあまりにも有名だ。

[参考資料] 都内人気香水販売店調べ
2005年11月25日 posted by BlogMarket


 


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たまには粋に飲みたい [コラム]

たまには粋に飲みたい

 作家の故池波正太郎さんといえば時代小説。「鬼平犯科帳」「剣客商売」などが今も根強い人気だが、一方で美食家としても知られた

▼「てんぷら屋に行くときは腹をすかして行って、親の敵にでも会ったように揚げるそばからかぶりつくように食べていかなきゃ」「酒は少ししか飲めないよ。たくさん飲むとてんぷらの味が駄目になってしまう」(「男の作法」)

▼こんなきれいな飲み方ができればいいが、なかなかそうはいかない。深酒をすると朝の寝床で後悔が待つ。「私の半生は、ヤケ酒の歴史である」(太宰治「十五年間」)。酒飲みはこんな一節に思わず共感してしまう

▼酒場詩人を自認する吉田類さんが先月下旬、本紙連載「列島ぬくもりの旅」(月一回)の取材で熊本市を訪れた。大雨にたたられたがさすがの“手だれ”、大いに飲んで食べて、触れ合い、熊本の食と文化を満喫したようだった

▼まずは片岡演劇道場で芝居を見ながら日本酒。玄海竜二さんらの芝居と踊りに「レベルが高いですね」。女優陣には「美しい人ばかり」。河岸を替え、焼酎に馬刺、辛子れんこん。「うまい。熊本は豊かだ」。酒場の集積度にも少々驚いた様子で「熊本は奥が深いなあ」

▼吉田さんは酒場をテーマに俳句を作る。「酒は人の心を鼓舞するために飲まれるもの。酒場はその舞台の一つにすぎない」。けれども、酒場は時に「駆け込み寺のように擦り切れた心を癒やしてくれる」(「酒場歳時記」)

▼熊本の舞台装置はなかなかいいようだ。<酔ふ女(ひと)の仕草や風に月見草>。吉田さんならずとも、時には粋に決めたいものだ。 


新生面
2006年8月1日(火) 熊本日々新聞


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迷惑千万の漂着物 [コラム]

迷惑千万の漂着物

 「名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子(やし)の実一つ」。明治時代の島崎藤村の詩に、昭和になって大中寅二が曲を付け、国民的愛唱歌として親しまれてきた「椰子の実」。詩にも曲にもロマンがあふれ、夏の海辺でふと口ずさみたくなる歌である

▲「砂浜に椰子の実が漂着しているのを見た」と島崎に話して聞かせたのは民俗学者、柳田国男である。それをヒントに島崎は詩を編み、後に柳田に「あれを貰(もら)いましたよ」と語っている(柳田著「海上の道」)。大海原を越えて来た小さな漂着物に、詩人の心を揺さぶる何かが秘められていたのだろう

▲海辺で詩想を練る人がいれば、漂着物を丹念に調べて沿岸国の社会状況を探る学者がいる。漂着物を拾ってアートに仕上げる芸術家もいる。海辺は人の心を世界に開き、ロマンチストにする

▲そんな海辺のロマンをぶち壊しにする漂着物が今、本県沿岸を襲っている。大量の流木だ。被害は県内11市3町に及び、総数約2万8千本。夏休みというのに海水浴場も使えない。一体、どこから漂流してきたのか、原因も経路もなお不明だ

▲おまけに、付着貝殻が腐って悪臭を放っているというから始末に負えない。被害を受けた市町は撤去作業に大わらわだが、その膨大な費用の確保に頭を痛めている

▲「流れ寄る」のが「椰子の実一つ」なら大歓迎だが、「腐臭放つ流木あまた」では詩も歌も作れない。迷惑千万の漂着物である。(信)
 


水や空
2006年7月26日付 長崎新聞


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靖国神社と戦没者墓苑

靖国神社と戦没者墓苑

  東京都千代田区にある靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑の距離は非常に近い。軍人をまつる靖国神社、軍人、民間人の区別なく海外で没した無縁遺骨を安置する墓苑という違いはあるが、共に戦没者に深い哀悼の意を示す場である点では隔たりがない

▲その墓苑に昭和天皇の御製を刻んだ碑がある。「国のため 命ささげし人々の ことを思へば 胸せまりくる」

▲1959年の墓苑創建に際して詠まれた歌だ。天皇の哀悼のお気持ちは、神社にまつられる人々にも、墓苑に眠る人々にも、隔てなく寄せられていたことがよく分かる

▲昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と語ったという元宮内庁長官のメモが見つかった。天皇の参拝中止の理由を示す初めての史料だ

▲あの戦争の過程で、天皇の意に沿わぬ方向に事態が押し流された局面もあったようである。だが、戦後は立場上、そうした問題に触れることなく、黙して過ごされた。メモに残された激しい言葉から察するに、やはり複雑な思いを抱いて戦後の長い歳月を過ごしておられたのだろう

▲靖国で手を合わせ、墓苑で手を合わせるうちに、戦争の犠牲者のあまりに膨大なことにあらためて驚かされる。その悲惨を思えば、国民が政治的対立を知恵で回避し、共に静かに死者を追悼する日が一刻も早く訪れるようにと願わずにはいられない。(信)
 

水や空
2006年7月24日付 長崎新聞


 


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スポーツと暴力 [コラム]

スポーツと暴力

 スポーツ界が暴力で揺れている。ワールドカップサッカー決勝でのフランス・ジダン選手の頭突き退場と本人の釈明が波紋を広げる中、礼節を重んじるはずの大相撲で前頭3枚目の露鵬(ロシア出身)がカメラマンへの暴行で3日間の出場停止処分を受けた

▲最も大切な引退試合での最悪の幕切れ。「未来を担う少年少女たちにサッカーを通じて希望や夢を伝えたい。これは優勝以上に大切なことだ」「サッカーW杯 英雄たちの言葉」(集英社新書)と語っていたジダンに何が起こったのか

▲テレビのインタビューで「(イタリア選手から)耐え難い言葉を繰り返された」と釈明した。自ら「許されない行為」とし、「世界中の子どもたちに謝罪する」とする一方で「自分の行為を後悔するわけにはいかない」とも述べている

▲移民2世のジダンの釈明には、移民社会と伝統社会がせめぎ合うフランスの苦悩もにじむ。だが、スポーツを通じて暴力や差別の撤廃をアピールしていただけに「子どもたちのためにも非を認めるべき」との声も広がっているという

▲露鵬の暴行問題の背景に外国人力士の増加を指摘する声もある。「礼に始まり、礼に終わる」大相撲の伝統文化を十分教育しないまま、促成したツケが回ってきている。礼節の乱れは大相撲を単なる格闘技にしてしまいかねない

▲名選手、名力士に共通するのは品格。いかなる理由があっても「キレる」こととは無縁である。(宣)
 


水や空
2006年7月18日付 長崎新聞

 

 


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トルーマンの船旅 [コラム]

トルーマンの船旅
 
  1945年7月上旬、ちょうど61年前の今ごろ、米大統領トルーマンは船に乗り、大西洋を東に向けて旅立った。ポツダム会談に臨むためだ

▲船上に重大な情報が届いた。天皇が早期終戦の意向を表明したという内容だ。日本政府の電報を米軍が傍受して得た情報で、「日本が終戦を望んでいる明快かつ劇的な証拠」(米歴史学者ガー・アルペロビッツ)だった

▲ただ、電報にはこうもあった。「英米が無条件降伏を要求している限り、戦闘継続以外に道はない」。天皇制存続さえ保証してくれれば和平に応じたい、それが日本政府の本音であることを、米側は知り抜いていた

▲頑(かたく)なに無条件降伏を求めることには米国内でも批判が出ていた。新聞は社説で「無条件降伏に固執するな」と唱え、多くの政治家たちが「天皇制存続を保証して日本を早く降伏に導いた方が、米兵の損害も減る」と主張した

▲だが、大統領は耳を貸さず、ポツダム宣言の草案から天皇制保証条項をわざわざ削除させ、あらためて無条件降伏要求を突きつけた。日本は降伏したくてもできない状況に追い込まれ、原爆投下の日を迎える

▲ところが実は、米側は「天皇制容認」の腹を固めていた。トルーマンがその本音を隠し続けた理由はただ一つ、日本の降伏を遅らせて原爆を実際に使うためである。61年前の夏のトルーマンの船旅は、原爆を使わずにすむ選択肢を最終的に握りつぶす旅でもあった。(信)
 

水や空
2006年7月4日付 長崎新聞


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「稲むらの火」と防災教育 [Business]

「稲むらの火」と防災教育

昭和12年から22年まで使われていた小学5年生の国語の教科書に、「稲むらの火」という教材が載っていた。

高台に住む村の庄屋の老人(五兵衛)が、不気味な地震の揺れを感じたあと、海水が沖へ向かって引いていくのを見て、津波の襲来を予感し、家の庭に積んであった稲むら(刈り取ったばかりの稲の束)に火をつけ、海辺に住んでいる村人たちに、庄屋の家が火事だと思い込ませ、全員を高台に集めて、津波から村人の命を救ったという話である。

当時これを学んだ人の多くが、他の教材は忘れていても、「稲むらの火」だけは鮮明に覚えているという。

この物語は、もともと1854年安政南海地震の際に、紀州藩広村であった濱口儀兵衛の実話がモデルになっている。物語を通じて、多くの子どもたちに感銘を与えたこの「稲むらの火」こそ、防災教育の不朽の名作と位置づけられているのである。

そこには、1年の収穫である稲むらを燃やしてまで、村人を救った五兵衛の物語を通して、人の命の尊さを教える防災の基本理念が盛り込まれている。

また、海水の異常な動きから津波の襲来を予見した五兵衛の自然認識の確かさを通して、先人からの伝承がいかに大切なものであるかをも教えている。

さらに五兵衛の行動は、危険を予知したとき、速やかにその回避に努める、いわば地域防災の責任者としての行動であって、現代に通じる危機管理のモデルとも言えよう。

2004年12月26日、スマトラ島沖巨大地震による大津波が、インド洋沿岸諸国に大災害をもたらしたことは記憶に新しい。折から、直後の2005年1月、阪神・淡路大震災から10年の節目にあたって、神戸市で開かれた「国連防災世界会議」の冒頭、「稲むらの火」の教訓は小泉総理の演説にも盛り込まれ注目を集めた。

この7月17日にも、ジャワ島の沿岸を大津波が襲い、多くの死者を出した。我が国でも、大津波災害をもたらすであろう東海地震などの切迫性が指摘されているところである。

そんななかで、防災の理念を正面きって声高に叫ぶよりも、「稲むらの火」のような感動的な物語を通して、人の心を打つ教育、情緒や情感に訴える教育の方が、はるかに勝っているように思えてならない。

(防災情報機構会長 伊藤和明)


伊藤 和明 (いとう かずあき )

防災情報機構会長

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略  歴
昭和28年
東京大学理学部地学科卒業
同年 東京大学教養学部助手

昭和34年
NHK入局 科学番組の制作を担当

昭和53年
NHK解説委員に就任

平成 2年~平成12年 
NHK部外委嘱解説委員

平成 2年~平成13年 
文教大学国際学部教授

政府関係委員
中央公害対策審議会委員、消防審議会会長、海洋開発審議会委員、地震調査研究推進本部政策委員会委員などを歴任
現在  社会資本整備審議会河川分科会委員(国土交通省)
中央防災会議専門委員(内閣府)
地球環境研究等企画委員会委員(環境省)

解説・評価の対象分野
地震、噴火、風水害などの自然災害と防災
地球環境問題、自然環境保全、環境教育など環境問題一般
宇宙と地球の科学など

著書
『日本の地震災害』~岩波新書~(岩波書店)
『地震と噴火の日本史』~岩波新書~(岩波書店)
『直下地震!』~科学ライブラリー~(岩波書店)
『大地震・あなたは大丈夫か』(日本放送出版協会)
『火山・噴火と災害』(保育社)
『自然とつきあう』(明治図書)
『地震と火山の災害史』(同文書院)ほか

 

特別寄稿

小泉内閣メールマガジン 第245号 ========== 2006/08/03


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日本たばこ産業(JT) 初の増税分以上の値上げがもたらす転機 [Business]

日本たばこ産業(JT)

初の増税分以上の値上げがもたらす転機

「初の値上げ」をどう織り込むか--日本たばこ産業(JT)の2007年3月期の収益の注目点の1つがこれだ。

 7月1日からの増税分を合わせて、国内シェア32%を誇る主力のマイルドセブンシリーズなどを1箱当たり10~30円値上げした。利益押し上げ額は単純計算で360億~400億円の見通し。会社側は「値上げによる増益効果はない」と慎重だが、株式市場の見立ては少し違う。

 今期の連結営業利益は、アナリスト予想の平均(QUICKコンセンサス)が前期比3%減の2965億円なのに対し、弱気のJT予想は同12%減の2700億円と大きな開きがある。


値上げ益は社会に“還元”

 「値上げと増益は結びつかない」と強調するJTは、業界で取り組む新しい自動販売機の導入などをその理由に挙げる。全国62万台ある自販機を2008年に、登録者のみが購入できる成人識別機能付き型に更新する計画で、その負担が約600億円。空港や駅前といった公共スペースでの分煙設備の設置に毎年100億円。「社会還元のコスト」が膨らむという。

 さらに、初めて増税分以上の値上げに踏み切ることで、「どこまでマイナスの影響が広がるか全く読めない」。「値上げを機に喫煙者30人に1人がやめれば、増収効果が文字通り“煙と消える”」との試算もあるという。

 ただ、株式市場はそこまで悲観的には見ていない。

日興シティグループ証券の三浦信義アナリストは、ほぼ横ばいの営業利益3107億円(前期3069億円)を予想する。「似たような市場環境で、値上げによって販売本数減をカバーし、利益成長を続けてきた海外メーカーと同じ道をたどる」と指摘する。

 たばこは国の健康増進政策や税金の面などを考えると、「商品の値下げはあり得ない」とJTは言う。国産たばこの税抜き価格は111円弱と米英の200~300円に比べて割安なため、逆に値上げの余地は大きいからだ。

外国人投資家も着目

 何より、「たばこ市場の確実な縮小傾向を予測できる分、必要なコスト対策を講じやすい」(三浦氏)点も見逃せない。たばこ販売本数がこの5年で4分の3に減ったのに合わせて、JTは国内工場の閉鎖と人員減を継続的に実施している。こうした費用低減で、連結営業利益の7割を占める国内たばこ事業の営業利益は2006年3月期に前の期比2%増の2200億円を確保した。

 薬品業界などと並ぶ「ディフェンシブ銘柄」の代表格だが、株価が上場来高値圏にあった今年3月末、JTの外国人株主比率は過去最高の27.4%となった。株式の50%を国が保有しているため、浮動株で見た外国人比率は過半以上に跳ね上がったことになる。市場が大きく伸びない中で実質無借金、現預金は総資産の10%を超える水準と底堅い財務基盤を構築してきたJTに、外国人投資家が今後の可能性を感じ取ったのかもしれない。

 縮む市場の中で安定した収益性を確保していくために、JTはたばこ事業の費用低減のほか、海外たばこ事業のM&A(企業の合併・買収)、たばこ以外の事業拡大と手を打ってきた。こうした収益の多様化戦略よりも、海外メーカーと同じくたばこの国内販売単価の引き上げでそれなりの利益水準を確保できるのか。今年の値上げは、JTに新たな事業戦略の構築をもたらすかの試金石になる。

 

(日経ビジネス 馬場 完治)

2006年8月1日 火曜日 NBonline


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サッカー戦争終結 [コラム]

サッカー戦争終結

 トリノ五輪、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に続くスポーツのビッグイベント、サッカーのワールドカップ(W杯)ドイツ大会まであと1カ月。

 ジーコジャパンは15日にW杯日本代表の登録23選手を発表する昨年、オランダリーグのヘラクレスに入団、日本人の海外組で1シーズン最多の8得点を挙げた国見高出身の平山相太選手は、残念ながらジーコ監督の目には留まりそうにない。休学中の筑波大は退学し、プロに専念するというから今後のさらなる成長を期待したい

▲観客延べ300万人、テレビ視聴者数は延べ300億人に達すると推定されるW杯。その歴史を語る中で欠かせない出来事のひとつが「サッカー戦争」と呼ばれる1969年の中米ホンジュラスとエルサルバドルの衝突である

▲両国は国境線問題などで火種を抱えていたが、中米予選でホンジュラスが負けたことがきっかけで武力衝突にまで発展した。国境線問題は国際司法裁判所に付託され、37年後の4月18日、両国は国境線画定文書に署名し紛争に終止符を打った

▲4年前にW杯を共同開催した日韓も竹島の領有権をめぐって対立。日本は国際司法裁判所の場での解決を持ち掛けているが、韓国は拒否。先日も海洋調査をめぐって火花を散らしたばかりだ

▲「サッカー戦争」の最終終結を教訓にしたい。日韓に必要なのは偏狭なナショナリズムの熱狂ではなく、善隣外交という冷静な英知である。(宣)
 


水や空
2006年5月7日付 長崎新聞


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ミドルネーム「アマデウス」の由来 [Music]

ミドルネーム「アマデウス」の由来

 今年は生誕250年ということでモーツァルトが注目を集めている。生まれは1756年1月27日。フルネームはヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)。あらためての説明は不要だが,最も有名なクラシック音楽の作曲家の一人であり,また,ハイドン,ベートーヴェンと並ぶウィーン古典派三巨匠の一人される。オーストリアのザルツブルクで生まれ,ウィーンで1791年に死亡した。

 個人的にはモーツァルトといえば映画「アマデウス」が思い出される。1984年(日本では1985年)に公開されたこの映画は第57回のアカデミー作品賞を獲得している。受賞は全部で8部門に及び,監督賞(ミロス・フォアマン),主演男優賞(F・マーリー・エイブラハム)などを獲得した。

 この映画はF・マーリー・エイブラハム演じるアントニオ・サリエリを中心として,トム・ハルス演じるモーツァルトの物語を描いたもの。モーツァルトの才能を妬み殺害したと語る年老いたサリエリの回想というスタイルをとっている。

 この映画の原作・脚本を担当したのはもちろんピーター・シェーファー。映画の原作となった舞台「アマデウス」の戯曲を執筆した。1979年にロンドンのオリヴィエ劇場で初演されたている。この作品は翌年には米国へ渡り,ブロードウェイで上演され,1981年のトニー賞で戯曲部門を受賞した。

 舞台「アマデウス」は日本でも翻訳版が上演された。1982年の初演時は松本幸四郎(九代目)がサリエリ,江守徹がモーツァルトの配役で上演。90年代からはモーツァルトを市川染五郎が演じ,再演を重ねている。初演以来ずっとサリエリを演じている松本幸四郎の上演回数は400回に達し,当たり役となっている。

 映画や舞台のタイトルにもなった,ミドルネームのアマデウスはいまやモーツァルトの別名のようにもなっている。

 このアマデウスは洗礼名に由来する。モーツァルトの洗礼名はJohannes Chrysostomus
Wolfgangus Theophilus Mozart。「Theophilos」はギリシア語で「神に愛された」などの意味で,Theophilusはそのラテン語形。

 当時,イタリアの音楽家がもてはやされていたこともあり,モーツァルト自身がTheophilosをラテン語で意訳したAmadeus(アマデウス)を通称として用いた。イタリア語風の「Amadeo(アマデーオ)」,フランス語風の「Amade(アマデ)」,ドイツ語風の「Gottlieb(ゴットリーブ)」 も用いたとされる。

 モーツァルトの父親はザルツブルクの宮廷作曲家,ヴァイオリニストであったレオポルト。

 父レオポルトは息子の才能を見出し,幼時から英才音楽教育を施した。父と共にザルツブルクの大司教ヒエロニュムス・コロレドの宮廷に仕えながらも,親子でウィーン,パリ,ロンドンなどに演奏旅行に出かけた。よりよい就職先を求めるためだったが,どこの宮廷にも職を得られなかった。

 モーツァルトは25歳の時(1781年),ザルツブルグからウィーンに移った。コロレドとの対立もあり,解雇されそのままウイーンに定住する。以降はフリーの音楽家として,演奏会,オペラの作曲,レッスンなどで収入を得た。

 一時期,ピアニストとして評価されたものの,晩年の数年間は収入が減り,生活苦を余儀なくされた。1787年以降,ヨーゼフ2世から「宮廷作曲家」の称号を与えられたものの,死ぬまで公的な地位に就くことはなかった。

 没したのは1791年,35歳の若さだった。ウィーンでレクイエムの作曲中のことだったという。ウィーン郊外の共同墓地に葬られた。

 モーツァルトは妻コンスタンツェとの間に四男二女をもうけたが,そのうち成人したのはカール・トーマスとフランツ・クサーヴァーだけで,残りの4人は死亡した。成人した2人はどちらも子供を残さなかったため,モーツァルトの直系の子孫はいない。

モーツァルトの曲が副交感神経に作用

 短い生涯ではあったが,モーツァルトが残した作品数は700曲以上に及ぶ。あらゆるジャンルで作曲しており,オペラや歌曲などの声楽曲,交響曲,協奏曲,ピアノソナタなどの器楽曲の両分野にも多数の作品が残されている。

 作品の識別にあたっては通常,植物学者のルートヴィヒ・フォン・ケッヘルが分類した作曲順の目録であるケッヘル番号(K.+数字)が使われる。ケッヘル番号は何度か改訂されており,最新のものは第8版。

 モーツァルトの作品はほとんどが長調だ。軽快で優美な曲が多い。これは,当時の音楽の流行を反映したもので,ロココ様式あるいはギャラント様式と呼ばれる。晩年に向かうにつれて,長調の作品であっても深い哀しみを帯びた作品が増える。短調作品は少ないものの,人気が高いという。

 近年,モーツァルトの曲は音楽療法に用いられていることでも知られている。テレビ番組などでも盛んに取り上げられている。

 音楽には通常,交感神経の緊張をほぐし心身を休ませる音の特性が組み込まれている。中でも人間の耳殻の構造上,敏感に感じ取れる約4000ヘルツ以上の高い周波数の音が,穏やかなゆらぎを伴って豊富に存在している。

 和音が豊富なために音と音の衝突により,高い周波数を生み出す効果もある。副交感神経にうまく作用して,血管が拡張して血行がよくなるのだという。血液の循環が良くなることで,冷え性の予防や改善に効果があるという。

 音楽療法に詳しい,和合治久・埼玉医科大学短期大学教授によると「モーツァルトの曲にそうした効果が生まれる理由の一つは,高い周波数の音が含まれているということ。

 脳にダイレクトに刺激を与えるのは聴覚(耳)からの刺激によるところが強く,しかも音域は高いほど延髄から自立神経を司る視床下部への反響があるからです。

 モーツァルトの曲にはリラックス状態を導く「1/fゆらぎ」がバランス良く入っているなどさまざまな要素があり,これらの複合的な働きで副交感神経に作用し,活性酸素が減少したり,リンパ球の機能が増強したり,加えて血行が良くなることで,ガンや感染症,アレルギーの予防や抑制につながるのです」としている。

2006/07/21

日経BP 総合 セカンドステージ


 


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イラク撤収、自衛隊には何が必要だったのか [Middle East]

イラク撤収、自衛隊には何が必要だったのか

 イラクに派遣されていた陸上自衛隊が撤収することになった。装備品などをコンテナに詰め、いったんクウェートに運んでから日本へ輸送する。最後の第10次隊の帰国は8月以降となりそうだ。

 2年半にわたって、述べ5500人。自衛隊発足以来、初めての「戦争が行われている国」への本格的派遣であった。政府は現地サマワを、派遣が許される「非戦闘地域」と認定してきたが、これは建前であって、実際には何が起きても不思議ではなかった。撤収作業中が最も危険ともいわれており、最後まで「一人の犠牲者も出さなかった」ことを貫いてほしいものだ。

 撤収決定で、まず注目されたのが米国の態度だ。米英軍を主体として、いまだにイスラム原理主義テロ集団との激烈な戦闘が展開されている。自衛隊撤収決定と前後して、拉致されていた米兵2人の惨殺死体が発見されている。

 米国の意向に反しての撤収となると、日米関係に決定的な亀裂が生じる。幸いなことにというべきか、事前の周到な調整が実ったというべきか、米政府の態度は自衛隊撤収に十分な理解を示すものであった。

 現地のムサンナ県の治安維持活動の権限が英豪軍からイラク側に委ねられる。そのことが「海外で武力行使ができない」自衛隊の撤収を可能にした。だが、陸自警護に当たっていた豪軍460人は、自衛隊撤収後、さらに危険度が高いとされるナシリア近くのタリルに派遣され、イラク治安部隊の支援、訓練任務に従事する。

 オーストラリアのこの決定は、米国支援の姿勢をより強固に示す狙いがある。日本とは次元が違う政治決断が必要だったことを、日本側も意識すべきである。

正当防衛という“盾”だけで任務は全うできるか

 小泉政権は周辺事態法やアフガン支援(インド洋への補給艦派遣)、そしてイラク派遣と、自衛隊の国際貢献のステージを高めてきた。国家としての基本姿勢の「改革」として、この側面は評価されてしかるべきだ。日米同盟を基軸とした安全保障体制の根幹はより強じんなものとなった。

 だが、問題はこれからである。事態が起きるたびに特別措置法をばたばたと成立させて自衛隊派遣を可能にするという便法から脱却すべきだ。当然、「恒久法」が必要である。

 憲法改正の焦点である9条が改正されれば、「軍」の保持と国際貢献(つまり海外派遣)が明記されることになるが、それを待つわけにはいかない。いかなる事態にも即応できる法整備が求められている。ポスト小泉政権の重要な課題である。

 それには様々な観点があろうが、主要なポイントは交戦規定の整備だ。現在は基本的には警察官の武器使用基準と同様である。自己への危険が迫った場合の「正当防衛、緊急避難」のケースでしか、武器を使用してはいけないことになっている。

 自己の管理下にある者、つまり、野戦病院に収容されている傷病隊員などに危険が迫った場合も含まれるなど、若干の修正は施されたものの、基本としては相手から撃たれなければ撃ち返せない。これでは戦闘行為が行われている地域で任務を全うできるわけがない。

 民主党代表となった小沢一郎氏は、国連待機軍、国際安全保障という持論を展開してきたが、自衛隊派遣に反対したのは「原理原則ができていない」という理由からであった。ありていに言ってしまえば、派遣する以上、他国の軍隊と同様の行動が取れるようにしてやらなければ、自衛隊が気の毒だ、ということだろう。

 ということであるならば、自民党と民主党の間で認識を共通なものとするのは、そう難しくないようにも思える。いまは自民党総裁選、民主党代表選を前に、与野党対決ムードを演出していかなくてはならない民主党だが、この段階が過ぎれば、落ち着いた論議も可能になると思われる。

 湾岸戦争で130億ドルを拠出した日本は人的貢献がなかったために「キャッシュディスペンサー」といわれ、戦後、クウェートが米紙に出した支援各国への感謝広告に日の丸はなかった。

 以来、国際社会で尊敬される存在となるには、「カネだけでなく、汗も血も」の基本姿勢が必要であるという冷厳な事実を突きつけられたのである。このことの論議をもう一度起こす必要がある。

国内訓練とイラクとの間にある違い

 新聞社在勤時代、防衛庁を担当したことがある。月に1回ほどの頻度で基地視察があった。ある基地で目の前に戦闘機を置いて、機銃掃射を実演してくれた。

 すさまじい機銃の発射音、バラバラと飛び散る薬莢(やっきょう)に度肝を抜かれた。夜の懇親会の前に、広報担当者から「相談がある」と呼ばれた。薬莢が一つ足りなくなったというのだ。

 自衛隊は、訓練で使った薬莢を全部集めて数を点検する。発射した数と合わなくてはいけない。「記者のだれかが拾ったのだろう。欲しければ改めて用意するから、いったん返すよう全員に聞いてくれないか」というのである。

 一人ずつ聞いていったら「犯人」が判明、そっと返してもらった。翌朝、全員に土産として、磨き上げた薬莢がプレゼントされた。

 イラク派遣に当たって、隊員の銃の発射訓練が変更された。自衛隊の場合、銃は標的に向かって体を横にして撃つ。相手から見れば、的の幅が狭くなって当たりにくいからだ。

 だが、防弾チョッキは脇の下が開いている。したがって、正面を向いて両腕を突き出して撃つやり方に変えた。訓練では薬莢を拾い集めて数を合わせないといけないから、撃った後、目で薬莢の行方を追うクセがついている。

 「薬莢を目で追うな」ということを徹底させるのにずいぶん苦労した。これは派遣隊長の一人から聞いた。

 より実戦態勢に近づけるために、一般には言えない苦労があったのである。退職した高級幹部から「実際にそういう事態になったらやりますよ。部隊長が目配せするんです。口に出して撃てとは言えませんから」と聞いたこともある。

 がんじがらめの態勢の中で、自衛隊の最前線はそこまで考えている。

 イラクへの自衛隊派遣には様々な意見があろうが、これだけは言っておきたい。派遣隊員たちは「公のために死ぬ」覚悟を示してくれたのである。これは、戦後の稀有な例である。
 

(花岡 信昭)


花岡 信昭(はなおか・のぶあき)氏プロフィール

現職

ジャーナリスト
慶應義塾大学院(法学研究科)講師
国士舘大学院(政治学研究科)講師
日本大学(国際関係学部外交官養成講座)講師
読売新聞監査委員会審査委員

 


略歴

1946年4月2日 長野市生まれ
1969年3月 早大政経学部政治学科卒
1969年4月 産経新聞東京本社入社。社会部を経て政治部(首相官邸,自民党,大蔵省,外務省,       防衛庁など担当)
1986年7月 政治部次長
1992年7月 論説委員兼編集委員(政治担当)
1994年2月 政治部長
1995年7月 編集局次長兼論説委員
1997年7月 論説副委員長(政治,外交,安保など担当)
2002年7月 産経新聞退社、評論活動にはいる

所属組織・学会など

日本記者クラブ会員、日本政治学会会員、日本マス・コミュニケーション学会会員、早稲田政治学会会員、東京財団委託研究プロジェクトリーダー、神奈川県戦略会議委員・道州制検討部会長、日本戦略研究フォーラム評議員、民間憲法臨調代表幹事、学校法人郁文館学園監事、NPO法人全国介護者支援協会理事

著書

小泉純一郎は日本を救えるか(PHP)/小沢新党は何をめざすか(サンドケー出版局)/沈黙の大国(扶桑社)/竹下登全人像(行研)/深紅のバラを検証する-日本社会党の研究(東洋堂)/政治家に学ぶ実力倍増法(山手書房)/検証・法人税(MG出版)/美濃部都政12年の功罪(教育社)

連載コラムなど

サンケイスポーツ、世界週報、時事通信コメントライナーなどに定期執筆。正論、諸君、VOICE、WiLLなどに論文。

2006/06/27
日経BP SAFEY JAPAN


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