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ビートルズ [コラム]

   世界で最も有名なロックバンドといえばビートルズだろう。英国・リバプール出身の4人組は1962年のきょう、レコードデビューした ▲以来13枚のアルバム、22枚のシングルを発表。ヒット曲を連発し、63年11月発売の「抱きしめたい」のシングル盤は世界で1200万枚以上の売り上げがあり、歴代でもトップクラスのセールスを記録するなど世界中の音楽ファンを魅了した ▲解散したのは70年。来年で40年になる。この間、メンバーのジョン・レノン、ジョージ・ハリスンの2人は他界。4人そろっての生演奏を聴くことはもはやかなわない ▲だが、これまでの音源をデジタル処理したリマスター盤が今年9月に発売されるや、180万枚を超えるヒットになっているというから、その根強い人気のほどがうかがえる ▲リマスター盤発売を記念して「ヤフージャパン」などが実施した好きなビートルズの曲の人気投票には約26万の投票があり、ベスト3には「レット・イット・ビー」「イン・マイ・ライフ」「ヘイ・ジュード」が選ばれた ▲いずれもおなじみの曲だが、あらためて聴き直すと、発表されてから40年以上たつのに今もなお新鮮な響きとともに、歌詞に込められた社会への風刺や愛、人生、平和についての彼らの思いが心に伝わってくる。リマスター盤ではないが、秋の夜長に久しぶり古いレコードを引っ張り出して聴くのも悪くない。(裕) 水や空 長崎新聞 (2009年10月5日付)
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世界に通用した江戸時代の日本人 [コラム]

 ■自尊心・美意識・叡智を備える

 ≪大黒屋光太夫の見事さ≫

 現代と江戸時代の日本人を比べて、どちらが世界に通用する国際人が多かったか。私は無条件に江戸時代だったと思う。この場合、国際人というのは、国外で外国語を使ってあるいは専門家として仕事ができるという意味ではない。たとえ言葉が下手でも、宗教や文化の異なった国、異なる文明圏においても「人物」として敬意を払われるだけの人格や見識を有しているということだ。江戸時代では、地方の村の庄屋や世話役クラスの人物でも、世界のトップの社交界でさえも「人物」として一目置かれるだけの精神的な資質と人格を有していた者が少なくなかった。一例として、偶然ロシアに漂着した伊勢の大黒屋光太夫の例を挙げてみよう。

 彼は地方の商人で廻船の船頭であった。18世紀にアリューシャン列島に漂着し、イルクーツクで学者のラックスマンに認められ、やがてサンクトペテルブルクに行く。フランスの探検家ジャン・レセップスがカムチャツカの町に寄ってロシアの地方長官の家を訪問したとき、偶然その家に滞在していた光太夫を目にしている。レセップスはその旅行記に光太夫について詳しく報告し、作家の井上靖も『おろしや国酔夢譚』でその旅行記にふれている。レセップスは光太夫について、見聞を綿密に日記に記し、自己の考えを臆(おく)せず述べる堂々とした人物として伝えている。

 サンクトペテルブルクでも光太夫は、エカテリーナ女帝に2度拝謁(はいえつ)し、皇太子をはじめ上流階級の人々と交わった。ロシアのトップの社交界でも、一目置かれるだけのオーラを発していたのだ。10年ほどのロシア滞在の後、帰国の機会を得るが、彼が桂川甫周(ほしゅう)に口述した『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』(寛政6=1794=年)は、今日のロシアや欧米においても、18世紀のロシア研究の貴重な資料とみなされている。

 ≪地方の庶民の高い資質≫

 光太夫は、選ばれて日本から派遣された人物ではなく、偶然ロシアに漂流した一庶民にすぎない。私が驚くのは、江戸時代の地方の一般庶民が有していた人間的な資質、知的レベルの高さである。農村でも、少なくとも旧家などには、優れた人材がたくさんいた。島崎藤村は木曾路の本陣のひとつで庄屋でもあった自らの家庭について、小説『夜明け前』に詳しく描いている。江戸時代の末、木曾の山奥でも庄屋や医者の子たちが国を思い、国学や蘭学に打ち込み、日本の開国問題を真剣に論じていた雰囲気が生々しく伝わってくる。

 私が子供の頃住んでいたのは広島県の旧福山藩のはずれの村で、隣に加茂村という山村があった。その山奥に江戸時代から続いている2つの旧家があった。一方からはシーボルトの57人の弟子の1人窪田亮貞が、他からは作家井伏鱒二が出ている。また隣の宿場町神辺には菅茶山(かんちゃざん)が開いた廉(れん)塾があった。茶山は藩儒に、という福山藩からの招きを長年断り民間人として頼山陽など全国からの好学の士に儒学や詩を教えた。茶山の学問や芸術の精神と権力に媚(こ)びぬ毅然(きぜん)とした態度は、地方全体に影響した。井伏も、この地方では茶山の書を持っていないとまともな家とみられず、結婚にも差し支えたと述べている。

 ≪幼稚化した現代日本人≫

 江戸時代の地方人や地方文化、恐るべしである。今の日本のどこかの市長や町会議長で、いや大臣や国会議員、官僚でも、世界のトップの社交界で知的、人格的にしっかり存在感を示しうる人物がどれだけいるだろうか。私は、明治以後、日本人は立派な業績もあげたが、江戸時代と比べると一般に人間的には幼稚化し、文化的、精神的には貧困化したのではないかと思っている。この点では、まだ明治時代のほうが今よりはるかにましであった。

 たしかに、わが国は欧米の学問や文化を見事に吸収し、近代化を立派に成し遂げた。しかし、日本人を次の基準で総合的に判断したらどうだろう。つまり、凛(りん)とした自尊心と信念、生き方の美学、知識ではなく知恵(叡智(えいち))、そして美意識と遊び心などを統一的に有しているか否かという観点である。残念ながら現代の私たちは、江戸時代の日本人に負けていると認めざるを得ない。といっても私は、現代人が日本人の長所や美点をすべて失ったとは思っていない。国外で生活してみると、日本の長所や日本人の素晴らしさがよく分かる。これからのわが国の政治や教育は、日本人のそして日本の長所と短所をしっかり認識し、その長所を現代的な形で再構築するところから出発すべきだろう。(はかまだ しげき)

青山学院大学教授 袴田茂樹

(産経新聞 2007/03/04 07:07)

 


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善行と美談を小学校教科書に [コラム]

■宮本警部の「殺身成仁」を讃えよ

 ≪命捨て忠義・義理を守る≫

 2月14、15日催された故宮本邦彦巡査部長(殉職後2階級特進・警部、旭日双光章受章)の通夜・葬儀などへの弔問客の数は、安倍晋三総理以下4000人近くにのぼった。自殺志願の女性を救い、身代わりに命を捧げた宮本警部がとった「護民官」たる警察官の義務をはるかに超えた、人間として崇高な自己犠牲精神の発露である。勇気ある行動に、国民はみな心から感動した。その表れが6年前に起きたJR新大久保駅で線路に転落した酔っ払いを救おうとして殉難した、韓国人留学生李秀賢さん(当時26)、カメラマン関根史郎さん(当時47)のお2人の葬儀以来のこの盛儀である。

 国会開会中の分刻みで多忙な公務の合間に安倍総理が板橋署までかけつけた。新大久保駅事故の直後、森喜朗総理(当時)が李氏、関根氏を讃(たた)えて弔問したのと同様、1億3000万国民の純粋感動を代表しての、危機管理宰相学の心得にかなった行動だった。

 新大久保駅事故のとき「殺身成仁(サルシンソンイン)」という儒教の言葉が韓国紙の1面を飾った。「自らの命を捨てて、忠義、義理を守る」という韓国人の精神だと大々的に報じられた。日本でも「見習おう韓国人留学生の『殺身成仁』精神」と、自己中心主義に陥った日本人に強く反省を求める声があがった。

 ≪「立派な日本人像」の手本≫

 李青年の両親の「普通の人の行動です。誰でも秀賢と同じことをしたでしょう」という談話は、関根さんの母上の「自然に体が動いたんでしょう」という呟(つぶや)きとともに筆者の心に深く刻まれた。宮本警部も自然に体が動いてしまったのだろう。大人になっても体が自然に動くようになるには、子供のときからそう躾(しつ)けられ、困っている者、弱っている者を助けることの大切さを小学校からしっかり教えられていなくてはいけない。教育基本法改正を機会に愛国心、公徳心を教え、「義ヲ見テセザルハ勇ナキナリ」の自己犠牲の尊さを小学校教科書で教えてはいかがだろう。

 筆者ら昭和一桁(けた)生まれの世代は、尋常高等小学校の文部省国定教科書で、人間の鑑(かがみ)となる立派な日本人像について、二宮尊徳、野口英世、そして「稲むらの火」の“庄屋の五兵衛さん”など、実例で教わったが、一番大事なのは、宮本巡査部長、韓国人留学生李さん、カメラマン関根さんのように、普通の人の善行・美談である。文部科学省は「美しい国」(安倍総理)を造り、「国家の品格」(藤原正彦氏)を保つため、国民の魂をゆさぶった純粋感動の物語を小学校教科書にのせて伝承すべきだ。これこそが真の「教科書問題」であり、自虐史観が問題ではない。

 ≪「稲むらの火」とは何?≫

 例えば前述の「稲むらの火」である。安政元(1854)年12月M8・4の「安政大地震」が起きたとき、紀伊国(現和歌山県)の有田郡広村で実際に起こった物語を、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が1897年「生ける神」(A Living God)として英米に紹介したものだ。庄屋の濱口儀兵衛(教科書では五兵衛)は、山上の自宅で大津波の襲来を予測し、1年分の収穫である「稲むら」に火を放ち、麓で村祭りに浮かれていた村民を山上に誘導し、彼らの命を救った。この善行・美談は同郷の中井常蔵小学校教員に書き改められ、昭和12(1937)年に国定教科書の小学校国語読本となって、約1000万の児童に感銘を与えた。

 これには恥ずかしい後日談がある。平成17年1月、インド洋大津波をうけて東南アジア諸国連合(ASEAN)緊急首脳会議がインドネシアのジャカルタで開催された折のこと。シンガポールのリー・シェンロン首相が小泉純一郎総理(当時)に「日本では小学校教科書に『稲むらの火』という話があって、子供の時から津波対策を教えているというが、事実か?」ときいた。長岡藩の「米百俵」の教えを知っていた小泉総理がこれを知らずに、外務省の随行にきくが、わからない。東京の文部科学省にきくが、これも知らない。そして深夜、防災専門家伊藤和明氏(76)に問い合わせ、彼が外務・文部の現役官僚らの不勉強に怒るという一騒ぎがあった。

 過日、文明批評家日下公人氏がベトナムを訪れ、同国の小学校教科書をみたら、昔自分が習った「修身」の国定教科書そっくりの徳目がならんでいて驚いたという。日本も韓国・ベトナムに負けずに「人間の鑑」の善行・美談を教科書にのせ、児童すべての心に自己犠牲の尊さを、刻みこませよう。

 (さっさ あつゆき)

初代内閣安全保障室長・佐々淳行

(産経新聞 2007/02/21 05:04)

 


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若い君への年賀状 [コラム]

■人類が誇れる文化生んだ日本

 ≪してはいけないこと≫

 新年おめでとう。君にとって、日本そして世界にとって、今年が昨年より少しでもよい年になるように祈っております。といっても、少しでもよい年にするのは実は大変なことです。

 君の生まれたころに比べ、わが国の治安は比較にならないほど悪くなっています。外国人犯罪の激増もあり、世界で飛び抜けてよかった治安がここ10年ほどで一気に崩されてしまいました。

 道徳心の方も大分低下しました。君の生まれたころ、援助交際も電車内での化粧もありませんでした。他人の迷惑にならないことなら何をしてもよい、などと考える人はいませんでした。

 道徳心の低下は若者だけではありません。金融がらみで、法律に触れないことなら何をしてもよい、という大人が多くなりました。人の心は金で買える、と公言するような人間すら出て、新時代の旗手として喝采(かっさい)を浴びました。

 法律には「嘘をついてはいけません」「卑怯(ひきょう)なことをしてはいけません」「年寄りや身体の不自由な人をいたわりなさい」「目上の人にきちんと挨拶(あいさつ)しなさい」などと書いてありません。

 「人ごみで咳(せき)やくしゃみをする時は口と鼻を覆いなさい」とも「満員電車で脚を組んだり足を投げ出してはいけません」もありません。すべて道徳なのです。人間のあらゆる行動を法律のみで規制することは原理的に不可能です。

 ≪心情で奮い立つ民族≫

 法律とは網のようなもので、どんなに網目を細かくしても必ず隙間があります。だから道徳があるのです。六法全書が厚く弁護士の多い国は恥ずべき国家であり、法律は最小限で、人々が道徳や倫理により自らの行動を自己規制する国が高尚な国なのです。わが国はもともとそのような国だったのです。

 君の生まれる前も学校でのいじめはありました。昔も今もこれからも、いじめたがる者といじめられやすい者はいるのです。世界中どこも同じです。しかたのないことです。

 でも君の生まれたころ、いじめによる自殺はほとんどありませんでした。生命の尊さを皆がわきまえていたからではありません。戦前、生命など吹けば飛ぶようなものでしたが、いじめで自殺する子供は皆無でした。

 いじめがあっても自殺に追いこむまでには発展しなかったのです。卑怯を憎むこころがあったからです。大勢で1人をいじめたり、6年生が1年生を殴ったり、男の子が女の子に手を上げる、などということはたとえあっても怒りにかられた一過性のものでした。ねちねち続ける者に対しては必ず「もうそれ位でいいじゃないか」の声が上がったからです。

 君の生まれたころ、リストラに脅かされながら働くような人はほとんどいませんでした。会社への忠誠心とそれに引き換えに終身雇用というものがあったからです。不安なく穏やかな心で皆が頑張り繁栄を築いていたから、それに嫉妬(しっと)した世界から働き蜂(ばち)とかワーカホリックとか言われ続けていたのです。日本人は忠誠心や帰属意識、恩義などの心情で奮い立つ民族です。ここ10年余り、市場原理とかでこのような日本人の特性を忘れ、株主中心主義とか成果主義など論理一本槍(やり)の改革がなされてきましたから、経済回復さえままならないのです。

 ≪テレビ消し読書しよう≫

 なぜこのように何もかもうまくいかなくなったのでしょうか。日本人が祖国への誇りや自信を失ったからです。それらを失うと、自分たちの誇るべき特性や伝統を忘れ、他国のものを気軽にまねてしまうのです。

 君は学校で、戦前は侵略ばかりしていた恥ずかしい国だった、江戸時代は封建制の下で人々は抑圧されたからもっと恥ずかしい国、その前はもっともっと、と習ってきましたね。誤りです。これを60年も続けてきましたから、今では祖国を恥じることが知的態度ということになりました。

 無論、歴史に恥ずべき部分があるのは、どの人間もどの国も同じです。しかしそんな部分ばかりを思いだしうなだれていては、未来を拓(ひら)く力は湧(わ)いてきません。そんな負け犬に魅力を感ずる人もいないでしょう。

 100年間世界一の経済繁栄を続けても祖国への真の誇りや自信は生まれてきません。テレビを消して読書に向かうことです。日本の生んだ物語、名作、詩歌などに触れ、独自の文化や芸術に接することです。

 人類の栄光といってよい上質な文化を生んできた先人や国に対して、敬意と誇りが湧いてくるはずです。君たちの父母や祖父母の果たせなかった、珠玉のような国家の再生は、君たちの双肩にかかっているのです。(ふじわら まさひこ)

お茶の水女子大学教授・藤原正彦

(産経新聞 2007/01/07 06:14)

 


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吉村昭さんの記録文学の傑作..... [コラム]

 

吉村昭さんの記録文学の傑作.....

 吉村昭さんの記録文学の傑作『戦艦武蔵』は有明海の海苔(のり)漁民の困惑から書き出される。中国大陸で戦火が広がった一九三七(昭和十二)年夏、養殖の網に使う棕櫚(しゅろ)の繊維が産地からまったく姿を消した
 
 ▼異変は九州一円はおろか、四国から紀伊半島まで広範囲に及んだ。何者とも知れぬ一団が金に糸目を付けず買いあさり、トラックで運び去った。のちに買い手は三菱重工業長崎造船所とわかる
 
 ▼三方を市街に囲まれた風光明美な長崎港にある造船所で、戦艦武蔵が建造されることになり、軍事機密を守るため、棕櫚で編んだ巨大なすだれで船台ごとすっぽり覆い隠したのだった
 
 ▼武蔵は当時帝国海軍が誇った巨艦大和の同型艦。時代はすでに空母と航空戦に移っていたのに、遅れて四二年夏に就役、わずか二年後、レイテ沖海戦で撃沈された。軍艦史上最多の被弾、損害とされる。吉村さんが棕櫚網のエピソードで伝えたかったのは、国民をひたすら欺いて破滅への道をひた走った軍国日本の愚かしさだったか
 
 ▼武蔵就役と同じ年の四月、十四歳だった吉村さんは東京・日暮里の自宅物干し台でたこ揚げ中に、ドゥーリットル爆撃隊のB25による東京初空襲を目撃した。風防の中のパイロットはオレンジ色のマフラーをしていた。『東京の戦争』(ちくま文庫)に詳しい。少年の目でつづられた庶民の戦時下の生活記録だ
 
 ▼幕末の歴史物や脱獄犯、放浪の俳人まで、資料と綿密な取材で書き上げた。飾り気のない誠実な人柄が敬愛された。また一人戦争世代が逝った。七十九歳だった。


2006.08.03
筆洗  東京新聞


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被爆地に継承の使命 [コラム]

被爆地に継承の使命
  
  「この10年、どんなに死にたい思いをしたかわかりません。でも私たちが死んでしまったら、原爆の恐ろしさを誰が世界中に知らせることができるでしょう」。被爆10周年に開かれた第1回原水爆禁止世界大会で、長崎の被爆女性が涙ながらにこう話すと、会場は深い感動に包まれた

▲あの日の地獄のすべてを伝え切るまでは死ねない。命ある限り被爆体験を語り続けよう。原爆を背負って生きる人の悲壮な決意の表明だった

▲病気、貧困、差別に苦しむ被爆者が、長い沈黙を破って体験を語り始めたのはこのころだ。絶望を乗り越え、「生きる」と決意したとき、被爆体験の継承が始まった

▲それから半世紀。被爆の語り部として立ち上がった人々も、既に多くはこの世にいない。「私たちが死んでしまったら、誰が」。懸念が現実のものとなってきた

▲だが、歳月は無駄に流れてはいない。被爆体験を積極的に受け継ごうとする若者も増えている。「被爆地長崎に生まれ、長崎に住む人間として、長崎での出来事を知っておきたい。そして、それを知らない人たちに伝えていきたい」(長崎新聞新書「高校生一万人署名活動」)。頼もしい決意の表明だ。被爆者の播(ま)いた種は確実に根を下ろしている

▲61年目の原爆の日に、私たちも声を上げよう。「被爆者が苦しみのうちに語り伝えた被爆の実相を、被爆地長崎の私たちが語り継がずして、誰が語り継ぐことができるでしょう」と。(信)
 

「水や空」

2006年8月9日付 長崎新聞

 

 


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被爆マリア [コラム]

被爆マリア

  題名に引かれて田口ランディさんの「被爆のマリア」(文芸春秋)を読んだ。被爆のマリアといえば、原爆の爆風で首から下を吹き飛ばされた浦上天主堂の木彫りのマリア像のことだ

▲原爆で倒壊した浦上天主堂の祭壇に飾られていたマリア像は、がれきのなかから頭部だけ見つかり、神父によって北海道の修道院で保存された。1975年に浦上天主堂に戻されたが、被爆60周年の昨年8月9日に祭壇と礼拝所が設けられ、安置されている

▲田口さんの作品は、父親が暴力をふるう家庭に育った若い女性が主人公だ。礼拝所ができた被爆マリア像の写真を載せた新聞の切り抜きを財布に入れ大切に持ち歩いている。といって原爆に関心があるわけではない

▲広島、長崎、チェルノブイリを訪ねた田口さんは、自分の体験していないことはわからないと言い切る。そのことを大事にしながら、原爆を「わたしの問題」として体験するには書くという行為でコミットするしかないと語る(「本の話」6月号)

▲暦のうえできょうは立秋だが、きのうは猛暑の甲子園で清峰が初戦を飾った。春の選抜を含め3度目の出場ながら堂々とした試合ぶりだ。大勝しても吉田監督の謙虚な姿勢は変わらない。それが何よりうれしい

▲あすは長崎原爆の日。被爆したマリア像の顔は黒く焼け焦げている。あの日から61年目の夏を迎えた。同じ炎天の甲子園では長崎の若者たちが活躍している。(憲)
 

「水や空」

2006年8月8日付 長崎新聞


 


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足で書く作家 [コラム]

足で書く作家
 
 新人記者に必ず教育するひと言がある。「記事は頭で書くな。足で書け」。現場取材の大切さを説いた言葉だ。文学の世界でこれを徹底して実践したのが吉村昭さんである

▲吉村さんの記録作家としての原点は長崎にある。初めて長崎を訪れたのは1966年。小説「戦艦武蔵」の調査のためだった。建造にかかわった造船所の技師や武蔵を知る市民に「これ以上何もありません」と言われるまで取材を重ね、県立図書館職員が悲鳴を上げるほど資料をあさった

▲吉村さんの史実に対する誠実な態度に長崎の関係者は感動し、心を込めて協力した。「まず証言者に会って話を聞き、それが真実かどうかを記録で確かめる。しかも2人以上の証言が一致しないと書かない」という流儀が貫かれた「戦艦武蔵」は、戦記小説の新境地を開いた

▲「戦艦武蔵」以降もシーボルトの娘、楠本いねを取り上げた「ふぉん・しいほるとの娘」など長崎を題材にした力作を発表、来崎回数は100回を超えた

▲三菱造船所で建造中の豪華客船火災に心を痛め、「市民の方々の悲痛の声が聞こえる。造船所の人たちの思いはいかばかりか」といたわりに満ちたメッセージを、エッセー執筆を断って本紙声欄に寄せたのも謙虚な吉村さんの人柄を物語るエピソードである

▲長崎にゆかりのある作家は多いが、この人ほど長崎を愛し、市民と心情を共にした作家はいない。享年79歳。まだまだ足で長崎を紹介してほしかった。(宣)
 

「水や空」

2006年8月3日付 長崎新聞


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正平調 [コラム]

正平調

 きのう、本紙は満百歳になった。「百」という字を形づくる白(ハク)は、博(ハク)に通じ、ひろいという意味がある。転じて大きい数を表す。「一より数えて百に至れば、ひとまず明確によびあげ、また初めに返るゆえに、一と白を合わせてその義を示す」と辞書にある。

 百年という長い年月、地域の新聞として愛し、育ててくださった読者のみなさんにまずお礼を申し上げたい。同時に百年をひと区切りにし、また初めに返る心構えで日々励みたいと思う。

 百年の間に、本紙の記事もずいぶん形を変えた。短評欄と呼んでいたコラムも例外ではない。記録をたどると、創刊三年目の明治三十三年三月二十三日の一面に登場する「粉々録」が原形らしい。その後「眼前口頭」「天語人語」などと改題を重ねて、「正平調」に落ち着いたのは昭和九年一月五日。

 「正平調」は「せいへいちょう」と読む。「正平」は「厳正公平」。「調」は中国の詩「清平調」から採った。この詩は、牡丹(ぼたん)の花のように華麗に表現するのを特色とした。したがって「正平調」は、「厳正公平に、しかも華麗に表現する」との意味がある。名前が大きすぎて、非才にはつらい。

 書いてはうめく毎日だが、支えは読者のみなさんの反応だ。難病で寝たきりの女性からいただいた、はがきは忘れられない。「もう体力がないので、朝一番に正平調の短い一章を読むのがやっとですが、これが生きる力になっています」。

 読者の視線を感じ息づかいを聞く。そんな姿勢で、「正平調」はきょうからの新たな百年も書き継ぎたい


正平調

1998/02/12 神戸新聞


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生誕二百五十年のモーツァルト。。。。。 [コラム]

生誕二百五十年のモーツァルト。。。。。


生誕二百五十年のモーツァルトと、没後百五十年のシューマンの話題に埋もれたかもしれないが、今年は日本を代表する作曲家にちなむ年でもある。没後十年を迎えた武満徹さんだ

◆アカデミズムの外から彗(すい)星のように現れ、西洋と東洋の音を結んで世界的な評価を受けた。生み出したのはコンサート用の作品だけでなく、映画やCMの音楽まで幅広い。NHKドラマ「夢千代日記」の音楽も、この人の手になるものだった

◆間を生かした沈黙の時間が少なくない。この独特の作風は、ややもすれば難解といわれる。彼の作品を取り上げるプロの混声合唱団「ザ・タロー・シンガーズ」(芦屋市)の澄んだ歌声をCDで聞きながら、それは音に対する彼の厳しさだとあらためて感じた

◆メンバーによると、楽譜は細かい指示にあふれ、取り組むのに勇気がいるそうだ。親しみやすい旋律と繊細なハーモニーの裏に厳密さがある。それほどに一つ一つの音の響きを大事にした

◆彼はかつてこう書いている。「私たちはいま、個々の想像力が自発的に活動することが出来難(にく)いような生活環境の中に置かれている。眼や耳は、生き生きと機能せず、この儘(まま)、退化へ向かってしまうのではないか、という危(き)惧(ぐ)すら感じる」と

◆街路樹が少なく騒がしい都心で先日、セミの声が珍しく耳に入った。不意に、武満さんの言葉が浮かんだ。「私たちは、もう少し積極的に、この世界を、見たり聴いたりすべきではないだろうか」。季節が奏でる音に、じっと耳を澄ませてみよう。


 正平調
2006/08/07 神戸新聞


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