【幕末から学ぶ現在(いま)】 井伊直弼 [人物・伝記]
ビートルズ [コラム]
世界に通用した江戸時代の日本人 [コラム]
■自尊心・美意識・叡智を備える
≪大黒屋光太夫の見事さ≫
現代と江戸時代の日本人を比べて、どちらが世界に通用する国際人が多かったか。私は無条件に江戸時代だったと思う。この場合、国際人というのは、国外で外国語を使ってあるいは専門家として仕事ができるという意味ではない。たとえ言葉が下手でも、宗教や文化の異なった国、異なる文明圏においても「人物」として敬意を払われるだけの人格や見識を有しているということだ。江戸時代では、地方の村の庄屋や世話役クラスの人物でも、世界のトップの社交界でさえも「人物」として一目置かれるだけの精神的な資質と人格を有していた者が少なくなかった。一例として、偶然ロシアに漂着した伊勢の大黒屋光太夫の例を挙げてみよう。
彼は地方の商人で廻船の船頭であった。18世紀にアリューシャン列島に漂着し、イルクーツクで学者のラックスマンに認められ、やがてサンクトペテルブルクに行く。フランスの探検家ジャン・レセップスがカムチャツカの町に寄ってロシアの地方長官の家を訪問したとき、偶然その家に滞在していた光太夫を目にしている。レセップスはその旅行記に光太夫について詳しく報告し、作家の井上靖も『おろしや国酔夢譚』でその旅行記にふれている。レセップスは光太夫について、見聞を綿密に日記に記し、自己の考えを臆(おく)せず述べる堂々とした人物として伝えている。
サンクトペテルブルクでも光太夫は、エカテリーナ女帝に2度拝謁(はいえつ)し、皇太子をはじめ上流階級の人々と交わった。ロシアのトップの社交界でも、一目置かれるだけのオーラを発していたのだ。10年ほどのロシア滞在の後、帰国の機会を得るが、彼が桂川甫周(ほしゅう)に口述した『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』(寛政6=1794=年)は、今日のロシアや欧米においても、18世紀のロシア研究の貴重な資料とみなされている。
≪地方の庶民の高い資質≫
光太夫は、選ばれて日本から派遣された人物ではなく、偶然ロシアに漂流した一庶民にすぎない。私が驚くのは、江戸時代の地方の一般庶民が有していた人間的な資質、知的レベルの高さである。農村でも、少なくとも旧家などには、優れた人材がたくさんいた。島崎藤村は木曾路の本陣のひとつで庄屋でもあった自らの家庭について、小説『夜明け前』に詳しく描いている。江戸時代の末、木曾の山奥でも庄屋や医者の子たちが国を思い、国学や蘭学に打ち込み、日本の開国問題を真剣に論じていた雰囲気が生々しく伝わってくる。
私が子供の頃住んでいたのは広島県の旧福山藩のはずれの村で、隣に加茂村という山村があった。その山奥に江戸時代から続いている2つの旧家があった。一方からはシーボルトの57人の弟子の1人窪田亮貞が、他からは作家井伏鱒二が出ている。また隣の宿場町神辺には菅茶山(かんちゃざん)が開いた廉(れん)塾があった。茶山は藩儒に、という福山藩からの招きを長年断り民間人として頼山陽など全国からの好学の士に儒学や詩を教えた。茶山の学問や芸術の精神と権力に媚(こ)びぬ毅然(きぜん)とした態度は、地方全体に影響した。井伏も、この地方では茶山の書を持っていないとまともな家とみられず、結婚にも差し支えたと述べている。
≪幼稚化した現代日本人≫
江戸時代の地方人や地方文化、恐るべしである。今の日本のどこかの市長や町会議長で、いや大臣や国会議員、官僚でも、世界のトップの社交界で知的、人格的にしっかり存在感を示しうる人物がどれだけいるだろうか。私は、明治以後、日本人は立派な業績もあげたが、江戸時代と比べると一般に人間的には幼稚化し、文化的、精神的には貧困化したのではないかと思っている。この点では、まだ明治時代のほうが今よりはるかにましであった。
たしかに、わが国は欧米の学問や文化を見事に吸収し、近代化を立派に成し遂げた。しかし、日本人を次の基準で総合的に判断したらどうだろう。つまり、凛(りん)とした自尊心と信念、生き方の美学、知識ではなく知恵(叡智(えいち))、そして美意識と遊び心などを統一的に有しているか否かという観点である。残念ながら現代の私たちは、江戸時代の日本人に負けていると認めざるを得ない。といっても私は、現代人が日本人の長所や美点をすべて失ったとは思っていない。国外で生活してみると、日本の長所や日本人の素晴らしさがよく分かる。これからのわが国の政治や教育は、日本人のそして日本の長所と短所をしっかり認識し、その長所を現代的な形で再構築するところから出発すべきだろう。(はかまだ しげき)
青山学院大学教授 袴田茂樹
(産経新聞 2007/03/04 07:07)
善行と美談を小学校教科書に [コラム]
■宮本警部の「殺身成仁」を讃えよ
≪命捨て忠義・義理を守る≫
2月14、15日催された故宮本邦彦巡査部長(殉職後2階級特進・警部、旭日双光章受章)の通夜・葬儀などへの弔問客の数は、安倍晋三総理以下4000人近くにのぼった。自殺志願の女性を救い、身代わりに命を捧げた宮本警部がとった「護民官」たる警察官の義務をはるかに超えた、人間として崇高な自己犠牲精神の発露である。勇気ある行動に、国民はみな心から感動した。その表れが6年前に起きたJR新大久保駅で線路に転落した酔っ払いを救おうとして殉難した、韓国人留学生李秀賢さん(当時26)、カメラマン関根史郎さん(当時47)のお2人の葬儀以来のこの盛儀である。
国会開会中の分刻みで多忙な公務の合間に安倍総理が板橋署までかけつけた。新大久保駅事故の直後、森喜朗総理(当時)が李氏、関根氏を讃(たた)えて弔問したのと同様、1億3000万国民の純粋感動を代表しての、危機管理宰相学の心得にかなった行動だった。
新大久保駅事故のとき「殺身成仁(サルシンソンイン)」という儒教の言葉が韓国紙の1面を飾った。「自らの命を捨てて、忠義、義理を守る」という韓国人の精神だと大々的に報じられた。日本でも「見習おう韓国人留学生の『殺身成仁』精神」と、自己中心主義に陥った日本人に強く反省を求める声があがった。
≪「立派な日本人像」の手本≫
李青年の両親の「普通の人の行動です。誰でも秀賢と同じことをしたでしょう」という談話は、関根さんの母上の「自然に体が動いたんでしょう」という呟(つぶや)きとともに筆者の心に深く刻まれた。宮本警部も自然に体が動いてしまったのだろう。大人になっても体が自然に動くようになるには、子供のときからそう躾(しつ)けられ、困っている者、弱っている者を助けることの大切さを小学校からしっかり教えられていなくてはいけない。教育基本法改正を機会に愛国心、公徳心を教え、「義ヲ見テセザルハ勇ナキナリ」の自己犠牲の尊さを小学校教科書で教えてはいかがだろう。
筆者ら昭和一桁(けた)生まれの世代は、尋常高等小学校の文部省国定教科書で、人間の鑑(かがみ)となる立派な日本人像について、二宮尊徳、野口英世、そして「稲むらの火」の“庄屋の五兵衛さん”など、実例で教わったが、一番大事なのは、宮本巡査部長、韓国人留学生李さん、カメラマン関根さんのように、普通の人の善行・美談である。文部科学省は「美しい国」(安倍総理)を造り、「国家の品格」(藤原正彦氏)を保つため、国民の魂をゆさぶった純粋感動の物語を小学校教科書にのせて伝承すべきだ。これこそが真の「教科書問題」であり、自虐史観が問題ではない。
≪「稲むらの火」とは何?≫
例えば前述の「稲むらの火」である。安政元(1854)年12月M8・4の「安政大地震」が起きたとき、紀伊国(現和歌山県)の有田郡広村で実際に起こった物語を、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が1897年「生ける神」(A Living God)として英米に紹介したものだ。庄屋の濱口儀兵衛(教科書では五兵衛)は、山上の自宅で大津波の襲来を予測し、1年分の収穫である「稲むら」に火を放ち、麓で村祭りに浮かれていた村民を山上に誘導し、彼らの命を救った。この善行・美談は同郷の中井常蔵小学校教員に書き改められ、昭和12(1937)年に国定教科書の小学校国語読本となって、約1000万の児童に感銘を与えた。
これには恥ずかしい後日談がある。平成17年1月、インド洋大津波をうけて東南アジア諸国連合(ASEAN)緊急首脳会議がインドネシアのジャカルタで開催された折のこと。シンガポールのリー・シェンロン首相が小泉純一郎総理(当時)に「日本では小学校教科書に『稲むらの火』という話があって、子供の時から津波対策を教えているというが、事実か?」ときいた。長岡藩の「米百俵」の教えを知っていた小泉総理がこれを知らずに、外務省の随行にきくが、わからない。東京の文部科学省にきくが、これも知らない。そして深夜、防災専門家伊藤和明氏(76)に問い合わせ、彼が外務・文部の現役官僚らの不勉強に怒るという一騒ぎがあった。
過日、文明批評家日下公人氏がベトナムを訪れ、同国の小学校教科書をみたら、昔自分が習った「修身」の国定教科書そっくりの徳目がならんでいて驚いたという。日本も韓国・ベトナムに負けずに「人間の鑑」の善行・美談を教科書にのせ、児童すべての心に自己犠牲の尊さを、刻みこませよう。
(さっさ あつゆき)
初代内閣安全保障室長・佐々淳行
(産経新聞 2007/02/21 05:04)
若い君への年賀状 [コラム]
■人類が誇れる文化生んだ日本
≪してはいけないこと≫
新年おめでとう。君にとって、日本そして世界にとって、今年が昨年より少しでもよい年になるように祈っております。といっても、少しでもよい年にするのは実は大変なことです。
君の生まれたころに比べ、わが国の治安は比較にならないほど悪くなっています。外国人犯罪の激増もあり、世界で飛び抜けてよかった治安がここ10年ほどで一気に崩されてしまいました。
道徳心の方も大分低下しました。君の生まれたころ、援助交際も電車内での化粧もありませんでした。他人の迷惑にならないことなら何をしてもよい、などと考える人はいませんでした。
道徳心の低下は若者だけではありません。金融がらみで、法律に触れないことなら何をしてもよい、という大人が多くなりました。人の心は金で買える、と公言するような人間すら出て、新時代の旗手として喝采(かっさい)を浴びました。
法律には「嘘をついてはいけません」「卑怯(ひきょう)なことをしてはいけません」「年寄りや身体の不自由な人をいたわりなさい」「目上の人にきちんと挨拶(あいさつ)しなさい」などと書いてありません。
「人ごみで咳(せき)やくしゃみをする時は口と鼻を覆いなさい」とも「満員電車で脚を組んだり足を投げ出してはいけません」もありません。すべて道徳なのです。人間のあらゆる行動を法律のみで規制することは原理的に不可能です。
≪心情で奮い立つ民族≫
法律とは網のようなもので、どんなに網目を細かくしても必ず隙間があります。だから道徳があるのです。六法全書が厚く弁護士の多い国は恥ずべき国家であり、法律は最小限で、人々が道徳や倫理により自らの行動を自己規制する国が高尚な国なのです。わが国はもともとそのような国だったのです。
君の生まれる前も学校でのいじめはありました。昔も今もこれからも、いじめたがる者といじめられやすい者はいるのです。世界中どこも同じです。しかたのないことです。
でも君の生まれたころ、いじめによる自殺はほとんどありませんでした。生命の尊さを皆がわきまえていたからではありません。戦前、生命など吹けば飛ぶようなものでしたが、いじめで自殺する子供は皆無でした。
いじめがあっても自殺に追いこむまでには発展しなかったのです。卑怯を憎むこころがあったからです。大勢で1人をいじめたり、6年生が1年生を殴ったり、男の子が女の子に手を上げる、などということはたとえあっても怒りにかられた一過性のものでした。ねちねち続ける者に対しては必ず「もうそれ位でいいじゃないか」の声が上がったからです。
君の生まれたころ、リストラに脅かされながら働くような人はほとんどいませんでした。会社への忠誠心とそれに引き換えに終身雇用というものがあったからです。不安なく穏やかな心で皆が頑張り繁栄を築いていたから、それに嫉妬(しっと)した世界から働き蜂(ばち)とかワーカホリックとか言われ続けていたのです。日本人は忠誠心や帰属意識、恩義などの心情で奮い立つ民族です。ここ10年余り、市場原理とかでこのような日本人の特性を忘れ、株主中心主義とか成果主義など論理一本槍(やり)の改革がなされてきましたから、経済回復さえままならないのです。
≪テレビ消し読書しよう≫
なぜこのように何もかもうまくいかなくなったのでしょうか。日本人が祖国への誇りや自信を失ったからです。それらを失うと、自分たちの誇るべき特性や伝統を忘れ、他国のものを気軽にまねてしまうのです。
君は学校で、戦前は侵略ばかりしていた恥ずかしい国だった、江戸時代は封建制の下で人々は抑圧されたからもっと恥ずかしい国、その前はもっともっと、と習ってきましたね。誤りです。これを60年も続けてきましたから、今では祖国を恥じることが知的態度ということになりました。
無論、歴史に恥ずべき部分があるのは、どの人間もどの国も同じです。しかしそんな部分ばかりを思いだしうなだれていては、未来を拓(ひら)く力は湧(わ)いてきません。そんな負け犬に魅力を感ずる人もいないでしょう。
100年間世界一の経済繁栄を続けても祖国への真の誇りや自信は生まれてきません。テレビを消して読書に向かうことです。日本の生んだ物語、名作、詩歌などに触れ、独自の文化や芸術に接することです。
人類の栄光といってよい上質な文化を生んできた先人や国に対して、敬意と誇りが湧いてくるはずです。君たちの父母や祖父母の果たせなかった、珠玉のような国家の再生は、君たちの双肩にかかっているのです。(ふじわら まさひこ)
お茶の水女子大学教授・藤原正彦
(産経新聞 2007/01/07 06:14)
近未来小説「SHOWDOWN(対決)」-1 [Others]
(1)「日本を叩けばよい」
【ホワイトハウス 2009年1月20日】
「どこの島ですって?」
新しい米軍最高司令官の大統領はいらだちを隠さなかった。前年11月の選挙に勝って米国初の女性大統領となった民主党リベラル派のドロシー・クラターバックは就任のパレードを終え、日本の首相からの祝いの電話に出ていたが、会話はぎこちなかった。
首相の声は珍しく感情をあらわにしていた。
「尖閣諸島ですよ、大統領。沖縄の近くにあり、周辺に豊かな油田やガス田があります。日本領土ですが、中国が領有権を主張しています」
「その島のなにが緊急なのですか」
「はい、尖閣諸島の至近海域で中国海軍がロシア軍の支援を得て、大演習を始めました。中国は武力で尖閣を占拠しそうなのです」
「わかりました。こちらも検討しましょう。数日後にまた話しあいましょう」
女性大統領は電話を切ると、そばにいたCIA(中央情報局)長官らに顔を向けた。長官らは前共和党政権のメンバーで、数日後にはもう職を離れることになっていた。
「中国側が今夜の私の就任祝いパーティーの前に軍事攻撃をかけることはないでしょう。私の新政権は中国とことを荒立てる方針はない。中国は必ず責任ある道を選ぶでしょう。もうこの件ではなにも報告しないでください」
CIA長官が反論した。
「大統領、いや中国はあなたの出方をテストしているのです。前大統領が就任後、まもなく米軍の偵察機が海南島で強制着陸させられたことを覚えていますか」
「中国がなにを求めているのか、私はよくわかっています。前政権はそれがわからなかった。私は選挙戦を勝ち抜いたのと同じ方法でうまくジャップと中国人とを扱いますよ。まあ、みていなさい」
【北京・中央軍事委員会 同年6月1日】
軍事委主席の胡金涛は人民解放軍の幹部の将軍連に問いかけた。
「人民を団結させ、党や国家への忠誠を高める最善の方法はなにか」
将軍の一人が答えた。
「中国人は誇りの高い民族です。人民が国内の失業や貧困から目をそらし、自国への帰属意識を高めるには周辺諸国を従属させ、中国の覇権を誇示することです」
他の将軍が反論する。
「しかし周辺諸国と戦争をするわけにもいかないでしょう」
「いや、戦争ではない方法で一国を屈服させれば、他の国にもドミノ効果がある」
胡が口をはさむ。
「そうか、一国を服従させれば、他の国もその例に従うわけか。だがその一国をどこにするか。実質的なパワーと象徴的な重要性を持つ国でなければならないが」
人民解放軍の総参謀長がおもむろに答えた。
「日本です」
胡がすぐに同意した。
「そうだ。日本だ。日本を叩けばよい。日本を軍隊で侵略する必要はない。歴史問題で叩いて、天皇に中国への侵略について公式謝罪をさせる。そうすれば中国人民の誇りや民族意識は急速に高まるだろう。日本に屈辱を与え、服従させるための具体的な計画を3日以内に提出するように」(つづく)
ジェド・バビン/エドワード・ティムパーレーク共著
抄訳=ワシントン駐在編集特別委員、古森義久
(産経新聞 2006/10/16 10:00)
【メモ】来春にも日本語版刊行 中国人民解放軍の実態を近未来小説として描いた「ショーダウン(対決)」という書が米国で刊行された。
著者は先代ブッシュ政権の国防副次官ジェド・バビン氏とレーガン政権の国防総省動員計画部長エドワード・ティムパーレーク氏で、レグネリー社刊。日本語版は来春にも産経新聞出版から刊行される。
中国が戦争を始める展望がフィクションとして書かれるなかで「2009年に中国のミサイル攻撃で新たな日中戦争が始まる」という章がある。その章を中心に同書を抄訳で紹介する。
近未来小説「SHOWDOWN(対決)」-2 [Others]
(2)「靖国参拝参拝を阻止せよ」
【ホワイトハウス 2009年6月25日】
米軍統合参謀本部議長は閣議に出て、2時間を過ごしたが、安全保障問題がほとんど論じられないまま、クラターバック大統領が閉会を宣言しそうなのに気づいた。軍人の同議長は発言しようとした。
「ちょっと一言、中華人民共和国は危険な存在--」
大統領は閣僚に中国の正式呼称をできるだけ使うことを命じていた。同議長は中国の野心的な軍拡について課題を提起しようとしていた。だが国務長官にさえぎられてしまった。
「いや、中華人民共和国は昨年の北京五輪の成功にまだひたってますよ」
「まさに北京五輪にこそ中国当局がエネルギー供給を優先した結果、一般国民は貧しく、飢えるようになってしまったのです。当局は国民の怒りと不満を外にそらすためにアジアで軍事行動を積極果敢にしようと意図しています」
「将軍、中華人民共和国を恐れることはありません」
女性大統領はため息をつき、鼻メガネごしに統合参謀本部議長をにらみながら、議長の発言を抑えた。が、同議長は続けた。
「ASEAN(東南アジア諸国連合)との軍事使節団相互派遣の要請にわが方はまだ答えていません。早く応じるべきです。中国の脅威を考えると、小国をみすてないという原則の明示は重要です」
しかし大統領は即座に反論した。
「中国も米国の友人です。投資と貿易のパートナーです。その中国に懸念を抱かせるような軍事使節の相互派遣には反対します。中国を挑発する必要はない」
【北京・中央軍事委員会 同年7月1日】
胡金涛主席が将軍たちに告げた。
「日本の首相が来週、靖国神社への参拝を計画しているが、わが政府としてその中止を求める外交要求をすることにした。首相がもし参拝すれば、中国人民を侮辱することになる。中国人民が日本のこの好戦的な行動をどう受けとるか、保証はできない。実際に参拝があったとき、どうするか。またその際に協議をしよう」
胡はここまで語り、書類の束を小脇に抱えて、足早に去った。
【ホワイトハウス 同年7月6日】
大統領が日本の首相に電話で語りかけた。
「ご機嫌はいかがですか、首相。こちらの独立記念日の祝賀に参加していただけず、残念でした」
「元気です。しかしいまの日本は不安に満ちています。その原因である中国について、お話したいのです」
「中華人民共和国は最近、静かですね。なにが不安なのですか」
「わが国ではもうすぐ先祖の霊を悼むお盆の季節です。私はこの時期に天皇のご意向をも受けて、靖国神社に参拝するつもりです。これまで私たちの参拝のたびに中国側が強く抗議をしてきた。今回は天皇ご自身もお参りをされる予定です」
「なぜ参拝をするのですか。第二次大戦で戦犯とされた人物たちの霊も祀られているのでしょう?」 首相は一瞬、沈黙し、少し待ってから大統領に語りかけた。
「あなたの懸念は感謝します。しかし戦争で死んだ250万もの日本国民の霊を祀る神社に日本の首相が参拝することを中国の政府が禁じることはできません」
「でも中国を挑発することもないでしょう。参拝はやめたらどうですか」
「国民が首相の参拝を求めているのです。でも参拝の結果、中国がミサイルを撃ってきたら、米国はどうしますか。中国はすでに尖閣諸島を脅かしています。日本国民も中国の侵略を恐れています」
「では火をつけるようなことはしないでください」(つづく)
抄訳=ワシントン駐在編集特別委員、古森義久
(産経新聞 2006/10/17 10:00)
【メモ】中国人民解放軍の実態に切り込んだ近未来小説「ショーダウン(対決)」は米国で出版され、日本語版は来春にも産経新聞出版から刊行される予定。本欄では「日中戦争」の章を中心に同書の抄訳を紹介している。
近未来小説「SHOWDOWN(対決)」-3 [Others]
(3)米国は動かない
【横田基地・米第五空軍司令部 2009年7月8日未明】
「いやあ、これは大変だな」
マット・オバノン空軍中佐は重い双眼鏡を胸に下ろして、ため息をついた。格納庫の背後に立って、上空をみつめていたのだ。
「中佐、驚くことはありません。ミサイルは数基、せいぜい最大限10基ですよ」
「そうだな、私も9か10まで確認した」
中国のミサイルが明るい月に照らされた日本上空を通過したのだった。事前にその動きを知らされたオバノン中佐は部下とともに横田基地からその飛来を双眼鏡でとらえていた。
日本政府も中国からこの時間帯に上空を越えるミサイル発射の事前警告を受けていた。中国側の軍事的威嚇だった。
「この発射はどんな意味があるのかな」
中佐が部下にたずねた。
「中国は前にも同様のミサイル発射をしており、それほど重大な意味はないでしょう。ただし日本側はきわめて深刻に受けとめています。それは当然ですが」
中佐はうなずいて格納庫横のオフィスにもどり、暗号化されたパソコンの通信をチェックした。
「おっ! こっちのほうが大事件だ。中国海軍がロシア軍と合同で実弾発射の演習を開始した。沖縄の南西にある尖閣諸島の至近海域だ。ここでは中国は半年前にも演習をしたが、今回は規模がずっと大きく、島への上陸の態勢をとっているという」
【北京・中央軍事委員会 7月8日夜】
胡金涛主席が将軍たちを見回し、口を開いた。
「さあ、日本に対する戦争の無血部分をいま始めるかどうかだ。司令官、準備は完了したか」
軍事委では日ごろみなれない海軍の制服を着た将官が緊張した口調で答えた。
「はい、主席、いつでも開始できます」
この将官は中国人民解放軍の秘密機関「サイバー戦争本部」の司令官だった。この本部は広東省の遠隔地の地下深くに設置されていた。司令官は報告した。
「主席のかねての指示どおり、まず最初に東京証券取引所のコンピューターシステムを特殊ウイルスで麻痺させます。この余波は欧米の証券、金融のシステム全体へと広がります。そして次に日本の軍事防衛の通信ネットワークを崩壊させます。さらに主席の命令次第で日本の配電網を瓦解できます。日本国全体が機能を停止し、闇の中で孤立することになります」
「孤立?」
「はい、もし主席からの命令さえ出れば、わが衛星攻撃兵器が米国や欧州の通信衛星、航行誘導衛星を破壊します。欧米の人工衛星が使えなくなれば、日本はまったくの無防備となり、孤立するわけです」
胡金涛は満足げにうなずき、やや間をおいて、将軍たちに告げた。
「そうした行動をとれるのは、よいことだ。なにも日本を侵略して、征服する必要はない。だが、わが国が新たな支配力を行使する新周辺地域においては、日本でも、あるいは他の国でも、もし中国に逆らえば、瞬時に服従させることができるということなのだ」
胡はさらに言葉をついだ。
「米国は行動をとるまでに何日もちゅうちょするだろう。だがこうした形での日本の制圧には結局は抵抗しないこととなる。とくに私が米国大統領に中国が米国の通信網や配電網を破壊する能力を持っていることを伝えれば、米国は日本を救うためには、動かない。さあ、司令官、持ち場にもどりなさい。そして準備を進めなさい」(つづく)
ジェド・バビン/エドワード・ティムパーレーク共著
抄訳=ワシントン駐在編集特別委員、古森義久
(産経新聞 2006/10/18 10:00)
【メモ】中国人民解放軍の実態に切り込んだ近未来小説「ショーダウン(対決)」は米国で出版され、日本語版は来春にも産経新聞出版から刊行される予定。本欄では「日中戦争」の章を中心に同書の抄訳を紹介している。
近未来小説「SHOWDOWN(対決)」-4 [Others]
(4)中国はどこまでやる?
【ホワイトハウス 2009年7月10日】
「各地の抗議デモは相互に連携しあっているのですか」
女性大統領が質問した。毎朝、大統領の最初の執務となるインテリジェンス・ブリーフィング(情報説明)だった。危機はイスラム青年たちの暴動など欧州でも中東でも起きていたが、中国が話題を独占した。
CIA長官が報告した。
「中国のすべての主要都市で反日デモが起き、相互に連携しながら暴力的となっています。昨日のデモ参加者は推定2000万、人民解放軍が各地のデモを組織したことは確実ですが、その勢いを過少評価したようです。反日感情が各地で燃えあがっています」
中国の今回の反日の契機は「日本人スパイ事件」だった。中国で働く日本人のコンピューター技師と農業専門家が中国の国家機密を盗んだ容疑で逮捕され、裁判にかけられていた。中国側の策謀だった。中国政府は同時に日本に対し尖閣諸島の放棄を求めていた。
CIA長官が説明を続ける。
「尖閣は無人の島ですが、全世界でも最も豊かな部類の石油と天然ガス資源の上に位置しています。胡金涛主席はテレビで日本に対し、その島の放棄とともに、南京虐殺からケネディー大統領暗殺まですべてについて謝罪することを求めています。とてつもない要求です」
大統領が口をはさんだ。
「で、中国はどこまでやる気なのですか」
CIA長官は「日本側の石油と天然ガスの資源の獲得を目指すことは明白です」と答える。国家情報長官が「私たちはそんな情報は得ていないが」とさえぎる。CIA長官は「中国が日本にミサイルを撃つと威嚇していることは私たちみんなが知っています」と反論する。国家情報長官が「日本側も海上部隊と航空部隊を動員している」と述べると、CIA長官は「でも日本側の軍事力はたいしたことがない」と返す。
すると、女性大統領が手をあげて、2人を制した。
「要するに中国の意図はわからないということですね。いずれにせよ、そんなちっぽけな島に私たちはかかわっていられない。当面は静観です」
と、室内の隅から太い声が発せられた。
「中国の動向をもっと徹底して偵察する必要があります。尖閣への衛星偵察を強化し、同時に南沙諸島のような場所も監視せねばならない。南沙では中国がなにか新たな施設を築いているようです」
国家安全保障会議の副補佐官ジム・ハンターだった。背広だったが、現役の海兵隊中将である。その落ち着いた語調に室内が圧せられた感じだった。
「初めてまともな提案を聞きました。そうしましょう。すぐに国防長官を呼びなさい」
女性大統領が命令した。
【南沙諸島 同年7月24日】
米海軍特殊攻撃部隊SEALの指揮官カリー・オバノン少佐は無線マイクにささやいた。
「ヘッケルとジェッケル、現在地はどこか」
「あなたのすぐ後です」
そんな応答とともに、黒と緑に塗られた顔が二つ、背後の闇から現れた。2人とも格闘技の選手のようなSEAL隊員だった。
「さあ、中国軍はあそこでなにをしてるんだ」
「ボス、驚きです。CIAの情報はまちがい、中国人たちが建設しているのはホテルなどとはとんでもない。軍の司令部と訓練施設です。電子偵察の機器に加えて、対空ミサイルのSAMが5、6基、装甲車も6台、確認しました」
「そうか、では偵察の任務達成だ。まもなく浮上する潜水艦でこの島を撤退しよう」
「ちょっと失礼」
2人の隊員は背後の茂みから手足を縛り、口を封じた中国軍兵士の体を引っ張り出し、手早く注射を打った。記憶を一時的に奪う薬だった。(つづく)
ジェド・バビン/エドワード・ティムパーレーク共著
抄訳=ワシントン駐在編集特別委員、古森義久
(産経新聞 2006/10/19 10:00)
近未来小説「SHOWDOWN(対決)」-5 [Others]
(5)「宣戦布告に等しい」
【ホワイトハウス 2009年7月26日】
女性大統領は電話で日本の首相と話していた。
「首相、あなたは私を中国に対して非常に不都合な立場に追いこみました。いったいなぜ中国を不必要に挑発したのですか」
首相はやや声を高めて答えた。
「挑発ではありません。それに不必要でもない。大統領、靖国神社を参拝し、戦没者を追悼するのは私の責務です。中国の反応こそ非礼であり、わが国への侮辱です。そのうえ参拝への抗議とからめて同じ時期に日本国民をスパイ罪で公開裁判にかけるとは、死者生者を問わず日本人への侮辱です」
「ちょっと待ってください、首相。スパイ行為はどの国でもしています。いまはとにかくその罪を認め、謝罪し、当事者の釈放を果たして、当面の危機を避けたらどうですか」
「しかし彼らはスパイではありません」
「ではなぜ裁判にかけられるのですか」
「大統領、彼らはコンピューター技師と農業専門家ですよ。彼らがなぜ中国に対しスパイ行為を働く必要があるのか。中国側から得たい技術などなにもありません」
「私は昨日、胡金涛主席と話しました。主席はこの裁判を公正にすることを約束していました。しかし彼は中国人民が日本の侵略にものすごく反発していることを心配していました。あなたの靖国参拝が中国人の感情を過去の戦争にまでさかのぼらせて、あおったのです。胡主席は日本の首相の靖国参拝は宣戦布告に等しいとも述べていました」
日本の首相は熱をこめ、すぐに応じた。
「日本にも中国と同様に国民感情というのがあります。靖国参拝はだれに対する敵対的な意図もない。日本は仏教の国です。同時に神道を信じる国民も多く、神道への信仰は第二次大戦後、いまが最も強くなっているのです」
首相は一気に語る。
「大統領、私たちは中国が意のままに日本を恫喝することを許容はできません。もちろん戦争はいやです。だが中国は日本を侵略できる軍事力を有し、核兵器さえも使うことができる。だからこそ米国側に日本のミサイル防衛強化の措置を緊急に許可していただきたいのです。中国は日本に対し恐れることはなにもない。日本がどのように戦没者を悼むかを命令するとは、乱暴をきわめます。そのうえ中国はいまやアジアでの日本の合法的な経済権益までを否定しようとしている。日本は自国の経済や投資が外国勢力の人質にとられることは許せません」
「しかし首相、中国はそのようにはみていないでしょう」
「大統領、日本は平和主義の国です。先の戦争では十二分に教訓を得ました。しかし自国の防衛はせねばならない。私どもの国会はすでに中国の脅威への対応として防衛予算を倍増しました。イスラエルからF15、F16戦闘機をかなりの機数、追加で購入し、オーストラリアからは潜水艦3隻を調達する手はずをとりました。しかしいずれの購入にも米国の同意が必要なのです。同意してくれますね」
女性大統領は一瞬をおいてから答えた。
「はい、もちろんです。ただしパトリオット対ミサイル・システムとイージス対ミサイル護衛艦はまったく別ですよ」
「いやいや、大統領、中国は過去1年間にもう3度も日本上空に向けてミサイルを発射しているのです。適切なミサイル防衛網に必要なそれらのシステムをすぐにでも売却してくれるよう切にお願いします」
「議会の指導者たちと協議してみます。だが首相、約束はなにもできません。イージス護衛艦の建造は何年もかかり、パトリオットは米国側でもほとんどいま保有していないそうですから」(つづく)
ジェド・バビン/エドワード・ティムパーレーク共著
抄訳=ワシントン駐在編集特別委員、古森義久
(産経新聞 2006/10/20 10:00)
近未来小説「SHOWDOWN(対決)」-6 [Others]
(6)日本への核攻撃もある
【北京・中央軍事委員会 2009年7月29日】
日本人スパイ事件を担当する中国共産党政治局員は興奮していた。
「主席! 今日の裁判の開始は成功でした」
胡金涛はにこにこ顔の政治局員を抑えるように告げた。
「まだ小さな第一歩だ。欧米メディア、とくにニューヨーク・タイムズがどう報じるかをみよう」
胡主席は次に人民解放軍の海軍将官に話しかけた。
「この裁判終了の一日後から行動を起こせるようにしてほしい」
「はい、日本の航空管制網と証券取引所、政府機関のコンピューター・システムを破壊できます」
「だが同志、日本に真の屈辱を与えるには当初の計画を変え、コンピューター撹乱以上のことをしなければならない。ある程度の血を流させねばならないのだ」
「流血はどのぐらいに?」
「当面は釣魚島(尖閣諸島)の占拠を命ずる。占拠したら島に基地を建設し、すぐに島周辺に石油開発の施設を築くように」
最初の政治局員がまた発言した。
「裁判はどう終わらせますか」
「有罪判決だ。ただ日本人被告の一人は無罪とし、残りは死刑だ。日本の首相への懲罰も必要だな」
胡は別の政治局員に話しかけた。
「金正月同志への援助を増すことはできるか」
「はい、10パーセントの増加は容易です」
「金総書記にそう伝え、日本の北朝鮮への侵略を非難させよう。北朝鮮の軍隊を厳戒態勢につけ、南北境界線近くに結集させることも指示せよ」
【ホワイトハウス 同年8月2日】
国家安全保障会議のメンバーたちは静かに座り、女性大統領クラターバックの日本の首相との電話の会話を聞いていた。
「首相、米国としてはこれ以上のことはできません。米国政府の抗議はすでに駐米中国大使に伝えました」
日本の首相は自分を抑制するようにして話した。
「無実の日本国民の処刑が始まるのです。抗議だけでは困ります」
「ではなにをしろというのですか。日本の海上部隊がいま尖閣付近で実施中の軍事演習は中国を挑発するだけでなく東アジア全域を不安定にしている。北朝鮮が大部隊とミサイル戦力を動員している。正気ですか。あなたの不要な挑発が国際的危機を生んでいるのです」
「危機についてはわかっていますよ」
「北朝鮮の駐米大使が金総書記の演説の内容を予告してきました。もし日本が東シナ海で挑発を続けるならば、日本を攻撃するというのです。彼はむら気の人物です。日本への核攻撃もありえます」
「日本ほど核兵器の恐ろしさを知る国はない。私自身も長崎の近くで生まれました。だが中国当局は無実の日本国民を殺し、日本領土に侵略しようとしているのです。米国はそれを座視するのですか」
「首相、米国は無人の小島やスパイ裁判のために中国と戦争する意図はありません。みな日中両国間だけの問題です」
女性大統領は電話を切り、室内をみまわして語った。
「さあ、このくだらない危機にどう対応するか。やはり国連安保理への提訴ですね」
「そのとおりです」
国務長官が応じると、国防長官が声をはさんだ。
「米国は日本と安保条約を結んでおり、中国が尖閣を占拠すれば、日本を防衛する責務があります。そのうえ尖閣が行政上、帰属する沖縄には米軍基地があり、尖閣攻撃は米軍攻撃に等しくなります」
「では沖縄から米軍を撤退させればよい。米国は小さな島のために戦争はしません。ではこの会議も終わります」
そして大統領は報道官の女性に声をかけた。
「ジーナ、この危機についての国内世論調査のデータを早く集めてちょうだい」(つづく)
ジェド・バビン/エドワード・ティムパーレーク共著
抄訳=ワシントン駐在編集特別委員、古森義久
(産経新聞 2006/10/21 10:00)
近未来小説「SHOWDOWN(対決)」-7 [Others]
(7)北は韓国にも侵攻した
【ホワイトハウス 2009年8月3日】
中国の巡航ミサイルがついに日本に撃ちこまれた。日中の海上部隊は尖閣海域で戦闘を開始した。
クラターバック大統領は日本の首相との電話会談で日本への同情と理解を伝えたが、行動はなにもとれそうもなかった。
「首相、貴国にとっては手痛い打撃ですね。しかし死傷者は少ないようですが」
「いや、巡航ミサイルは標的を巧みに選び、靖国神社が完全に破壊されました。ちょうどそのとき、大規模の参拝の儀式が催されており、数百人の民間人が殺されました。日本の海上自衛隊も莫大な被害を受けています。米国は日本の国土防衛を助けてくれるのですか。それとも日米安保条約はなんの意味もないのでしょうか」
電話での会話は緊迫していった。
「首相、私は米国の条約上の責務はよく知っています。しかし今回の事態はみなあなたの失態からではないですか。靖国神社を参拝して中国を挑発することは止めるよう告げたではないですか。中国側は米国の介入を許容しないと伝えてきました。首相、私はあなたに威圧されて、中国との戦争を始めるようなことはしませんよ」
「大統領、もうこれは戦争なんです。中国側はいまこの瞬間も私たちを攻撃しています。弾丸や爆弾だけではない。ものすごいサイバー攻撃も受けました。日本の航空管制網や証券取引所、他の多数の電子システムが破壊されました。日本の経済ももう崩壊寸前です。軍事的にも中国が日本の防衛システムに同じような攻撃をかけてくれば、もう自衛隊も無力になります。中国はすでにわが国に降伏を要求してきました。この事態はもうとっくに戦争なのです!」
「首相、米国としては国連の場で最大限の努力をしています。私たちはみな国連に頼らねばなりません」
【北京・中央軍事委員会 同年8月10日】
「主席、日本はまだ降伏しようとしません。わが方は日本の経済を機能麻痺にしました。政府機構も事実上の瓦解です。でも日本側はなお戦っています」
胡金涛主席は人民解放軍の海軍将官からの報告を聞き、顔をしかめた。
「米国はどう出てくるのか。日本側は日米安保条約の発動を宣言したのに、米国側は日本政府と話す以外、なんの行動もとっていないが」
海軍将官は両手を広げて、答えた。
「まさにナゾですね。でも主席が予測したとおりでもあります。しかし、わが方がもし沖縄を攻撃すれば、米軍も多大な損害をこうむることとなります」
「それは賢明ではない。やはりまだ待つべきだろう。北朝鮮の金正月同志がすでに韓国に進攻したから、米国にとっても戦争状態となったわけだ。われわれが沖縄の米軍将兵を殺す必要もない。それに日本人どもはわが方がもたらした損害から回復することはできないだろう」
「それはそのとおりです。だが日本人というのは頑固な民族です」
「朝鮮からの戦況報告はどうか」
「激戦が続いているそうです。米軍は増援部隊を本国から投入しています」
「そうか--いまこそ沖縄の米軍を攻撃するときかも知れないな。米軍が他に注意を奪われている現状こそ好機となりうる」
「はい、主席! そのとおりです」
「よし、計画どおりに攻撃を開始せよ。米国はかなりの規模の軍隊を日本に駐在させている。それら部隊に決定的打撃を与えねばならない。そうすればあの大統領もさすがに行動を起こすだろう」(つづく)
ジェド・バビン/エドワード・ティムパーレーク共著
抄訳=ワシントン駐在編集特別委員、古森義久
(産経新聞 2006/10/22 10:00)
近未来小説「SHOWDOWN(対決)」-8 [Others]
(8)核爆発が確認された
【横田基地・米第五空軍司令部 2009年8月11日】
「さあ、発進だ!」
マット・オバノン空軍中佐は自分の指揮する飛行大隊の格納庫の前に立ち、部下たちがそれぞれの飛行機に向けて走るのをみていた。最後の乗員が搭乗機にたどり着くのを確認して、中佐も自分の機に乗りこんだ。3分後、中佐のB2ステルス戦略爆撃機は他のB2、3機に続いて滑走路を疾走し、未明の上空へと舞いあがり、護衛のF15戦闘機編隊と合流した。
「ジェリー、アトキンス大佐に連絡して、全員が命令どおりに離陸したかどうかを確かめてくれ」
オバノン中佐は乗機が3000メートルほどの高度に達したとき、インターホンで副操縦士に指示した。副操縦士は戦闘機に乗った飛行指令のアトキンス大佐と交信した。
「全機全員が予定どおりに飛び立っています。戦闘機の先導で、われわれもレーダー探知の良好状態のまま飛行しています」
「よかった。緊急の避難がうまくいってよかった」
米軍の司令部は敵の動きをいち早く察知した。中国の大軍が海上を南下していた。沖縄方向へと動いていたが、米側は日本本土の米軍基地への攻撃も予測して、第五空軍に横田基地からの全機の緊急避難を命じたのだった。
副操縦士はきちんと座って、計器類を点検しながら、オバノン中佐に語りかけた。
「ボス、これからどうするのですか。第五空軍全部隊がいま空中にいますからね。おっと、最新情報です。中共の部隊が巡航ミサイルを多数、発射しました。目標は沖縄です。中共の戦闘機や爆撃機の編隊も沖縄に向かっています」
副操縦士と中佐は同時に頭上のF15、F16の編隊をちらりとみあげた。彼らの乗った爆撃機は音速をはるかに超えて飛んでいた。
「中佐、太平洋統合軍司令部がこちらの戦闘準備状況を知らせろと命じてきました。通常のトマホーク巡航ミサイルを装備しているだけだと答えておきました。こんご数時間は飛べますが、そのあとは給油が必要になります」
「さあ、どんな命令が出るか」
オバノン中佐はそうつぶやいたあと、ほんの少しだけ乗機の飛行方向を変えた。後続の3機のB2もそれに従った。
沖縄には数千人の米海兵隊員がいるが、短時間のうちにその多くが死ぬのだろう。このB2が搭載したトマホークは日本に接近してくる中国軍艦艇を阻止できるかもしれない。米海兵隊員の一部を救うこともできるかもしれない。
【ホワイトハウス 同年9月23日】
「大統領!」
クラターバック大統領は中国の軍事攻撃のショックからまだ完全には回復できないままだった。在日米空軍の地上の航空機をかろうじて緊急避難させ、戦闘能力を温存したことは一般からほめられた。それでもなお日米両国の航空部隊が多大な被害を受けた。だが中国の沖縄侵攻はどうにか反撃し、防ぐことができた。
女性大統領は毎時間、国内世論調査の数字を熱心に読んでいた。大統領への支持率は戦闘での死者数が急増するにつれ、急降下していた。将軍連は女性大統領の優柔不断にいらだちを高め、敏速な決断を求めた。この大統領のだらしなさはマスコミにも流れたが、副大統領が自分の地位を守るために、ひそかに内部情報をリークしているのだろうと、大統領自身は信じていた。米国中が女性大統領への非難で満ち満ちていた。彼女は単に平和を守ろうとしただけなのに。
と、女性大統領の思考を北米航空宇宙司令部(NORAD)の司令官からの電話が遮断した。
「大統領、いま日本の大阪で核爆発が確認されました! 大統領、そして国防長官あての緊急報告です」(つづく)
ジェド・バビン/エドワード・ティムパーレーク共著
抄訳=ワシントン駐在編集特別委員、古森義久
(産経新聞 2006/10/23 10:00)
近未来小説「SHOWDOWN(対決)」-9 [Others]
(9)作戦目標は北朝鮮
【ホワイトハウス 2009年9月23日】
北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)の司令官はクラターバック大統領にさらに告げた。
「大阪市での核爆発は北朝鮮から発射された核ミサイルであることを確認しました。間違いありません。核爆発の規模は10メガトンほどだと推定できます。大阪の市街は完全に消滅しました」
「オー・マイ・ゴッド! どうしてそんなことが-」
女性大統領は電話を切ると、文字どおり悲鳴をあげた。何度も悲鳴を断続的にあげ続け、大統領執務室に長身の男性が入ってくるのをみて、やっと口を閉ざした。
「大統領-」
「なんなのよ、将軍。北朝鮮が大阪に核攻撃をかけたことは知っているの?」
背の高い男は国家安全保障会議の副補佐官だった。現役の海兵隊将軍の彼は軍服を着ていた。その軍服の胸から肩に数々の武勲を讃える勲章やリボンが飾られているのを女性大統領は初めてみた。将軍は太いが柔らかな声で応じた。
「まさにそのために参上したのです」
「日本は明日、降伏するそうです。将軍は知ってますか」
「いえ、知りませんでした。だがわれわれのするべきことはまだ終わっていません。もう全員がそろっています。統合参謀本部議長、国防長官、国務長官、そして国家安全保障会議の全員です。大統領はフランクリン・ルーズベルト大統領をかねてから尊敬していましたね。ルーズベルト氏だったら、いまの状況下でどうするか、考えましょう。コーヒーはいかがですか。そして2人でちょっと廊下を歩きながら話しましょうか」
大統領は大きなイスからやっと立ち上がった。
「OK、ジム、そうしましょう」
【西太平洋水深約300メートル 米海軍原子力戦略潜水艦「アラバマ」艦内 同年9月24日】
ポーカー・ゲームはもう終わりそうだった。乗組員たちはまもなく就寝の予定だった。米海軍特殊攻撃部隊SEALのカリー・オバノン少佐はトランプのカードをまとめ、立ち上がって伸びをした。と、艦内に警鐘がひびきわたった。スピーカーから声が流れる。
「全員、戦闘態勢につけ。ミサイル発射準備、全員、配置につけ」
オバノン少佐の部下のヘッケルとジェッケルが少佐の顔をみた。
「ボス、いったいなんですか」
「わからない。艦長室にいってみる。二人はSEAL小隊を集合させておいてくれ」
オバノンは艦長室へと走る途中、潜水艦が急上昇するのを感じた。艦長室脇の戦闘司令所にいた潜水艦長はオバノンがこれまでみたことのない緊張した顔つきだった。
「オバノン少佐、まあそこで待機して、これからの一大作戦をみていてくれ」
「なにをするのですか、艦長」
「たいしたことはない。北朝鮮が昨日、日本に核攻撃をかけた。こんどはこちらがお返しをするのだよ」
オバノンはかつてない畏怖の念を感じながら、それから起きることをみつめた。戦闘員たちも、こんなことが起きるとは絶対に信じられないという表情でたがいに視線を交わしながらも、作業を着実に進めていった。
トライデントD5弾道核ミサイルはこの種の原潜に数十年も搭載されてきた。1隻の発射管からは6発の核弾頭を射程6400キロの範囲で撃つことができる。歴史上、初のトライデント実射だった。
「深度500フィート、副艦長、命令を再確認せよ」
「はい艦長、D5、1発は即時発射、目標は北朝鮮のヨンビョン(寧辺)です。発射設定は完了、爆発は地上1万フィート。2発目はピョンヤン、発射設定は完了、爆発は地上1万フィートです。残り4基の弾頭はそのまま保管です」
「了解した。では作戦開始!」
オバノン少佐はミサイルが発射管から離れる轟音を全身で感じた。(つづく)
ジェド・バビン/エドワード・ティムパーレーク共著
抄訳=ワシントン駐在編集特別委員、古森義久
(産経新聞 2006/10/24 10:00)
近未来小説「SHOWDOWN(対決)」-10 [Others]
(10)勝つか、負けるか
【インド洋上空1万2000メートル 2009年9月30日】
米空軍のB2戦略爆撃機は2機だけでもう4時間も飛んでいた。2飛行大隊合計8機のうち6機のB2が失われていた。乗員12人、米空軍の全B2戦力の3分の1近くが失われたのだ。そのうち2機は地上での事故で損害を受けたので修復は可能だという。他の4機は完全な喪失だった。
「ボス、ディエゴガルシアまであと2時間です」
マット・オバノン空軍中佐は副操縦士の計算をチェックした。
「そう、2時間10分だな、ジェリー。新しい住まいが気にいるといいな」
「いやあ、大変でしょうね。最も近いまともなバーまでは5000マイル、インターネットのつながりは悪いし、食堂は冷凍食品ばかり、参っちゃいますね」
「そうだな。ところで新しい大統領は和平交渉をどう進めているかな」
「さあ、しかし新大統領は戦時のクラターバック前大統領よりはましでしょう。でも戦争の最中に彼女が突然、辞任してしまったのには驚きましたね。後任の彼はだいじょうぶのようです」
「発進直前に得た情報では米中間の停戦はきちんと実施されているようだ。北朝鮮は国家としてはもう消えてしまった。どうせ中国が支配するのだろうが」
「そうでしょうね。傀儡政権をつくればいいのだから。日本も尖閣諸島を中国に提供し、完全に屈服しましたね。なにしろ第2の大都市が壊滅したのだから他に方法もない。米国はもう在日米軍基地をすべて放棄せねばならないですね」
「そうだろう。でも私は日本の将来について考えさせられる」
「どのようにですか」
「日本はこんご第二次大戦後にしたようなことは絶対にしないだろう、ということだ。自国を非武装に近い形にして、米国を信じて頼り、防衛を任せる。だが米国は肝心な際に日本を守らなかった。日本の歴史を考えてみろよ。こんごの日本はやがて強力な自主武装の道を選ぶこと間違いなしだ」
「核武装も含めてですか」
「そうだよ、ジェリー。日本は中国に対してと同様に米国にも怒り心頭だ。10年後を想像してみろよ。日本人は日本に戦争を仕かけた中国と大阪が核攻撃を受けるのを抑止しなかった米国とを忘れはしない。日本の核ミサイルは米中両国に照準を合わせることになるだろうな」
「まあ当面は私たちはインド洋のディエゴガルシア基地に着陸できるだけでも幸運ですね」
「中国はいまや西太平洋の全域でしたいことをできるようになってしまった。米国はもうこんご長い年月、歓迎されないわけだ」
「米国だけのミスではないでしょう」
「ミスかどうかは意味がない。問題は勝つか、負けるか、だ。われわれは日本に有していたすべてを失った。韓国にはほんのみせかけだけの米軍が残ってはいるが、1年かそこらでそれも引き揚げることになる。中国が東アジアの全域を支配するのだ。その支配を阻む方法はいまはまったくないというわけさ」(以上、第5章「中国と日本の戦争」)
本書はそのほかにも中国がその政治、軍事の固有の体質から台湾への侵攻、朝鮮半島での軍事行動、石油資源をめぐる米国との衝突などの各種の戦争を起こしうるとして、第8章までで各種の戦争シナリオを提示している。しかし同書の最大の主眼は日中戦争をも含めて、この種の仮想事態を現実に起こさせないことだと強調し、最終の第9章「封じこめ、関与、抑止、米中戦争を防ぐための努力」でそのための具体的政策を列記している。結論としては、最大の主眼は中国の軍事面での自由な威圧や侵略の行動を抑えるための抑止だと強調している。=おわり
ジェド・バビン/エドワード・ティムパーレーク共著
抄訳=ワシントン駐在編集特別委員、古森義久
(産経新聞 2006/10/25 10:00)
捨て子の少女の死 [Others]
捨て子の少女の死と、脱・格差社会のもと
1996年11月の四川省の寒村。若い未婚の男性農夫が草むらに捨てられた女の子の赤ちゃんに気づきました。赤ちゃんを育てるのは、貧乏な彼にとって重い負担。そう考える彼は何回も赤ちゃんを抱き上げては下ろし、立ち去ってはまた戻りました。最後、彼は命が尽きそうな赤ちゃんに呟きました。
「私と同じ、貧しい食事を食べてもいいかい」と。
独身のまま1児の父親になった農夫は、粉ミルクを買うお金もないため、赤ちゃんはお粥で大きく育てられました。病気がちな体は心配の種でしたが、聡明で近所からとてもかわいがられたのは、お父さんの救いでした。
女の子は5歳になると、自ら進んで家事を手伝うようになりました。洗濯、炊飯、草刈りと、小さな体を一生懸命に動かして、お父さんを手伝いました。ほかの子と違ってお母さんがいない少女は、お父さんと2人で家をきり盛りしました。
突然押し寄せた不幸
小学校に入ってからも、少女はお父さんをがっかりさせたことはありませんでした。習った歌をお披露目したり、学校での出来事を話したりと、お父さんを楽しませました。そんな平和な家庭に突然の暗雲がたれ込みました。
2005年5月。ある日、少女は鼻血がなかなか止まらない状態になりました。足にも赤い斑点が出たため、お父さんと病院に行くと、医者に告げられた病名は「急性白血病」でした。
目の前が真っ暗になりながら、お父さんは親戚と友人の元に出向き、借りられるだけのお金を借りました。しかし、必要な治療費は30万元。日本円にして400万円です。中国よりずっと裕福な日本でも、庶民にとっては大金になるような治療費を、中国の農民がどうにかできるはずもありません。集めたお金は焼け石に水でした。
かわいい我が子の治療費を集められない心労からか、日々痩せていくお父さんを目にして、少女は懇願しました。「お父さん、私、死にたい。もともと捨てられた時に、そのまま死んでいたのかもしれない。もういいから、退院させてください」と。
自ら治療を放棄すると退院
お父さんは少女に背を向けて、溢れ出た涙を隠しました。長い沈黙の後、「父さんは家を売るから、大丈夫だよ」と言いました。それを聞いて、女の子も泣き出しました。「もう人に聞いたの。お家を売っても1万元しかならないのでしょ。治療費は30万元ですよね」と。
6月18日、少女が読み書きできないお父さんに代わって病院に「私は娘への治療を放棄する」との書類を提出しました。彼女はまだ8歳でした。幼い子につらい思いをさせてしまったことを知ったお父さんは、病院の隅で泣き崩れました。そして娘を救うことのできない自分を恨み、運命の理不尽に怒りを覚えました。
娘は生まれてまもなく実の父母に捨てられたうえに、貧乏な自分と1日も豊かな生活を経験したことがありません。8歳になっても靴下さえ履いたことがありません。それでなくてもつらい人生を歩まなくてはいけなかったのに、さらに追い打ちをかけて病に苦しめられるとは。
退院して家に戻った少女は、入院する前と同じように家事をし、自分で体を洗います。お父さんに、自分は勤勉で、かわいく、そして綺麗好きな娘として記憶に残してほしい。そう願いながら、1つだけお父さんに甘えました。
新しい服を買ってもらい、お父さんと一緒に写真を撮ってもらったのです。それもお父さんを思ってのこと。「これで、いつでも私のことを思い出してもらえる」と。
70万元の寄付が集まり、治療を再開
ささいな幸せの日々も、終わりが見え始めてきました。病気は心臓に及び始め、ついに彼女は学校に行くのもままならなくなりました。苦痛から、学校に向かう小道を、1人カバンを背負って立ち尽くすこともありました。そんな時には、目は涙で溢れていました。
少女の死が近づいたころ、ある新聞記者が病院側からこの話を聞き、記事にしました。少女の話はたちまち中国全土に伝わり、人々は彼女のことで悲しみ、わずか10日間に70万元の寄付が集まりました。女の子の命はもう一度希望の火が灯され、彼女は成都の児童病院に入院し、治療を受け始めました。
化学治療の苦痛に、少女は一言も弱気を吐いたことがありません。骨髄に針を刺した時さえ、体一つ動かしません。ほかの子供と違って、少女は自分から甘えることをしないのです。
訪れた運命の日
2カ月の化学治療の間に、何度も生死をさまよいましたが、腕のよい医師の力もあって、一時は完全回復の期待も生まれました。しかし、…。やはり化学治療は、病が進行し衰弱していた少女の体には、無理を強いていたのです。
化学治療の合併症が起き、8月20日、女の子は昏睡状態に陥りました。朦朧とした意識の中で彼女は自分の余命を感じます。翌日、看病に来た新聞記者に女の子が遺書を渡しました。3枚もの遺書は彼女の死後の願いと人々への感謝の言葉で埋め尽くされています。8月22日、病魔に苦しめられた女の子は静かに逝きました。
少女のお父さんは冷たい娘をいつまでも抱きしめ涙を流しました。インターネット上も涙に溢れかえり、彼女の死のニュースには無数の人々がコメントを寄せました。8月26日、葬式は小雨の中で執り行われました。少女を見送りに来た人にあふれ、斎場の外まで人で埋まりました。
女の子の墓標の正面には彼女の微笑んでいる写真があります。写真の下部に「私は生きていました。お父さんのいい子でした」とあります。墓標の後ろには女の子の生涯が綴られてありますが、その文面の最後は「お嬢さん、安らかに眠りなさい。あなたがいれば天国はさらに美しくなる」と結ばれています。
殺人は微増にとどまるが…
紹介した話は、僕が中国で旅している間に偶然に耳にしたものです。詳細に興味を持つ方はどうぞ僕のブログをご覧ください。
セレブの奥さんが夫を、医師を目指す兄が妹を、バラバラ殺人する事件が相次いで報道されたり、息子が父親のしつけに耐えられなくなり、母親と幼い兄弟を放火殺人してしまったり、とここ最近、家族同士の殺人事件のニュースを聞かない日がないくらい増えています。
家族同士の殺人事件は、今に始まったことではありませんが、どうも最近はこれまで以上に凄惨になり、数も増えている気がします。
2006年版の警察白書によれば、刑法犯で警察が被害届を受理した件数(認知件数)は2001年度に273万5000件だったのが、2005年度には226万9000件と減り、殺人事件は同じく1340件が1392件と微増、放火は2006件が1904件と減っています。検挙件数で見ると、殺人は1261件が1345件と、これも増えてはいますが、目立って増えているわけではありません。
白書の統計の中で、家族間の殺人がどのようになっているのか分からないので、凄惨な家族殺人が増えているというのは単なる印象論なのですが、どうも現代の日本は、家族の絆や生命の重みを大事にする気持ちが、薄まりつつあるのではないかと感じます。
カネや国に頼る前に、必要なこと
もちろん勘違いだとは思いますが、そう感じるのは「カネ」さえかければ的な議論が先行し、何をするにしても基本である人の気持ちが置き去りにされているようだからです。例えば、現在、安倍内閣が掲げている教育再生や少子化対策などの是正の議論の中では、必ずといっていいほど、国が対策を講じず、必要な予算をつけなかったから「学校が荒廃した」「子供を産めない夫婦が増えている」というものがあります。
カネがないからダメになった、という意見に、僕は素直に賛成できません。紹介した中国の少女の家庭は貧乏だったけれども、少女を優しい思いやりのある子供に育てました。お金はなかったですが、少女には夢があり、家族愛が育まれました。
この少女が生きた四川省の農村部では、1人当たりの年間現金収入は1000元(約1万4000円)も届かないと聞いています。ですから治療費の30万元というのは、年間収入が500万円の人が15億円の治療費を負担するようなものです。
思いやる心がない社会の寒さ
少女の話がまたたくまに中国全土に広がったのは、中国も最近の経済発展でカネがすべてという退廃した空気が充満し、そして日本をはるかに凌ぐ格差社会の実態があるからだと思います。少女の話からお金よりも大事にしなくてはならないものがある、いくらお金があっても得られないモノがあるのだということに気づかされ、それがなんの見返りもない寄付という形になったのだと思います。
お金は、あることに越したことはありません。予算もそうです。教育再生、格差社会の是正に限らず、どんな改革を実行するのにも、予算は少ないより多い方がましです。しかし、お金をかければ、必ずいい結果が出るものでもありません。
学校が荒れているのは、教育予算の規模も関係しているかもしれませんが、僕には家族が、人を思いやる心を子供に与え、教えていないことに根本の原因があると思えます。もちろん家族だけが人を思いやる心を教えるものではありません。家族が教えられなくても、教師、地域、仲間が代わりを務めることもあるでしょう。
暖冬の中、寒々しい話をたびたび聞くにつけ、心のぬくもりについて考えてみました。
著者プロフィール
宋 文洲(そう・ぶんしゅう)
ソフトブレーン
マネージメント・アドバイザー
1963年6月中国山東省生まれ。84年中国・東北大学を卒業後、日本に国費留学する。90年北海道大学大学院工学研究科を修了。天安門事件で帰国を断念し、日本で就職したが、勤務先が倒産。
1992年ソフト販売会社のソフトブレーンを創業し、代表取締役社長に就任、1999年2月代表取締役会長に。2000年12月に東証マザーズ上場、2005年6月に東証1部上場を果たす。
2006年1月代表権を返上し取締役会長に、同年9月1日、「もう1人の社長」「陰の実力者にならない」として、取締役会長を辞任し、マネージメント・アドバイザーに就任する。
宋 文洲
2007年1月25日 木曜日 NBonline
ソフトバンクが携帯市場に仕掛けた「時限爆弾」 [Business]
大手販売代理店を「中抜き」、「販売奨励金制度」にも挑戦
2001年にADSLサービス「ヤフー!BB」を引っさげて通信事業に参入したソフトバンク---。2006年3月にはボーダフォンから日本法人の買収を発表し、念願の携帯電話事業を手に入れた。10月にはボーダフォンをソフトバンクモバイルに社名変更し、併せて日本テレコムの社名もソフトバンクテレコムに変更。両社の社長には、グループの総帥である孫正義氏自身が就任した。
日本で第3の通信グループ「ソフトバンク」の誕生である。これを裏付けるかのように東京証券取引所のソフトバンクの所属業種が、2006年10月から「卸売業」から「情報・通信業」へと変更された。2006年のソフトバンクの動きは、当連載のベースとなった単行本『2010年、NTT解体』をご覧いただきたい。
今回は、通信の巨人NTTグループに挑んできたソフトバンクが、通信事業で最後の金のなる木とも言われる携帯電話市場に、水面下で仕掛けている“時限爆弾”について明らかにする。
シェア拡大へ向け「流通改革」に着手
ボーダフォン買収後からソフトバンクは、携帯電話業界が長年培った常識を覆すための戦略に手を付けた。
現在の携帯電話市場は、数社の大手販売代理店の影響力が非常に大きい。そして、この大手販売代理による販売体制こそが、市場シェアの固定化させている遠因となっている。
ある販売代理店幹部は、携帯電話端末の売り方にはルールがあると打ち明ける。「販売代理店で抱え込む在庫リスクを最小限に抑えて経営を安定させるために、携帯電話事業者3社の市場シェアとほぼ同じ割合で携帯電話を販売している」。
シェアの数値に合わせて扱う端末の台数を決め、店頭での売り場面積なども調整する。この結果業界3位のソフトバンクモバイルは、低いシェアの割合でしか端末を売ってもらえない。これではいつまでたっても、ソフトバンクモバイルがNTTドコモとKDDIを追撃できるわけない。販売体制の切り換えは、携帯電話市場での存在感を高めるためには避けては通れない方策だった。
そこでまずソフトバンクモバイルが実行したのが、大手販売代理店の「中抜き」だ。販売代理店を介さず、販売数量が見込める有力量販店にソフトバンクモバイルから直接、端末を卸すことで営業攻勢をかけたのだ。
既に成果も出始めている。大手カメラ系量販店の1社を取り込むことに成功したのだ。大手販売代理店経由で旧ボーダフォンの端末を扱っていたその量販店は、ソフトバンクモバイルとの直接取り引きに切り替えた。
業界慣習の「販売奨励金制度」にも挑戦
さらにソフトバンクモバイルは日本の携帯電話業界の長年の常識である「販売奨励金制度」にも手を付けていた。販売奨励金とは、携帯電話事業者が販売代理店に支払う販売支援金のこと。日本の携帯電話サービスが発展する中でいつの間にか常識になった慣習で、既にいくつかの弊害が指摘されているが、携帯電話事業者はこの仕組みを捨てられずに現在に至っている。
昨今の携帯電話端末には、最新の技術がぎっしりと詰めこまれており、本来の端末価格は店頭での販売価格よりもずっと高い。それなのに「1円端末」などといわれる安価な携帯電話が出現するのが販売奨励金の恩恵だ。本来ユーザーが支払うべき料金からあらかじめ販売奨励金分が差し引かれているため、ユーザーは安価に端末を購入できるという構図になっている。
その代わりに携帯電話事業者は、毎月ユーザーから徴収する利用料から、販売奨励金分を補てんしている。ユーザーは知らないうちに、自分の端末代金を後払いしている格好なのだ。
だが、1端末当たり3万円とも4万円とも言われる販売奨励金は、携帯電話事業者に重くのしかかっている。携帯電話のユーザーが急増しているころは新規需要の喚起に一役買ったが、ユーザー数が飽和状態に近づいている現在ではその効果は薄れている。
そればかりか、新規契約で端末を安く手に入れながら数カ月で契約を解除するユーザーが現れるなど、弊害も見え始めた。そもそも、携帯電話事業で潤沢な利益を叩き出しているNTTドコモとKDDIと同じ程度の販売奨励金を積むのが厳しいというソフトバンクモバイルの懐事情もある。
そこでソフトバンクモバイルが打ち出したのが「スーパーボーナス」という、携帯電話端末を「割賦販売」する制度だ。月々の割賦金額とほぼ同額を毎月ソフトバンクモバイルが負担するため、見かけ上は販売奨励金の場合と同様にユーザーが安く端末を入手できる。ただその裏は代理店に販売奨励金を支払うことで端末価格を下げるのではなく、後からユーザーの支払い代金を補填しているのだ。
ソフトバンクモバイルにとっては端末を売り切って、ユーザーから徴収する利用料で割賦分を補う格好になるので、会計上は販売奨励金の場合よりもプラスに作用する。しかもスーパーボーナスは、26カ月間などの長期契約が前提であり、途中で解約したユーザーからは割賦残金を徴収できる条件が盛り込まれている。短期間で契約を解除するといった使い方を防ぎ、長期契約の縛りをかけられるというメリットがある。
販売奨励金モデルから脱却すると「SIMロック」というもう一つの携帯電話市場の常識も解決できる。SIMロックとは、端末に設定を施すことにより携帯電話端末に挿す契約者情報が収められた「SIMカード」を、特定の通信事業者ものしか使用できないようにする仕組み。日本国内で販売されている第3世代携帯電話端末のほとんどがこの仕組みを実装している。これらの端末は、国内外を問わずほかの事業者で利用できないようになっている。
この仕組みは販売奨励金と切っても切れない関係にある。販売奨励金で携帯電話機を安く手に入れたユーザーが、短期間で解約して手に入れた端末をほかの携帯電話事業者と契約できないようにしているからだ。
つまり通信事業者は販売奨励金を回収できるようにSIMロックでガードをかけているのだ。その一方でSIMロックは、複数台の携帯電話端末を併用できないなどユーザーから非難を浴びる要因となっている。
孫社長は2006年度中間決算発表後の記者会見の席上、割賦代金を支払い終わった携帯電話端末のSIMロックの解除について「理屈的にはあり得るかもしれない」と表現し、将来の可能性があることをにおわせた。現実には何の方針も明らかにはしていないが、販売奨励金制度にとらわれない割賦制度を取り入れた孫の発言だけに、よもやと思わせるものがあったのも事実である。
スーパーボーナスによる割賦制度もまだ利用者に定着していない現時点では時期尚早かもしれない。しかし、業界全体の商習慣を変える種をソフトバンクが仕込んでいると見ると、その不気味さが引き立ってくる。
これら新戦略を進めるために、孫社長は2人のスペシャリストをソフトバンクに引き込んでいた。その1人が携帯電話用チップ・メーカーの米クアルコムの日本法人クアルコム・ジャパンで社長・会長を歴任した松本徹三氏である。携帯電話技術に詳しく業界内にも顔が利く松本氏は技術統括・執行役員副社長兼CSO(最高戦略責任者)として、携帯電話業界ではまだ“駆け出し”の孫社長を支えるブレーンの役割を果たしている。
そしてもう1人が、長年NECのパソコン事業を率いたパソコン販売のスペシャリスト、元NEC取締役の富田克一氏だ。富田氏は営業・マーケティング統括営業担当の執行役副社長として、携帯電話販売の常識を覆す戦略の陣頭指揮を取っている。
番号ポータビリティ前日の発表は“苦肉の策”?
そして携帯電話の番号ポータビリティー開始前日の2006年10月23日、ソフトバンクは勝負に出た。大きな話題を呼んだ「予想外割」の投入である。
10月24日付の朝刊には、会見の場で満面の笑みをたたえた孫が「予想外割0円」と書いたプレートをかかげる写真が掲載された。テレビのワイドショーも軒並み、ソフトバンクモバイルの新料金プランを取り上げた。さらに「0円」を全面に出したコマーシャルがテレビに絶え間なく流れ、孫社長の名前が入った前段ぶち抜き広告が新聞紙上を彩った。
しかし、発表直後から「0円」という表記が条件付きであることや、ソフトバンクモバイルのプランでは必ずしも安くならないシミュレーション結果が次々に報道されるうち、一瞬は高揚したユーザーは、冷静な反応を示すように変わっていった。これまで孫が得意としていたサプライズ戦略に、マスコミも消費者もすっかり慣れきっていたのだ。
さらに番号ポータビリティが始まった最初の週末にソフトバンクモバイルが引き起こしたシステム障害は、これまで数多くの困難に直面してきたソフトバンクにしても「予想外」だった。ライフラインとしても使われる携帯電話サービスを提供する事業者として、信頼性を大きく損ねる事態となったのである。
ではソフトバンクモバイルの潜在力が底を打ったのかといえば、決してそうではない。
ソフトバンクがボーダフォンを買収したのは2006年3月。2006年10月に開始が決まっていた番号ポータビリティーまでは、わずかに7カ月だった。ソフトバンクがゼロから設計した携帯電話端末を投入するなど独自の戦略を展開するには、時間があまりに不足していた。
奇策とも言える予想外割の発表は、番号ポータビリティーに対する準備不足を、孫社長の派手なパフォーマンスと大胆な料金設定で乗り切ろうとした、苦肉の策とも見える。事実、後の会見で孫社長は、「事前予測では旧ボーダフォンは草刈り場になるのではと予想されていた。(予想外割を投入したことで)危機的状況にならなかった」と振り返っている。
「第3世代携帯電話網の拡充」という重い課題
とはいえ、ソフトバンクの携帯電話事業に対する厳しい指摘は少なくない。
ある通信アナリストは「今のソフトバンクはダメな中小企業になりつつある」と痛烈に批判する。孫社長に権力が集中している状況を揶揄(やゆ)したものだ。
「孫さんは携帯電話事業に関してはまだ素人。それなのにすべての決定権が孫さんにある。そもそもソフトバンクは数万人の企業を抱える大企業なのに、全く権限が委譲されていない」。
こうした状況は、孫社長が熱意を傾けた事業は一気にサービス展開が進むのに、ひとたび孫社長の関心が薄れるとサービス自体の存在感が急速にしぼむという歴史が物語っている。
例えば、ソフトバンクが通信事業者としての足がかりを得るきっかけとなったADSLは東西NTTのFTTHの勢いに押され、ついに加入者数が減少に転じてしまった。かつて「これが日本テレコム(当時)を買収した理由です」とまで孫社長が言い切った新型固定電話サービスの「おとくライン」についても、威勢のいい話はあまり聞こえてこなくなった
ソフトバンクが国内第3位の通信事業者になるまでに繰り返してきた企業買収の過程で、社内には孫社長のスピード感とワンマンぶりに付いてこられない社員も少なからず存在しているという。昨年も「旧ボーダフォンの社員が面食らっている」という声が漏れ聞こえていた。
ソフトバンクモバイルにはこれから、「第3世代携帯電話網の拡充」という課題が重くのし掛かる。ボーダフォン時代に設備投資が後れたソフトバンクモバイルの第3世代携帯電話網はNTTドコモやKDDIに比べてぜい弱であるという指摘は以前からあった。このため2006年度末までに合計4万6千カ所の基地局を設置する計画を公開しているが、携帯電話網に精通した技術者からは「絶対に無理」という声が聞こえてくる。
ソフトバンクモバイルのユーザー同士は、一部制約はあるものの通話料0円というサービスをぶち上げたことも、インフラ整備の大きな負担となってのしかかる。通話料がかからないユーザーがどういう通話実態を取るか予測が付かないからだ。
これだけ不安材料は山積みだが、何を打って出てくるのか全く予測が付かないのがソフトバンクである。
2007年もその姿勢は健在だった。まだ世の中のおとそ気分が抜けない1月5日に、月額基本料金が980円でソフトバンクモバイルの加入者同士の通話は一部の時間を除いて無料となる新料金メニュー「ホワイトプラン」を発表した。発表会の会場で孫は、「大半の顧客に喜んでもらえる料金に設定した。当分は当社の主力商品になるだろう」と語ったという。
着実な収益を生み出したブロードバンド事業の低迷と、暗中模索の携帯電話事業の折り合いを付け、いかにしてNTTに挑んでいくのか。総合通信事業者としての真価が問われるのはこれからだ。
(山根 小雪=日経エコロジー編集)
本連載に掲載した記事は、日経コミュニケーションが12月18日に全国書店で発行する単行本「2010年 NTT解体~知られざる通信戦争の真実」を抜粋し再編集したものです。本記事で通信業界に興味をもたれた方はぜひこの単行本もお読みください。単行本の詳細はこちらをご覧ください。
宗像 誠之, 山根 小雪
2007年1月23日 火曜日 NBonline
NTTが歴史から消去した大功労者 [Business]
NTTが歴史から消去した大功労者
NTTの社長と会長を歴任した真藤恒氏が亡くなったのは、2003年1月26日のことである。早いものでほぼ4年が経過したが、今や真藤氏に関する報道や論評は全く見られない。亡くなった直後の訃報記事においても、過去の人という扱いであった。しかし、MOT(技術経営)を考えるとき、真藤氏の経営を振り返ることは意義深い。
本欄のテーマは、経営やビジネスを進めるうえで知っておくべき、IT(情報技術)の常識やマネジメントの勘所である。真藤氏を取り上げるのであれば、NTTとITといったテーマで書くべきであろうが、以下の記事は、技術経営の実践者という視点で書いた。
真藤氏のことが気になり出したのは、亡くなった時のマスコミの扱いが小さかったからである。1988年12月にリクルート事件に絡んでNTTの会長を辞任してからは表舞台には登場しなかったものの、造船業における貢献や、NTTの民営化に果たした役割を考えれば、もう少しまとまった記事や論評が掲載されてもいいのではないか、と思ったものである。
NTTは真藤氏を黙殺
訃報に接した後、「真藤氏のことを書いて世に問うべきだ」と力説する人に相次いでお目にかかった。その1人が東京大学の宮田秀明教授である。宮田教授と話していて、「MOTを実践した経営者の実例としてどなたが適切でしょうか」と質問したところ、「真藤さんでしょう」という回答であった。ちなみに宮田教授は、石川島播磨重工業の出身であり、真藤氏の薫陶を受けた最後の世代に属している。
さらにNTT関係者に会うたびに、真藤氏の話が必ずといってよいくらい出た。あるNTTのOBからは、「真藤改革がその後どうなったか。マスメディアはちっとも検証していない」と叱られた。実はNTTにおいて、真藤氏の存在は今やタブーである。NTTのウェブサイトに「真藤恒」と入力しても何も出てこない。「NTTとして社葬を控えるべき」という意見もあったという。
ここまで書いて、ふと思い立ち、著名なインターネット検索エンジンに、「真藤恒」と入力してみた。検索結果は、たったの464件であった。ちなみに筆者の名前を入れてみると、552件も出てきた。これは明らかにおかしい。さらに、真藤氏の著書をインターネット書店で検索してみると、すべて絶版であった。つまり真藤氏について何かを調べようとすると、図書館に行くぐらいしか方法がない。
労働災害への対策から技術経営を身につける
真藤氏というと、「ミスター合理化」「コストダウンのプロ」といった形容詞がついてまわる。古きよき製造業の経営トップという感じである。しかし著書を読んでみると、その考えは現在でもあらゆる産業に通用するものだ。NTTの会長に就任した88年に出版された著書『習って覚えて真似して捨てる』(NTT出版)が面白いので、以下ではさわりを紹介したい。
本書によると、真藤氏が技術経営者として目覚めたきっかけは、造船の現場における労働災害であった。52~53年当時、「仲間の命を捨て、健康を害してまで船を造る値打ちがあるのか」と神経衰弱のような心理状態になったという。
労働災害への対策として始めたのが小集団活動であった。この活動を進めたことにより、「船の建造工程の内容を、昔のイメージがないまでに変えてしまった。結果として、先輩から習ったことはみな姿を消した」そうである。真藤氏のモットーである「習って覚えて真似して実行して最初に習ったことを捨てる」は、この体験から生まれた。
この体験から真藤氏は、「合理化を進めていくと、最後は設計からやり直すことになる」と気づく。「災害が現場で起こる問題だからといって、現場ですべて対応できると思ったら間違いである」「現場の人間に『注意しろ』というのは下の下で、注意しなくもケガをしないような環境(中略)を考えるのが技術者の役割だと思う」。
専門分野に拘泥せず全体を見直す
ここで設計とは、当初は船の設計であったが、真藤氏は「物事の全体を見直して、考え直す」という、広い意味にこの言葉を使うようになる。例えば、次のような一連の記述がある。
「いろいろな情報が入ってきたときは、それをシステムとして把握することである」
「ともかく物事を総合化、体系化することである」
「常に総合的な議論をするように意識的に心掛けることだろう。ゼネラリストであって専門家、専門家であってゼネラリストという能力は、少なくても管理職の人たちは身につけねばならない」
技術を経営に活かすMOTの要諦は、個々の技術の専門家をうまく活用し、総合力とすることである。そのために経営者には上述のような能力が求められる。こうした一連の考え方を真藤氏は製造業だけではなく、サービス業である旧日本電信電話公社及び民営化後のNTTにも適用した。
NTTを経営するに当たって、「過去のやり方を根本から変え、新しいカラクリを作り出せ」と社内に繰り返し伝えたのである。
経営についてはこんなふうに述べている。「経営とは先輩から習ったものを、片っ端から捨てていくことの連続であり、現状をどう変えるかがポイントである」「ビジネス・スクールで教えているアメリカ式経営学は、あくまでも手段、手法であって、そんなことで経営力は身につかない。より肝心なことはその手段、手法を経営の行動の中で、どれだけ自分のものにし、独創的な形にもっていくか(である)」。
さて、真藤氏はNTTの改革についてどう自己評価していたのか。「(仕事のやり方を変える動きは)まだ個人の段階にとどまっていて組織的な動きになっていない。ただ、少なくとも組織的なネガティブな動き、意識的な抵抗の動きは消えている」と書かれている。
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3年前に書いたこの原稿を読み直した後、同じ著名なインターネット検索エンジンに、「真藤恒」と入れてみた。検索結果は951件で、コラムを書いたときより2倍になっているが、寂しい数字であることには変わりない。
一方、筆者の名前を検索していみると、4万5900もあり、83倍になっていた。相変わらずおかしい状態は続いている。なお、インターネット上の書店を調べると、真藤氏の著書は古本なら入手可能である。「真藤氏について何かを調べようとすると、図書館に行くぐらいしか方法がない」という一文は間違っているわけで訂正したい。
今回の再掲は、日経ビジネスEXPRESS(現・日経ビジネスオンライン)というサイトに、「故・真藤恒氏からMOT(技術経営)を学ぶ」という題名で、2004年2月18日に掲載した短文である。
(谷島 宣之=日経BP「経営とIT」サイト編集長)
「世界のソニーを作った男」第1回 [人物・伝記]
「世界のソニーを作った男」井深 大が考えたこと第1回
テープレコーダーやトランジスタラジオ、トリニトロンカラーテレビ。
世界を席巻した商品はもちろん、創業期に大失敗した電気釜などに至るまで、
ソニーの創業者が自ら、開発秘話を語る。
「まず、この東京通信工業をつくりますときにの創立趣意書というのが、今でも残っております。大変長いものでございますけども、私は苦心惨憺して、長い間かかってこれを書き上げたのでございます。
その中に謳っておりますことは、『東京通信工業は、技術を一番尊重して、その技術を高度に利用して、立派な商品を使って、世の中のお役に立ちたい』ということ、それから『技術者をはじめ、そこで働いている人が、思い切り働ける場を提供したい』と、そのほかさっきもちょっと申しましたけど、役所の仕事や放送局の仕事だけでなしに、『一人でも多くの人が喜んでもらえる、そういう商品をつくって、商売をしていきたい』と。
それから一番大切なことは、『人のやらないこと、どこにも存在しないもので、そういうものをこしらえていく』と、『そのためには、どんな困難が伴っても、どんな技術的な難しさがあっても、それに打ち勝っていこうじゃないか』と、そういうことを謳って、同志はみんなこれに賛成して、この東京通信工業が始まったわけでございます」
■盛田昭夫と共に東京通信工業を「世界のソニー」へと育て上げた井深大。彼は、人のやらないこと、どこにも存在しないものを目指して、常に新しい技術を求め続けてきた。
「人を喜ばせ、世の中の役に立つものを創造する」という一貫した姿勢の中、どんな困難が伴おうとも井深は挑戦し続けてきたのである。昭和二十年、終戦と同時に井深大は、それまで共に働いていた仲間七人と東京通信研究所を設立する。
「いろいろ考えました。第一番にやりましたことは、千葉県へ行って、木製のおひつを沢山仕入れてまいりました。
そのおひつの底に、アルミの渦巻き型の電極を二枚釘付けしまして、それに電線をつないで、そのおひつの中にといだお米を入れて電気を流すと、水の中を電流が流れて、熱を発散して、それでお米が炊けるという、今日の電気釜のような非常に簡単なものを考え付いたわけでございます。
実際にお米を炊いてみますと、たまにはたいへんおいしいふっくらとしたご飯が炊けるんでありますけども、大部分は芯のある、到底食べられないご飯ができたり、グチャグチャのご飯ができるということで、おひつの山を眺めながら、この仕事は残念ながら断念せざるを得なかったわけでございます」
■昭和二十一年、戦前からの知人盛田昭夫が加わり、東京通信工業を設立。このとき盛田は二十五歳。井深は三十八歳。資本金十九万円、従業員三十五名のスタートでだった。
「その頃、そろそろあの進駐軍の、放送関係のね、仕事を、今のNHKを通して貰ってたわけです。ある日行きましたら、『ちょっと来い、いいものを聞かせるから』と言って、それでテープレコーダーをそこで初めて聞いたんですよね。静々とテープが動きましてね、ものすごくきれいな音なんですよね。
それで、これはもうどうしてもこれをやらなきゃ嘘だ、という気持ちになりましてね。私だけ感心してても仕様がないんでね、うちの人たちに納得してもらわなきゃならないと思いましてね。拝み倒して、あの進駐軍の将校の人がね、私どもの御殿山の汚いバラックの所までね、持ってきてくれましてね、それでうちの全社員にそれを聞かせたわけです。『これをやらないといかんのだぞ』という、そういうオリエンテーションをまずやったわけですよね」
■こうして、東京通信工業は、日本で始めてのテープレコーダーづくりに取り組んだ。しかし、ここで大きな問題にぶつかる。それはテープレコーダーのテープであった。
困ったのは、この(テープの)ベースなんですね。で、その頃昭和二十三、四年というと、プラスチックっていうものはね、ベークライトとエボナイトとセルロイドとね、それしかないわけなんですね。
今のそのプラスチックっていうのは、殆どないわけなんです。上に塗る鉄の粉はね、これは大体検討ついておりましたね。粉では困らなかったんですけども、ベースはどうにも困りましてね。
で、初めまあツルツルしたもんでということで、セロファンに飛びつきましてね。セロファンを・・・伸びないセロファンで、湿気を吸わないセロファンの処理ってのは何とかできないかというんで、まああらゆる知識を集めましてやったんです。
初めいいんですよ、一回、二回はいい、そしてもう三回目ぐらいから、こう・・・『ワカメ、ワカメ』っていいましたけどね、こんなに(ワカメのように)なってね、ぜんぜん音にならないんで、それから困り抜きましてね、そして紙をやろうということになって・・・」
■試行錯誤を繰り返し、改良を重ねた末、昭和二十五年、ようやくこの紙テープが完成。このテープは、もの言う紙として当時の雑誌に紹介され、反響を呼んだ。紙テープの完成と共に、日本で初めてのテープレコーダーG型も発売。何か新しいものを作りたいという井深の夢がここに実を結んだのである。そして、この時、井深に新しい出会いが訪れる。
「そのG型を買いに来たのがね、音楽学校の学生なんですよね。音楽学校のために買って、それで来た学生がね、ものすごく面倒臭いことを言うんですよね。この人、音楽学校の学生なのに、えらい技術的なことガチャガチャ言うからね、『何じゃい』と思っていたのが大賀(典雄)なんですよ。
音楽学校の学生のくせにね、えらくメカでも何でも電気でも詳しいんですよね。こっちがとっちめられるぐらいすごい。そのときから出入りしてるんですよね。ひととき大賀君は監察官っていうあだ名がありましてね。商品の悪いのを全部ほじくり出してね、指摘されるのが、これまたちゃんと図星なんですよね。
いい音にしたいという一心でね。お互いにその、こここうしたらどうだ、あそこどうしたらどうだ、というようなことを。ええ、まあ私の周囲には、そういう海外からの諸雑誌がありましてね。
そういうものに、ここにこう書いてあるからというようなことで、いろいろまあ、お互いにノウハウを持ち寄ったんですよ。で、一緒に何とかものになる努力をしてるうちに、まあ私がミイラ取りがミイラになったようなもので・・・」
■G型テープレコーダーの発売から二年後の昭和二十七年。国内の関心を集める一つの事件が起きた。当時、アメリカから数多くの新しい製品が次々と輸入されていた。
その中に井深の開発したG型と同じ技術を使ったテープレコーダーも含まれていたのである。井深は特許権を侵害するとして裁判に訴え、その主張が認められた。
全ての技術をアメリカに頼らなければならなかった日本にとって、この出来事は、驚きと拍手で迎えられた。この出来事を境に井深は、次々と魅力ある画期的な製品を開発。テープのクオリティー、品質も向上していった。
「新しい技術開発なんかでも、大きな会社よりは、むしろ中堅以下の、自分で一生懸命開発して切り開いてきた企業の中のほうが、うまく成長していくんじゃないでしょうかね。
企業なんてものは規模が大きい方がいいとか、資本金が大きい方がいいとかっていうものは、だんだんこれから、それだけでは通用しなくなると思いますね」
【次回は、「商品開発でこそ先行するが、市場自体は後発の大企業に席巻されてしまう"モルモット"だ」と揶揄され始める。そうした世評に対する井深の答えは・・・】
2006年8月31日 nikkeibp
「世界のソニーを作った男」第2回 [人物・伝記]
「世界のソニーを作った男」井深 大が考えたこと第2回
後年、ソニーは「商品開発でこそ先行するが、市場自体は後発の大企業に席巻されてしまう"モルモット"だ」と揶揄される。そうした世評に対する井深の答えは―。
■井深は、それまで真空管を使っていたラジオを全てトランジスタに変えてしまうことを考えた。世界中の誰もが手を出さないトランジスタラジオの開発のはじまりである。
トランジスタの特許を取り、製造の許可は得たが、製造方法や、技術的なノウハウは全て自分達で考え出さなければならなかった。試行錯誤を重ねるが、非常に歩留まりが悪く、困難を極め、ラジオに使えるものは、一向に完成しない。しかし、井深は決してあきらめなかった。
「(使えるものが)ゼロだったらね、これは問題になりませんけども、一つでも使えるものができるとしたらね、できるはずなんですよね。どっかにその理由があるわけですから、歩留まりを悪くしてる(理由が)。
その歩留まりを征伐するってことはね、これは非常にチャレンジャブルなんですね。そういうことで必ず歩留まりってのは、今悪くても、よくなる可能性はあるだろうと。それに挑戦しようじゃないかってのが、私の気持ちだったわけですよね。だから歩留まりの悪いものは賛成であるという、むしろそういう気持ち持っていましたね」
■特許の取得から三年後の昭和三十年、日本初のトランジスタを使ったラジオTR-55が完成。
井深の自信は次の行動を生む。井深は、大手電機メーカーを招き、トランジスタラジオを披露した。これがトランジスタ時代の幕開けとなった。真空管時代は、これを境に全て過去のものとなったのである。
「それまでの日本の産業を申しますと、大体新しいものはオリジナルをヨーロッパに求める、あるいは戦後はアメリカから原型を持ってきて、それに似たものを日本でこしらえる。そうしてその中の部品もだんだん国産化していくというのが、日本の産業の典型的な形でございました。
このトランジスタラジオから始まりました私どもの方では、サンプルのないものばっかりをつくっていったわけでございます。したがって、部品屋さんも、サンプルのないものをつくれということで、たいへん戸惑ったと思うのでございます。
四~五年たって、アメリカやドイツでトランジスタをつくろうとしたときに、どうしても日本から部品を買わざるを得なかったという状態になりまして、どんどん日本の電子工業の部品産業ってものが確立した、そのきっかけを私どもがつくったような気がしているわけでございます」
■昭和三十一年には、ラジオ用のトランジスタ生産は、三十万個/月に達し、完全にこの分野の主導権を握る勢いを見せていた。昭和三十年代の始めには従業員の数は創業時から五十倍以上にも膨らんでいた。
大企業への道を歩き始めたのである。昭和三十五年、井深はこれまで培ってきたトランジスタ製造技術を応用し、世界で初めてオールトランジスタテレビを発売する。
井深は、このテレビの使い方に新しいアイディアを入れている。そのアイディアとは、野外でも自由に使えるように小型発電機を同時に開発し販売することであった。井深は、この発電機の開発を友人の本田宗一郎に持ちかけた。
「本田さんも私もね、まず目的をね、決めちゃって、その目的をやるためにはね、その目的を達成することだけをね、目標にするわけなんですよね。こういう技術があるから、それをこう使いましょうじゃなしに、これをやるためにはこういう技術を使わなきゃなんないから、その技術を完成させましょうという、そこが私と本田さんと、非常にそこ共通してるんですよね」
■昭和四十年、ソニー初のカラーテレビ、クロマトロンが完成。しかし、製造コストは高く、一台売るごとに赤字を生む結果となった。
クロマトロンの開発を始めてから実に七年後の昭和四十三年、社運を賭けた新しい受像方式トリニトロンが完成する。トリニトロン方式の関連特許は五百件を超え、現在もその応用技術は、コンピューター画面などで使われている。井深は、この開発を最後に社長を退いた。
「ある程度、直感力に頼ってね、思い切ってやらなければね、プロジェクトなんてものは進まないと思うんですよね。そこがまあ決断ていうのか、直感力に信ずるというのか。決断ってことは、言い換えれば非常にしっかりしたそのターゲットをそこへ打ち立てちゃうわけですね、人為的に。無理であろうが、無理でなかろうが」
「私はね、そのものをつくることがね、本当の実業であってね、それ以外は虚業だということを、ずっと前からそう言い続けてきたんですよね。それで、とにかくその形の変わらないものでね、値段が変わるというのはね、これはどこか間違っているんだということを、盛んにそう言ってきたんですよね」
■井深は、常に新しい技術を求め続けた。これは、同時に現在の技術を過去に追いやることを意味する。新しい技術の誕生は、現在の設備やこれまでの投資を無駄にすることがある。守りに入って、モデルチェンジだけで済ませてしまう方法もある。しかし、井深は、その道を選ばず、常に新しいものづくりに挑戦していったのである。
2006/10/14 nikkeibp